第46話 慟哭の聖戦士
少し考えてみたかったので、デキウス・グローラーは人間の姿を保ったまま街道を歩いていた。
自らレネリア地方へと赴き、戦場跡を調べて来た、その帰り道である。
「違う……な」
そういう結論を出さざるを得なかった。
北部4地方の愚かな領主たちを叛乱へと導いたのは、デキウス自身である。
結果、その領主たちは4人とも死亡。女王エル・ザナード1世は行方をくらまし、彼女を人質として竜の御子を支配下に置くというデキウスの目論みは不成功に終わった。
行方不明の女王に関しては、様々な噂が流れている。死んでいるとも、生きて逃げ延びたとも言われている。
それら噂の中に1つだけ、デキウスにとって聞き流す事の出来ぬ話があった。
エル・ザナード1世の飼っている例の怪物が出現し、叛乱領主たちの軍勢を皆殺しにした挙げ句、女王の身柄を奪って姿を消した……という噂である。
竜の御子が、女王の危機に都合良く姿を現したのか。
それを知るためには、デキウス自身が現場を調べてみるしかなかった。
その結果、違う、という判断に至ったのである。
東国境において竜の御子は、3000人ものバルムガルド軍兵士を虐殺した。
今回レネリア地方平原地帯に残されていた死体は、300にも満たなかった。その大半が、武器によって綺麗に斬殺されていた。
竜の御子の斬撃を食らったのなら、あんな原形をとどめた死体にはならない。
焼き殺された屍もあったが、竜の御子が炎を吐いたら、焼死体など残りはしない。
そこそこの殺戮能力を持つ何者かが、エル・ザナード1世を拉致した。あるいは女王が自らの意思で、その何者かと行動を共にしている。
どちらにせよヴァスケリア王国は今、戦国時代に等しい混乱状態へと陥りかけている。
デキウスがあの愚かな領主たちに叛乱を教唆した、結果である。
自分の仕掛けで、人間の世が大いに乱れる。それはデキウスにとって、未知の快感だった。
「ふ……これが策略というものか」
かの赤き竜も、世を大いに混乱させた。だがそれは、いかにも魔族らしい力押しの暴虐によってである。
「赤き竜よ、私は一切の暴力も武力も用いずに同じ事をして見せる……否。貴方以上の災厄を、人間どもの世にもたらして見せよう」
赤き竜が暴力によってもたらした災厄と混乱は、ヴァスケリア1国にとどまった。だが今、デキウスが策謀によってもたらした混乱は、ヴァスケリアのみならずバルムガルド王国をも巻き込みつつある。
問題は、その混乱をどのように利用するかだ。
デキウスは思案した。まず最優先で行わなければならないのは、魔法の鎧の排除である。魔族への対抗手段を、人間から奪っておかなければならない。
ロッド地方領主ライアン・ベルギ侯爵が、女王不在に乗じてさっそくエルベット家に戦を仕掛けようとしている。緊急の徴兵や軍備増強に励んでいる。が、そんな急ごしらえの戦力など、魔法の鎧に対しては何の役にも立たないだろう。
リムレオン・エルベット。シェファ・ランティ。ブレン・バイアス。
エルベット家のこの3名が魔法の鎧を着用し、戦場に出て来たら。デキウスとしては、これに対抗すべく配下の魔物たちを戦線に投入せねばならないか。
「否……そこまでしてライアン・ベルギなどに仕え続ける事もあるまい、か」
利用するための権力者なら、いくらでもいる。
魔法の鎧の装着者3名。その命を奪うのに、この先もライアン侯を利用出来るものであろうか。出来ぬようなら……
「デーモンロード様……いえ、失礼いたしました。デキウス・グローラー様」
何者かが、音もなく近くに着地し、言った。人間の目に見える姿を持たない存在。
それに向かって、デキウスは苦笑した。
「その名は、そろそろ捨てようかと思っていたところよ……で、何事か?」
「魔法の鎧の装着者が2名、ロッド地方軍に入り込んでおります」
人間ではないものが、報告をした。
