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第61話 魔獣人間王国

 ヴォルケット州大守スタン・ルービット侯爵が、死んだ。

 死んだという布告が出ただけで、死因は明らかにされていない。だが官憲によって殺害された事は、ほぼ間違いないだろう。

 殺されて当然の主君だった、とサードゥ・ミスランは思う。

 何しろ民衆が、結婚すれば税を取る。子供を生めば税を取る。死んで墓を作れば税を取る。家を建てても税を取る。農耕のために牛馬を使っても税を取る。竃を使用しても税を取る。

 それだけ搾取しておきながらスタン侯爵は、大守としての仕事を一切やらなかった。山賊が暴れていても、賄賂を受け取って放置していたくらいである。

 そんな大守に、しかしサードゥは兵士として仕え、安定した収入を確保していた。税金で建てられた兵員住宅を与えられ、おかげで結婚する事も出来たし子供も生まれた。

 そんな安定した生活が、大守スタン・ルービット侯爵の死によって失われてしまったのだ。

 後任の大守は厳格そのものの人物で、前大守による不法搾取に加担した罪で、サードゥたち州軍兵士のほぼ全員を解雇してしまった。

 もちろん民衆は喜んだ。それが正義という事になってしまったのである。

「おい、獲物が来たぞ」

 バレックが声をかけてきた。サードゥと同時期にヴォルケット州軍へ入隊し、こうして同じ運命を歩む事になった同僚である。年齢も同じく24歳、だがサードゥと違って独身だ。

 身を隠すには良い感じに木々の生い茂った、山道である。サードゥもバレックも他8人の元兵士たちも、木陰や茂みに潜んで、獲物を待ち構えていたところだ。

「獲物……か」

 サードゥは呟いた。

 今から狩りを行うのだが、獲物は兎でも鹿でも野鳥でもない。人間である。

 1月ほど前までは、強欲な大守に飼われた州軍兵士として、貧しい民衆に対し威張り散らしていたものだ。それが今では強盗団。どちらが惨めであるのかは、よくわからない。

「いい加減、覚悟を決めろよサードゥ」

 3つ年上のレナム元隊長が言った。

 彼によって率いられた計10名の強盗団が、この人数でも勝てそうな獲物を狙って身を潜めている。それが、今の状況だ。

「我々は今や、他人から奪って生きるしかないんだよ……まあ、以前も似たようなものだったけどな」

「俺たちが苦労して取り立てた物は全部、あのクソったれな大守の懐に入っちまった。けど今は、自力でふんだくりゃあ全部俺らの物に出来る……いくらかはマシになったんじゃないですか、隊長」

 バレックが、やけくそ気味に笑った。

「隊長はよせ。そうだな、お頭とでも呼べよ……それよりサードゥ、躊躇うんじゃないぞ」

 何を躊躇うなとレナムが言っているのかは、サードゥにもわかる。

 少人数の旅人を襲い、殺して身ぐるみを剥ぐ。それを躊躇っていては、もはや生きてはいけないのだ。

「躊躇いが心に生まれそうになったら、奥さんと子供の顔を思い浮かべろ。それで大抵の事は出来るようになる」

「……わかってますよ、お頭」

 兵士である。が、実戦と呼べるようなものは経験した事がない。適当な訓練で適当に身体を動かす日々を送っていた。

 もちろん人を殺した事などない。泣き喚く村人を蹴飛ばして、めぼしい物を徴収した事があるくらいだ。そういう事をする時にも、妻と子供の顔を懸命に思い浮かべた。

 安定した収入で家族を養うためには、任務の内容を選んでなどいられなかったのだ。

 そんな仕事を続けていた結果、安定した収入そのものを失ってしまった。

 解雇され、兵員住宅からも追い出された元州軍兵士何十名かとその家族が、今はこの近くで集落を作って暮らしている。サードゥの妻と子供も、そこにいる。

 皆、細々と農耕などをしているが、それで生活してゆけるわけもなく、こうして強盗稼業を始める事になってしまった。

(出来るのか、俺たちに……)

 サードゥは思う。バレックもレナムも他7名も、そう思っているに違いなかった。

 今ここにいる10名の元兵士・現強盗たちの中には、10年近く前のリグロア王国攻略戦に新兵として加わっていた者も何人かいる。あの戦争は、総司令官レボルト・ハイマン将軍の卓抜した用兵によって、バルムガルド軍からはほとんど戦死者が出る事なく勝利に終わった。

