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第51話 集う鎧たち(3)

 霧に食われた。言葉で表現すれば、そんな感じであろうか。

 不定形の生き物の如く濃密な霧が、リムレオンとマディックを包み込んだ。

 霧が晴れた時には、2人の姿は消えていた。

 中身なき魔法の鎧の何体かと共に、シェファとイリーナが、その場に残されている。女に用はないと言わんばかりの、取り残され方である。

「何……何なの……何が起こったのよ……」

 イリーナが、落ち着きなく森の中を見回した。

「どこへ行ったのマディック……ちょっと、つまらない冗談はやめなさい……」

 怒りに満ちた、それでいて今にも泣き出しそうな声である。

「リム様……」

 自分も同じような声を出しているのかも知れない、とシェファは思った。

「ふざけないでマディック・ラザン! 隠れていないで出て来なさい!」

 イリーナが、半狂乱になりかかっている。

 そのせいかシェファは逆に、冷静になる事が出来た。

 冷静に、考えてみる。リムレオンとマディックは、一体どこへ行ってしまったのか。

 2人を呑み込んだ、あの霧の中からは、黒薔薇夫人という言葉が聞こえた。

 この森の奥で眠っているという、レグナード魔法王国の女性貴族。

 大勢の男を誘惑し、愛玩しては殺害したという魔女が、リムレオンを拉致したのか。

 だとすれば、シェファが取るべき行動は1つしかない。冷静に考えるまでもなかった。

「リム様を……助けなきゃ……」

「シェファ・ランティ! 貴女の仕業ではないでしょうね!」

 イリーナが喚き、掴みかかって来た。

「ただの攻撃魔法兵士のくせに! 魔術師でもないくせに! おかしな魔法を使ってマディックを、私のそこそこ役に立つ持ち駒の1つを、さあどこへ隠したのか言いなさい! 言いなさい! 正直に言いなさぁあああいッッ!」

「落ち着いて……」

 力の加減に気をつけながらシェファは、イリーナの胸ぐらを掴み寄せた。魔法の鎧の力で思いきり掴み寄せたりしたら、人間の首くらいなら折れてしまうかも知れない。

 力加減をしながらもシェファは、面頬越しにニッコリと微笑みかけ、にこやかに言った。

「トチ狂ってる場合じゃないっての、わかってもらえる?」

「ひ……っ……!」

 イリーナが悲鳴を漏らし、息を呑んだ。

 その怯える表情を間近から見据えて、シェファは理解した。

 このイリーナ・ジェンキムという娘は、マディック・ラザンが一緒にいないと結局、何も出来はしないのだ。

 自分はどうか、とシェファは考えた。自分も、リムレオンやブレン兵長が傍にいてくれないと、何も出来なかったのではないか。

 2人とも、今はいない。

 シェファ1人で、リムレオンを捜し出すしかないのである。

(リム様が、さらわれた……)

