第63話 吼える魔獣人間たち
バルロックとジャックドラゴン。2体の魔獣人間が、いくらか間合いを開いて睨み合っていた。
近くでは地面が失われて断崖となっており、遥か下を流れる谷川が、ここまで聞こえて来るほどの水流音を轟かせている。
ここで飛び降り自殺を決行しようとしていたシーリン・カルナヴァート元王女は今、バルロックの背後で赤ん坊を抱いたまま、マチュアと身を寄せ合っている。
そんなシーリンを逃がさぬよう監視でもしているつもりなのか、フードとマントに身を包んだ魔獣人間3体が、戦いの場を取り囲む形に控えていた。
外野の者どもにまで注意を払っている余裕はしかし、なさそうである。
魔獣人間ジャックドラゴン……レボルト・ハイマン。手強い相手だ。見ただけで、それはわかる。
後退りしそうになる両足で、メイフェムは無理矢理、前方へと踏み込んだ。
(唯一神よ……)
信仰を念ずる。
人間ならざる下僕を見捨てぬ唯一神の加護が、白い光となってバルロックの右手に生じ、細長く伸びて固まり、長剣となる。
それをメイフェムは、斬撃と刺突の中間のような形に繰り出した。
衝撃そのものの手応えが、返って来た。
ジャックドラゴンの左前腕から広がる、外骨格の楯。それが、白い光の長剣を弾き返したのだ。
単なる防御ではない。こちらの武器を手から叩き落としてしまいかねない、言わば楯による一撃だ。
その衝撃で手放してしまいそうになった光の剣を、メイフェムは即座に握り直し、突き込んだ。
一直線に閃いて襲い来る長剣を、ジャックドラゴンはかわさず、ただ左腕を動かした。甲殻の楯が、光の刃を軽く受け流す。
「う……ッ!」
メイフェムの右手が、激しく痺れた。
軽く受け流されただけ、に見えた光の長剣が、キラキラと砕け散っていた。
「アゼル派の聖なる武術か……」
痺れる右前腕を左手で押さえ、後退りするメイフェムに、ジャックドラゴンがゆらりと歩み迫って声をかける。
「我が配下に加えても、まあ良いかと思える程度の腕ではあるな……1歩だけで良いから横にどけ、アゼル派の尼僧よ」
「私の横を通って、シーリン殿下を捕えるつもり……それを、黙って見ていろと」
美しき尼僧の面影が残る口元で、メイフェムは牙を剥いた。
「そうしたら、私の命だけは助けて下さると……そうおっしゃるのね、レボルト将軍閣下は」
「それだけではない。それなりの待遇で、我が配下に迎え入れてやろうと言うのだ……組織の一員となれ。いかに魔獣人間とは言え、単独では何ほどの事も出来ぬ。それはわかったであろう」
ジャックドラゴンの頭部の中で、炎のような赤い光が激しく燃え上がる。目から、口から、真紅の輝きが爛々と溢れ出す。
「そう。強大過ぎる単独の力など、あってはならんのだ。人間の軍事力を圧倒し、政をも左右するほどの、単独の暴力など……あってはならぬ。この私が滅ぼす。必ずだ」
この場にいない何者かに対し、レボルトは憎悪に近い闘志を燃やしている。バルロックなど、眼中にない様子だ。
「……そのために、貴様も力を貸せ。魔獣人間同士、このような所で争っている場合ではないのだ」
「だからシーリン殿下を引き渡せ……と、そういうわけ」
言いつつ、メイフェムは地を蹴った。言葉で返答するつもりは、なかった。
跳躍に近い踏み込みと共に、バルロックの右足が斬撃の如く一閃する。猛禽の爪が、飛び蹴りと後ろ回し蹴りの中間といった形に、ジャックドラゴンを襲った。
それがどのようにかわされたのか、メイフェムにはわからなかった。とにかく、蹴りが空振りをした。
同時に、凄まじい衝撃がメイフェムの全身を襲った。
ジャックドラゴンの左腕、強固な外骨格の楯が、バルロックの身体を叩きのめしていた。
血飛沫が、大量に飛び散る。
自分の肉体の、どこからの出血であるのか。宙を舞いながら、メイフェムは呆然と考えた。主に吐血のようである。
「メイフェム様!」
マチュアの悲鳴が聞こえた時、メイフェムは地に横たわっていた。
