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第60話 魔将軍の始動

 バルムガルド王国内である。アルバナ州から、ヴォルケット州へと入ったところだ。

 この州を東西に横切ってそびえるゴズム山脈の奥深くに、ゴルジ・バルカウスは岩窟魔宮なる居城を構えて住んでいるという。

 そのゴルジの使者であるゼノス・ブレギアスが、馬の足に難なく歩調を合わせつつ、はしゃいでいる。

「もうすぐ着くぜー、ゴルジ殿んとこへ。そこで用事済ませたら結婚だぜえ結婚結婚超結婚!」

 緑よりは岩の多い、原野である。

 街道と違って行き交う人々の姿も見えないから、ティアンナはしばらく好きに騒がせておいた。

「なあティアンナ姫、子供は何人がいい? 俺、3人くらいがいいなあ。男2人に女1人。息子どもはバンバンしごいて鍛えるけどよー、娘は超かわいがっちゃうから俺」

「……私は、子供など産んでいる場合ではないのよ」

 白馬の鞍上で、ティアンナは答えた。

「ゴルジ殿との用事を済ませたら私、正当な裁きを受けなければ」

「裁き……って、何か悪い事でもやったんか。そんなの気にすんなって、俺が全部許してやんからよー」

「私は、女王たる者の責任を放り出して来たのよ」

 ゼノスの世迷い言を無視して、ティアンナは言った。

「もちろん私なりに考えるところがあっての事。それでもヴァスケリアの民衆から見れば、統治者の責務を放棄して逃げ出したという事にしかならない……戦場では、敵前逃亡は死刑なのよ。私もまた逃亡の罪を、民衆によって裁かれなければ」

「逃げたきゃ逃げりゃいいじゃんか。民衆なんて連中に、責任感じる事ぁねえって」

 王族にあるまじき、とも思える事を、ゼノス王子は言っている。

「あいつらはさ、誰が王様なのか、なんて事ぁどうでもいいんだ。ヴァスケリアだろうが、リグロアだろうがバルムガルドだろうが……どこの王家が上で威張りくさってようが、民衆って奴らは適当に上手い事やってくもんさ」

「……そうかも知れない、と思った事はあるけれど」

 言いつつティアンナは手綱を引き、馬を止めた。ゼノスも、立ち止まった。

 死体が、転がっている。

 ティアンナは馬を下り、屈み込んで観察してみた。

 間違いなく、人間の死体である。バルムガルド王国地方軍の兵士であろう。歩兵鎧をきっちりと身にまとっている。

 が、鎧の中身の肉体は腐り始めていた。紫色っぽく変色した皮膚と肉が、一緒くたにグズグズと溶けかかって異臭を発している。

 単なる腐乱死体ではない。恐らく、毒殺されている。

 着ている鎧は真新しいのに中身は急速に腐敗しつつある屍が、その1つだけではなく5体、10体、20体……ほぼ1部隊分ものバルムガルド軍兵士が、そんな死に様を晒していた。

 人間だけではない。綺麗な馬具を着せられたまま腐りかけた馬の死体も、ちらほらと見られる。死んでいる兵士たちの何人かは、騎兵だったのであろう。

 まさに死屍累々と言うしかない光景の中央で、馬車が1台、半壊・横転していた。

 そこから生きた人間が1人、無様に転がり出て尻餅をつき、怯えている。

「た、たたた頼む、命だけは……」

 一目で貴族とわかる、身なりは豪華だが体格はだらしなく弛んだ中年男。

 ティアンナにとっては、うんざりするほど見慣れた人種である。不正な搾取で肥え太り身体を弛ませた、恐らくは領主階級の地方貴族。周囲で毒殺されているのは、彼の護衛であろう。