「ブレン・バイアス及びシェファ・ランティ両名、ライアン侯の徴兵に応ずる形で軍に潜入いたしました」
「ほう……先手を打つつもりと見えるな、リムレオン・エルベット侯爵殿は。サン・ローデル地方を奪った時と、同じ事をするか」
戦になる前に、刺客を送り込んで敵領主を始末する。魔法の鎧があればこそ可能な、強行手段だ。
わざわざ軍に潜入などという回りくどい手を使うのは、出来る限り事を荒立てまいとしているつもりか。あるいは、何か探り出そうとしているのか。
「……何であれ、その両名の動きを阻害する必要はない。しばらく好きにさせておけ」
デキウスは命じた。絶好の機会が巡って来た、と思った。
魔法の鎧を着る3名のうち、リムレオン・エルベット1人が今、サン・ローデル地方で孤立している。
人間どもの策略で言うところの、各個撃破という手段を、今こそ実行するべきだ。
「まずはリムレオン・エルベットを討ち取る」
「かしこまりました。では我らが、これよりサン・ローデルへ」
「待て、お前たちでは無理だ」
相手は魔法の鎧である。並の魔物では、逆に倒されるだけだ。
「お前たちは引き続き、ブレン・バイアスとシェファ・ランティを監視せよ。それ以上の事はせずとも良い。くれぐれも手を出してはならんぞ……あのブレン・バイアス、我が配下のデーモン及びトロルの一団を、ほぼ単身で殺し尽くした男なのだからな」
「御意……」
人間ではない、影のようなものは、消え去った。
デキウスは街道を歩きながら、思案を続けた。
魔法の鎧の装着者3名を、団結させず個別に討ち取る。まずはリムレオン・エルベットからだ。
「私が直々に手を下す……しかないのか?」
無論、戦えば自分が勝つ。が、それでは力押しの殺害になる。
魔族は今や、力押しではない手段を学ぶべき時なのだ。
己の手を汚さず、他者を利用する。そういう生き方を始めなければ、魔族は衰退してゆく一方なのである。
「何か利用出来るものはないか……何か……」
「おい」
声をかけられた。
野卑な、悪臭にも似た気配に、デキウスは気付いてはいた。無視して通り過ぎるつもりであったが、声をかけられてしまった。
「おめえだよオッサンおめえ。ぶつぶつ言いながら歩いてんじゃねえって」
「いやまぁ歩くのは一向に構わねえけどよ……通行税、払ってもらおうかい」
安っぽい武装をした男たちが、20人前後。デキウスを取り囲んでいる。一見しただけでわかる、強盗団だ。
彼らから見れば今のデキウスは、身なりの良い初老の男性貴族だ。それが1人きりで歩いているのだから、まあ獲物と見られても仕方がない。
「……てめえ今、俺らのコト見下した? 何か馬鹿にしたよなあオイ」
強盗の1人が、デキウスに剣を突き付けた。
「気に入らねえなあ。通行税、殺して徴収しちゃうよ?」
「まあ待てって、お貴族様だぜ? 取っ捕まえて身代金ふんだくった方がいい」
「ぶぶぶぶッ殺すのはその後でもイイしなぁー」
強盗たちが、ゲラゲラと笑う。
全員、叩き殺すか灼き殺すか、あるいはゾンビにでもして何かにこき使ってやろうか。
デキウスが迷いかけた、その時。
「何をしている……やめないか、君たち」
何者かが、いささか頼りない声をかけてきた。
1人の、若い男だった。20代前半、顔立ちも体格も普通としか言いようがない。
身に着けているのは、唯一神教の法衣、の中で最も粗末なものだ。教会の下働きの者たちが主に着用する、法衣と言うより作業着に近い服である。
旅の聖職者が、強盗団を相手に綺麗事を説こうとしているようだ。
「やめるんだ、暴力を振るってはいけない……暴力で、人から物を奪うなんて」
「じゃテメエが金恵んでくれンのかぁーオイ!」
強盗たちの何人かが、襲いかかって行く。
聖職者の若者は殴り倒され、囲まれて全方向から蹴り転がされた。
「や、やめ……」
弱々しく声を漏らす口に、強盗の1人が蹴りを叩き込む。若者の顔面から、血飛沫が散った。
