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第62話 2人の竜戦士

 4本の大ミミズが、牙を剥いて襲いかかって来る。

 ガイエルは、迎撃の形に両腕を振るった。左右前腕から生え広がった刃のヒレが、ミミズたちの牙を打ち弾く。

 ガッ! ガギィン! と激突音が響き、火花がひっきりなしに飛散する。

 打ち弾かれたミミズたちが、しかし怯む事なく荒々しくうねって角度を変え、様々な方向からガイエルを襲い続けた。

 ダルーハ軍の魔獣人間たちを大いに切り裂いてきた刃のヒレが、しかしダルーハ軍ではない魔獣人間が背中から生やしている4本の大ミミズを、切り落とすどころか負傷させる事も出来ずにいる。

「くっ……」

 左右から食らいついて来たミミズたちを、ガイエルは両腕の刃で辛うじて弾き返した。

 火花の焦げ臭さが漂った、その瞬間。

「はっはっは、頑張るじゃねえかテメエおう!」

 ベヒモスワームの巨大な左腕が、斜め上から振り下ろされて来た。分厚く強固な平手が、ガイエルを直撃した。

 意識が一瞬、吹っ飛んだ。痛みを感じる前に、意識を粉砕されていた。

 全身を地面に叩き付けられた、その衝撃でガイエルは意識を取り戻した。

 自分が今、うつ伏せに倒れている。それがわかった。起き上がらなければ。だが身体が動かない。衝撃が全身に行き渡り、手足を麻痺させている。

「よーしよし、ようく頑張ったなあ坊や」

 そんな言葉と共に、凄まじい重量がガイエルの背中にめり込んできた。ベヒモスワームの右足だった。

「グッ……え……っ」

 顔面甲殻の内側で、ガイエルは血を吐いた。

「ん? んん〜? もうちっと頑張れるかなあ? どーなのかなぁあああ?」

 笑いながらベヒモスワームが、ガイエルの背中を踏みにじった。背骨に、内臓に、容赦ない圧迫がグリグリと加えられて来る。

「ごふッ……ぐぅ……!」

 ガイエルの顔面甲殻から、さらなる吐血の飛沫が飛び散った。

 飛び散った血反吐が、シューシューと地面を溶かし穿つ。あらゆるものを灼き溶かす竜の血が、無駄に流出している。

 こんなふうに血を流しながら無様に地を這っていると、1人の少年の事を思い出す。

(お……お前も、こんなふうに……圧倒的な力で、踏みにじられていたのか……名も知らぬ、お前……)

 やめろ。殺させはしない。

 あの少年は、今のガイエルと同じく倒れ這いずりながら、言っていたものだ。

 ギルベルト・レインは我が領民、殺させはしない……と。

 ガイエルがあの場に現れるまで、あそこでどのような戦いが行われていたのかは、わからない。

 とにかく、あの少年は死にかけていた。ボロ雑巾のような様を晒していた。

 そんな少年が、しかしガイエルに向かって言い放ったのだ。やめろ、殺させはしない、と。

(死にかけの……俺の小指1本で砕け散ってしまいかねない貴様……それでも、俺に挑もうとした貴様……)

