第43話 王子と王女
囲まれている。
うかつだった、とティアンナが気付いた時には遅かった。
兵士およそ1000人から成る部隊が4つ、4方向から迫って来ている。総勢4000。
ティアンナが率いる王国正規軍兵士は、1000人である。
5000人でバルムガルド軍4万に挑む事となった東国境の戦の時ほど、絶望的な戦力差ではない。だが、すでに囲まれてしまっているのだ。
レネリア地方東部の、平原地帯である。会談の場所であるガロッグ城塞まで、今日中に到着出来るかどうかというところだ。
4方向から迫りつつある軍勢は各々、ヴァスケリア王国地方領主家の旗を掲げている。
ドグマ家、ハザン家、ファジール家、リズマイヤ家……独立を宣言した、北部4地方の領主たちである。本来ならば今頃、会談に臨むべくガロッグ城塞に向かっているか、あるいは到着していなければならないはずの者たちが、このような場所で女王を待ち構えている。兵の人数差をまともに活かせる、平原で。
1000人の王国正規軍を率いるエル・ザナード1世を、およそ4倍の大軍で取り囲む陣形を作りつつある、その動きを見れば、4領主の意図するところは明らかだった。
暗殺とも言えぬ、堂々たる女王殺害。あるいは捕縛。
「も、申し上げます女王陛下!」
近衛騎兵の1人が、慌ただしく馬を寄せて来て、聞くまでもない事を告げた。
「動きの不穏なる軍勢が、4方向より迫りつつあります! 旗を見るにドグマ家、ハザン家、ファジール家、リズマイヤ家、各々の当主自らが手勢およそ1000ずつを率いております模様」
「会談の場で毒を盛られる、くらいの事はあるだろうと思っていましたが……」
呟きながらティアンナは、一瞬だけ考えた。
「あの方々が……ここまで堂々と叛乱に走るとは」
背後にいるのはバルムガルド国王ジオノス2世か、それともクラバー・ルマン大司教か。
などと考えている場合ではなかった。4倍もの敵に、押し包まれつつあるのだ。
白馬にまたがったまま、ティアンナは魔石の剣を抜き放ち、命令を下した。
「包囲が完成する前に、打ち破るしかありません……全軍、突撃!」
白馬が甲高くいななき、ティアンナを乗せたまま駆け出した。
「あ……へ、陛下!」
悲鳴じみた近衛兵の声が、背後に遠ざかってゆく。
構わずティアンナは、迫り来る4軍の1つ……正面に近いエラン・ドグマ侯爵のガルネア地方軍1000人へと突っ込んで行った。
純白のマントと白馬。下着のような青色の鎧と、瑞々しい肌の白さ。光を振りまくような金髪。
あまりにも鮮烈な色合いの疾風が、戦場を駆ける。
いくらか遅れて王国正規軍1000が、騎兵も歩兵も一緒くたになって慌てふためきながらも、女王の単騎駆けに追いすがって来る。
それ以上に慌てているのは、ガルネア地方軍だ。
包囲を完成させてから、落ち着いて攻撃を仕掛けるつもりでいたのだろう。まさか女王の方から攻撃を仕掛けて来るとは、思ってもいなかったに違いない。
幾つもの火の玉が、何本もの電光の筋が、飛んで来た。
ガルネア地方軍の中から、攻撃魔法兵士の部隊が前衛に進み出て、魔石の杖をこちらに向け、一斉射を行っている。
ただ馬で駆けているだけの女王に向かって、集団攻撃魔法を放った。もはや何の言い逃れも出来ぬ反乱罪である。この場で4領主を殺害したとしても、世間に対しては充分に正当化が出来る。
「我ながら、たちの悪い事……」
苦笑しつつ、ティアンナは魔石の剣を掲げた。
刃の根元に埋め込まれた魔石が、光を発する。人間の持つ微弱な魔力が増幅強化され、ティアンナの手から剣へと流れ込んで行く。
刀身がバチッ! と発光した。電撃。馬上で高々と掲げられた細身の剣から、稲妻が迸り出て宙を駆ける。