「メイフェム様! メイフェムさまぁあああ!」
小さな尼僧姿が、おたおたと駆け寄って来る。
おかしい、とメイフェムは思った。自分を憎んでいるはずのマチュアが何故、こんな泣きそうな声を出しているのか。憎い相手が、こうして大いに叩きのめされていると言うのに。
「……もういいわ、メイフェム殿」
フェルディ王子を抱いたまま、シーリンが何か言い始める。
「本当に、ありがとう……ごめんなさい。私がつまらない意地を張っているせいで、貴女をそんな目に」
「何を……言っているの……」
込み上げる血反吐を呑み込みつつ、メイフェムは呻いた。
立ち上がろうとする。が、全身に力が入らない。弱々しく上体を起こすのが精一杯だ。
シーリンが、なおも言う。
「レボルト将軍、私を連れて行きなさい。傀儡の女王にでも何でもなります……だからメイフェム殿に、それ以上の危害は」
「ふざけないでッッ!」
メイフェムは叫んでいた。
怒りが全身に漲り、燃え上がる。
燃え上がる炎のように、ゆっくりと立ち上がりながら、メイフェムは言った。
「ヴァスケリアの民を、守るのでしょう……その意地と覚悟、押し通して見せなさいよ……投げ出す事は、絶対に許さない。私が生きている限りはね……」
「では貴様が死ねば良いわけだな。それでシーリン殿下はつまらぬ意地を捨て、王宮に戻って下さる」
ジャックドラゴンが、右手に持った剣をバルロックに向けた。やや湾曲した、幅の広い片刃の刀身。
この剣をしかし使わずに、ジャックドラゴンは先程から、左腕の楯だけでバルロックを軽くあしらい、圧倒している。
マチュアの目にもシーリンの目にも、実力差はもはや明らかだろう。誰よりもメイフェム自身が、己の肉体で痛感している事だ。
「……最後通告だ、メイフェム殿とやら」
ジャックドラゴンは言った。
「我が配下に加わるのが嫌なら、それでも良い。シーリン殿下をこの場に残し、逃げて失せろ」
「そんな事をしたら、私は……今まで虫ケラのように殺してきたゴミどもと、同じになってしまうわ……ケリスの命を穢す、クズどもと……ッ!」
「メイフェム様ぁ……」
まとわりついて来るマチュアを振り払いつつメイフェムは、ジャックドラゴンに向かって踏み込んだ。
「それは、それだけは絶対に嫌! 私自身が、ケリスの命を穢すなんて!」
「わけのわからぬ事を……」
呆れたような、嘲りの言葉。
それと共に、猛烈な熱さが、メイフェムの胸を貫いた。熱く、だが冷たくもある、命を凍らせるような感触。
ジャックドラゴンの剣が、バルロックの、たくましい両乳房の間に突き刺さっていた。
湾曲した刀身が己の体内を通り、切っ先が背中から出ているのを、メイフェムは感じた。
マチュアの悲鳴が聞こえた。
嬉しくて叫んでいるに違いない、とメイフェムは思った。憎くてたまらない相手が、こうして刺し殺されたのだから。
いや、まだ殺されてはいない。すぐに死ぬだろうが、それまでの僅かな間に出来る事はある。
ジャックドラゴンが、バルロックの体内を切り裂きながら剣を引き抜く……前に、メイフェムは抱きついた。
左右の強靭な細腕が、猛禽の爪を生やした力強い両脚が、ジャックドラゴンの身体にがっちりと巻き付く。
抱きついた左手から鞭が伸び、魔獣人間2体を、束ねるように幾重にも縛り上げていた。
「ぬ……」
少しだけ狼狽した様子のジャックドラゴンに、メイフェムは間近から、血まみれの口元で微笑みかけた。
「付き合ってもらうわ、レボルト将軍……」
喉の奥からとめどなく溢れ出す鮮血を押しのけるように、声を絞り出す。
「ケリス以外の男と付き合うなんて、私……初めてなのよ? 光栄に思いなさいな……」
「貴様……ッ!」
幅広の刃が、胸に突き刺さって身体を通り、背中から出ている。感覚としてそれはわかるが、もはや痛みは感じられない。
自分は死ぬのだ、とメイフェムは思った。