 大軍の戦では、他の部隊が危険な前線を引き受けてくれる事もある。少人数の強盗行為においては、全員が危険な目に遭わなければならない。

(何で……こんな事になっちまったんだ……)

 他の皆も思っているであろう事を、サードゥは心の中で呟いた。

 仕える大守を、自分で選ぶ事は出来ない。あんなスタン侯爵のような強欲貴族ではなく、もっとまともな大守に仕えていれば、自分たちも、村人を蹴り倒して作物を奪うような兵隊にはならずに済んだ。

 だが、なってしまった。そして今では強盗である。

 レナムに言われた通りサードゥは、幼い息子の顔を思い浮かべてみた。今年で3歳、可愛い盛りである。

 万が一このまま強盗稼業が上手くいってしまったら、あの息子もまた、人を殺して物を奪う生き方をする事になるのか。

 バレックの言った「獲物」の姿が、やがて見えてきた。

 少人数の旅人……と言うより、たった1人だ。1人きりで堂々と、警戒している様子もなく山道を歩いている。

 粗末な旅用のマントに身を包み、フードを目深に被っていた。顔はよく見えないが、男である事は間違いない。力強い体格は、マントの上からでも何となく見て取れる。

 フードからは、長い、そして赤い髪の一部が、少しだけ溢れ出していた。血、よりも炎を思わせる赤色だ。

 レナムが長剣を抜き、振るった。

 それを号令として強盗団10人が、一斉に木陰や茂みから飛び出し、赤毛の旅人を取り囲む。

 サードゥは槍を構えた。バレックは長剣を抜いている。他7名も、それぞれの得物を様々な方向から、赤毛の旅人に突き付ける。

 怯えた様子もなく、赤毛の旅人は立ち止まった。そこへレナムが、まずは声をかける。

「おとなしく有り金全部、出してもらおうか。そうすれば命までは取らない」

「嫌だと言ったら殺して奪う、と。そういうわけか」

 暢気な事を言いながら、赤毛の旅人がフードを脱いだ。

 炎のような髪によって飾り立てられた美貌が、露わになった。

「それは実に……残虐な話であるなあ」

 秀麗な顔立ちは、しかし線が太く、女性的な繊細さを全く感じさせない。力強い、男の美貌だ。

 年齢は、20歳になるかならぬか、といったところであろう。鋭い両眼が、興味深げに強盗10名を見回す。

「お前たちに1つ訊こう。臓物は好きか?」

「何……だと?」

 わけのわからぬ問いかけに、レナムが困惑している。赤毛の若者は、なおも言う。

「臓物が派手に噴き上がるような死に様はお好みか? と訊いているのだよ」

「ふざけてんのか、てめえ……!」

 1人が逆上し、若者の背中に槍を突き込もうとする。

 その槍が、折れた。赤毛の若者が、振り向くと同時にだ。

 レナムとバレックが握り構えている長剣も、刀身の半ば辺りでパキーンと折れた。

 赤毛の若者が、軽やかにマントをはためかせながら両手を振るっている。素手の手刀で、槍を、長剣を、叩き折っている。そのようにしか見えない。

 呆気に取られている間に、サードゥの槍も折られていた。

 強盗10人、ことごとく得物を失っていた。皆、柄だけになった槍や長さ半分になってしまった長剣を握ったまま、呆然と固まっている。

「さて……逃げるなよ、貴様たち」

 ふわりとマントを舞わせて両手を軽く掲げながら、赤毛の若者は言った。

 ごつごつと固く鍛え込まれた左右の素手。しかし手刀で刃物を叩き折れるほど、鍛えられるものなのか。

「逃げた者は、追い付いて殺す。素手で抵抗する者が、万が一いたとしたら反撃で殺す」

「どのみち殺されるのか……? 俺たちは……」

 呆然としたまま、サードゥはとりあえず会話を試みた。一体何と会話をしているのか、という気もする。

 赤毛の若者は、とりあえず会話に応じてはくれた。

「おとなしくしていれば俺も、もしかしたら殺さずにおいてやろうという気になるかも知れんぞ」

「……悪かった……」

 レナムが弱々しく両膝をつき、思いきり頭を下げた。地面に頭突きを見舞うかのような、土下座である。

「頼む、許してくれ……我々の命だけは、どうか助けて欲しい。ここにいる者たちには、女房も子供もいるんだ……」

「ふん。大切な者を守るために戦い、殺し、奪う……うんざりするほど、よくある話だ」

 言いつつも赤毛の若者は一瞬、思案したようだ。

「……実はな、俺は人を捜している。何か有益な情報をくれたら、貴様らの命だけは見逃してやらんでもない」

「ど、どんな人間をお捜しであるか」

 レナムが土下座したまま、顔だけを上げて言った。