「金か……金が欲しいなら、くれてやるから……」

「もちろん、お金もいただきますよ大守殿。貴方が不正に貯えた財は、全て没収です」

 大守とは、バルムガルドにおける州の長官で、ヴァスケリアの地方領主に相当する役職である。

 そんな高位の人物にゆっくりと歩み迫っているのは、これまたティアンナが嫌になるほど見慣れた生き物だった。

「レボルト将軍からの伝言です……ヴォルケット州大守スタン・ルービット侯爵閣下、貴方の遺産はバルムガルド王国を立て直すため有効に使わせていただく。心安らかに唯一神の御許へと逝かれますように」

 そんな言葉を紡ぐ唇は端正で、顔立ちは恐いくらいに美しい。美貌だけなら、ガイエルやリムレオンをも上回る。

 その美しい顔を囲んで彩る長い髪は、しかし毛髪ではなかった。緑色の、草葉である。頭皮あるいは頭蓋骨から、植物が髪の如く生え茂っているのだ。

 すらりとした長身は、ざらついていながらも光沢の艶やかな、爬虫類的な皮膚で覆われている。手足のしなやかさは、蛇を思わせる。

 人型の爬虫類とも言えるその全身あちこちに、蔓が絡み付き葉が広がり、そして花が咲いていた。

 左手は優美な五指だが、右手は凶器である。前腕には蔓と葉が幾重にも巻き付いて手先までを覆い、その手先から1本の刃物が生えている。微かに湾曲した、恐らくは骨が変化したものと思われる生体刀身。一般的な長剣ほどに伸びたその刃は、ぬらりと濡れて妖しい雫を滴らせている。

 毒液だ、とティアンナは直感した。右手から伸びた毒刃で彼は、この兵士たちを殺害したのだ。

 毒蛇の牙にも見える生体剣を右手に備えた、爬虫類のような植物のような、異形にして美貌の怪物……間違いない、魔獣人間だ。

「レボルト将軍は、おっしゃっていたよ……本当はあんまり、こういう事やっちゃいけないんだって」

 スタン・ルービット侯爵に毒刃を突き付けたまま、魔獣人間は語る。

「人間じゃない奴が、人間の政治に介入する事になるからって……でも、せっかく力があるんだからさ。このくらいのゴミ掃除はやらないと……そこの通行人。君たちだって、そう思うだろ?」

 草の頭髪に囲まれた美貌が、こちらを向いた。

 殺されかけていたスタン侯爵も、同じくティアンナの方を向いて、助けを求めてくる。

「た、旅の者よ、私を助けよ。金をやる、今はないが城に戻ればいくらでもあるから……」

「……領民から不当に搾り取って貯えたものでしょう、それは」

 ティアンナは溜め息をついた。

「とにかく、刃を引いて下がりなさい魔獣人間」

「この男を助けようとしているのなら、やめた方がいい」

 美貌の魔獣人間が、言った。

「このスタン・ルービット侯爵が大守などやっていたせいで、ヴォルケット州ではどれだけの民衆がどれほど苦しんだか……この州では、山賊たちが連盟を組んで大きな顔をしていたのさ。それを、この無能なる大守殿は放置していた。山賊どもから賄賂を受け取ってね」

「……だから、何?」

 ティアンナは嘲笑した。可憐な唇の左端が吊り上がり、澄んだ両眼が冷たい光を湛えて魔獣人間を睨む。

「人間ではない生き物が人間の社会で、まさか世直しでもしているつもり?」

「つもり、だと……」

 魔獣人間の美貌が、怒りで強張った。構わずティアンナは言った。

「殿方の裸は、とても綺麗……でも貴方の裸は、とても無様でおぞましい。そんな姿を晒して何、正義の味方にでもなったつもりかしら? もう少し身の程を知りなさい、魔獣人間」