そしてガルネア地方軍の放った火の玉を、電光を、ティアンナの周囲でことごとく打ち砕く。
魔力の尽きた攻撃魔法兵士たちが、青ざめて硬直する。その怯え固まった表情がはっきり見える所まで、今やティアンナは接近していた。そのまま馬の速度を落とさず、魔石の剣を振るう。
白馬を駆けさせながらの、一閃。
攻撃魔法兵士の生首が2つ、怯えた表情のまま宙を舞った。
もたもたしていたら、4地方の軍勢に包囲されて4方向から攻撃魔法を喰らうところだった。
もはや戦力外と化した攻撃魔法兵団を蹴散らすように、ガルネア地方軍の騎馬隊が突っ込んで来る。ティアンナに向かって槍を構え振り立て、口々に叫びながら。
「この……魔女め!」
「逆賊に擁立されたまま、でかい顔をするなッ!」
「どうせダルーハに犯られまくってんだろぉーがああ!」
そう叫んだ騎兵が直後、鮮血と脳漿を噴き上げた。ティアンナは何もしていない。
脳天から半ば真っ二つに割られた騎兵が、そのまま落馬し、地面に広がる。
それをビチャッと踏み付けて着地したのは、1人の王国正規軍兵士だった。歩兵である。騎馬の女王に、徒歩で追い付いて来たようだ。
彼が手にした長剣は、少しだけ血に濡れている。これで馬上の敵兵を、ほぼ真っ二つに叩き斬った、のだとしたら恐るべき剣技である。
「女王陛下! 無茶をなさらないで下さい!」
血染めの長剣を振るい、敵騎兵の槍を鮮やかに切り払いながら、その歩兵が叫ぶ。若い声である。少年と言っていい若さではないのか。
「貴女お1人の命ではない事、忘れてもらっちゃあ困ります!」
そんな声と共に、血染めの長剣が斜め上方に突き上げられる。切っ先が、敵騎兵の1人に触れた。触れた程度の軽い一撃にしか見えなかったが、その騎兵は落馬していた。脇腹からビューッと、大量の臓物が噴出する。
ティアンナは息を呑んだ。これほどの剣士が、しかし近衛兵ではなく最下級の歩兵として、王国正規軍に入隊していたのか。
「まったく、頼みますぜホント……身体、もっと大事にしてくれよ」
その若い歩兵が、言葉遣いを徐々に崩してゆく。
兜を目深に被っているので、顔はよくわからない。だが何やら、はにかんでいるようである。
「あ、あんたには俺の……を……でもらわなきゃいけねえんだからよぅ……」
「……はっきり物を言いなさい」
ティアンナは声をかけた。本来ならば、まず礼を言うべきなのかも知れない。
「お……俺の……こっこここここ子供を生んでもらわなきゃいけねーんだからよォオオオオオオオオ!」
絶叫と共に、歩兵姿の若い剣士が跳躍した。獣のような跳躍だった。
安物の鎧に包まれた身体が、空中で逆さまになりながらギュルルルルッと回転し、旋風の如く長剣を振るう。
幾つもの生首が、宙を舞った。
ガルネア地方軍の騎兵たちが10人近く、首無しの屍に変わり、そのまま馬に運ばれて行く。
剣士が、着地した。空中で脱げたのか自ら脱ぎ捨てたのか、いつの間にか兜が失せている。
短めの黒髪が見えた。整ってはいるが、頭はあまり良さそうではない顔立ちが、はっきりと見えた。若者か少年か、微妙な歳の頃である。
そんな若い剣士が、柔らかく身をのけ反らせて絶叫している。
「……ッッくぁああああああ言っちまった、言っちまったよ俺いやんもぅはしたなぁああああああああいッッ!」
のけ反っていた身体が一気に前屈し、血染めの長剣が思いきり振り下ろされる。
ガルネア地方軍の騎兵が1人、馬もろとも真っ二つになった。人馬双方の臓物が大量に溢れ出し、混ざり合った。
「おぉーっと、いけねえいけねえ。お馬ちゃんまで殺しちまったぜ。ごめんなぁ」