 うつ伏せで踏み付けられている己の身体を、ガイエルは腕立て伏せの形に、ゆっくりと持ち上げていった。

「もう1度……会ってみたい……な……」

「何だぁ? ……うおっ!」

 魔獣人間の絶大なる体重を背中で押しのけ、ガイエルは無理矢理に立ち上がった。

 ベヒモスワームの巨体が大きくよろめき、だが辛うじて転倒をこらえて踏みとどまる。

 そこへガイエルは、立ち上がりながら踏み込み、左腕を振るった。

 身体の中で、胸の内で、激しく燃えたぎっているものが、その左腕へと流れ込んで行く。

 刃のヒレが、燃え上がるように赤く輝いた。そして横薙ぎに一閃。

 赤熱する斬撃が、ベヒモスワームの肥えた腹部に、横一直線の赤い筋を刻み込んだ。

「てめ……ッッ!」

 ベヒモスワームが、狼狽する。

 その間、ガイエルは左足を高々と跳ね上げていた。凶悪なほど鋭利な爪が、天空を向いたまま赤く熱く発光する。

 踵落としの形に、ガイエルは左足を振り下ろした。

 頭頂部から股間へと、ベヒモスワームの巨体に、赤熱する直線が生じた。それが、腹部をまっすぐ横断する赤い筋と交差する。

 魔獣人間の巨体に、赤く輝く光の十文字が描かれていた。

 その交差部分に、ガイエルは右拳を叩き込んだ。

 赤熱する光の十文字が、そのまま裂け目に変わった。ベヒモスワームの巨大な肉体が、ゆっくりと4等分されてゆく。

 絶大な熱量を流し込まれた4つの肉塊が、計8つの赤く燃える断面を晒しながら、

「ぐッ……てめえ……や、やるじゃねーかァアアアアアアア!」

 叫びを残し、炎に包まれ、爆発した。

 右肘を脇腹に打ち付けるように拳を引きながら、ガイエルは背を向け、その爆発光を翼で受けた。

「ぐ……ぅ……っ」

 顔面甲殻から、とめどなく血反吐が溢れ出す。ガイエルは、片膝をついていた。

 身体の中で、内臓が何ヵ所か破裂している。

 恐ろしい相手だった。

 魔獣人間ベヒモスワーム。この怪物も、レボルト・ハイマン将軍とやらが率いる、バルムガルドで世直しをしているつもりになっている魔獣人間どもの1体だったのであろうか。

 ティアンナが単身で潜入しているこの王国を、同じような化け物が、まだ何体もうろついているという事なのか。

「お……おい、あんた大丈夫か」

 ガイエルが、もしかしたら皆殺しにしていたかも知れない強盗たちが、気遣わしげに駆け寄って来る。

「……今のうちに逃げていれば良かったものを……」

 片膝をついたまま、ガイエルは彼らを睨みつけた。

「まさか……今なら俺を殺せる、などと思っているわけではあるまいな?」

「冗談言うな。あんたの身ぐるみ剥がそうったって、もう全部燃えちまったじゃないか」

 人間の皮を脱ぎ捨てた赤色の魔人を相手に、人間の強盗たちが、いくらか怯えながらも会話の努力をしている。

「単なる結果論かも知れないが、あんたは我々を助けてくれた……ありがとう、とは言っておきたい」

「そ、それにしても何なんだよ、あんたたちは……」

「人間じゃねえ奴らが、何かいろいろやってるって話は聞いてるけどよォ……」

 レボルト将軍配下の、官憲もどきの魔獣人間どもと一緒くたに扱われている。

 血まみれの顔面甲殻の内側で、ガイエルは苦笑した。

「……まあ、同じようなものか。貴様たちから見れば……それより、どけ」

 強盗たちを押しのけるようにして、ガイエルは立ち上がった。

「見逃してやる、消えて失せろ……せっかく俺に殺されずに済んだ幸運、無駄にするなよ……」

 立ち上がり、歩き出そうとして、ガイエルはよろめいた。

 叩き込まれた衝撃が、まだ全身至る所に残っている。戦いがとりあえず終わったと言うのに、内臓がまだ破裂し続けているような感覚だった。

 ガイエルは、またしても膝をついた。

「おい、まだ動くのは無理じゃないのか?」

 強盗たちが、なおもしつこく駆け寄って来て気遣おうとする。

「お、俺たちの集落で、少し休んでけよ……」

「そうだ。まずは傷を癒せ」

 強盗たちではない何者かが、声をかけてきた。

 ガイエルは顔を上げ、睨んだ。

 前方に3人、立っていた。マントとフードで顔も身体も覆い隠した、3人の、恐らくは男。