それだけで許すはずもなく強盗たちが、殴る蹴るの暴行の雨を降らせ続ける。
「こいつ貧乏臭え、あんま金持ってそうじゃねえなあ」
「じゃ殺すしかねえよ。ったく、綺麗事言うだけでクソの役にも立たねえな聖職者ってのぁあああああ!」
「神様ってのがホントにいるんならよ、俺らを救済してみろって! 俺らに金よこせ金金金金カネをよぉーッ!」
「どうせガッポリ儲けてやがんだろーがあ? 教会の連中はああッッ!」
そんな強盗たちの罵声を掻き消すほどの絶叫が、響き渡った。
「ふっ……ッッざけるなぁああああああああ!」
聖職者の若者が、降り注ぐ蹴りを払いのけるようにして、無理矢理に立ち上がった。そして拳を振るっていた。
強盗の1人が、鼻血を噴いてよろめいた。
「てめ……!」
別の強盗が掴みかかって来るのを、若者は、振り向きながらの蹴りで払いのけた。
「わからないのか君たちは! 暴力を振るわれたら痛いという事が! わからないのか? わかるだろう、これで!」
1人、2人と強盗たちを蹴り倒した足で、若者は駆けるように踏み込み、聖職者とも思えぬ荒々しさで拳を振り回した。
強盗の1人がグシャッと大量の鼻血をぶちまけ、倒れる。
「痛いだろう? 痛いだろう!? 俺だって痛いさ! 暴力なんか振るったって、痛いだけで何も楽しくなんかない!」
鼻血まみれの拳を震わせ、若者が叫ぶ。
その震える拳で、何かが光った。指輪、のようである。
「……何が……楽しい……?」
腫れ上がった若者の顔が、涙に濡れている。
「こんな痛い思いをして人を傷付け、人から物を奪い、それで欲望を満たしたところで……心の底から、楽しめるのか?」
「野郎……」
若者の話など聞かず強盗たちは、鼻血を拭いながら剣を抜いた。槍を、戦斧を構えた。
「なめた真似してくれんじゃねえか……ぶっ殺されてえようだなあオイ?」
「って元々ぶち殺すつもりだったけどよォオオ!」
様々な武器を振り立て、猛り叫ぶ強盗たち。
デキウスは路傍の岩に腰を下ろし、とりあえず見物を続けた。
あまりにも特徴なく弱々しい外見に騙されたが、この聖職者の若者、そこそこは戦いが出来る。
一見、子供が駄々をこねて暴れているかのような彼の動きに、しかしデキウスは、確かな戦闘訓練の成果を見て取った。
「アゼル派の聖なる武術……」
間違いない。かつて唯一神教アゼル派の司祭たちが、他宗教に対する攻撃と弾圧のために作り上げた戦闘術を、この若者はそこそこ身に付けている。
「……と言っても、あの女ほどではないか」
ここまでだろう、とデキウスは思った。この若者に出来るのは、せいぜい殴り倒して鼻血を出させる程度である。武器を持った複数の敵に逆襲されたら、一たまりもあるまい。
若者は、ぽろぽろと泣き続けている。が、恐れと怯えの涙ではないようだ。
「駄目なのか……俺も、暴力を振るわなければ……」
震える右拳で、指輪が光る。
小さな金属の竜が、中指に巻き付いている。そんな形の指輪だ。
「駄目なのか……ローエン派も、暴力を手に入れなければ……お前たちのような者どもを、止められない……誰も、救う事が出来ない……あの時の、俺たちのように……」
竜の指輪が、若者の拳で輝きを強めてゆく。
緑色の、光だった。
「そう……わかっては、いるんだ。人々を守るためには暴力が必要……世の暴虐なる者どもから、弱き人々を守るためには……暴力が、なければならないんだ……あの、ガイエル・ケスナーのような暴力が……」
デキウスは一瞬、耳を疑った。この若者は今、何を言ったのか。誰の名前を口にしたのか。
「頭では……わかっているんだよ、そんな事……!」
「何をワケわかんねえ事!」
強盗たちが、若者に襲いかかった。槍で、長剣で、戦斧で。
「頭おかしくなりゃ許してもらえるとでも思ってんのかぁーッ!」
「もう金は要らねえ、殺す! 脳みそハラワタぶちまけやがれええええ!」