「……貴方は、誰。正式に徴用された兵士ではないわね」
戦場だと言うのに、ティアンナはのんびりと質問をしてしまった。
「先程の世迷い言は聞かなかった事にしてあげるから、答えなさい」
「へへっ、会うのは初めてだよなティアンナ姫。俺だよ、俺」
「だから誰なの」
ティアンナは嫌な予感がした。無論この男が何者であるのかは、皆目見当がつかない。が、何やら見慣れてしまっているような気もする。この男と同じような生き物を。
「だぁから俺だよ俺! ほら見てなって!」
ガルネア地方軍の、騎兵ではなく歩兵たちが、女王エル・ザナード1世に狙いを定め、凶暴に群がって来る。
その群れのまっただ中へと、黒髪の剣士は飛び込んで行った。
粗末な歩兵鎧で猛獣の身体能力を包み隠した肉体が、獰猛に躍動して長剣を振るう。剛力と技量を兼ね備えた斬撃が、暴風の如くガルネア地方軍を襲った。
歩兵たちの生首が宙を舞い、臓物が噴出して激しくうねった。
防御の形に構えた剣や槍もろとも、歩兵たちが真っ二つに斬り下ろされて左右に倒れる。
血と脂にまみれながら全く切れ味の衰えない長剣を、黒髪の剣士は、見せびらかすように掲げた。
「こいつが証さティアンナ姫! リグロア王家に、大昔から伝わる剣!」
掲げながら、左足を跳ね上げる。その蹴りが、ガルネア地方軍歩兵の1人をグシャアッ! と吹っ飛ばした。槍が折れ、臓物の汁が混ざった血反吐が大量に噴き上がる。
地面に激突した時には、その歩兵は絶命していた。
そちらを一瞥もせず、黒髪の若い剣士は叫ぶ。
「何か長ったらしい名前があったけど忘れちまった。とにかくリグロア王家の証! 魔獣人間の馬鹿力にも耐えられる優れもんよ。まあリグロアなんて国の名前は忘れてくれて一向に構わねえが」
言われずともティアンナは、今の今までリグロアなどという国名を忘れていた。
そんな事よりも。この男は今、何を口走ったのか。
魔獣人間。そう言わなかったか。
「この俺……ゼノス・ブレギアスってえ名前だけは、もう忘れさせねーぜえい!」
踊るように身を翻しながら、剣士……ゼノス・ブレギアスは、掲げていた長剣を斜めに振り下ろした。
ビュッ! と鋭く唸る、斬撃の弧。それに触れた敵歩兵が2人、斜めに叩き斬られて吹っ飛び、倒れ、臓物を地面にぶちまける。
7歳の時にティアンナは、隣国リグロアの王太子と結婚するように言われた。が、リグロア王国そのものがバルムガルドに滅ぼされてしまったため、そんな政略結婚は最初からなかったも同然になった。
結婚相手となるはずだった男の事など、ティアンナにとっては、そこで終わりである。ゼノス・ブレギアスという名前も当時、何度かは聞かされたのだろうが覚えているはずなどなかった。
そんな失われた結婚話など、どうでも良い。
どうでも良くはない事は、ただ1つ。
「貴方……魔獣人間なの?」
「んー? ああ気にしねえ気にしねえ。かわいそうって思ってくれンのぁ嬉しいけどよっ」
逃げ腰になったガルネア地方軍の歩兵を1人、ゼノスは左手で捕まえた。無造作に、首を掴んでいる。掴んで引きずり、悠然と歩く。
「望んでなった魔獣人間……後悔しちゃいねえさ。どうよ、俺って前向きだろ?」
弱々しく痙攣する兵士の身体を引きずりながら、ゼノスは右手で叩き付けるように長剣を振るった。勇敢にも槍で突きかかって行った歩兵の1人が、その槍もろとも真っ二つになった。
「んー、それともアレか? ちったぁ後ろ向きな方が母性本能ビンビン来ちゃったりする? 人間じゃなくなっちまった悲哀とか、醸し出したりなんかして……でも俺そーゆうの苦手だしなァー」
そんな言葉と共にゴオォッ! と火炎が生じた。