 1人は巨漢。だがベヒモスワームと違って肥満体ではない、ほぼ筋肉のみでガッシリと引き締まり盛り上がった巨体である。

 1人はスラリとした長身で、顔も身体も隠してはいるが、どこか嫌みなほど優雅な雰囲気をまとっている。

 声をかけてきたのは3人目で、子供ではないかと思えるほど小柄な体格をしていた。が、フードの内側から発せられる声は、太く低く力強い大人のそれだ。

「見事な戦いぶりであった。その力、その姿……魔獣人間、ではないようだな? 竜と人間の混ざり物か」

「何だ、貴様らは……」

 問いかけつつもガイエルは、わかっていた。空気として、伝わって来る。

 この3人は、人間ではない。マントの下で、すでに人間の姿を脱ぎ捨てている。と言うより、最初から着ていない。

「魔獣人間……!」

「まあ、そういう事です」

 長身の男が、優雅そのものの口調で答える。

「貴方に今、倒された無様なる者の、まあ仲間と言って差し支えありませんが……仇を討とうなどという気はありません。ご安心なさい?」

「もぉー、がっかりじゃないのよぉ。あんっイイ男、とか思ってたら、そぉんなゲテモノに変身しちゃってぇ」

 巨漢が、たくましい肉体をおぞましくうねらせながら野太い声を出す。

「こんなのヤッ! アタシはねぇ、もっと可愛くて綺麗な人間の男の子をジュルジュルしゃぶってあげたいのよん」

 言動がいかに愚かしくとも、この魔獣人間3体がベヒモスワームに劣らぬ怪物であるのは間違いない。

 ガイエルは立ち上がった。別に助ける必要もない強盗たちを、背後に庇う格好になってしまった。

「俺を殺すために数を揃えたと、そういうわけか……」

 排除しなければならない。ティアンナが動き回っている国から、この危険な怪物たちを。

 その思いが、ガイエルの胸の内に満ちて燃え上がった。

「良かろう、3匹まとめて相手をしてやる……」

「慌てるな、竜の戦士よ。まずは身体を癒せと言っている」

 子供のような体格の魔獣人間が、言った。

「我らは誇りあるレグナードの闘士。手負いを相手に武勇を誇ろうとは思わん……俺は、万全の貴様と戦ってみたいのだ」

「私は戦ってみたいとは思いませんが……人と竜の混血とおぼしき者よ、貴方は利用出来そうです。私が、この美と叡智をもって世に君臨する……そのために、ね」

 優雅な口調で妄言を吐きながら、長身の魔獣人間がゆらりと背を向ける。

「だから今は、生かしておいて差し上げましょう。感謝なさい?」

「アタシはどぉーでもイイなあ、こぉんなゲテモノ男。もっと可愛くてイジメ甲斐のある男の子さぁがそーっとぉ」

 魔獣人間3体が、正体も明らかにせぬまま歩み去って行く。

「待て……!」

 言葉と共にガイエルの顔面甲殻がひび割れ、砕け散った。

 がっちりと噛み合わさった白く鋭い牙の列が、剥き出しとなる。

 この怪物3匹を、放置しておくわけにはいかない。

 ティアンナがうっかり遭遇してしまう前に、この3匹は始末しておかなければ。

 胸の内で燃え盛るその思いを、ガイエルは思いきり解放した。

 噛み合わさっていた上下の牙が開き、体内より解放されたものが、轟音を立てて熱く激しく迸る。

 炎と言うより爆発そのものが、ガイエルの口から吐き出されていた。そして横向きの噴火となって、魔獣人間3体の後ろ姿を襲う。

 子供のような体格の1体が、振り向いた。まるで仲間2体を庇うように。

 その小さな身体に、爆炎の吐息が激突する。

 炎の飛沫が、大量に飛び散って消えた。

 残っていた力の全てを吐き出し終えたガイエルの身体が、その場にガクリと両膝をつく。

 倒れそうになりながらも、ガイエルは前方を見据えた。爆炎の吐息に灼き尽くされ、何もいないはずであった。

 だが、ガイエルの眼光の先。高熱で揺らめく空気の向こうに、それはいた。

 子供のように小さな身体を、背中から生えた翼で覆い隠している。大型の、黒い皮膜の翼。

 それが、ゆっくりと開いてゆく。

 露わになったのは、10歳かそこらの少年のように小柄な、それでいて高密度な筋肉が岩の如く固まった、小さいながら強靭な裸身である。所々で赤い体毛の如く炎が燃えているが、それは爆炎の吐息を浴びての発火ではなく、元来の体質のようだ。