 それだけが今、シェファの心を占めていた。あの恐ろしいデーモンロードの事も、ブレン兵長の事すら一瞬、どうでも良くなった。

 右手に魔石の杖を握り、左手でイリーナの胸ぐらを掴んだまま、シェファは歩き出す。森の奥へと向かってだ。

「ど、どこへ行くのよ……」

 引きずられて歩きながら、イリーナが不安げな声を出す。

 整然と付き従って来る鈍色の鎧たちを一瞥しつつ、シェファは答えた。

「リム様を助けに行くの。もう1人の方もまあ余裕があったら助けてあげるから……そのガラクタどもを引き連れて、あんたも一緒に来なさい。歩く楯くらいにはなるでしょ」

 お前が立ち直るためには、戦うしかない。マディック・ラザンが先程、そんな事を偉そうに言っていた。

 自分が立ち直ろうが立ち直れまいが、そんな事はどうでも良い。

「リム様、待ってて……」

 自分が立ち直るためにリムレオンを助けに行く、わけではないのだ。



 霧が晴れた時、周囲の風景は一変していた。森の中、ではない。

 黒ずんだ、石造りの壁。様々な彫刻が施された、豪奢な柱。

 腐敗した敷物がこびりついた石の床に、リムレオンは尻餅をついていた。

 少し離れた所に、マディック・ラザンが座り込んでいる。

 2人とも、魔法の鎧を装着したままだ。

 立ち上がったのは、リムレオンの方が先だった。

 マディックは立ち上がろうとして失敗し、うずくまり、身を震わせて血を吐いた。

 先程のリムレオンの一撃が、どうやら体内のどこかを破裂させたようである。

「……どうした、リムレオン・エルベット」

 面頬からポタポタと血反吐の雫を滴らせつつも、マディックが強気な声を発する。

「俺に、とどめを刺さないのか……」

「暴力が止まらなくなっている、と言っていたな」

 助け起こしてやるべきかどうか迷いながら、リムレオンは言った。

「それは、貴方を殺さなくても止められると思う」

「……情けをかけられた、というわけだな。俺は」

 自嘲しつつマディックは、何か念じたようだ。

 緑色の甲冑姿が一瞬、白い光に包まれた。

 同じような光を、リムレオンは何度か見た事がある。メイフェム・グリムが、エミリィ・レアが、見せてくれた光。

「癒しの力……」

 リムレオンは呟き、訊いてみた。

「マディック・ラザン、貴方は……唯一神教の、聖職者の方?」

「ディラム派で10年、ローエン派で9年、修行を積んだ」

 誇らしくもなさそうに答えながらマディックは立ち上がり、軽く槍の素振りをした。体内の破裂箇所が、治ってしまったようだ。

「それで本当に身に付いたものと言えば、初歩的な癒しの力くらいだな。他に学んだ事と言えば……宗教など、圧倒的な暴力の前には何の役にも立たないという事実。そんなところだ」

 唯一神の加護を発現させ、効果的に用いて戦闘を行う聖職者を1人、リムレオンは知っている。

 人間である事をやめた、1人の尼僧。これまでの戦いで、リムレオンを最も苛烈に叩きのめしてくれた相手。

 このマディック・ラザンという男にも、彼女と同じような戦い方が、やろうと思えば出来るのではないか。

 あのメイフェム・グリムと同じくらいに恐ろしい敵となる可能性を、この緑の騎士は秘めているのではいか。

 とどめを刺しておくべきだったか、とリムレオンは一瞬だけ思った。

「それにしても……どこなのだ、ここは一体」

 マディックが見回した。

 城館規模の大型建造物の中であるのは、間違いなさそうである。

 黒薔薇夫人の居城、なのであろうか。サン・ローデル西部森林地帯の奥深くに存在すると言われた、魔法王国時代の遺跡。

 光源が見当たらないにもかかわらず、ぼんやりと明るい。それにリムレオンは気付いた。見回して、状況を視認する事が出来る。

 古びた、石造りの大広間である。謁見の間、のような場所だったのだろうか。だが玉座らしきものはない。

 かつては豪奢にきらびやかに装飾されていたのだろうが、今残っているのは、形様々な石の彫刻だけだ。

 それらの中でも特に目を引くのは、大広間の中央に立った、4体の天使の石像である。翼を生やした、石の美少年たち。線で結べば、小さめの部屋くらいの正方形となる形に、整然と配置されている。

