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第57話 バルムガルドに滅びが迫る

 濡れた金髪をまとわりつかせた白い肌が、水飛沫を帯びてキラキラと輝く。

 小さいながら形良い膨らみを保った乳房が、水滴を弾きながらも、ほとんど揺れない。

 胸が大きくならないのはもう仕方がない、とティアンナは思う事にしていた。

 うっすらと綺麗な腹筋の浮いた胴は、この胸の微かな膨らみを精一杯、引き立てる感じに引き締まっている。幼い頃からの、鍛錬の賜物である。

 胸と釣り合う小振りで可憐な尻から、ほっそりと伸びた太股にかけての曲線も、嫌いではない。

 己の裸身を見下ろしながら、ティアンナはしかし思う。全体的に、もう少し肉付き豊かでも良いのではないか。特に胸が。 

 すでにバルムガルド王国内である。西部アルバナ州のとある湖で、ティアンナは水浴びをしていた。ヴァスケリアからずっと足代わりになってくれている、白い愛馬と共に。

「お前にも苦労をかけるわね……」

 言葉をかけながら、白い馬体を刷毛と布で擦り拭ってやる。人間の身体であれば恥部に当たる部分も、丁寧に洗ってやる。

「いいなぁー。おっ俺も、お馬ちゃんになりてェー」

 声がした。

 こちらに背を向けて湖畔の木陰に座り込んだ、1人の若い男が発した声。こちらに背を向けている、はずである。

 その木陰をちらりと睨み、ティアンナは声をかけた。

「……少しでもこちらを向いたら、斬首刑よ?」

「わかってるって。俺、ちゃんと待てる子だからよ……ししし新婚初夜まで、ちゃあんと我慢するからよォ……」

 ゼノス・ブレギアスが、木陰でもじもじと恥じらっている。

 ティアンナは溜め息をついた。

 かつて同じように、人間ではない若者と行動を共にしていた事がある。この男と一緒にいると彼の事を、まあ思い出さなくもない。

「なあ、そのクソ羨ましいお馬ちゃん……名前、何てえの?」

「名前など付けていないわ。軍馬には出来るだけ、過度な愛着は持たない事にしているの。戦で死なせなければならない事もあるから」

 過度な愛着は禁物、とは言え己の足も同然に馬を操るには、日頃からの接触は不可欠である。

 だからティアンナは王女であった頃から、自分が騎乗する馬の世話を、従者や使用人といった人々に任せた事はない。

 愛馬は、これで3代目である。

 初代は栗毛の馬で、ティアンナが13歳の時に寿命で死んだ。2代目は、ダルーハ軍との戦で死なせてしまった。

 3代目のこの白馬も、果たしていつまで生きていられるか。

「ごめんなさいね、私が愚かな事ばかりしているせいで……」

 微かにいななく愛馬の鼻面を、ティアンナはそっと抱いた。

 王族自ら敵国に侵入、などという愚行をやらかす者を乗せていたら、命がいくつあっても足りないだろう。

 愚行とわかっていても、しかし魔獣人間の製造手段だけは、バルムガルド王国から奪っておかなければならない。

 王国内の魔獣人間生産施設を破壊し、そこの中枢人物であるゴルジ・バルカウスを殺害する。

 それさえ成し遂げられれば、ヴァスケリア王国史上最も愚かなる女王として汚名を残す事になろうとも、ティアンナは一向に構わなかった。

 こちらに背を向けて木にもたれたまま、ゼノスが言う。

「なあ知ってる? この辺って昔、リグロア王国だったんだぜ」

 言われてティアンナは、確かにそうだ、と気付いた。

 バルムガルド王国最西部アルバナ州。すなわち旧リグロア王国領。

 対ヴァスケリア最前線とも言うべき土地であるが、ガロッグ城塞において両国の直接対決が一応は終結したためか、戦の気配は感じられない。少なくとも、この湖の近辺の村々は、のどかなものである。