ゼノスは、炎を吐いていた。迸り出た紅蓮の吐息が、周囲のガルネア地方軍を焼き払う。
少なく見ても10人前後の歩兵が、黒焦げの焼死体に変わった。
騎兵たちは、もはや近付いて来ようともしない。騎兵ら本人に戦う意志があったとしても、馬たちが完全に怯えてしまっている。
動けぬ騎馬隊の中に1つ、壮麗なる甲冑姿があった。実戦では役に立たぬであろう芸術品のような鎧で、自身のみならず馬をも飾り立てた、1人の騎士。
ガルネア地方軍司令官にして同地方領主、エラン・ドグマ侯爵である。
「じっ女王陛下! これは、いかなる、いかなる暴虐にございますか!」
怯え固まった騎兵隊に護衛されたまま、エラン侯爵が喚いている。
「陛下をお迎えに馳せ参じただけの我々に、このような仕打ち、このような無法……」
「すっとぼけた事ぬかしてんじゃねえぞコラ」
口の周りにまとわりつく微かな炎をペロリと舐め取りながら、ゼノスが牙を剥く。
彼の左手の中で、兵士の首が折れた。
その屍がブゥンッ! と振り上がる。
「なぁーにがお迎えにだ。人の嫁さんを寄ってたかって捕まえてぇ、あんな事こんなコトする気満々で取り囲んでやがったクセによぉおあああああああ!」
首の折れた兵士の死体を、ゼノスは思いきり投げつけていた。
超高速で空を飛んだ死体が、エラン侯爵に激突する。
豪奢な馬甲を着せられた軍馬の上で、死せる兵士と生きた地方貴族がグシャ……ッと一体化した。様々なものを飛び散らせながら、両方ともが死せる人体と化し、一緒くたに落馬した。
敵将を討ち取ったくらいでは、しかしゼノスの怒りは鎮まらない。
「独立だか何だか知らねえがよォ、わけわかんねえ事やって俺の嫁さん困らせてんじゃねぇーぜゴルゥア!」
怒声と炎が、ゼノスの口から溢れ出し、赤い荒波の如く迸って、動けぬままの騎兵隊を襲う。
領主を護衛しきれなかった騎兵たちが、馬もろとも一瞬にして焼け死んだ。
「あちゃあ……またお馬ちゃんを殺っちまった。駄目だよ俺、動物はむやみに殺しちゃあ」
こんがりと焦げ付いた馬の焼死体から、ゼノスは後脚を1本、引きちぎった。そして齧り付く。
「んー……殺しといてアレだけど、やっぱ馬って肉としちゃあそんな美味え方じゃねえよなあ」
自分が丸焼きにしたばかりの馬肉をバリバリと咀嚼しながら、そんな事を言っている。
「俺的にゃあ、肉ってのは美味ぇ順に豚、鳥、牛、魚ときて馬と羊……人間はその次くれえかなあ。ティアンナ姫はどう思う?」
「……知りません」
そう答えるしかないまま、ティアンナは見回した。
司令官を失ったガルネア地方軍が、我先にと逃げ出して行く。総崩れの、完全なる敗走だ。
他3地方の軍勢も、それに近い有り様である。
全戦力の4分の1が、敗走を始めてしまったのだ。しかも領主4名のうち1人が死亡。剛勇とは程遠い他3名が、戦場にとどまっていられるはずがなかった。
3000もの大軍が、慌ただしく退却して行く。
焼いた馬肉をむしゃむしゃと食らいながら、ゼノスが叫んだ。
「こらぁー決め台詞はどうした決め台詞! これで勝ったと思うなよ、とか言ってけぇえー!」
一方。女王の単騎駆けにようやく追い付いたものの、する事がなくなってしまった王国正規軍1000人は、ただ呆然としている。
軍略というものを考えるなら、ここは追撃を命ずるべきなのかも知れない。
人間の軍略、兵法、戦術……そういったものを、ことごとく無意味なものにしてしまう怪物が、また1匹出現してしまった。
その怪物が、齧りかけの馬の後脚をティアンナに差し出して来る。
「食う?」
「要りません。それより、貴方には訊きたい事があります」
本来ならば、まずは礼を言うべきところなのかも知れない。