「いっ……イイなあ、人をバカにしきったその台詞……その冷えきった喋り方……」

 ゼノスが、何やら身悶えをしている。

「薄汚ぇものを見下す、その冷たい目つき……たったまんねェー……お、おいコラ! うらやましーじゃねえかテメエおう」

 美貌の魔獣人間に、わけのわからぬ因縁をつけようとするゼノス。

 彼の片耳を、ティアンナは思いきりつまんで引っ張った。引きずり寄せた耳に、問いかける。

「……ゼノス王子の、お仲間?」

「いっいや、あんな奴ぁ知らねえ……けどゴルジ殿の作品なのは間違いねえと思うぜ。俺らの知らねえとこでも、いろいろやってんからなーゴルジ殿は」

「いろいろ……ね」

 バルムガルド国内における魔獣人間生産が、すでに始まっているという事だ。

「何をごちゃごちゃと言っている、通行人ども」

 美貌の魔獣人間が、スタン侯爵に突き付けていた毒刃を、こちらに向けた。

「どこの何者かは知らないけれど、単なる通りすがりの分際で偉そうな口をきいた罪……裁いてやるよ。この魔獣人間マンドラナーガがね」

 全身あちこちで花を咲かせた人型爬虫類の身体が、ゆらりと歩み寄って来る。

「勘違いするなよ。悪口を言われたくらいでは、僕だって怒りはしない……だけど女、お前は僕の行いを蔑んだ。それはつまり僕だけでなく、レボルト将軍をも蔑んだという事」

 レボルト将軍。それは、国境における戦で兵4000を失い、処刑されたとも獄中死したとも言われているレボルト・ハイマン将軍の事か。それとも以前、ティアンナの前に使者として現れた魔獣人間の若者か。