 すなわち、無傷。ガイエルの炎で、火傷1つ負っていないという事である。

「貴様の弱点を1つ、指摘しておいてやろう。竜の戦士よ」

 鋭い牙を光らせる口が、言葉を紡いだ。

「貴様の戦い方……少々、切り札に頼り過ぎだ。切り札が効果無しとなれば、それそのように何も出来なくなってしまう」

 凶暴な肉食の類人猿を思わせる顔面が、燃え盛る炎の頭髪に囲まれている。その炎の中から左右2本、山羊のように渦を巻いた角が、力強く禍々しく伸びていた。

 赤く爛々と眼光を燃やす両目が、ぎらりとガイエルを見据える。

「我が名は魔獣人間ゴブリート……貴様の名を聞くのは、次の楽しみにしておこう。それまでに腕を上げておけ、若造」

 名乗る魔獣人間の背後で、他の2体も、マントを焼かれて正体を見せているようである。

 が、ガイエルの目にはもはや見えなかった。視界が、暗転しつつある。

「待て……」

 呻くのが、ガイエルは精一杯だった。

「そう死に急ぐものではありませんよ……いずれ私が利用して差し上げるまで、せいぜい命を大切になさい」

「ゲテモノが何か気合い入れて頑張ったってさぁ、ウザいだけなんだけどぉー」

「切り札に頼らぬ戦い方が、少しは出来るようになっておけ……」

 ガイエルの薄れゆく意識に、魔獣人間たちの言葉だけが、冷たく染み込んで来た。



 何故、こんな簡単な事に気付かなかったのか。

 いや、心のどこかでは気付いていたのかも知れない。気付かぬふりをしていたのは、やはり命が惜しかったからか。

 タジミ村のはずれに広がる小さな森林地帯を、歩き抜けた所で、シーリン・カルナヴァートは立ち止まっていた。

 もう何歩か進むと、地面がなくなる。断崖である。遥か下を流れる谷川の轟音が、ここまで聞こえて来る。

 タジミでは、これまで何人もの村人が、ここから飛び降りて命を絶っているという。

 自殺をする人間の事情は、様々だ。自分の場合はどうか、とシーリンは考えてみた。

 自分が生きていれば、先日の魔獣人間のような追手がタジミ村に押し入って来て、村人たちが大いに迷惑する。

 自分が死ねば、そんな事は起こらなくなる。傀儡国家の女王にも、ならずに済む。ヴァスケリアを侵略併呑せんとする義父ジオノス2世王のもくろみを、消滅させる事が出来る。

 何の事はない。シーリン・カルナヴァートがこの世からいなくなるだけで、全てが良い方向へと転がるのだ。

 フェルディは今、マチュアが面倒を見てくれている。

 メイフェム・グリムがタジミ村を守っている限り、村人たちもフェルディを大切に扱ってくれるだろう。

「私なんか要らないわよね、フェルディ……」

 呟きながらシーリンは1歩、踏み出した。もう少し歩いて身を投げれば、ヴァスケリアを守る事が出来る。嫁いだ王族としての使命を、果たせる。こんな簡単な事を今まで実行出来なかったのは、やはり浅ましく命を惜しんでいたからだろう。

 もう1歩、シーリンが踏み出そうとした、その時。

「あ、あのう! そんな事はやめて下さい!」

 森の方から、声をかけられた。

 振り向かず断崖へと向かうべきなのであろうが、シーリンは振り向いてしまった。

 そこにいたのは、お揃いの法衣に身を包んだ、2人の尼僧である。片方は、光の当たり方によっては白髪にも見えてしまう銀色の髪をした、長身の若い娘。もう片方は、小さな幼い少女。