フェルディ王子を抱いたまま、シーリンが青ざめている。その傍らでは、マチュアが涙を流して喜んでいる。泣き叫んでいる、ようにも見えるが気のせいだろう。
(良かったわね、おチビちゃん……)
声をかけようかと思ったが声は出ず、代わりに血反吐が迸った。
それをジャックドラゴンの顔面にぶちまけながら、メイフェムは羽ばたいていた。皮膜と羽毛、左右で形の異なる翼がバサッと空気を打つ。
無論こんな状態で飛行など出来るはずもなく、2体の魔獣人間は抱き合ったまま、少しだけ浮かび上がり、すぐに落下した。
落下した所に、地面はなかった。
「うぬっ、気が狂ったか貴様!」
「……何を……今更……」
凄まじい力で抗おうとするジャックドラゴンを、メイフェムは両腕で、両脚で、鞭で、全身で、拘束した。尽きゆく命を、力を、振り絞った。
重なり合った魔獣人間2体が、断崖の岩壁に激突し、転げ落ちて行く。轟音を立てて流れる、谷川へと向かって。
走馬灯のような思い出は、来なかった。
メイフェムの脳裏に浮かんだのは、健気に庇い合って自分に立ち向かう、白と青の鎧をまとった少年と少女の姿だった。自分とケリスも、あんなふうだったのだろうか。
(もう1度……見たかったわ、あなたたちを……)
最後にもう1度、マチュアの悲鳴が聞こえたような気がした。
「メイフェム様! メイフェム様、メイフェムさまぁーっ!」
マチュアが身を乗り出して断崖を覗き込み、絶叫している。
同じように泣き叫ぶフェルディを抱いたまま、あるいは泣いている息子にすがりついたまま、シーリンは青ざめ立ち尽くしていた。
村人たちへの迷惑は承知の上で、覚悟を押し通して見せろ。
そんな事を言っていたメイフェム自身が、とてつもない迷惑を被る結果となってしまった。
「死んでしまった……の? メイフェム殿……」
自分が殺したようなもの。そう考えてしまうのは、自惚れであろうか。
だが家出した元王女になど関わらなければ、こんな事にはならなかった。それは確かなのである。
「ゴルジ・バルカウスの失敗作ごときが……つまらぬ意地を見せおって」
マントとフードに身を包んだ魔獣人間3体が、進み出て来て言った。
「……将軍は、御無事であろうか?」
「当然。すぐに上がって来られるさ。あの女を引き剥がしてね」
「それまでに我々がやっておくべき事は……」
魔獣人間たちが一斉に、シーリンの方を向いた。3枚のフードの下で、6つ眼光がギラリと強まる。
シーリンは後退りをした。腕の中で、フェルディが泣き声を大きくする。
魔獣人間の1体が、激昂した。
「おい、うるさいんだよ! 赤ん坊を黙らせろ! 泣き止まないんだったら殺せよな! 他人に迷惑かけるんじゃないよバーカ! 母親だったら責任持てこのカスが!」
「やめろ。一応は、王子殿下であらせられるのだぞ」
他の2体が、とりえずは止めに入る。
「我らが丁重にお連れ戻しせねばならぬ方々よ。無礼は、ならぬ」
「ふん、僕は赤ん坊の泣き声が大ッ嫌いなんだよっ」
憎悪の言葉と眼差しが、シーリンに向けられた。
「だいたいな、お前が王宮から逃げ出したりするからこんな事になるんだぞ元王女! 政略結婚で貢がれて来たくせに、生意気に自分の意志なんか持ってるんじゃないよクズゴミが!」
「だから、やめろと言っている……御無礼をいたしました、シーリン・カルナヴァート殿下」
1体が、慇懃無礼そのものの態度を取った。
「我らがこれ以上、何か申し上げる必要はございますまい……ジオノス2世陛下の御許へと、お戻りいただきますぞ」
「お願い……おねがいよぉ……」
マチュアが泣きじゃくりながら、魔獣人間たちに話しかけ懇願をした。
「おねがいです……メイフェムさまを、たすけて……」
「ああ? うるさいんだよ人間のクソガキが! お前ごときが僕たちに直接話しかけていいと思ってるのかよカス! ゴミ!」
魔獣人間がマチュアの身体を、片手で物のように掴んで振り上げ、断崖に放り込もうとする。
「やめなさい!」