「何なら我々でその人捜しを、お手伝いしても良い。だ、だから命だけは」

「16、7歳ほどの、美しい少女だ。剣技と攻撃魔法、両方の修練を積んでおり、炎や雷をまとう剣を振るって敵を倒す」

 赤毛の若者が説明しつつも、その少女の名を教えてくれようとはしない。

「防御の役には立ちそうにない、まるで下着のような鎧を常に着用している。俺としては、もう少し何か着た方がいいと思うのだが」

「知らん。そもそも、いるわけがないだろう! そんな娘っ子が!」

 バレックが叫んだ。

「露出度の高い、魔法も使う美少女剣士だと? 最近の吟遊詩人どもがよく謡う、萌え系の英雄物語じゃあるまいし。いるわけないだろう! そんな、下着みたいな鎧で旅してる女の子なんて!」

「それがいるから、困ってしまう」

 赤毛の若者は、何やら本当に困っているようだ。

「まあ、それはともかく……要するに、お前たちから有益な情報を得る事は出来ないと。そういうわけだな」

「そういうわけなら、何だ……俺たちを、こっ殺すのか、やっぱり……」

 サードゥの声が震えた。妻と、そして幼い息子の顔を、思い浮かべてみた。

 自分が守らなければならない者たちに、サードゥはしかし今、すがりついていた。

「頼む……頼むよ、殺さないでくれ……殺さないで下さい……」

「たっ助けて下せえ! 命ばかりは!」

 他の強盗たちも、泣きながら命乞いを始めた。

「つっ強え人ってのは、弱ぇ奴にゃ優しくしなきゃあ! そうでしょ?」

「も、もう強盗なんてしません! 真面目に畑とか耕して生きてきますから!」

「娘が! 娘が生まれたばっかりなんですよう!」

 赤毛の若者は腕組みをして、命乞いに聞き入っている。

「……俺はなあ、弱い者にはあまり優しくしてやれん性格なのだよ」

 困った表情のまま、彼はそんな事を言っている。

「何しろ俺の親父殿が、弱い者いじめをこよなく愛する男だったからな……むっ?」

 秀麗な顔が緊迫し、上空へと向けられる。その視線を追って、サードゥも見上げた。

 バサッ! と羽音が響いた。巨大な鳥が、空中から強盗たちを見下ろしている。

 最初は、鳥に見えた。白い大型の翼を羽ばたかせて空気を打ち、巨体を空中にとどめている。

「見つけたぞ……領民を苦しめ続けたヴォルケット州軍の残党ども!」

 鳥ではなかった。牙を剥いた大きな口から、人語を発している。

「解雇・追放など手ぬるい手ぬるい! 腐敗をもたらした者、もたらす可能性のある者は、ことごとく王国社会から排除するべきなのだ!」

 流暢に人間の言葉を喚く、人間ではない生き物。

 毛むくじゃらの身体は筋骨隆々で、両腕は熊の如くたくましく、両足は鉄槌のような蹄を備えている。

 顔面には、やかましく喚く大口の他には、凶暴に血走った眼球が1つだけ埋まっているのみだ。

 鋭く伸びた2本の角は、猛牛のようでも山羊のようでもある。

 そんな、辛うじて人間の体型をした異形の生物が、背中の翼をはためかせて滞空しているのだ。

 王国軍が最近、人間ではない、怪物としか言いようのない者どもを秘密の戦力として使い始めた。そんな噂を、サードゥも耳にしてはいる。腐敗を取り締まるという名目のもと、何人もの貴族がその怪物たちによって殺されている、とも聞いている。スタン侯爵の死が、その一環であるとも。

「魔獣人間……」

 赤毛の若者が、謎めいた単語を口にした。

「完成品を放し飼い出来るような段階に、達しているのか」

「旅の者か……我らの事を、多少なりとも知っているようだな」

 どうやら魔獣人間という種類の生物らしい単眼・有翼の怪物が空中で誇らしげに名乗った。

「そうとも、我が名は魔獣人間ペガハンババ! 偉大なるレボルト・ハイマン将軍と共に生まれ変わった、バルムガルド王国騎士団の一員よ」

「その騎士殿が一体、何の用だ」

 赤毛の若者が、空中に向かって問いかける。

 魔獣人間ペガハンババが、羽ばたきながら傲然と答えた。

「貴様になど用はない。俺の目的は、そやつらの命よ」

 殺意漲る単眼が、上空から強盗10名を睨み据える。

「王国に腐敗をもたらす者の手足となって、民を虐げたる者ども! すなわち腐敗を直接、実行したる者ども! 生かしておいたところで悔い改め善行を働くようになど絶対ならんと思っていたが案の定! 徒党を組んで強盗行為を働くくらいの事しか出来ぬ輩よ! 生かしておく価値もないクズども! 真面目に働いて生きている民たちに死んで詫びろゴミどもが!」