 湖畔の森のあちこちから、小鳥のさえずりが聞こえてくる。

 湖の中央で、パシャッと魚が跳ねた。

 バルムガルド国内に入ってから、ティアンナが1つ気付いた事がある。

 平和である、という事だ。もしかしたらヴァスケリアよりも治安が良いのではないか、とも思える。

 リグロア併呑の戦では無論、凄まじい量の血が流れたのだろう。

 だが今や旧リグロア領は、アルバナというバルムガルド王国の一州として、何事もなく治まっている。

 人々は平穏につつがなく日々の暮らしを営み、街道でティアンナと擦れ違った時には、にこやかに会釈をしてくれる。まさか敵国の元女王と亡国の王太子であるなどと、気付いている者はいないだろうが。

 明らかなのは、権謀術数に長けた王として悪名高いジオノス2世が、バルムガルド国内では名君であるという事実である。

 国王としての格においてはエル・ザナード1世など、ジオノス2世の足元にも及ばないだろう、とティアンナは思う。

 その名君が、しかし陰で、自国民を魔獣人間に造り変えている。

 本当にそんな事が行われているのだとしたら、許しておくわけにはいかない。この平和な王国で、魔獣人間の製造などさせてはならない。バルムガルドのみならず、ヴァスケリアのためにも。

「いい所だろ、ここ。リグロア王国なんて名前がなくなっちまっても、国なんてのはそう変わるもんじゃねえ……結婚したらさ、ここで一緒に暮らそうぜ? もちろん王族としてじゃねえ。どっか、のどかな村の隅っこに小っちゃい家でも建ててさ。あ、けどティアンナ姫が城暮らしの方がいいってんなら任せとけ。ジオノス2世のクソ野郎をぶち殺して、この国を俺らのもんに」

「……殿方は本当に、夢を見る生き物なのね」

 ティアンナは苦笑し、ゼノスの世迷い言を断ち切った。

 そして、ふと気になった事を訊いてみる。

「ねえゼノス王子……貴方には、リグロア王国を再興したいとか、王国の仇を討ちたいとか、そういった思いはないの?」

「最初はあったさ。くそ国王ジオノス2世を、とにかくブッ殺してやりてえってな。復讐でギラギラしてたよ、あの頃の俺。10歳かそこらのガキだったけどな」

 リグロア滅亡時に10歳前後だったという事は、今はおよそ18歳か19歳。年齢もほぼ同じだ。ティアンナの知る、もう1人の人間ならざる若者と。

「で、いろいろあった後にゴルジ殿に拾われて魔獣人間にしてもらったわけよ。どいつもこいつもブチ殺せる力が手に入ったわけだが……そしたら、何かバカらしくなっちまってな」