 リムレオンは見回した。

 いくら見回しても、光源はやはり見つからない。いくつもある燭台や篝火台は、全て空っぽである。

 なのに、ぼんやりと明るい。

 室内を照らしてくれるこの謎めいた光に、リムレオンはしかし、先程の濃密過ぎる霧と同じような、得体の知れなさと禍々しさを感じた。

 2人をこんな所に運び込んだあの霧と、この発生源不明の光は、同質のものではないのか。

『……よくぞ、来た……我らと同じく、黒薔薇夫人に……愛されたる、者ども……』

 声が聞こえた。苦しげな、しかしどこか嫌らしい快楽の響きを帯びた声。石像たちが喋っている、ようでもある。

『お前たちも、我らと同じ……我らと共に、この城で……甘美なる、血みどろの快楽に……』

『麗しの黒薔薇夫人が……未来永劫、我らを愛でて下さる……これに勝る幸福・快楽があろうか……』

 あの霧と同じく、このぼんやりとした光が、言葉を発している。リムレオンは、そう感じた。

「こ……これは……! 何という……」

 マディックの声が、震えている。

「なんという……おぞましくも、痛ましい……これは、黒薔薇夫人とやらの仕業なのか……」

 自分には見えないものを、マディック・ラザンは見ているらしい。そう思いつつリムレオンは、ある知識を脳裏に甦らせた。かつて書物から得た、役に立たぬ知識の1つである。

 黒薔薇夫人は、男たちを次々と誘惑しては愛玩し、そして殺害した。自ら拷問器具を手に取り、身の毛もよだつような殺し方で。

 マディックの……修行をして霊感を高めた聖職者の目には、それが見えるのではないか。惨たらしく殺された男たちの姿、あるいは今なお殺され続けている男たちの姿が。

『どうか我らを……哀れまないでくれ、唯一神の教徒よ……』

 苦しげに、だが嬉しそうに、男たちが声を漏らす。

『これは、我らが自ら選んだ道……』

『お前たちにも、すぐにわかる……黒薔薇夫人が、その麗しき繊手で……鞭を振るい……鋸を引き……鋼鉄の処女の、扉を閉め……我らを血の海に沈めてくれる、その快楽……』

『黒薔薇夫人が御自ら、その麗しき繊手で……我らの、皮を剥ぎ……目を抉り……臓物を』

「もういい! 黙れ!」

 魔法の槍を激しく振るって、マディックが叫んだ。

「お前たちが選んだ道であろうとなかろうと、こんな事は許せるものではない! 黒薔薇夫人とやらに会わせろ! お前たち共々、俺が唯一神の御許へ送ってやる!」

『そう騒がしくせずとも、黒薔薇夫人は今、お前たちとお会いになられる』

 ぼんやりとした光が、微かに強まった。

 リムレオンは息を呑んだ。

 大広間の中央、美しい天使の石像4体が形作る正方形の内部に、いつの間にか何かが出現していた。

 黒い、大型の棺である。

 それが、床に安置されているのではなく、半ば起き上がるような形に浮かび上がっていた。扉のような蓋を、左右に開きながら。

 石の天使4人に囲まれた、漆黒の棺。その中身は、薔薇の花で満たされていた。黒に近い、真紅の薔薇たち。

 その中から起き上がっているのは、一体の白骨死体である。美しいほどに白い、華奢な一揃いの人骨。肉が付いていた頃は、さぞかし美しい女性だったのだろうと思わせる。

 その細身の骸骨が、キラキラと白い光を帯びていた。

 光の粒子が、周囲から棺の中へと流れ込み、骨格にまとわりついてゆく。

 やがて骸骨が、骸骨ではなくなっていった。

 胸郭の内部に、脊柱の周りに、骨盤の上に、何やら蠢くものが発生して脈打ち始める。臓物だった。

 それらを覆い守るように筋肉が生じ、血管が、神経が、這い回る。

 やがて皮膚が、それら全てを包み隠した。眩しいほどに白く滑らかな、瑞々しい肌。

 鮮やかな対比を成す黒髪が、その細い裸身を取り巻いてフワリと舞う。

 黒薔薇夫人という名がいささか似合わない、可憐な少女である。年齢はリムレオンとそう変わらない、ように見える。

 目を閉じ、何か楽しい夢を見ているかのように微笑んでいる顔は、美しい。美貌だけなら、ティアンナやシェファよりも上だろう。

 そんな美少女が、暗黒に近い真紅の薔薇に囲まれながら、全裸でいる。マディックもリムレオンも、慌てて目を逸らせた。

 目を逸らせながらもリムレオンは、どこかで見た事のある女の子だ、と思った。

 もちろん面識などあるはずがない。相手は、魔法王国時代の人物である。でなくとも、こんなふうに棺の中から甦ってくるような女性に、自分の知り合いなどいるわけがない……

「棺……? まさか……」

 ある事に思い至り、リムレオンは裸の美少女に視線を戻した。

 すでに彼女は、裸ではなくなりつつあった。ほっそりと美しい裸身に、黒い影のようなものが這ってまとわりつき、衣装として実体化してゆく。黒い、ひらひらとした薄手のドレス。

「君は……!」

 叫び声が、リムレオンの喉の奥で詰まった。

 黒い棺が、真紅の薔薇たちが、空気に溶け込むように消えてゆく。

 ふわ……と床に降り立ちながら、黒衣の美少女が、ゆっくりと両目を開く。微笑む唇はそのままに、澄んだ瞳でリムレオンを見つめる。虚ろなくらいに澄んだ瞳。邪悪なほどに純真無垢な瞳。