 お前に何がわかる、とサードゥは叫びたかった。悔い改めて善行を働くくらいでは、妻や子供を守る事も、自分が生きてゆく事も、出来はしないのだ。

「貴様の言動……癇に触るなあ、妙に」

 赤毛の若者が、いくらか声を低くした。

「あまり喚くな。俺の頭上を、鬱陶しく飛び回るなよ……殺したくなってしまうではないか」

「何を言っている? 俺は貴様を助けてやろうとしているのだぞ、旅の者よ」

 魔獣人間が空中で、横柄な態度を取り続ける。

「強盗どもは俺が皆殺しにしておいてやる。安心して旅を続けるが良い……バルムガルド王国の治安も、民衆も、我らが問題なく守っているのだ」

「守る……だと? 魔獣人間が……」

 赤毛の若者が、美貌を獰猛に歪めた。笑っているのか、憤っているのか。

「俺の知り合いにも1人、魔獣人間がいる。そいつは、人を守るための戦がしたい、と言っていた……その信念を貫き通した結果、少なくとも2回は死にかけた。それでもまだ、そいつは捨てる事なく抱き続けている。人を守りたい、という思いをな」

 秀麗な顔を覆い隠すように、若者が右手を眼前に掲げる。

「そこまでの覚悟が貴様にもあるのかどうか、俺が試してやる。せめて1度は死にかけてみろ……あるいは、死んでみろ」

 指と指の間で、眼光が赤く輝いた。

「貴様……俺に戦いを挑むつもりか? まさかとは思うが、そこのクズどもを守るために」

 ペガハンババが、おぞましい顔でおぞましく笑う。

(そうなのか……?)