 それを友好的に聞き出す事は、しかし出来そうにない。

「ナーガの毒を受け、生きたまま腐ってゆくがいい……偉大なるレボルト将軍を愚弄した、その罪の重さを体感しながら!」

 魔獣人間マンドラナーガが、猛然と踏み込んで来た。ぬらりと光る毒刃が、ティアンナを襲う。

 防ぐ必要も、かわす必要もなかった。

 ゼノスが、横合いから飛び込んで来たからである。

 ティアンナを狙って突き込まれて来た毒刃が、リグロア王家の剣とぶつかり合った。火花と、そして毒液の飛沫が散った。

「てめえこそ……罪の重さを感じながら、くたばりやがるがいいぜ」

 長剣で毒刃を受け止めたまま、ゼノスは片足を跳ね上げた。

 その蹴りを、マンドラナーガが軽やかにかわす。

 追いすがる感じに長剣を振り回しつつ、ゼノスは叫んだ。

「人の嫁さんに刃物向けやがった、その罪の重さぁー死刑だ死刑! 超死刑!」

 リグロア王家の剣が、ブンッと唸りを発して一閃する。

 その猛烈な斬撃を、マンドラナーガは右手の毒刃で受け流した。

 前のめりに泳いだゼノスの身体が、次の瞬間ズドッ! と腹を抱えて折れ曲がる。その腹に、マンドラナーガの左足が打ち込まれていた。

「うぐ……」

 呻くゼノスに、間髪入れず毒刃が襲いかかる。

 ゼノスは腹を押さえたまま地面に倒れ込み、かわした。そして即座に起き上がり、長剣を防御の形に構える。

 構えられた刀身に、魔獣人間の毒刃が激突する。

「や……やるじゃねえか、てめえ」

 精一杯の台詞を吐きながら、ゼノスが後方へよろめく。

 体勢を立て直す暇を与えず、マンドラナーガが立て続けに斬撃を浴びせた。毒蛇の牙のようでもある生体刀身が、様々な方向から閃いてゼノスを襲う。

 それらをことごとく長剣で受け弾きながら、ゼノスは叫んだ。

「おいコラてめえ! お前もな、とか言うとこだろうが! そこは決め台詞的に!」

「言えるわけないだろう、そんな事……」

 マンドラナーガが、優雅に嘲笑う。

 同時に一際、鋭い斬撃がゼノスを襲った。毒液の飛沫と火花が、激しく飛び散った。

 リグロア王家の剣が、ゼノスの手から打ち飛ばされて宙を舞い、地面に突き刺さる。

「だってお前……全然、やらないじゃないか」

「く……っ」

 ゼノスの胸の辺りで衣服が裂け、鮮血が噴き出していた。

 力強い胸板に、斜め一直線の裂傷が刻まれている。毒刃による傷。

 周囲の兵士たちも、このようにして殺されたのだろう。あと1分も経たぬうちにゼノスも、彼らと同じ死に様を晒す事になる。

 この男が人間であれば、の話だが。

 胸板の傷からゼノスは、己の血を、指で大量に抉り取った。

 毒をたっぷりと含んだ鮮血。それをペロリと舐め取りながら、ゼノスは笑う。

「ん〜……悪くねえ毒だ。人間だったら、あっさり腐って死んじまうだろうなあ」

「お前……!」

 マンドラナーガの美貌が、驚愕で引きつった。

「まさか……まさか、お前も……!」

「何でえ、気付いてなかったんか……そう、俺も魔獣人間なんだなァーこれがまた」

 言葉と共に、ゼノスの口から炎が迸り出る。

 人間ならば一瞬で焼死体と化す紅蓮の吐息が、しかし魔獣人間には火傷1つ負わせられない。マンドラナーガの身体の表面で、葉っぱや花びらが2、3枚は焦げたようである。

 その程度の炎でも、目くらましにはなったようだ。

「く……っ」

 マンドラナーガが炎に押されて後退りしている間に、ゼノスは、地面に突き刺さっていた長剣を引き抜いていた。

「おらおら、毒以外に何かねーのかテメエはよぉお!」

 リグロア王家の剣が、ゼノスの気合いを宿して一閃する。

 その斬撃を、マンドラナーガは毒刃で受け流した。受け流された剣が、即座に別方向から魔獣人間に斬り掛かる。

 それが、繰り返された。

 人間の皮を、まだ被っている者と脱ぎ捨てた者。2体の魔獣人間の間で、旧王国の宝剣と猛毒の生体剣が激しくぶつかり合う。

 マンドラナーガの方が若干、防戦を強いられていた。ゼノスが少しだけ、本気に近いものを出しつつある。

 スタン・ルービット侯爵が、いつの間にかティアンナの近くにいて声をかけてきた。

「いやはや、助かったぞ……なかなかの剣士を引き連れておるな。そなた、いずこかの貴族の姫君であるか?」

「……まあ、そのようなものです」

 ティアンナは、曖昧な答え方をした。

 ヴァスケリアの王族とバルムガルドの地方貴族が見守る中、魔獣人間マンドラナーガはゼノスの剣撃に押され、後退を強いられつつあった。

「くっ……ゴルジ・バルカウスめ、僕らに断りもなく、こんな魔獣人間を」

「はっはっは。てめえ、自分が負けそうなのをゴルジ殿のせいにしてんじゃねえぞ」

 毒刃を長剣で受けつつ、ゼノスは片足を跳ね上げ突き込んだ。

 武術と言うよりは喧嘩の蹴りだが、それでマンドラナーガの身体はドグシャアッと吹っ飛んで行った。

「うむ、勝負あったのう!」

 などと言っていないで逃げれば良いものを、スタン侯爵が手を叩いて喜んでいる。