 息が詰まるような思いのまま、リムレオンは辛うじて声を漏らした。

「君が……黒薔薇夫人……?」

「やっぱり、貴方でしたのね……ひとしずくの綺麗な生命を、お持ちの方……」

 黒薔薇夫人が、声を発した。心地良く耳をくすぐる、涼やかな声。リムレオンが初めて聞く声ではない。

「もう1度、貴方にお会いしたくて……うっふふふ、ローラをそんな気分にさせるなんて許せない御方」

「ブラックローラ・プリズナ……」

 リムレオンは名を呻いた。恐らく本名ではないのだろうが。

 ブラックローラ・プリズナ。あるいは黒薔薇夫人。レグナード魔法王国の時代から今に至るまで悪名を残す魔女にして、かの赤き竜にも仕えた事のある吸血鬼。

 彼女が、リムレオンには微笑みかけ、マディックには冷たい一瞥を投げた。

「身も心も、命も魂も綺麗な御方……ローラが守ってあげますからご安心なさって? そちらの緑色も……まあ、ついでに助けてあげますわ。感謝なさい」

「何をわけのわからん事を……!」

 ブラックローラの美貌に惑わされる事もなく、マディックが魔法の槍を構える。

「貴様のような魔性の者が、死して唯一神の御許へ行けるかどうかはわからんが……まあいい。この場で成敗してやる」

「待って」

 リムレオンはマディックを押しとどめ、黒薔薇夫人とのさらなる会話を試みた。

「守ってくれるために僕たち2人を……君が、こんな所まで運び込んだのか?」

 他者の瞬間移動。そんな事が出来る魔力の持ち主を、魔法の鎧の1つや2つで成敗出来るとは思えない。

「吸血鬼は、その本拠地の近辺においては、神の如き力を発揮出来る……僕は、そんな文献を読んだ事がある」

「んー……神の如き、はちょっと大げさですわね」

 綺麗な頬に綺麗な指を当てながら、ブラックローラが応えた。

「こうやって人を運ぶくらいは簡単ですけど、何でも出来るわけじゃありませんわ……でもまあ、貴方たちを守ってあげるくらいの事は出来ますから、どうか安心なさって?」

「それだ、肝心な事は」

 問い詰める口調で、リムレオンは言った。

「君は僕たちを、何から守ってくれるつもりなんだ?」

「今のところ、この世で2番目に恐ろしい御方から……ですわ」

 ブラックローラの美貌から、笑みが消えた。いくらか深刻な表情になった。

「その御方が貴方のお命を狙って、もうすぐこの森に殴り込んで来ちゃいます。ああん、もう迷惑……でも、このお城に隠れていれば大丈夫。ローラが守って差し上げますわ」

「そんなに恐ろしいものから、僕たちだけを守ってくれようとするのは何故だ?」

 詰問に近い口調で、リムレオンは訊いた。

「シェファ・ランティとイリーナ・ジェンキムは? 森のあの場所に、置き去りになっているんじゃないのか」

「嫌ですわ。ローラのお城に、女を入れるなんて」

 ふん、と優雅に鼻を鳴らして、ブラックローラは嘲笑った。

「特にあのシェファ・ランティとかいうおバカさん……とぉってもアホな事やらかして、貴方のお命を危うくしてるんですのよ」

「シェファが……?」

「ほんと、バカ女としか言いようありませんわね」

 ブラックローラの言葉に、微かな舌打ちの音が混ざった。

「よりにもよって、デーモンロード様にケンカを売るなんて……」



 足元が、いつの間にか地面から石畳へと変わっていた。

 魔法王国時代から数百年を経た、ぼろぼろの石畳。あちこちが破損し、伸び放題に雑草が生えている。中には、樹木に近いところまで生長したものもある。

 黒薔薇夫人の居城は、森と同化しかけていた。

 半ば崩れた城壁は、様々な蔓植物や苔に覆われ、巨大な緑色の塊と化している。

 鬱蒼と茂る森林から、そんな暗緑色の古城へと、周囲の風景が変わりつつある中を、シェファは歩いていた。イリーナ・ジェンキム及び動く全身甲冑十数体を、引き連れてだ。

「何で私が……こんな所まで来なければならないのっ」

 歩きながらイリーナが、ぶつぶつと文句を言っている。振り返らずに、シェファは応えてやった。

「リム様を助けるついでに、あのマディックって奴も助けてやろうってのよ。文句言ってないで、あんたも何か役に立ちなさいよね」

「マディック・ラザンは私にとって単なる捨て駒! わざわざ助ける必要など」

 叫ぼうとするイリーナの方を、シェファはようやく振り返り、面頬越しに睨み据えた。

「悪いけど、あたしにはわかるの。あのマディック君が死んじゃったら、あんた絶対トチ狂って馬鹿が止まんなくなるから。エルベット家の御領内で、何かバカな事やらかすから……ったく、世の中何がそんなに気に入らないんだか」