強盗たちは絶叫し、聖職者の若者は呻いた。
「武装……転……身……っ」
右手でぶるぶると拳を握り、掲げたまま、左手で右手首を掴む。
鼻血にまみれた竜の指輪から、緑色の光が溢れ出した。
襲いかかって行った強盗たちが、その光に弾き飛ばされて尻餅をつく。
緑色の光が、若者の右拳から左右に細長く伸びて行く。棒状の光る物体を握っている、ような格好になった。
それを若者がブン……ッと回しながら振り下ろし、構える。
構えられた光の棒が、金属製の槍として実体化していた。
同じく若者の全身でも、まとわりついた緑色の光が物質に変わりつつ、彼の肉体を露出なく包み込んでいる。
「ほう、これは……」
デキウスは感嘆した。
外見的な特徴に乏しかった聖職者の若者が、緑色の全身甲冑をまとって槍を構えた、勇壮なる鎧の騎士へと姿を変えていた。
魔法の鎧。間違いない。あの鬱陶しくも懐かしいゾルカ・ジェンキムの魔力を、僅かながら確かに感じる。
4体目の魔法の鎧、というわけだ。
「な……何だそりゃテメエ……」
尻餅をついていた強盗たちが、起き上がりながら虚勢を張る。
「んなモンで俺らがびびるとでも思ってやがるんかぁああ!」
虚勢を張りながら、剣で斬りかかり、槍で突きかかり、斧で殴りかかる。
その全てが緑の鎧に命中し、そして跳ね返された。長剣や戦斧が欠け、槍は折れた。
「わかったろう、お前たちの暴力はもう通用しない……」
使い物にならなくなった武器を手にしてよろめき、怯む強盗たち。そこへ、緑の騎士となった若者が声をかける。
「暴力で人から奪う生き方を続けていれば……いずれ、より強大な暴力に出会う。そして奪われる側に落とされる……命まで奪われる前に、生き方を改めろ」
緑の騎士が1歩、迫る。強盗たちが3歩、4歩、後退する。
それ以上、歩み迫ろうとはせず、緑の騎士は言った。
「わかったら、立ち去れ。そして人から奪わない暮らしをしろ……それだけの人数がいれば、何か出来るだろう。人の役に立つ事が……」
「出来るわけがないでしょう。こんなゴミクズのような輩に」
若い、女の声だった。
「ゴミクズどもに出来るのは、せいぜい無様な死体を残してゾルカ・ジェンキムの力の証明となる事だけ……さあ殺しなさいマディック・ラザン」
「それは……それは駄目だ、イリーナ。魔法の鎧で、生身の人間を殺めるなど」
どうやらマディック・ラザンという名前らしい緑の騎士が、異を唱えた。
ゾルカ・ジェンキムの名を口にしたのは、灰色のローブに身を包んだ、魔法関係者と思われる若い娘である。美しい顔立ちはしかし険しく冷たく、それでいて熱っぽい狂気のようなものを感じさせる。
イリーナと呼ばれたその娘が、なおも言った。
「殺しなさい……それを着ている以上、貴方は私に逆らう事など出来ないのよ」
言葉だけではなく、イリーナは何かを念じたようである。
その念が、魔法の鎧を通じてマディック・ラザンを襲った。それがデキウスにはわかった。
「うっ……ぐ……ッ! ぁああああ……」
右手で槍を持ち、左手を兜に当てて、マディックは苦しんでいる。
「やめろ……やめてくれイリーナ……ぁあああ……」
「へ……な、何だかよくわからねえが、なかなか上物のお嬢さんが出て来たじゃねえか」
この隙に逃げれば良いものを強盗たちが、イリーナに欲望の眼差しを向けた。
「売り飛ばすか? ここで、いただいちまうかああ?」
獣欲丸出しで駆け出した1人の強盗が、ガクッと止まった。止められていた。
マディックの左手が、その強盗の頭を掴んでいる。
「ぐぅ……っぉお……おああああああああ!」
悲鳴のような叫びを響かせながらマディックは、そのまま左手だけで強盗の身体を振り回した。
果実をもぎ取る、ような音がした。
強盗の、首から下の身体が、地面に叩き付けられて転がる。
頭部は、緑の騎士の左手に掴まれたままだ。