 メイフェム・グリムと、マチュアだった。

「……確かにね。貴女が自殺でもすれば話は早いのに、なんて思っていた時もあるわよ」

 メイフェムが言った。

「でもねえ……この前も言ったけど、私に赤ちゃんを押し付けられても困るのよね」

「フェルディ王子が、急に泣き出したんですっ」

 その通り泣いている赤ん坊を抱いたまま、マチュアがいそいそと歩み寄って来てシーリンを見上げる。自分こそ泣き出しそうな顔で、睨んでくる。

「お母様が抱っこしてあげないと、だめなんですっ!」

「そう……なの?」

 戸惑いつつもシーリンは、マチュアの小さな両腕から、息子を受け取った。

 泣いていたフェルディが、母親の細腕に抱かれた途端、だあ、だぁ……と嬉しげな声を発した。

 泣き止むと同時に笑いはしゃぎ始めた息子を、シーリンはじっと見つめた。つい、話しかけてしまう。

「フェルディ、お前は……私を、必要としてくれるの?」

「当たり前です。お母様なんですから」

 マチュアが、泣きそうな顔で怒っている。

「絶対、だめです。お母様が……子供を残して、死んじゃうなんて」

 この少女の両親は、どうしたのだろう。シーリンは、ふと気になった。

 まだ親から離れるべきではない年齢の少女が、しかし親ではなく、人間ならざる尼僧と行動を共にしている。図々しく聞き出すような事情ではないのだろう、とシーリンは思ったが、

「この子の親御さんはね、私が殺したのよ」

 メイフェムが、耳を疑うような事を言った。

 マチュアはそれを肯定も否定もせず、ただ俯いた。

「……メイフェム様は、マチュアを助けてくださいました……ただ、それだけです」

「ふふ……本当は私の事、憎らしくてしょうがないんでしょう? ねえ、おチビちゃん」

 がくがくと頭蓋骨を揺さぶるように、メイフェムはマチュアの頭を撫でた。

「……とにかくシーリン殿下、私はそういう女だから。赤ちゃんを押し付けられたら、きっと殺してしまうわよ? 私、子供とか赤ちゃんとか大嫌いなんだから」

「メイフェム殿……」

 この尼僧の、魔獣人間としての姿を、シーリンは思い返した。あれは、子供を産めない身体なのではないか。

 それも、しかし図々しく訊ける事ではなかった。

 明るくはしゃいでいる息子を抱いたまま、シーリンは苦笑した。

「駄目ね、私も……貴女たちに呼び止められただけで、思いとどまってしまうなんて」

「……ねえシーリン殿下。貴女が死んだところで、傀儡国家はもうすでに出来てしまっているのよ?」

 メイフェムの言う通り、ヴァスケリア東部・北部の計5つもの地方が、今や独立国家に等しい状態にあるという。ヴァスケリア屈指の剛将とうたわれるラウデン・ゼビル侯爵が、大領主として君臨しているらしい。が、唯一神教ローエン派の司祭たちが実質的な統治を行っているという話も聞く。

 シーリン・カルナヴァート元王女が、このような失踪などしていなければ当然、女王として祭り上げられていたところである。

 メイフェムが、さらに言う。

「今、思いついた事だけど……シーリン殿下がいっその事、予定通り女王になってしまってはどう? それでバルムガルドの支配も干渉も受け付けない政治をしてみればいいと思うわ。私が協力すれば、決して不可能ではないと思うのだけど」

「世迷い言はそこまでにしておけ、魔獣人間」

 声がした。若々しく、それでいて重厚な、男の声。

 どこかで聞いた事のある声だ、と思いながらシーリンは森の方を見た。

 1人、こちらに歩み寄って来ている。貴族の正装を身にまとった、若い男。体格は均整が取れて力強く、脚も長い。メイフェムとさほど違わぬ年齢、に見える。

 焦げ茶色の髪と、鋭く整った顔立ちにも、見覚えがある。シーリンは、そう感じた。

 ボセロス王子の妻としてバルムガルド王宮にいた頃、この若者と何度か、挨拶くらいは交わしたのではないか……いや。確かに何人かの貴族と顔見知りにはなったが、これほど峻厳なる雰囲気をまとった貴公子は、少なくともシーリンの知り合いには1人もいない。