「ふん、この私の命を狙うとは身の程知らずの怪物め! 旅の剣士よ、良くやった。私が高禄で召し抱えてやろうぞ……そして姫君よ、そなたは私の側室となるが良い」

 下着のような鎧をまとう少女の、しなやかな半裸身に、スタン侯爵がねっとりと嫌らしい視線を絡めてくる。

「悪いようにはせぬぞ? 私はジオノス2世陛下より直接の御厚遇を賜っておる身でな……」

 伸びて来る侯爵の手をさりげなく回避しながらティアンナは、どのように断るべきかを考えた。

 叩きのめすのが、最も手っ取り早い。だが相手は一応、貴族である。事を荒立てると、エル・ザナード1世の不法入国が公になってしまいかねない。

 などと考えている間に、

「なぁーにやってんだテメエごるぁあ!」

 ゼノスが、蹴飛ばしたマンドラナーガを放置したまま、こちらに突っ込んで来た。

 武術ではない、喧嘩そのものの蹴りが、スタン侯爵を直撃する。

 太り気味の人体が、まるで物のように宙を舞いながら錐揉み状に回転し、地面に激突した。首と手足が奇怪な方向に曲がり、破裂した胴体から臓物が溢れ広がる。

 ヴォルケット州大守スタン・ルービット侯爵は、ゼノスの一蹴りで肉の残骸と化した。

「……ちょっと、何をやっているの」

 とりあえず、ティアンナは注意をした。

「人はあまり殺さないようにと、私何回も言ったわよ?」

「お、俺……言われても出来ねえ子だから……」

 ゼノスが顔を赤らめて俯き、何故かハァハァと息を荒くしている。

「俺、駄目な子だから……怒ってくれよう、思いっきし……」

 ティアンナは怒らず、溜め息をついた。

 この男を咎める資格が自分にはない、と思いながら、腰に吊った魔石の剣に軽く手を触れる。

 あのままでは下手をしたらティアンナ自身が、この剣でスタン侯爵を斬り殺していたかも知れないのだ。

「お前……僕の任務を、横取りしたな」

 蹴り飛ばされ倒れていたマンドラナーガが、むくりと起き上がって呻く。

「……まあいい、おかげで僕がここにいる理由がなくなった。今は、立ち去るとしよう」

「おおっ、いいねえ。今日はこれくらいで勘弁してやる、ってやつだな」

 ゼノスが笑った。

「ゴルジ殿に、よろしく伝えてくれや。もうすぐティアンナ姫連れて帰るって」

「この馬鹿!」

 鞘を被った魔石の剣で、ティアンナはゼノスの頭を思いきりぶん殴った。

 妙に嬉しそうな悲鳴を上げながらゼノスが、血飛沫を散らせて倒れる。

「ティアンナ……姫? だと? その女の名前か。それがゴルジ・バルカウスと、何か関係があるのか?」

 マンドラナーガが、そんな事を言っている。

 幸いバルムガルドには、エル・ザナード1世の本名は、あまり知られてはいないようだ。

「まあ何でも構わないけれど……お前たち、この国に滞在するつもりなら覚悟しておけよ。僕がこのまま引き下がっても、レボルト将軍が……お前らのような輩を、決してお許しにはならないからな」

「そのレボルト将軍ってのは」

 側頭部からドクドクと血を流しながら、ゼノスが起き上がって問う。

「……レボルト・ハイマンの事か?」

「他に誰がいる? バルムガルドの偉大なる将軍レボルト・ハイマンは、ただ1人だけ! 唯一無二の存在だ!」

 マンドラナーガが、誇らしげに叫ぶ。

「覚えておけ! 僕たちバルムガルド王国騎士団はレボルト将軍と共に生まれ変わった! この力で、バルムガルドという腐りかけた王国を立て直すためになあ!」

 叫びながら、こちらに背を向ける。

「それを妨げる者を、僕は許さない……レボルト将軍が絶対、お許しにならない! ようく覚えておけ!」

 逃げて行く、にしては大きな態度を取りながら、マンドラナーガが歩み去って行く。

 睨むように見送りながら、ゼノスは呟いた。

「レボルト・ハイマン……」

「知っているの?」

 ティアンナは訊いてみた。

「まあ確かに、バルムガルドでは知らぬ者のいない大将軍の名前ではあるけれど」

「だろうな。バルムガルドが戦争やる時ってのは大抵、レボルト・ハイマンが軍を率いてやがる……リグロアん時も、そうだった」

 ゼノスの口元で、白い牙がギラリと少しだけ露わになった。

「……リグロアはほとんど、あの野郎に滅ぼされたようなもんだ」

「そう……」

 この男にとって祖国の仇である将軍と、魔獣人間マンドラナーガが仕えているらしい将軍は、同一人物なのか。

 何にしても、急がなければならない。

 ヴァスケリアのサン・ローデル地方で前領主バウルファー・ゲドンが行っていたような事を、バルムガルド国王ジオノス2世が王国規模で行っている。

 すでに複数の魔獣人間が完成し、救国の志のようなものまで植え付けられている。

 愛国心に操られた魔獣人間の軍勢が、ヴァスケリアに攻め入る。事態は、その寸前と言える段階にまで達しているのではないか。

 ゴルジ・バルカウスを殺害し、完成している魔獣人間を殺し尽くす。

 それにはやはり、この男の力を借りなければならないか。

「……ま、そんな事よりティアンナ姫よう。そんな下着みてえな鎧だけじゃなくて、もうちっと何か着ようぜ? ヘソ丸出しのお腹とか、生のフトモモとか、あんま俺以外の男どもに見せちゃ駄目だよう」