もぎ取られた生首を、手甲に包まれた五指がミシミシッ……と圧迫する。
「あああうっぐ……ぅおお……わ、我……」
強盗の頭蓋骨が、マディックの左手の中でグシャッと潰れた。飛び散った脳漿その他諸々が、緑色の全身甲冑をドロリと汚す。
「汝、殺すなかれ……の破戒者とならん……」
面頬の奥で眼光がぎらつく。特徴に乏しかった若者の顔が今、どのような形相となっているのかは見当もつかない。
「唯一神よ、罰を……与えたまえ……」
魔法の鎧に閉じ込められた身体が、ユラリと踏み出す。魔法の槍が、ブン……ッと一回転した。
長剣のような穂先が強盗3名の首を刎ね、鉄棒そのものの長柄が強盗2人の頭蓋骨を粉砕した。
「ひッ……」
「や、やめて……」
戦意を喪失した強盗5人を、魔法の槍が一気に貫通する。
「ぐっ……ぁあ……や、やめてくれイリーナ……」
屍5つを串刺しにしたままの槍を、マディックは手放した。
そして残りの強盗たちに、無手でよろよろと歩み寄って行く。苦しげに、声を震わせながらだ。
「嫌だ、暴力は嫌だ……やめて……くれえぇ……ぇええええええ!」
よろめくような動きで跳ね上がった左右の足が、強盗たちの胴体をことごとくへし折り、蹴りちぎる。緑色の脛当てに、臓物が絡み付く。
それらをビチャッと踏み潰しながらマディックは、強盗の最後の1人を捕まえ、引きずり寄せた。
「ひっ! ゆっ許して、やめてくれええ!」
「やめてくれイリーナ! やめてくれええええッ!」
捕えられた者と捕えた者が、同時に悲鳴を上げる。
デキウスは、とりあえず声をかけた。
「……人のせいにしてはいかんな、若者よ。私の見たところ、そのイリーナという御婦人が貴公を操っているわけではない」
彼女はただ、マディック・ラザンの心の内に眠るものを呼び起こしただけだ。
「その暴力性は、貴公が常日頃、心の奥底に眠らせていたものであろう」
「こんな……」
強盗の身体をグチャッと地面に叩き付けながら、マディックが呻く。
人体が、まるで馬車に轢かれたカエルの如く広がった。
見下ろしつつ、緑の騎士はわなないている。
「こんな、ものが……俺の内に、眠っている……と言うのか……」
「恥じる事はない、若者よ」
魔法の鎧の肩当てに、デキウスは優しく片手を置いた。
「非力なる者が暴力を渇望するのは当然の事……その渇望に応えてくれる魔法の鎧、実に素晴らしい道具ではないか。さすがはゾルカ・ジェンキムがこの世に遺したる物よなあ」
「……貴方は、誰」
イリーナが、険しい口調と眼差しを向けてきた。
「父を、知っているの?」
「浅からぬ因縁、というべきかな……ゾルカ殿の娘御であらせられるか」
利用すべきものが見つかった、とデキウスは思った。
「我が名はデキウス・グローラー。ロッド地方領主ライアン・ベルギ侯爵に仕える者だ。重く用いられている方だと、自負はしておる」
「お偉い様なのね……それなら、助けてあげた恩を着せても大丈夫かしら」
イリーナ・ジェンキムが、冷たい眼光を熱くギラギラと輝かせ始める。
「ロッド地方の御領主様が、戦の準備をしておられると聞いたわ。魔法の鎧の、この力……役に立つと思うのだけど」
「大いに立つとも。なるほど、仕官が目的であるか」
「誰かに仕えようという気はないの。私はただ……ゾルカ・ジェンキムの名を、そして力を、知らしめたいだけ。英雄と言えばダルーハ・ケスナーの名前しか口に出さない、世の愚かな人間たちに」
逆賊としての末路を迎えたダルーハではあるが、竜殺しの英雄としての名声は健在である。他4名の名前など、果たしてどれほどの人間が知っているだろうか。
「そのために権力者の力を利用したいだけ……利用、させてくれるわよね? デキウス・グローラー殿」
「無論だとも」
緑色の全身にドス黒い返り血の汚れをまとったまま立ち尽くすマディック・ラザンを、デキウスは頼もしげに見やった。