「復讐に意味はない、とでも?」

「そのうちやるかも知れねえ。何か、めちゃくちゃヒマな時とかにな」

 この男の魔獣人間としての力は、まだ未知数である。が、人間しかいない王宮に単身攻め入って虐殺を行う、くらいの事は簡単にやってのけるだろう。

 もっとも今は、国王ジオノス2世の身辺にも1人、魔獣人間がいる。1度ティアンナの面前にも使者として現れた、レボルト・ハイマン。彼の力も、未知数だ。

 ゼノス・ブレギアスは彼と違い、ジオノス2世王に臣従しているわけではなく、ゴルジの指令を受けて動いているようだ。

「けどまぁアレだ、ティアンナ姫。あんたがあのクソ国王の(タマ)()りてえってんなら任せとけ。俺が今すぐ、ひとっ走り王宮にカチ込んで皆殺しに」

「……やめておきなさい」

 溜め息混じりに、ティアンナは命じた。

 このゼノスという男には、どうやら首輪と鎖を付けておかなければならない。その鎖を、ティアンナがしっかりと握っていなければならない。

 バルムガルド王国は今、名君ジオノス2世によって、一応は平和に治まっているのだ。

 ティアンナがやるべき事は、その名君から魔獣人間という不要な暴力を奪う事のみ。それ以外の動乱を引き起こしてはならない。

 突然、水の色が変わった。ティアンナには、そう見えた。

 水中に、何やら奇怪な影が生じたのだ。それらが、ティアンナの足元を狙って泳ぎうねっている。

 細い裸身をひらりと翻して、ティアンナは白馬に飛び乗った。

 一糸まとわぬ少女を乗せたまま白馬が跳躍し、湖岸に着地する。

 ほぼ同時に、水中から何かがバシャッと躍り出た。

 蛇のようなものが、2本、3本、つい今までティアンナが立っていた辺りで凶暴にうねる。

 蛇ではなく、触手だった。

 何本もの毒々しい触手を生やした、巨大な肉塊が、水中からザバァー……と現れて牙を剥く。縦に裂けて左右に開く、膿んだ裂傷のような大口。汚らしい牙が、長い舌が、ねっとりと糸を引く。

 そんな口を開いた肉塊が、何本もの触手を生やし、裸の少女に向かってうねらせながら、湖岸に這い上がって来ようとしていた。

 メルクトにいた幼い頃にティアンナは、従兄リムレオンと一緒に書物で見た事がある。オチューと呼ばれる怪物だ。沼沢地に棲息し、その触手と大口で、牛や馬程度の生き物であれば容易く捕食してしまうという。もちろん人間もだ。

 今は、ティアンナが狙われている。

 少女の引き締まった裸身を渇望して、巨大な口が大量のよだれを吐き散らし、何本もの触手が嫌らしくうねり狂う。

 それら触手が一瞬にして、ほぼ全て、切断されていた。

「てめえコラ、人の嫁さんを触手でアレコレしようなんざああああああッ!」

 ゼノス・ブレギアスが浅瀬にバシャッと着地しながら、リグロア王家秘伝の剣を振るったのだ。

 触手だけでなく、大口を開いた肉塊本体もほぼ真っ二つに叩き斬られ、綺麗な湖面に汚らしい臓物をぶちまける。

 が、オチューはその1匹だけではなかった。

 凄まじい量の触手たちが、湖上で揺らめいていた。

 それらの発生源である肉塊の群れが、縦に裂けた口からナメクジのような舌を吐き出し、水中から湖岸に迫って来る。

 ウネウネとおぞましく踊る触手の大群が、裸のティアンナを狙っている。

 何匹いるのか数える気にもならぬオチューの群れを単身、水際で食い止める構えを見せながらゼノスが、

「安心しなよティアンナ姫。こんなウネウネぐにゃぐにゃ男らしくねえモノ生やした奴ら、あんたにゃ絶対近付けさせねえからよ!」

 ティアンナの方を向いた。

 その顔に、ティアンナは馬上から蹴りを叩き込んだ。

 そこそこ美形だが皮は厚そうな顔面に、少女の繊細な素足がグシャッとめり込む。

「こちらを見ずに戦いなさい。いいわね?」

 痛そうに、いくらかは気持ち良さそうに鼻血を噴いて湖上へと吹っ飛んで行くゼノスに、ティアンナはそれだけを言った。

 そして馬を下り、木にかけてあった布で身体を拭く。

 水中に落下したゼノスに、オチューの群れが水飛沫を散らせて殺到する。

 牙を剥く大口が、水蛇の如くうねる触手たちが、全方向からゼノスを襲った。

「お、おいバカよせ、触手はやめろ。あっ駄目、いやん……そ、そんなとこ……触っていいのはティアンナ姫だけなんだよォオオオオオオオオッッ!」

 絡み付く何本もの触手を素手で引きちぎりながら、ゼノスが暴れる。

 蹴り飛ばされたオチューが1体、ぐしゃあっと歪みながら宙を舞い、大口から臓物を吐き出した。

 胸と腰に下着を巻き付けながら、ティアンナは考えた。

 平和に治まっているはずのバルムガルド王国にも、このような怪物たちが出現し、臣民を脅かす。

 魔物や怪物といった生き物たちは、ヴァスケリアのみならず、どこにでも現れて人間に危害を加える。

 防衛のために、人間側も何らかの力を持たなければならない。それはティアンナにもわかる。

(だからと言って……魔獣人間などという手段を認めるわけにはいきませんよ、ジオノス2世陛下)