シーリンは、怒声を浴びせた。
「レボルト将軍は貴方がたに、そのような無法を許しているのですか? だとしたらあの将軍に、人間の政を語る資格はありません!」
「何だと、この女……人間のメスの分際で、将軍を!」
「やめろ。確かに、シーリン殿下のおっしゃる通りだ」
他2体が一応、止めに入った。
「レボルト将軍は、無意味な殺戮を禁じておられる。そのような子供を殺したところで、少なくとも意味のある殺戮とは言えまい? まあ生かしておいたところで意味があるとも思えんがな、人間のガキなど」
「だがまあ、殺さずにおいてやれ。ちっぽけな、つまらぬ人間の子供……とは言え、我らが守ってやらねばならぬバルムガルドの民である事に違いはない」
「ふん……僕はね、レボルト将軍の理想さえ達成出来れば、こんなゴミの2、3000匹は死んだって一向に構わないんだよ」
言いつつも魔獣人間がマチュアを、断崖ではなく地面へと放り捨てた。
幼い少女の小さな身体が、地面に打ち付けられて痛々しく転がる。
「マチュアさん……!」
シーリンは駆け寄り、屈み込んだ。泣きじゃくる赤ん坊を抱えているのでなければ、この少女を抱き起こしているところなのだが。
「……メイフェム……さまぁ……」
愛らしい顔を一筋の鮮血に染めながら、マチュアが悲痛な声を漏らす。額からの出血だった。
「何という事を……!」
シーリンは顔を上げ、魔獣人間たちを睨んだ。
「貴方たちは……人間ではなくなったから、人間をこのように扱うのですか?」
「まあ、そういう事になりますなあ」
人間であった頃はレボルト将軍配下の立派な軍人であったのかも知れない男たちが、答えた。
「王族の方とは言え、蟻を踏み潰した事くらいはおありでしょう? それと同じ事でございますよ」
「我々が道を歩けば踏み潰されて当然の、貴女がた脆弱なる人間を……私どもは、守って差し上げようとしているのです」
「お前ら虫ケラどもをうっかり踏み潰さないように、気をつけて歩いてやっているんだよ僕たちは。感謝しろよバァカ!」
本当に、これでいいのか。
腕の中の息子を泣き止ませる事も出来ぬまま、シーリンは思わざるを得なかった。
自分がこのままジオノス2世の下へ戻り、傀儡の女王となる。それは、この魔獣人間たちのような輩が大手を振ってヴァスケリアを蹂躙するようになる、その第一歩となってしまうのではないのか。
自分は今すぐフェルディ共々、断崖から身を投げるべきではないのか。いや、そんな事をしたら、この怪物たちの眼前にマチュア1人を残してしまう事になる。
魔獣人間の1体が、歩み迫って来た。
「さあ、我らと共に参りましょうシーリン・カルナヴァート殿下……いえ、女王陛下」
ガサ……ッと枝葉が鳴った。微かな馬のいななきと馬蹄の音も、聞こえて来る。
タジミ村方面の森の中から、一組の旅人が姿を現していた。
白い馬に乗った金髪の美少女と、その護衛と思われる徒歩の若者。
「ありゃ……何か変な所に出ちまったぞ」
「ちょっとゼノス王子……本当にたどり着けるのでしょうね? ゴルジ・バルカウス殿の所へ、一両日中に」
馬上の少女は、純白のマントの下に、まるで下着のような鎧を着用しており、スラリとしなやかな肢体と瑞々しい肌を惜しげもなく露出させている。
可憐でありながら勇ましく凛とした顔立ちは、気品と威厳、それに一筋縄ではゆかぬしたたかさをも感じさせる。
政治を経験した、王侯貴族の姫君の顔だった。
そんな姫君にゼノス王子と呼ばれた若者が、整ってはいるが頭は良くなさそうな顔を、きょろきょろと周囲に向けている。
「っかしーなあ、そろそろ岩窟魔宮の入口が見えて来るはずなんだが……で、でもさ。こうやって2人っきりで迷子ってのも何か良くね? 俺はイイと思うなあ。このまんま2人で、愛の逃避行」
金髪の少女が馬上から、若者の顔面に蹴りを叩き込み、世迷い言を踏み潰した。