「本国の支配を受け付けない傀儡国家など、あってはならないのですよシーリン・カルナヴァート殿下……貴女には、我が国によるヴァスケリア併呑の先兵となっていただかなければなりません。さあ、フェルディ王子と共に王宮へとお戻り下さい」

 その話し方、やはり誰かに似ている。シーリンのよく知る、とある人物に。

 ヴァスケリアに負けず劣らず有象無象ばかりなバルムガルドの貴族高官たちの中にあって、数少ない傑物の1人。

 その人物は、西国境における敗戦の責を負って、処刑されたとも獄中死したとも言われている。

「貴方……副作用が出ているわね?」

 メイフェムが、謎めいた事を言った。

「魔獣人間になると、本当にごく稀にだけど、少なくとも外見は若返る事がある……ゴルジ殿が、そう言っていたわ」

「ふん、貴様もか」

 ある人物に似た、その若者が笑う。ぞっとするほど、暗く重い笑顔だ。

「お互い、いい歳をして子供のようにはしゃいでいるというわけだ。ゴルジ・バルカウスに与えられた力を、玩具の如く振るってな」

「自覚は出来ても、止められるものではない……と。そういうわけね」

「そういうわけ、にしても貴様は少々はしゃぎ過ぎだな。バルムガルドの国益が懸かった国家戦略を、魔獣人間個体の暴力で妨げようとは」

 若者の峻厳なる眼光が、メイフェムに向かって燃え上がる。

「それは人間ならざる者が、人間の政に介入する行い……許すわけにはいかん」

 若返る。メイフェムは今、そう言った。

 あの人物が30年ほど若返れば、確かにこの若者になるだろうとは思える。

 だが、そんな事があるのか。人間をやめて若返る、などという事が。

 思いつつもシーリンは、名を口にしていた。

「……レボルト・ハイマン将軍……?」

「隠すほどの正体では、ありませんな」

 若返った将軍が、暗く重く微笑む。

「御覧の通り、生き恥を晒しております」

「そんな……まさか、そんな事が……」

 罰なのか。シーリンはまず、そう思った。西国境における敗戦の罰として、国王ジオノス2世は、レボルト・ハイマンほどの功臣をも魔獣人間の実験材料にしてしまったのか。

 レボルト1人ではない事に、シーリンは気付いた。人影らしきものが3つ、森の中に潜んでいる。木陰に見え隠れする姿は判然としないが、3人とも、少なくとも人間ではなさそうだ。

 レボルト配下の、恐らくは魔獣人間たち。

 ジオノス2世が、いよいよ手段を選ばず、シーリンを連れ戻しにかかったという事だ。

 マチュアが、不安げに身を寄せて来た。

 非力そのものの母子と少女、計3人をさりげなく背後に庇いながらメイフェムが、レボルトと対峙する。

「貴方のその行いは、人間の政に介入している事にはならないのかしら?」

「……貴様のような輩がいなければ私とて、このような介入をせずに済むのだよ」

 レボルトの身体が、メキ……ッと微かに震えた。

「あの赤き魔人と言い、貴様と言い……力に溺れて身勝手をやらかす者が多過ぎる。全て、私の手で始末してくれるぞ」

「ジオノス2世陛下のなさりようは……身勝手な行い、とは言えないのですか。レボルト将軍」

 メイフェムの背後から、シーリンは問いかけた。

「平和な他国を傀儡政権で分裂させ、その混乱に乗じて侵略併呑など……私には、魔獣人間の無法とさほど違わぬように思えます」

「ジオノス2世陛下は、一国の王であらせられる。平和な他国を奪い取ってでも、バルムガルドの民を富ませる義務をお持ちなのですよ」

 レボルトの言葉と眼光が、メイフェムを迂回してシーリンに向けられる。

「そしてシーリン・カルナヴァート殿下は今や、ヴァスケリアではなくバルムガルドの王族であらせられる。バルムガルドの民が納める税で安穏と暮らし、子供までお産みになられた……もはや貴女には、バルムガルドの国益を損なうような行いは許されぬ。傀儡の女王となり、ヴァスケリア併呑に貢献なされよ」