 ティアンナは、下着の上から鎧を装着し、魔石の剣を腰に吊った。

 魔物たちへの対抗手段としては、今のところティアンナには、魔法の鎧しか思いつかない。

 魔法の鎧の大量生産と装着者の育成を、ヴァスケリア王国としては考えなければならないだろう。今やリムレオン1人に任せておける状況ではない。彼は彼で、戦いだけをしていれば良い身分ではなくなってしまったのだ。

 彼にはエルベット家の領主として、ヴァスケリア王家を……新国王ディン・ザナード4世を、政治的に支えてもらわなければならない。

 意外に、と言っては失礼だが、兄モートン・カルナヴァートは国王の務めを、実に良く果たしてくれている。エル・ザナード1世失踪後の混乱も、それほど大きなものにはならなかった。もちろん後ろ楯として付いているエルベット家の力もあるだろうが、その力も含めて様々なものを、兄は新国王として上手く使いこなしているという事だ。

「さぞかし、お怒りでしょうね兄上……それにリムレオンも」

 この場にいない者たちに語りかけながらティアンナは、ちらりと湖面の方を見やった。

 オチューは1匹残らず死骸と化し、湖に浮いたり沈んだりしている。

 半数近くは、リグロア王家の剣によって鮮やかに滑らかに斬殺されていた。残り半数は、拳やら蹴りやらで叩き潰されている。

 そんな屍の1つを片足で踏み付けながら、ゼノスがティアンナの方を向いた。

「どうだい姫、貞操は守ったぜー。あんたのも、俺のもな」

「貴方……本当に強いのね」

 とりあえず、ティアンナは褒めてやった。

「だけど私、強い殿方なら他にも知っているわ。本当に私と結婚したいのなら、強さ以外にも何か1つ魅せて欲しいところね」

「そうだなぁ……」

 ゼノスが、何やら考え込んでいる。

 触手や牙との激戦で衣服は破け、たくましい上半身がほぼ裸である。ガイエル・ケスナーと比べて若干、筋肉が厚い。

 そんな身体をティアンナの方に振り向かせ、ゼノスは言った。

「強さの他にもう1つ……優しさ、なんてどうだい? 俺、強くて優しいんだぜー」

「……どんな優しさを、見せてくれるの?」

「ティアンナ姫」

 優しい笑顔、のつもりなのであろう形に表情をニコニコとねじ曲げ、ゼノスが歩み寄って来る。そして言う。

「おっぱい小せえ事なんて気にするなよ。俺は小さくても全然構わねえ……どうだい、優しいだろ?」

 鞘を被ったままの魔石の剣で、ティアンナは思いきりゼノスの顔面をぶん殴った。鼻血が、盛大に噴き上がった。

 ゼノスのたくましい半裸身が、空中に鼻血の弧を描きつつ吹っ飛んで、湖中に墜落する。

 鼻血まみれの鞘から魔石の剣を抜き放ちつつ、ティアンナは攻撃を念じた。抜き放たれた細身の刀身がバチッ! と電光を帯びる。

「……見たのね」

「み、みみみ見てない見てない。だって脇から見えるほど……大っきくねえもん」

 上半身裸のままゼノスは水中に座り込み、もじもじしている。

「だ、だけど気にすんなよ。おっぱいなんてデカ過ぎるより小っちゃくて可愛い方があぎゅんっ!」

 電光をまとう剣を、ティアンナは湖水に浸した。ゼノスが感電し、水飛沫を散らせて踊り暴れる。

「あっああああああ電気がデンキが、ティアンナ姫の電気がぁ! かっカラダのいろんなとこにビンビンきちゃうぅうううううう!」

 ガイエルよりも若干、筋肉の厚い肉体が、苦しそうに嬉しそうに激しく痙攣する。

 悶える殿方の裸は、まあ見ていて飽きないものではあった。



 妹マグリアが国王ディン・ザナード3世の側室となり、それなりに寵愛を受けてくれたおかげで、エルベット家は大いなる恩恵を受けた。それは、カルゴ・エルベットもわかってはいる。