 そんな事を言っているゼノスに眼差しだけを返しながら、ティアンナは思う。

(私は、また……殿方を利用してしまうの?)



 バルムガルドの大将軍レボルト・ハイマンは、西国境における大敗の責を負って、処刑されたとも獄中死したとも言われている。

 何であれ、死んだ人間として扱われているのは間違いない。

 確かに1度死んだようなものだ、とレボルト自身も思わざるを得ない。ダルーハ・ケスナーの息子である、あの赤き魔人によって、自分は殺されたのだ。

 そしてゴルジ・バルカウスの力を借り、人間ならざるものとして生き返った。

 それによって得た力を、どのように使うのか。どこまでが、許されるのか。それが今、レボルトにとって1つの課題となっていた。

「いや……許される範囲を、すでに超えているのであろうな。これは」

 レボルトは自嘲し、血まみれの両手を軽く掲げた。

 人間を殺すのに、武器を持つ必要はない。素手で頭蓋を叩き割り、臓物を抉り出す事が出来る。

 そのようにして殺された兵士たちが、床一面を埋め尽くしていた。一応、抵抗して来る者だけを選別して殺したつもりである。

 バルムガルド国王ジオノス2世の従兄、ナバル・グリーザ公爵の大邸宅。もはや宮殿と言っても良い。王宮よりも瀟洒に豪壮に飾り立てられた宮殿が、しかし今は血に汚れ、死臭に満ちている。

 その中を、レボルト・ハイマンはゆっくりと歩み進んだ。

 がっしりとした長身に貴族の正装をまとった、堂々たる貴公子の姿。だがその全身は、ぐっしょりと赤黒く濡れそぼっている。焦げ茶色の髪も秀麗な顔も、点々と汚れている。

 全て返り血だ。レボルト自身の流血はない。

 もはや、人間の力では傷付ける事も能わぬ肉体と成り果ててしまったのだ。

「ひぃ……な、なな何だ、何なのだ貴様は……」

 豚の如く肥満した1人の老人が、純金の裸婦像にしがみつきながら怯えていた。ナバル・グリーザ公爵本人である。

「だっ誰だ、誰の手の者であるか……その者の、倍の金をやる。だ、だから命だけは」

 ナバル公爵の命を狙っている者など、バルムガルド国内には腐るほどいる。そのうちの誰かが放った刺客や暗殺者の類と思われているようだ。

「もちろん金はもらう……貴殿が不正に貯えたる財は、全て没収だ」

 強盗のような事を、レボルトは言った。

「罪状は申し上げるまでもあるまいが……一応は聞かせておこうかナバル・グリーザ公爵閣下。貴公は税の支払いを怠っておられる。払えるものが充分あるにもかかわらず、だ。国に住まう者として、それは最も許されざる罪である」

「税だと……」

 純金の裸婦にしがみついたまま、ナバル公爵は震えた。恐怖の震え。いくらかは、怒りも混ざっているようだ。

「貴様、まさかジオノス2世王が放った刺客であるか……あの愚かな国王が、私を殺そうと言うのか!」

 確かに、愚かとは言えるか。

 これまで長い年月をかけて徐々に行っておくべきであった税制の改革を、ジオノス2世は短期間で一気に断行しようとしているのだ。

 その改革の1つが、このナバル・グリーザ公のような王族関係者や一部の有力貴族に与えられている、納税関係の様々な特権を、廃止する事である。

 隣国ヴァスケリアでは、それがほぼ成功していた。

 5公5民の税制などという貴族虐待としか思えぬ改革が、前女王エル・ザナード1世及び現国王ディン・ザナード4世の手によって、多少の流血沙汰はあったにせよ、つつがなく実行されたのだ。