「私はね、急いでいるの。急いでいるからこそ貴方を、護衛兼案内人として使ってあげているのよ? なのにまあ護衛としてはともかく、案内人としては全然駄目なのねえ。貴方、半分しか役に立っていないという事ねえ。真っ二つに叩き斬って、片方捨てて行きましょうか?」
「いっ痛え、いてえよ、駄目だってば……もっとグリグリ踏んでくれなきゃダメだってばぁ……」
ドバドバと鼻血を噴きながら、ゼノス王子が呼吸を荒くしている。その血まみれの顔面を馬上から踏みにじりつつ金髪の少女が、こちらを見た。鋭く澄んだ両の瞳で、魔獣人間3体を睨み据えた。可憐な唇が、冷ややかに言葉を紡ぐ。
「それで……貴方たちは一体、何をしているのかしら? 女性と子供を虐めている、ようにしか見えないのだけど」
「何だ貴様ら……」
「お前ら……お前らはぁっ!」
魔獣人間の1体が、怒り狂い始めた。
「まだこの国をうろついていたのか! さっさと消え失せていれば良いものをっ!」
「誰だよ、おめえは。知り合いみてえな口ききやがって」
ゼノス王子が、手鼻をかんだ。鼻血の塊が噴出し、ビチャッと地面で飛び散った。
「俺と仲良くしてえんなら、してやらねえでもねえけどよ……あんま最初っから馴れ馴れしくすんなよ、な?」
「お前……忘れてるのか……」
怒りに声を引きつらせながら魔獣人間が、マントとフードを引きちぎるように脱ぎ捨てた。
「僕を忘れたのか……この魔獣人間マンドラナーガを忘れたのかぁあああああッ!」
美しい顔立ちが、怒りで醜くねじ曲がっている。そんな怒りの形相を囲んでいるのは、頭髪の形に頭蓋骨から生え茂った植物である。
マントの下から現れたのは、爬虫類のように滑りざらついた皮膚のあちこちに葉を茂らせ花を咲かせた、細身の人型だった。右手が五指ではなく、毒蛇の牙を思わせる湾曲した刃となっている。
そんな魔獣人間と、どうやら顔見知りであるらしいゼノス王子が、興味深げな声を発した。
「おぉー……おめえかあ。1人じゃ俺に勝てねえ奴が、頭数を引き連れて来やがったと。そーゆうワケだな」
「ふざけた事を言うな! 僕は、お前に勝てなかったわけじゃない! 戦う理由がなくなったから退いてやっただけだ!」
「……おい。何なのだ、こやつらは」
まだ正体を見せていない2体の魔獣人間が、問いを口にした。
「1人では勝てない、だと? 一体どういう事なのだ」
「たわ言さ。こいつは、あの女と同じ……ゴルジ・バルカウスが僕たちに無断で作った魔獣人間。そっちの女は、確かティアンナ姫とか呼ばれていた。どこの姫だかは知らないが、まあ痴れ者なのは間違いないさ」
ティアンナ。確か、そういう名前の妹がいたような気がする。シーリンは思い返した。
後宮の片隅で母親と2人、ひっそりと過ごしていた少女。
それが、やがて女王エル・ザナード1世となってヴァスケリア王政の大改革を断行し、だが今は地方領主の叛乱に遭って、生死不明の行方知れずとなっている。
行方知れずの女王が今、わけのわからぬ若者を護衛に引き連れ、バルムガルド国内にいる。そんな事が、あるのだろうか。
白馬にまたがる金髪の美少女を、シーリンは思わず、まじまじと見つめてしまった。この少女に、後宮の片隅にいて会話もなかった小さな妹の面影が、あるのかどうかはわからない。
「ティアンナ姫、だと……」
魔獣人間の1体が、言った。
「それは、ヴァスケリアのエル・ザナード1世女王の本名……ではなかったか、確か」
「何だと……いや、そんな馬鹿な。かの女王が、このような所にいるはずがない……だが!」
魔獣人間の1体が突然、燃え上がった。マントが、フードが、炎に焼かれて焦げ砕けてゆく。
その下から現れたのは、骸骨だった。胸郭の内側で、まるで心臓のように、火炎の塊が脈打ち燃え盛っている。そこから何本もの炎の筋が伸びて、全身骨格の至る所に、筋肉の如く絡み付いているのだ。
「万が一、貴様がエル・ザナード1世であるとしたら小娘……この魔獣人間スケルウィスプが生かしてはおかぬぞ。人間の戦に人間ではないものを持ち込み、我が軍を大いに殺戮せしめた暴虐の女王よ」