 世の人間たちは、英雄と言えばダルーハ・ケスナーの名前しか口にしない。それが許せないと、イリーナは言っていた。

 触れれば激怒させてしまうかも知れない。それを承知の上で、シェファは触れてみた。

「……ゾルカさんが何か忘れられたみたいになってんのが、そんなに許せないわけ?」

「貴女なんかに! わかるもんですか!」

 思った通りイリーナは激怒しつつ、同時に涙ぐんでいた。

「英雄などと言われていたダルーハ・ケスナーが本当はどういう人間であったのか、貴女たち思い知ったばかりのはずでしょう? ゾルカ・ジェンキムの補佐を失ったダルーハなど、単なる無法者の暴君……真に偉大なのはゾルカ・ジェンキム! その力と遺志を受け継いでいるはずの、魔法の鎧の戦士が! 戦いに敗れて逃げ帰って来て、おたおたと無様な姿を晒している! こんな事、許せるわけがないでしょうがあああッッ!」

「……ごめん」

 シェファは、そう言うしかなかった。

 自分の今の有り様は、イリーナから見れば、敬愛する父の偉大な遺産を穢している事にしかならないだろう。

 思いつつ、シェファは立ち止まった。泣きじゃくりながら、イリーナが背中にぶつかってきた。

「な、何よ……」

 文句を漏らすイリーナと一緒に、シェファは見上げた。

 一際、巨大な暗緑色の城壁が、前方にそびえ立っている。

 黒みを帯びて様々な植物を貼り付けた……城壁と言うより、城そのものである。黒薔薇夫人の城、その本丸と言うべき城館だ。

 この建物の奥深くに、黒薔薇夫人本人が眠っている。

 リムレオンとマディックもそこにいる、としたら。

 荒淫残虐で知られたレグナードの魔女によって、リムレオンは今、どのような目に遭わされているのか。

「……行くわよ、イリーナさん。めそめそ泣きながらでもいいから、ちゃんと役に立ってよね」

 固く閉ざされ、錆び付き苔むし、恐らくこの数百年開かれた事がないであろうと思わせる城館の門扉に、シェファは足取り強く歩み寄って行った。1歩、2歩。

 3歩目で、その足が止まった。止められた、と言うべきであろうか。

 足が、いや両腕も、がっちりと固まって動かない。目に見えない鎖か何かに、絡め取られてしまったかのように。

『立ち去れ……』

 声がした。

 リムレオンたちを運び去った先程の霧から発せられていた声と、同じだ。

『黒薔薇夫人は、お前たちを招いてはおられない……立ち去れ』

「あたしだって、こんなとこ……来たくて来てるわけじゃないんだけどね」

 目に見えない相手との会話を試みつつ、シェファは己の全身を見回した。

 全く目に見えない、というわけではなかった。何やら頼りないものが、青い魔法の鎧にまとわりついて漂っている。

 白い靄、のようでもあり、黒い影のようでもあった。

 そんな辛うじて目に見える気体が、人間の顔のようなもの、を形成している。そしてシェファの全身に絡み付きながら、言葉を発している。

『さあ立ち去れ……麗しさにおいて、黒薔薇夫人の足元にも及ばぬ小娘ども』

「リム様を返して。あともう1人おまけの緑色も。そしたら立ち去ってあげる。2度と来ないから、こんなとこ」

 会話だけでなく交渉をも、シェファは試みた。だが。

『あの2人は、黒薔薇夫人に招かれたる者たちだ……返すわけにはゆかぬ』

『あの者たちは我らと共に、これから未来永劫……血の海に、まどろむのだ……』

『我らと同じく、黒薔薇夫人が御自ら……皮を剥ぎ、目を抉り、臓物を』

 交渉は即座に決裂した。シェファは、そう判断した。もともと会話など、成立する相手ではなかったのだ。

 シェファは攻撃の意志を高めた。魔力が血液の如く循環し、増幅されてゆく。

「そう……まあ何でもいいけど、女の子の身体に勝手に貼り付いてんじゃないってのよ!」

 魔法の鎧のあちこちに埋め込まれた魔石が、真紅に輝き、炎を発した。

 その炎が渦を巻いて、シェファの全身を取り巻いて燃え盛る。

 黒い影のような白い靄のようなものたちが、一瞬にして蒸発し消え失せた。微かな、弱々しい悲鳴を残して。

 動けるようになったシェファがまた1歩、城館の門扉に歩み寄った、その時。