 それはあの兄妹の手腕と言うより、ダルーハ・ケスナーによる旧体制の破壊があったからこその成功である。レボルトは、そう思っている。改革を成し遂げるには、強大なる暴力が必要不可欠なのだ。

 バルムガルド国王ジオノス2世は、齢60近くにして、ようやくそれを手に入れたのだ。

 魔獣人間、という暴力を。

 人間ならざるものが、人間の政に介入するべきではない。

 レボルトのその思いを、ジオノス2世も理解はしてくれている。

 だからこそ以前、使者としてヴァスケリアへ赴きながら女王エル・ザナード1世の命を奪う事なく戻って来たレボルトを、国王は一言も咎めずにいてくれた。

 そんなジオノス2世が、ある時、非公式の場でレボルトに言った。

 間に合わぬ、と。

 弱々しい、沈痛な口調だった。

(陛下は、老いを自覚なされたのだ……)

 レボルトは、そう思う。

 権謀術数に長けた王と呼ばれ、手段を選ばずに領土を拡張し、バルムガルドを大いに富ませてきた国王である。

 だがその結果、バルムガルド王国は大きく豊かになり過ぎた。

 国力に比例して腐敗も増大し、この国は巨大化しながら腐っていった。

 その腐敗を一掃する前に、自分の命が尽きるかも知れない。ジオノス2世は、そう言っているのだ。

 腐敗を取り除くためならば、魔獣人間の力を大いに振るい、政に介入する事も許される……そんなわけはない。自分のこの力は、人間の軍略も政略も一切通用しない、あの赤き魔人と戦うためにのみ振るう事が許されるのだ。

 そんな事はレボルトも、わかってはいたのだ。

「じ、ジオノス2世め……あやつが国王の地位を保ち続けるのに、私が一体どれほど尽力してきたと思っておるのだ……」

 ナバル公爵が、怯えながら怒っている。

「あの時もそうだ! あやつが信任してきたレボルト・ハイマンめが、西国境にて無様にも大敗し! ジオノスめは失脚の危機に陥った! 私があちこちに根回しをしてやったおかげで、あやつは今も国王でいられるのだぞ!」

 その無様な大敗を喫したレボルト・ハイマン将軍本人が、眼前に迫る血まみれの若者と同一人物である事に気付かぬまま、ナバル公爵はなおも喚く。

「その私に、税を払えだと! 王国の柱石たるこのナバル・グリーザを、民衆と同列に扱うなどと! 許されるわけがなかろうがぁあああ!」

「民衆は身を削る思いで税を納め、王国を支えてくれているのですよ……国の柱石とは、すなわち民衆」

 西国境における、無様なる敗戦。その屈辱を押し殺しつつ、レボルトは言った。

「貴方がたは彼らの上に、ただ寝転がっているだけなのですよ。税を無駄に食い潰して肥え太った、その身体でね」

「ま……待て……」

 ナバル公爵の中で、怯えが怒りを上回ったようだ。

「たたた頼む、命だけは……」

「私とて、貴方を殺したくはない」

 血まみれの右手で、レボルトは拳を握った。

「人間の政に、介入したくはないのだ……!」

 その拳を、振るった。

 ナバル公爵の首から上が、金の裸婦像もろとも砕け散った。

「貴方がたのような人たちがいなければ、介入せずにいられたのだ!」

 純金の破片にまみれて倒れる公爵の屍に、レボルトは怒声を浴びせた。

 バルムガルド王国に腐敗をもたらしていた人物が1人、この世から消えた。が、国の腐敗を一掃するためにやらねばならない事は、まだいくらでもある。このように片っ端から殺していったところで、国を腐らせる輩とは、すでにある腐敗の中から際限なく湧いて出るものだ。