「併呑されたヴァスケリアの民は、どうなります……」

 峻厳なる眼光を、シーリンは受け止め、見つめ返した。

「バルムガルドの方々によって虐げられ、搾取されるのではないのですか……」

「当然です。ヴァスケリアから搾取する事で、バルムガルドが富を得る。そのための侵略併呑なのですから……それが人間の政というものです。そこへ人間ではないものが介入すれば、搾取どころではない禍いが起こるのだ。わからんのか、魔獣人間の女よ」

「わからないわ。わかりたくもないわね」

 メイフェムの全身から、法衣がちぎれ飛んだ。皮膜と羽毛、左右で形の異なる翼が広がった。一回り肉感を増した筋肉質の裸身が、露わになる。

「私はただ、シーリン殿下の覚悟と信念を見ていたいだけ……それは、美しいものになるかも知れないから。ケリスが守ろうとした、美しいものにね」

「わけのわからぬ事を……!」

 魔獣人間としての姿を現したメイフェムを、燃える眼光で睨んだまま、レボルトが声を震わせる。怒りの震えだ。

 森の中から人影が3つ、飛び出して来た。

「こやつ……将軍に刃向かうか!」

「ゴルジ・バルカウスめ! 僕たちに断りもなく、またこんな!」

「将軍、こいつは我々が!」

 3人とも、フードとマントで全身をすっぽりと包み込んでいる。恐らく魔獣人間の肉体を隠しているのであろう彼らを、レボルトは軽く左手を上げて立ち止まらせた。

「お前たちは手を出すな。バルムガルドの国益を損なう者は、私の手でこの世から消す」

「無理をしないで、手伝ってもらいなさいな」

 美貌の原形が辛うじて残った口元に、メイフェムは冷たい笑みを浮かべた。

「寄ってたかって私を殺すために、頭数を引き連れて来たのでしょう?」

「思い上がるな。私が部下を伴っているのは、あの赤き魔人に備えての事。貴様など私1人で充分だ。自慢する気にもならんが、このレボルト・ハイマン……ゴルジ・バルカウスの、1番の自信作らしいのでな」

 左手を掲げたままレボルトは、声を1段、低くした。

「……悪竜転身」

 掲げられた左手がメキッ! と痙攣した。

 レボルトの全身で、貴族の正装が内側からちぎれた。

 布切れを蹴散らすように、筋肉と外骨格が盛り上がって来る。黒い、まるで鎧のような外骨格。もちろん体内にも頑強なる内骨格を有する、禍々しいほど力強い異形の肉体。所々で鎧状に甲殻が隆起し、そうでない部分は鉄板のような鱗でびっしりと覆われている。

 そんな怪物の、背中からは翼が広がり、尻からは黒い大蛇のような尻尾が伸びて、微かにうねる。

 両手は、さながら人の前腕の形をした奇怪な甲殻生物だ。節足のような五指が、強固に拳を握っている。

 特に異形化が著しいのは、左腕である。掲げられた前腕部で外骨格が大きく広がり、楯の形を成しているのだ。

 首から上は、カボチャである。鋭く吊り上がった両目と牙を剥いた大口、の形に穴を穿たれたカボチャが、左右計4本の角を後ろ向きに生やしている。

 カボチャの内部では、得体の知れぬ光が赤く燃え上がるように灯っており、その不吉な輝きが、両目と口から爛々と漏れ出している。

 その真紅の眼光が、メイフェムを見据えた。同じく真紅の光を吐き出し続ける口が、言葉を発する。

「他国を奪って自国を富ませる。それが人間の政……人間ではないものの介入など許されぬ、許しはせぬ」

 左前腕から広がった、外骨格の楯。その一部を、レボルトは右手で掴んだ。そして引き抜いた。

 しゅら……っと刃が引き抜かれる。やや湾曲した、幅の広い片刃の刀身。

 楯から引き抜いたその剣を、右手でゆらりと構えつつ、レボルトは名乗った。

「介入者は全て滅ぼす……この魔獣人間ジャックドラゴンが、な」

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