 ずしりと重い、力強い足音が、背後から聞こえた。

 シェファは振り返り、息を呑んだ。

 大柄な男が2人、そこに立っていた。

 片方は、人間ではない。

 力強い巨体は、まるで鎧のような青銅色の金属甲殻に覆われているが、それも各所が凹み、ひび割れ、血を滴らせている。

 兜のような頭には、3本の角。額からまっすぐ伸びた1本と、左右の側頭部から湾曲して伸びた2本……その右側の角が、半ば辺りで折れてしまっている。

 ギルベルト・レイン……魔獣人間ユニゴーゴンの、負傷してはいるが死んではいない肉体が、そこに立っていた。

 もう1人の男は、黄銅色の全身甲冑に身を包んでいた。これも、あちこちが凹んでいる。右手には、大型の戦斧を携えている。

 魔法の戦斧と、魔法の鎧。

 厳つい面頬の、口元の辺りが、どす黒く汚れていた。痛々しい、吐血の汚れだ。

「ブレン兵長……」

 シェファは呟いた。生きていてくれた。その安堵が、声に出た。

 安堵しつつもシェファはしかし、駆け寄って行く事は出来なかった。

 面頬の奥で光るブレンの眼光に、極めて危険なものを感じたからだ。

 逃げた事を、怒っている。それならばまだいいとシェファは思う。

 ブレンもギルベルトも、殺意の眼光を燃やしていた。その殺意の奥底に、しかし彼ら本人の意思はない。

 何者かによって、外から植え付けられた殺意。

 植え付けたのが何者であるのか、は考えるまでもなかった。

 青銅と黄銅。2色の戦士たちの背後に、彼らをも上回る巨体が1つ佇んでいる。

「貴様ごとき後から狩り出すのは、容易い事……」

 大型の翼をマントの如く背負った、青黒い異形。爬虫類的な外皮に覆われた筋肉は、鋼を練り固めたかのようだ。

「……とは言ったが、あまり待たせて恐い思いを長引かせるのも気の毒」

 肉食獣のような猛禽あるいは怪魚のような顔面をニヤリと歪め、デーモンロードは微笑んだ。

「ゆえに早々に来てやったぞ。喜べシェファ・ランティ、貴様を殺してやる。この城に囚われし者どもの如く、死後何百年も苦しませるような事もせぬ。死は永遠の安息、それを実践してやるゆえ安心するが良い」

「何を……」

 怯えるイリーナを背後に庇う格好になりつつ、シェファは訊いた。

「ブレン兵長に……何をしたの」

「言ったであろう。我ら魔族は、これからは他者を利用する生き方をせねばならぬ」

 デーモンロードの頭から、蛇の如くねじ曲がって伸びた角。2本のそれが、ぼんやりと光を発している。

「ゆえに利用しておる。戦いで叩きのめして心を折り、折れた心を我が魔力で支配したのだ」

 ブレンは魔法の戦斧を構え、魔獣人間ユニゴーゴンは両拳を握り、両名ずしりと踏み出してシェファに迫る。支配された者の動きだった。

「今から、こやつらが貴様を殺す。私は一切、手を汚さぬ……これも策略。我ら魔族の、これからの在り方よ」

 デーモンロードが笑っている。

 ブレンが、ユニゴーゴンが、殺意の眼光を燃やし、歩み迫って来る。

(リム様……)

 シェファの両膝が、がくがくと笑った。

 絶望に、押し潰されそうになった。いや、心はすでに押し潰されている。

 身体は、辛うじて立っている。背後で怯えているイリーナを、庇う格好でだ。

 怯えながら、イリーナが呟いている。

「守りなさい……私を、守りなさい……」

 中身のない魔法の鎧たちが十数体、進み出て来て武器を構え、女の子2人を護衛する陣形を組んだ。

 そんなものは一瞥もせずにデーモンロードが、黒薔薇夫人の眠る城館を見上げ、大声を発した。

「魔法の鎧の装着者が2名、この城に逃げ込んだと聞く……殺せ。あるいは引き渡せ」

 城主・黒薔薇夫人と、知り合いであるかのような口調である。

「それとも、この私を相手に……よもや匿い庇うつもりではあるまいなあ? ブラックローラ・プリズナよ」

 ブラックローラ。あの吸血鬼の少女が、黒薔薇夫人なのか。

 などと考える余裕も、今のシェファにはなかった。 


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