 まずは国王ジオノス2世の権威を、揺るぎない確固たるものにしなければならない。このナバル公爵のような輩に、借りを作って恩人面をさせる機会を与えないほどにだ。

 そのためには、現在行われているヴァスケリア王国併呑を、何としても成功させる事だ。

 その下地作りとして、唯一神教ローエン派に、とてつもない金を注ぎ込んできた。そこまでしておいて併呑失敗などという事になれば、ジオノス2世はまたしても失脚の危機を迎える。このナバル公爵のような者たちに、大きな顔をさせてしまう事になる。

 幸い、ヴァスケリア東部北部の計5地方を独立させ、敵国王ディン・ザナード4世の統治から引き離す事には成功した。

 あとは、この5地方にヴァスケリア王家の血縁者すなわちシーリン・カルナヴァート元王女を送り込んで女王として即位させれば、強力な傀儡国家が完成し、ヴァスケリア侵略のための大きな足がかりとなる。

 そのシーリン元王女が、失踪した。だが生きてさえいるのなら、見つけ出すのはそう難しい事ではないだろう。

 ヴァスケリア併呑は、必ずや成功する。

「貴様が再び現れなければ、の話だがな……赤き魔人よ」

 ダルーハ・ケスナーの息子である怪物。そもそも、あれを倒すためにレボルトは、ゴルジの言葉に従って人間をやめたのだ。

 自身が造り出した死屍累々の光景を見渡しながらレボルトは、ここにはいない相手に語りかけた。

「このようなゴミ掃除で手を汚すよりも……私は、貴様と戦いたい。現れるのならば早く出て来い、赤き魔人よ」

「……将軍、その事に関しまして」

 声がした。

 レボルトと共に、ゴルジによって人間ではないものと化した、部下の1人である。いつの間にか近くに現れ、屍に紛れるように跪いている。

「1つ、報告がございます」

「……私は今や、将軍ではないのだぞ」

 西国境において大敗し、国王失脚の危機を招いたのだ。将軍などと呼ばれる資格はない。

「我らバルムガルド王国騎士団にとりまして、レボルト様は誰よりも偉大なる将軍であらせられます」

「私は敗れたのだ、あの赤き魔人めに……で、あやつに関する報告とは?」

「はっ……実はゴルジ・バルカウスがほぼ全員、ヴァスケリアのサン・ローデル地方にて殺し尽くされました」

 ゴルジがほぼ全員、何のためにかヴァスケリアへと赴いたのは、レボルトも知っている。

「……殺し尽くしたのが、奴であると?」

「私自身が、その場を目撃いたしました……間違いありません。西国境にて我が軍を大いに殺戮した、かの赤き魔物です」

 安堵に近いものを、レボルトは感じた。

 今やこのバルムガルド王国そのものが、ゴルジ・バルカウスによる魔獣人間生産のための実験場と化しつつある。このままでは、真面目に税を納めてくれている民衆までもが実験材料にされてしまう。

 今のところゴルジのもとへ送られているのは、戦うために命を捨てるべき軍属の者たちと、生かしておいても社会の害にしかならない犯罪者やゴロツキといった輩のみである。

 善男善女がおぞましい実験の餌食となり始める前に、ゴルジ・バルカウスは1人残らず殺しておかなければなるまいか、とレボルトは思っていたところだ。

「かの赤き魔人を倒すため、もう1つか2つ、ゴルジに力を借りねばならない事があるかも知れん。だから生かしておいたのだが……まあ皆殺しにされてしまったのなら仕方あるまいな」

「はっ。我々にこの力を与えてくれた……その時点で、ゴルジ・バルカウスはもはや用済みであります」

「うむ。あとは我らの手で確実に、赤き魔人を葬り去るのみ……」

 それが成功した暁には、自分たちこそ用済みになる。それも、レボルトは承知している。

「将軍、それともう1つ……こちらは、赤き魔人とは無関係なのですが」

 部下が、2件目の報告をした。

「シーリン・カルナヴァート殿下を、発見いたしました……ヴォルケット州、タジミ村におられます」   

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