「ロッド地方軍の切り札として、私が貴公らをライアン侯爵閣下に推薦しよう。偉大なる魔術師ゾルカ・ジェンキムの力と名を、大いに知らしめると良い……同じゾルカ殿の形見の品を使って自身の伯父を殺害し、その領地を奪って悪事の限りを尽くすエルベット家の若き暴君を、討ち取る事でな」
「そんな奴が……いるのか……」
マディックは呻いた。面頬の内側で、まだ泣いているようだ。
「そんな奴がいる限り……俺は、こういう暴力を振るい続けなければ……ならない、のか?」
暴力というものは、本当に役に立つ。
メイフェム・グリムは、そう思わざるを得なかった。
ゴズム山地の、ふもとの村の1つである。
ここに攻め入って来た山賊の一団を皆殺しにしただけで、待遇が格段に良くなったのだ。
村人らは、メイフェムたちのために家を1軒、用意してくれた。井戸も好きに使わせてくれる。食べ物も差し入れてくれる。
おかげで、何の役にも立たない母子の面倒も見てやれる。
「見ず知らずの貴女たちに、本当にお世話になってしまって……」
弱々しい声を出しながらシーリン・カルナヴァートが、寝台の上で上体を起こした。
目の前で、人間ではない者に夫を殺された。自身は、山賊たちの餌食になりかけた。
そこを、人間ではない尼僧によって救われた。そして大虐殺を見せつけられた。
深窓の姫君がそのまま母親になったようなこの女性は、それら一連の出来事に耐えられず、村へ着くなり、こうして倒れてしまったのである。
彼女が連れていた赤ん坊は今、床の上で、マチュアにおむつを取り替えられている。
そちらに穏やかな笑みを向けながら、シーリン元王女は口調弱く言う。
「私……こんな有り様では、何もお礼が出来ないわ」
「……拾った犬に恩返しを期待するほど、さもしくはないつもりよ」
吐き捨てるように、メイフェムは応える。
「貴女たちはね、私の気まぐれで生き長らえているだけ。私の気まぐれで、そのうち殺されるかも知れないという事よ。せいぜい怯えていなさい」
暴力に秀でた者は、暴力に劣った者を、そのように扱う事が出来るのだ。気まぐれで、生かす事も殺す事も出来る。
愚かにもバルムガルド王家の管理下・保護下から脱走し、今では魔獣人間の気まぐれによって生かされているだけの惨めな女性……シーリン・カルナヴァート元王女。
王宮から逃げ出して来た彼女を、ゴズム岩窟魔宮でかくまうわけにはいかなかった。国王ジオノス2世と良好な関係を保たなければならないゴルジ・バルカウスの立場に、悪影響を及ぼすかも知れないからだ。
(……まあ、すでに及ぼしているかしらねゴルジ殿。私がこんな事をしている時点で)
「貴女……メイフェム・グリム殿と、おっしゃるのね」
シーリンが、無邪気な少女のように微笑んだ。
「竜退治の英雄の1人、と同じお名前なのね」
「ダルーハ・ケスナー以外はその他大勢。そういう扱いをされていると思っていたけど……名前くらいは、多少は知られているのかしら?」
世の人々は、竜退治の英雄と言えばダルーハの名前しか口に出さない。まあ当然か、とメイフェムは思う。赤き竜との決戦においては自分など、ダルーハやドルネオの傷を地味に治していただけなのだから。
自分の聖武術など、赤き竜に通用するものではなかった。
そんなメイフェム・グリムの事を、だがシーリン元王女は熱っぽく語っている。
「私、少し調べてみたのよ。だって素敵だと思わない? 屈強な殿方に混じって魔物たちを打ち倒す、強く美しい聖女様……私、今でも憧れているの。私自身、殿方の言いなりになるしかない非力な女だから……」
その憧れの聖女が、今や魔獣人間となり、赤き竜配下の魔物たちと同じような事をしている。
それを、この元姫君は知らない。
暗い、愉悦にも似たものが、メイフェムの胸中で静かに燃えた。
マチュアが、小さな両腕で赤ん坊を抱いたまま、いそいそと寄って来る。
「おむつを替えさせていただきました」