 サードゥは思わず、赤毛の若者を見た。こんなふうにジロジロと見つめたら、殺されてしまうかも知れない。

 それでもサードゥは、見つめるだけでなく声をかけた。

「あ、あんた……もしかして俺たちを、助けてくれる」

「散れ!」

 指と指の間から溢れる眼光をカッ! と強めながら、若者が叫ぶ。

 サードゥのみならず、レナムもバレックも他の者たちも、その命令に弾き飛ばされたかの如く、様々な方向へと逃げ散った。

 直後、炎が降って来た。

「痴れ者! まずは貴様から死ぬか!」

 ペガハンババの口から怒声と共に、まるで燃える吐瀉物の如く、炎が吐き出されたのだ。

 そして降り注ぎ、赤毛の若者を直撃する。逃げ散るのがもう一瞬でも遅れていたら、何人かが巻き添えになっていただろう。

「お、おい……」

 とりあえず安全と思える場所でサードゥは立ち止まり、振り返り、赤毛の若者に声をかけたが、聞こえているわけがなかった。

 若者は今、炎に包まれている。

 燃え盛るその炎の中から、しかし声が聞こえた。

 空耳ではない。全身を炎に焼かれながら、赤毛の若者は確かに声を発したのだ。

「……悪竜転身……」

 バサッ! と翼が羽ばたいて、炎を全て吹き飛ばした。

 まるで赤い大蛇のような尻尾が、ゆったりと獰猛にうねる。

 凶悪なほど力強い腕が掲げられ、拳が握られ、刃のようなヒレが広がった。

「貴様…………!」

 炎を吐き終えたペガハンババが、空中で息を呑む。

 サードゥも息を呑み、声を詰まらせ、固まった。レナムやバレックたちもだ。

 つい今まで赤毛の若者が立っていた場所に、人間ではないものが立っていた。



 今生きている人間たちの中でティアンナ・エルベットほど、魔獣人間の危険性というものを強く認識している者はいないだろう。

 だから彼女は、単身で敵国に侵入するなどという無茶をしでかしてまで、バルムガルドから魔獣人間という戦力を奪おうとしている。

 そんな無茶をしたくなるティアンナの気持ちが、ガイエルにはわからないでもなかった。

 バルムガルド王国はすでに魔獣人間を実用化し、このような官憲もどきの仕事までさせている。

 いずれは魔獣人間の軍勢が編成され、ヴァスケリアへと攻め込んで来る。それを阻止するべく、ティアンナは動いているのだ。

「俺に任せておけば良い、そんな事は……」

 やかましく羽ばたき滞空し続ける魔獣人間ペガハンババを、ガイエルは見上げ、睨み据えた。

 相手も、殺意で破裂しそうな単眼をガイエルに向けている。翼と尻尾を備えた、赤き魔人の姿を。

「貴様…………貴様だったのか……ッッ……!」

 ペガハンババが、空中でそんな事を言っている。

「我が軍のみならず……今度は、この国そのものを滅ぼしに来たのか! させん、させんぞ! させるものか!」

「……どこかで会ったのか?」

 ガイエルは訊いてみた。魔獣人間の知り合いなど、ギルベルト・レインくらいしかいないはずであるが。

「覚えてはおるまい、貴様にとっては虫ケラのような者だ……虫ケラの如く貴様に蹂躙された軍の、兵士の1人だ」

「国境の戦の、生き残りか……」

 バルムガルド軍兵士を、4000人ほど殺した。放っておけばヴァスケリアの民衆を大いに蹂躙したであろう者たちだからだ。余計な事を、などとティアンナは思っているであろうが。