 王家との血縁関係を得た事で、何かあっても有利に取りはからってもらえるようになった。税に関しても様々な優遇措置を受け、おかげでメルクト地方の民からそれほど搾取する事もなく、エルベット家は豊かな財力を保つ事が出来た。

 父レミオル・エルベットが娘マグリアを国王に貢いだのは、だからメルクト領民のためにも良かった事なのだ。正しい政略であったのだ。

 カルゴがそう思えるようになるまで、何年かの時を要したのは事実である。

 その何年かの間は、父レミオル侯も国王ディン・ザナード3世も、カルゴにとっては憎悪の対象でしかなかった。

 兵を集めて叛乱を起こし、エンドゥール王宮に攻め入って国王を倒し、愛する妹を救い出す。そんな事を何度も夢見た。

 その夢が実現する前に、しかし妹マグリアは後宮から追い出され、メルクトに帰って来た。

 国王の寵愛を受けたために、つまらぬ陰謀に巻き込まれて後宮で命を落とす女性は、いくらでもいる。

 故郷へ送り返してもらえただけ、妹はむしろ慈悲深い扱いを受けたのではないか。カルゴは、今ではそう思っている。

 が、かつては死ぬほど憎んだ。国王ディン・ザナード3世を、妹の純潔を奪った相手として、憎み抜いた。

 その憎かった国王の息子が今、カルゴの目の前にいる。

 ヴァスケリア新国王ディン・ザナード4世……モートン・カルナヴァート元副王。

 父親譲りの無能さだけで有名だったこの人物が、しかし国王として意外な手腕を発揮し、女王エル・ザナード1世失踪後の混乱を、あっという間に収拾してしまった。

「そなたらエルベット家のおかげよ」

 城壁に立ち、王都エンドゥールの街並を見下ろしながら、ディン・ザナード4世が言う。

「今やエルベット家は王国最強の地方貴族。その当主たるカルゴ侯が私の背後で睨みをきかせてくれている。逆らえる者などおらんよ……本当に、助かっている」

「私は、何もしておりません。全て国王陛下の御力でございます」

 本当に自分など何もしていない、とカルゴは思う。実際に行動をしているのは、息子のリムレオンだ。

 魔法の鎧などという、予想外の力が手に入った事も、エルベット家にとっては大きかった。

 その力を使って息子が行動をした結果、義兄バウルファー・ゲドンは死に、サン・ローデル地方がエルベット家の所領となった。

 外から見れば、自分カルゴが息子にバウルファー侯を暗殺させ、領地を奪い、女王の伯父だからとそれを正当化してしまった、という事にしかならないだろう。

「そなたの息子……リムレオン・エルベット侯爵の働きは、実に目覚ましい」

 いくらか皮肉めいた笑みを浮かべ、国王は言った。

「それと関係があるのかどうか定かではないが、ロッド地方領主ライアン・ベルギ侯爵が命を落としたそうな」

「聞き及んでおります。ライアン侯の御子息のどなたかを、早急に新領主としてお立てになるべきかと」

「……この機会にロッド地方を、エルベット家の所領に加えてしまおうかと私は考えておるのだがな」

「それは、おやめになりますように」

 カルゴは即答した。

「一介の地方貴族に、そこまで力をお与えになるべきではありません」

「一介の地方貴族でありながら、どさくさ紛れに北部の4地方を奪い取ってしまった者がいる。それに比べれば、そなたらは控え目な方ではないか」

 ラウデン・ゼビル侯爵の事であろう。

 今や、西のエルベット家か北のゼビル家か、と言われている。両家による、王国の覇権を賭けた戦まで噂されているようだ。

「ローエン派の者どもやバルムガルド王国を後ろ楯として、ラウデン・ゼビルがどこまでやるつもりでおるのか……それはまだわからぬが、とにかく私としても、ゼビル家に対抗し得るだけの戦力を、王家の味方として育てておきたいのだよ」