「貴方たちは……国境の戦で、生き残った方々ですか」
ティアンナ姫が言いながら、軽やかに馬を下りた。
「魔獣人間と化して、あの方に復讐を……などと考えておられる? 悪い事は言いません、やめておきなさい。貴方たちでは無理です」
魔獣人間たちに冷ややかな言葉をかけつつティアンナは、歩み寄って来て屈み込み、マチュアを抱き起こした。
「このような弱い者いじめしか出来ない方々が、あの方に戦いを挑もうなど……滑稽ですが、笑えません」
「この女……! 女王だろうが何だろうが知った事か! 殺す!」
魔獣人間マンドラナーガが、毒々しい雫を分泌する右手の刃を振りかざした。ティアンナもマチュアも、一緒くたに切り刻む構えだ。
その構えのまま、魔獣人間は硬直した。美しい顔が、恐怖に近い驚愕で引きつっている。
ゼノス王子が、いつの間にか長剣を抜いていた。剣の素人であるシーリンにも業物とわかる、大型で美しい両刃の刀身。その切っ先が、マンドラナーガの首筋に突き付けられている。
「誰を殺す……っつった今? なあおい」
ゼノス王子が、鼻血を流しながら牙を剥く。整っているが頭は悪そうな顔が、メキ……ッと凶悪に痙攣した。
「誰が、今から殺されちまうんだろーなぁ……試してみっか?」
「良かろう、試してやる……まずは貴様だ」
3体目の魔獣人間が、マントを脱ぎ捨てた。
現れたのは、甲冑姿である。銀色の全身鎧をまとった、完全武装の騎士……いや、兜がない。兜を被るべき、頭部もない。
首級を奪われた屍のようなその姿が、しかし直立して言葉を発しているのだ。
「貴様がまず、無様なる屍を晒す事になる……」
言葉を発しているのは、騎士の左腕に装着された、円形の楯である。
無数の蛇と、醜悪な人面。そんなものが彫り込まれた楯だ。その人面が、血走った両目を、それに牙のある口を、開いている。
「……この魔獣人間メデュラハンの手によって、な」
「お前はバカだ、ゼノスとかいうの……僕たちバルムガルド王国騎士団を敵に回して、この国で生きていられるワケないだろバァーカ! クズ! ゴミ!」
突き付けられた長剣に圧されて後退りしながら、マンドラナーガが喚く。
美しいほどに白く鋭い牙を見せながら、ゼノスは静かに、言葉を返した。
「1つ言っとく……バカとかクズとか、言うな。俺の事、バカとかアホとかクズとか虫ケラとかブタとか犬とか奴隷とか肉人形とかいけない子とか呼んでいいのは……ティアンナ姫、だけなんだからよォ……」
「いいから早く戦いなさいっ」
ティアンナが、細くしなやかな足で、ゼノスの尻に蹴りを入れる。鋭い爪先が、たくましい両臀部の間に突き刺さる。
「あふぅ……ンッ……!」
蹴られたゼノスが、奇怪な声を発しながらのけぞり、痙攣し、そして絶叫した。
「きっ……たぁ……来た来たきたキターッ! 愛の力、注入されちまったぞおおおおおおおおおう!」
ゼノスの全身から、衣服がちぎれ飛んだ。
力強い筋肉が、さらに分厚く獰猛に隆起し、それと共に大量の獣毛が盛り上がって来る。
巨大な羽毛の翼が、バサッ! と広がった。
タテガミが、角が、クチバシが、激しく振り立てられる。
頑強な蹄となった足が、ズンッと大地を踏んだ。
長剣を握る右手は、ごつごつと太い剛力の五指。左手は、得物なしで人体を切り裂けそうなカギ爪を生やした、猛禽の足である。
たくましい尻からは、1匹の毒蛇が尻尾の形に伸び、シャーッと牙を剥いている。
首から上は、美しいほど白く鋭い牙をニヤリと露出させた凶猛な獅子。その豊かなタテガミを掻き分けるように、もう2つの頭部が左右に生じていた。右側は、巨大な角を禍々しくねじ曲げた山羊。左側は、眼光もクチバシも鋭い荒鷲。
人語を発する能力を持っているのは、獅子の頭だけのようである。
「愛の力! テメエらに見せてやるぜい、この魔獣人間グリフキマイラがなあああッ!」