「あの戦で、俺の兄も親友も……貴様に、殺された……」

「そういう事も、あるだろうな」

 それだけを、ガイエルは言った。

 謝ろうなどとは思わない。今になって謝罪するくらいなら、最初から殺しはしない。

「だから俺は、人間をやめた……赤き魔人! 貴様の暴虐からこの国を守るためにだ!」

 叫びに会わせて、ペガハンババの巨大な単眼がカッ! と光を放った。稲妻にも似た、一直線の眼光。

 ガイエルは軽く左手を振るい、その眼光を打ち払った。左手の甲で、微かな衝撃が弾けた。

 石化の魔力を宿した眼光。それがガイエルにはわかった。人間であれば、たちどころに石像と化していたであろう。

 空中に、ペガハンババの姿はすでにない。

 いつの間にか着地し、背後から襲いかかって来ていた。両足の蹄で地面を蹴りつけ、熊のような剛腕で何かを振りかざしている。

 どこから取り出したのか、それは大型の鎚矛だった。蹄での踏み込みと共に、その重い一撃がガイエルの後頭部を襲う。

 いや。その寸前で、ペガハンババの巨体が宙に浮いた。浮いた全身に、赤い大蛇のようなものがガッチリと巻き付いている。

 ガイエルの、尻尾だった。

「ぐっ……がぁ……っ!」

 ペガハンババの大口が開きっぱなしになり、その奥から悲鳴が絞り出される。

 鎚矛を振り上げたままの敵の巨体を、ガイエルは尻尾でメキメキッと締め上げていった。そうしながら、問う。

「……貴様のような者は、他にもいるのか? 俺が殺し損ねたせいで、人間をやめてしまったような者どもは」

「わ……我らバルムガルド騎士団は、全てそうよ……」

 ペガハンババが、声を絞り出す。

「レボルト・ハイマン将軍と共に、生まれ変わったのだ……き、貴様を! この世から消し去るためになぁ……ッッ!」

 その口からゴボッ! と黒っぽい血反吐が溢れ出す。内臓のどこかを、締め付けて破裂させてしまったようだ。

「覚えておけ……お、俺が死んだところで……レボルト将軍が、貴様を生かしてはおかんぞ……!」

「ならば、そのレボルト将軍とやらに伝えろ」

 ガイエルは尻尾をほどき、ペガハンババを解放した。

 放り捨てられた魔獣人間が、地面に倒れ込みながら上体だけを起こし、ガイエルを単眼で睨む。

 ちらりと睨み返し、ガイエルは言った。

「この国の魔獣人間ども……総出で俺を殺しに来い、とな」

「…………っ!」

 俺を生かしておくのか、後悔するぞ。などという台詞をペガハンババは、血反吐と一緒に呑み込んだようだ。無言のまま、よろよろと立ち上がる。

 レボルト・ハイマン将軍。その人物がバルムガルド王国における、魔獣人間の元締めのような存在であるらしい。

 そんなものに単身で戦いを挑むような無茶をティアンナがやらかす前に、ガイエルが始末を付けなければならない。

「行け……俺を殺したいのならば、数を揃えて来い」

 ガイエルは命じた。

 ペガハンババは応えず、単眼に憎悪を漲らせてガイエルを睨んだまま、後退りをしている。そうしながら翼を広げ、羽ばたいて空気を打つ。

 その巨体が、宙に舞い上がりかけた、その時。

 地面の何ヵ所かで、土が砕け散った。

 今まで地中に潜んでいた何かが、現れると同時に暴れ出し、凶暴にうねり、襲いかかって来る。

 ガイエルは、跳躍してかわした。

 跳躍した足元をかすめて宙を泳いだもの。それは、巨大な蟲である。芋虫、いやミミズに近い。頭部で牙を剥いた円形の口で、人間の子供くらいなら丸呑みしてしまえそうだ。

 そんな大ミミズが4匹、地面を突き破って出現していた。

 ガイエルが回避した1匹以外の3匹は、空中へ逃げようとしていた魔獣人間に襲いかかっている。

「何っ……ぐぎゃあぁ」

 悲鳴を吐血に潰されながら、ペガハンババは真っ二つにちぎれていた。溢れ出した臓物を食いちぎりながら、大ミミズたちが暴れ狂う。円形の口が、そこにビッシリと生えた無数の牙が、魔獣人間の肉も臓器も骨も一緒くたに噛み砕いてゆく。

「何だぁ……今の魔獣人間ってのぁ弱っちぃーなあオイ! おい、おおおおい!」

 巨体の魔獣人間を跡形もなく食い散らかすミミズたち。その発生源が、大量の土を噴出させ飛び散らせながら、地中から盛り上がって来た。山が生じたか、とガイエルは一瞬、錯覚した。

「こんなんじゃ魔物どもに勝てねえぞう? どうすんだよ、また奴らが攻めて来たらよおおおお!」

 土の破片を飛び散らせ、叫んでいるのは、ペガハンババを遥かに上回る巨体の怪物だった。

 大量の脂肪とそれ以上の筋肉で肥え太った身体は、全身鎧のような甲殻で強固に覆われている。甲羅状に盛り上がったその背中から、4本の大ミミズは生えていた。

 短いが太く安定した両足で、その巨体が地中から立ち上がって来る。魔獣人間のドス黒い血にまみれた大ミミズたちが、ガイエルに向かって一斉に牙を剥く。

「てめえか……てめえだな? ゴルジの野郎が言ってた、今すぐブチ殺さなきゃならねえバケモノってのぁ」

 首から上は、巨大な角を伸ばしたサイである。そんな頭部が、品の悪い人語を発している。

「どうれ試してやるかい! この魔獣人間ベヒモスワームがなああああ!」

 地響きが起こり、土が噴き上がった。

 魔獣人間ベヒモスワームが、地面を踏み砕きながら突っ込んで来る。小回りの利かぬ体型であるのは間違いなかろうが、突進速度は凄まじい。

 ガイエルは待たず、自身から踏み込んで行った。

「ふん、貴様にも言っておこう。俺と戦うなら、数を揃えて来い!」

 拳を握り、右腕を振るう。刃のヒレが、一閃する。

 ……いや。その前にベヒモスワームの巨大な右腕が、ブゥンッ! と重い唸りを発していた。

 拳か、平手か、あるいは手刀か。とにかく戦うと言うより、単に邪魔なものを払いのけるかのような手の動きである。

 その一撃で、しかしガイエルの身体はグシャアッと吹っ飛んでいた。

「なッ……に……っっ」

 とてつもなく重い衝撃が、全身を麻痺させている。自分の身体が宙を舞っている事だけを、ガイエルは感じた。

 やがて地面に激突した。即座に、立ち上がった。立ち上がりながらもガイエルは、地面が揺れているのを感じた。

 否。揺らいでいるのは、ガイエルの身体だ。両足が、笑っている。衝撃が、全身を支配している。

(うぬっ……こいつは……!)

 うまく立てない。身構える事も、ままならない。

 格が違う。そう思うしかなかった。ムドラー・マグラが作った粗製濫造品の群れとは、明らかに格の異なる魔獣人間だ。

 これほどの一撃を喰らったのは、ドルネオ、ダルーハ以来である。いや。単純な力だけなら、彼らを上回る相手ではないのか。

「ほう。俺様のビンタを喰らって、すぐ立ち上がってきやがるたぁ」

 ベヒモスワームが、興味深げな声を発した。

「面白え……300年ぶりに、そこそこの運動は出来そうじゃねえか。ええおい?」

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