 エルベット家が王家の味方であると、この国王は信じて疑っていないようである。当主カルゴもその子リムレオンも、決してヴァスケリア王家を裏切らないと、信じきっているようである。

「エル・ザナード1世女王が、いずれお戻りになられる」

 モートン王は言った。

「そなたらが、この私を裏切る事はあるかも知れん。が、あの女王陛下を裏切る事は出来まい? そなたにとっては、愛する妹の娘だ……おっと、触れてはならぬ事であったかな」

「いえ……」

 行方不明の女王が、必ず生きて戻って来る。それも、この国王は信じて疑っていないようである。

「とにかく、早急に戻って来ていただきたいものだ」

 ディン・ザナード4世は夕闇迫る空を見上げ、ぼやいた。

「これは誰に言っても信じてもらえんのだがな。私は国王になど、なりたくなかったのだ。捨て扶持をもらって安穏と暮らすのが夢なのだよ」

「無能なる御方として、有名であられましたな」

 無礼を承知で、カルゴは言った。

「陛下、貴方は……無能者を装い、爪を隠しておられたのですか」

「そう思ってくれたら嬉しいが、隠すほどの爪など持ってはおらんよ。私はな」

 モートンは苦笑した。

「隠すほどのものも、露わにして自慢するものも……私には、何もないのだ。そんな者が王族として30年近くも生きてきた。今更、王族以外の何者かには成れん。まったく、王族になど……生まれたくはなかった」

「人は、生まれを選ぶ事は出来ん」

 声がした。微かな笑いを含んだ、若い男の声。

「だから生まれてしまった場所で、環境で精一杯、生きるしかない……あんたの名台詞ではないか、モートン王子」

「何者……!」

 カルゴは見回し、腰の長剣に手をかけた。

 少し離れた所で、その男は城壁の欄干にもたれ、立っていた。

 体格の良い長身を旅用のマントに包み、フードを目深に被っている。

 そのフードから、長い髪の一部が溢れ出していた。血、よりは炎を思わせる、鮮やかな赤毛である。

 フードの陰で、端正な口元が言葉を紡いだ。

「失敬……今は国王陛下だったな」

「……どこをほっつき歩いておったのだ。この大変な時に」

 得体の知れぬ赤毛の若者相手に、ディン・ザナード4世王が普通に会話を始めた。

「サン・ローデル方面へ向かった、ところまでは貴様の足取りを掴んでいたのだがな。ダルーハ軍の後始末は、もう終わったのか」

「あらかた、な」

 若者が、フードの下で忍び笑いを漏らした。どこか禍々しい笑い声だ。

「その間に、何ともまあ……変われば変わるものだ。まさか、あんたが国王陛下とはな」

「私は別に、貴様が国王でも構わん。せっかく来たのだ、玉座に座って王冠でも被ってみてはどうだ? 貴様とてヴァスケリア王家の血縁者なのだからな」

「何ですと……!」

 カルゴは呻き、絶句した。

「陛下、この者は一体……」

「ああ、そなたは知らぬ方が良い。私は今、たちの悪い夢を見ている。夢の中の怪物と会話をしている。そう思ってくれ、カルゴ侯爵」

「悪夢が覚める前に訊いておこう。国王陛下……ティアンナは今、どこにいる?」

 カルゴは耳を疑った。怪物などと呼ばれたこの若者は今、誰の名を口にしたのか。

「姿を消す前に、彼女はあんたに後を託したと思うのだがな」

「……バルムガルドだ」

 カルゴが耳を疑う会話が、続いた。

「ジオノス2世王が、密かに魔獣人間の生産を始めたらしい。それを止めに行く……一方的にそんな書簡を残して、王の責務を放り出してしまったのだよ。あの馬鹿小娘は」

「無茶をするのは、相変わらずか……」

 微かな溜め息をつきながら若者は、くるりと背を向けた。

 その背中に、モートンが声を投げる。

「国と国との問題だ。あまり事を荒立てるな……と言っても無理であろうな、貴様には」

「もちろん無理だとも」

 ゆらりと歩み去りつつ、赤毛の若者は言った。

「……俺は、残虐だからな」 

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