「まあ……ありがとうね、お嬢さん」
シーリンは、マチュアの手から我が子を受け取り、抱いた。
母親の腕と胸の間に戻る事が出来て、赤ん坊が嬉しそうにはしゃぐ。
「……ごめんなさいね。本当は、母親が自分でやらなければいけないのでしょうけど……見ず知らずのお嬢さんに、こんな事を」
「いえいえ、マチュアは慣れておりますから」
にっこりと明るく、マチュアは微笑んだ。
元々住んでいた村で、家事や赤ん坊の世話などを良くやっていた少女なのだろう。
そんな平和な暮らしを破壊したのは、ゴルジでありメイフェムだ。
明るく笑っていながらもマチュアは、心の底では深く深く自分を憎んでいるに違いないとメイフェムは思う。
当然だ、とも思う。自分は、魔獣人間なのだ。
「お洗濯をして参りまぁす」
汚れたおむつを抱えてマチュアはぺこりと頭を下げ、出て行った。シーリンが、目を細めて見送る。
「本当に、何でも出来るお嬢さんね……」
「当然よ。役に立たなければ私に殺されるもの」
言いつつメイフェムは、若い母親に抱かれて無邪気に笑う赤ん坊の姿を、じっと見据えた。
ケリスは1度だけ抱いてくれた。が、子供は出来なかった。
そんな思いとは全く関係ない問いかけを、メイフェムは口にしていた。
「貴女はどうして、王宮から逃げ出して来たの……傀儡でも、女王になれたのよ? もちろん傀儡だから何もしなくていい、ただ皆にちやほやされて栄華が楽しめる暮らしを、一体どんな青臭い理由で捨ててしまったのかしらねえ」
「……傀儡国家など作ったら、ヴァスケリアが内戦状態に陥ってしまうわ」
もちろん、それがバルムガルド王国の戦略だ。内乱に乗じて敵国を奪う。侵略の常套手段である。
「ねえメイフェム殿……政略結婚って、何だかわかる?」
王族の子女を、駒として使い捨てる事。
そうメイフェムが答える前に、シーリンが自分で答えを口にした。
「それはね、国と国を繋ぐという事なの。お嫁に出される王女というのは、要するに外交官なのよ……母国が侵略されてしまうようでは、外交官としては失格でしょう? だから、こんな家出をしてでも、ジオノス2世陛下には思いとどまっていただかなくてはならないのよ……侵略のための傀儡政権樹立、などという行いを」
自殺でもするのが最も効果的では、とメイフェムは思ったが、まあ言わずにおいた。
「夫は、私に味方してくれたわ。義父上に進言もしてくれた。もちろん聞き入れてはいただけなかったけど……だから私とフェルディを連れて、一緒に王宮を出てくれた」
その夫という男性は、メイフェムがあの場に現れた時には、すでに殺されていた。
政略結婚とは言え、愛し合っていた夫婦だったのだろう。
政略結婚でも愛を育む事は出来る、などと言っていたゼノス王子は、エル・ザナード1世女王の保護に成功したのだろうか。
そんな事をふと思いながら、メイフェムは訊いた。
「シーリン殿下は……本当は、私の事を大いに恨んでいるのではなくて? 何故もう少し早く現れて、夫を助けてくれなかったの……なぁんて」
「通りすがりの貴女に対して、そこまで図々しい事は言えないわ」
どうやらフェルディという名前らしい赤ん坊……バルムガルドの王子を、きゅっと少し強めに抱き締めながら、シーリンは言う。
「私と、そしてこの子を助けてくれた……メイフェム殿のその優しさ、ではなく気まぐれなのよね? とにかく私は、感謝しながら祈るだけ。貴女のその気まぐれが、ずっと続きますように……」
「……さあ、いつまで続くかしらね」
メイフェムは、ふん……と鼻を鳴らした。
暴力に秀でた者に生殺与奪の権を握られた、哀れな捨て犬・拾われ犬でしかないはずの女性が、しかしメイフェムが決して手にする事の出来ないものを手に入れ、幸せそうに抱いている。
じっと、ただ見据えながら、メイフェムは思うしかなかった。
(貴方は私に……何も遺してはくれなかったわね、ケリス……)