「魔獣人間が何故、私を助けるような事を?」
「そりゃあ、あんたが俺の嫁さんだからさ」
無邪気に屈託なく、ゼノスが笑う。
「まずは御両親に挨拶といきてえとこだが……あんたも俺も、親は殺されちまってんだよな。だからまあ、とりあえずゴルジ殿に挨拶してくれよ。俺の恩人だからさ」
ゼノスの両親は、リグロア王国滅亡時に殺されてしまったのだろう。
ティアンナの父である前国王ディン・ザナード3世は、ダルーハに殺された。母マグリア・エルベットは、誰かに殺されたわけではなく病死である。今はメルクト地方に眠っているが無論、この男を墓前に連れて行こうとは思わない。
そんな事よりも今この男は、聞き捨てならない人名を口にした。
「ゴルジ殿……ですか?」
「そうよ、俺を魔獣人間にしてくれたゴルジ・バルカウス殿。俺その人に、ティアンナ姫を連れて来いって言われてんだよねー」
「そのゴルジ・バルカウス殿は、今どちらに?」
思わぬ機会が巡って来た、のかも知れない。ティアンナは、とりあえず情報入手を試みた。
「実は私もお会いしたいと思っていたところ。もしかして、バルムガルドにおられるのかしら」
「よく知ってんじゃねえか。バルムガルドの何たら魔宮ってとこで、魔獣人間の研究をやってんだよ。くそ国王のジオノス2世に許可されて、大っぴらにな」
このゼノスという男は使えるかも知れない、とティアンナは思った。訊いてもいない事を、べらべらと喋ってくれている。
「とにかくゴルジ殿に会って用事済ませてから、結婚式! それからしっしししし新婚初夜! お、俺よォ……童貞……ちゃあんと取っといてあるんだぜ?」
乙女のように恥じらいながら、ゼノスが妄言を吐いている。
聞き流しつつ、ティアンナは見回した。ガルネア地方軍兵士たちの、斬殺死体と焼死体。
あの東国境においても、これと同じような事が行われたのだろう。たった1人の、人間ではない若者によって。
同じような存在がもう1体、出現してしまった。そして今、同じような虐殺の光景が作り出された。
まず言える事は1つ。ゼノス・ブレギアスというこの怪物を、放置しておくわけにはいかない。
ティアンナの力では、殺す事など出来ないだろう。だからと言って、このまま会談に伴うわけにはいかない。王都エンドゥールに連れ帰るわけにもいかない。ヴァスケリア国内に、いさせておいてはならないのだ。
一刻も早く国外へと……まずはこの場から連れ出さないと、せっかく1人の戦死者も出ずに済んだ王国正規軍1000人が、ガルネア地方軍と同じような目に遭いかねない。
そして、同じような怪物が次々と造り出されてヴァスケリアへと攻め込んで来る事態を、未然に防がなければならない。
そのためにティアンナが今、選ぶべき道は、もはや1つしかなかった。
「……いいわ。ゴルジ・バルカウス殿の所へ、私を連れて行きなさい」
バルムガルドによる魔獣人間開発を、阻止する事。
バルムガルドで魔獣人間開発を行っている者を、この世から消し去る事。
今はそれが、最優先事項なのだ。独立や傀儡国家その他諸々、魔獣人間の絡まぬ面倒事ならば、後でどうとでもなる。
とにかくバルムガルド王国に、魔獣人間という戦力を持たせてはならない。
戦う事なく勝利を収めてしまった王国正規軍に、ティアンナは命じた。
「筆記の用意を」
「は、はい」
近衛兵の1人が、公式命令書用の高級紙と羽根ペン一式を持って来てくれた。ティアンナは、馬を下りて受け取った。
ゼノスが、またしても世迷い言を吐いている。
「何だ何だ、よせやい恋文なんて。目の前にいるんだからよォ……あ、愛の言葉なら、はっきり口で」
「いいから背中を貸しなさい」
ティアンナは、ゼノスに後ろを向かせ、その広い背中に高級紙を当てた。そしてサラサラと羽根ペンを走らせる。
最後に左手の親指を少しだけ噛み切って、血の拇印を押した。
「ヴァスケリア国王エル・ザナード1世は、北部4地方領主による叛乱・襲撃に遭い、生死不明の行方知れずとなりました」
書き上がった書簡を近衛兵に手渡しながら、ティアンナは言った。
「これを副王モートン・カルナヴァート殿下に届けて下さい。後の事は……兄上が、良きように取りはからって下さるでしょう」
「へ……陛下?」
一方的に書簡を預けられた近衛兵が、わけのわからなそうな顔をしている。
自分は今、ゼノス以上の世迷い言を口にしている。そう自覚しながらもティアンナは、
「……頼みましたよ」
一言だけを残して、ひらりと白馬にまたがった。
女王エル・ザナード1世が行方不明、それに4領主の1人が死亡。となれば、この度の会談は間違いなく中止となるだろう。
この後、いかなる政治的外交的問題が生ずるにしても、バルムガルドから魔獣人間という軍事力さえ奪っておけば、どうにでもなる。
「さあ行きましょうゼノス王子。まずは私を、間違いなくゴルジ・バルカウス殿に会わせて下さる事。結婚云々の話は、その後で……ね?」
「わぁーかってるって。俺ぁ、ちゃんと待てる子だからよ」
骨だけになった馬の後脚を、ゼノスは勢いよく放り捨てた。
「さあ行こうぜティアンナ姫。俺たちの愛と幸せの旅路、出発だぁー!」
はしゃいで走り出すゼノスを、ティアンナは馬で追った。騎馬の少女と徒歩の魔獣人間が、バルムガルドの方向へと、揃って駆け出す。
当然と言うべきか、王国正規軍騎馬隊が追いすがって来ようとする。
「へ、陛下! お待ちを!」
「どこへ行かれますかっ!」
ついて来ないよう命令しても駄目か、速度で逃げきるしかないか。とティアンナが思う前にゼノスが立ち止まり、振り返り、叫んだ。
「ついて来んじゃねえよ、お邪魔虫ども……てめえらを結婚式に招待した覚えはねぇえーッ!」
王国正規軍騎馬隊が、ビクッ! と動きを止めた。騎兵よりも、馬たちが怯えている。
彼らに向かってゼノスが、リグロア王家の剣を構え振りかざし、跳躍しようとする。
「金魚の糞は、ここでブッた斬っておくっきゃねえよなあああああ!」
「やめなさいッ!」
ティアンナの怒声が、凛と響き渡る。
襲撃寸前だったゼノスの身体が、ビクビクッ! と感電したかの如く震え、硬直した。
「うッ……ふぅ……だ、駄目だってティアンナ姫。そんな綺麗な声で怒られたら、俺……」
その場にへなへなと、妙に内股気味に座り込みつつゼノスが、馬上のティアンナを見上げる。獣のように凶暴で鋭い両眼が、何やら熱っぽく潤んでいた。整ってはいるが頭は悪そうな顔が、赤い。呼吸も荒い。
「あっ……そ、その怒った顔、超イイ……そんなふうに怒られたら、睨まれたら、俺たたたた勃っちゃうよぉおおお」
「何が!」
白馬の上からティアンナは、ゼノスの顔面を、片足で思いきり蹴りつけ踏みつけた。
女の子の蹴りで負傷するとも思えない魔獣人間の顔面が、プシューッと鼻血を噴いた。
「そ、そんな……恥ずかしいコト、男の子の口から言わせるのかよぉ……ぁ……ンッ……駄目! 駄目だめダメらめ出ちまう! そんなに踏まれたら俺ドピュドピュって出ちゃうよぉおおおおお!」
「だから何がよ……」
整っているが皮は厚そうな顔面をグリグリと踏みにじりながら、ティアンナは天を仰いだ。
そして、こんなわけのわからぬ生き物を大量生産しようとしている人物に、心の中で語りかける。
(理解しなさいゴルジ・バルカウス……魔獣人間など、全てこのような失敗作にしかならないという事を!)