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第38話 人の姿をまとう者たち

 リムレオンはさぞかし迷惑しているだろう、とティアンナは思う。

 サン・ローデルのような大地方の領主の地位など、野心のかけらもないあの従兄にとっては、要らないものの筆頭であろう。

 バウルファー侯亡き後のゲドン家からは、貴族の特権を全て剥奪した。当主が領民に対し大々的に人狩りなどを行っていたから、一族そのものに叛逆の罪を被せるのは難しい事ではなかった。

 とにかくエルベット家には、強大な力を持ってもらわなければならない。そしてエル・ザナード1世の政権を、強固に支えてもらわなければならない。

 自分の身に何かあればヴァスケリア王国は滅びる、とまで自惚れるつもりはティアンナにはないが、それでも万一の時は、エルベット家の人々に王国を守ってもらうしかないのだ。

(お願いするわよリムレオン。私の身には、何が起こるかわからないから……こんな書簡まで来てしまうし)

 独立宣言、である。

 ヴァスケリア王国北部のレドン地方、ガルネア地方、バスク地方、エヴァリア地方……ダルーハ・ケスナーの叛乱によって特に大きな被害を受けた、いわゆる「北の戦災地」として一括りに扱われる事の多い4地方をそれぞれ治めていた領主たちが、バルムガルドと同じような事を言い始めたのだ。

 すなわち逆賊ダルーハに擁立されたまま玉座に居座っている女王など、自分たちは認めるわけにはいかない。レドン、ガルネア、バスク、エヴァリアの4地方は、シーリン・カルナヴァート殿下を女王に戴き、正統なるヴァスケリア王国としての道を歩む、と。

 その宣言が記された書簡には、クラバー・ルマン大司教の聖印も押されている。ヴァスケリアの唯一神教会はこの独立を支持する、という事だ。

 書簡を携えて来た使者に、ティアンナはとりあえず微笑みかけた。

「それで……私に、どのようにせよと?」

「正統ヴァスケリア女王たるシーリン・カルナヴァート陛下は、しかし現在バルムガルド国内におられます」

 若い男だった。黒に近い、焦げ茶色の髪をしている。

 正装し跪いた長身は、すらりと無駄なく鍛え込まれ、優男そのものの外見にそぐわぬ力を秘めているのがティアンナにはわかった。

 秀麗な顔を伏せたまま、その使者は言葉を続けた。

「シーリン陛下には一刻も早く、王国として統治なさるべき4地方へと入っていただかねばなりません。そのためには貴国の領内を通過せねばなりませぬゆえ」

「通過など……そもそも独立など、許すわけがなかろう。何を言っておるのだ」

 シーリン・カルナヴァート元王女の同腹の兄であるモートン副王が、玉座の隣で怒っている。

「許されるわけがないとわかっていながら、このような書簡を持って来る。それはもはや宣戦布告に等しいという事、理解しておるのだろうな?」

 ティアンナは軽く片手を上げて、副王を黙らせた。こんな偉そうな仕草で、兄は黙ってくれる。

 跪いたままの使者に、ティアンナは問いかけた。

「使者殿……貴方のお名前を、お聞かせ願えましょうか?」

「レボルト・ハイマンと申します」

「バルムガルド王国に、そのようなお名前の将軍がおられたと記憶しておりますが」

 ティアンナの言葉に、レボルトの長身が一瞬、微かに震えた。有るか無きかの反応だった。

「レボルト殿、貴方は……バルムガルドの方ですか?」

「……いかにも。正統なるヴァスケリアの独立建国は、バルムガルド王国としても大いに支持するところでございます」

 謁見の間に集う廷臣たちが、ざわついた。

 独立せんとしている4地方の領主らではなく、彼らの後ろ楯であるバルムガルド王国が、このような使者を送ってくる。独立を認めなければ我らが黙ってはいないぞ、と言っているようなものだ。モートンの言う通り、宣戦布告に等しい。

「……東国境における不幸な出来事を、忘れたのか」

 そのモートン副王が、さらに言った。

「あのような戦、我らとて望むところではなかった。それでも我らが勝ってしまったが、嫌な戦であった。あれを繰り返すような事態は、お互い避けようではないか使者殿」

「戦……ではありませんよ、あれは」

 拝跪したまま、レボルトは顔を上げた。

 秀麗な顔に、鋭く険しい、敵意に等しいものが漲っている。

「あんなものは戦ではなく……虐殺です。そうでありましょう? エル・ザナード1世陛下」

 ティアンナは息を呑んだ。

 ヴァスケリア軍の大快勝と語られているあの戦が、本当はどういうものであったのか、このレボルトという若者は知っているのか。

「おわかりですか女王陛下。貴女は人間の戦に、人間ではないものを持ち込んでしまわれたのです」

「私が持ち込んだわけではありませんよ、レボルト殿」

 彼は、様々な物事を、頼んでもいないのに暴力で解決してくれる。

「魔物を飼っている。世の人々は私の事を、そのように言っておられるようですが……あの方を飼い馴らす事など、誰にも出来はしません」

「貴国とは何の関係もない怪物が、勝手に現れて勝手に暴れたと。そうおっしゃるのですな」

 レボルトの鋭い両眼の中で、敵意が燃え上がった。

「ならば我々も勝手に、あの怪物を退治させていただく。構いませんな?」

「命知らずな事はおやめなさい。貴方1人が命を落とす、だけでは済まない事になりますよ」

 ヴァスケリアを守るために、バルムガルドを滅ぼす。彼ならばそう言って、実行に移しかねない。

 そんな事が起こる前に、面倒事は片付けなければならない。人間である自分たちの手で、穏便に速やかに。

「……会談の場を設けていただく必要がありそうですね。私とシーリン・カルナヴァート元王女、のみならず独立を望んでおられる地方領主の方々に大司教猊下、そしてバルムガルド国王ジオノス2世陛下を交えて」

「ジオノス2世も同じ事を申しております。新たなる国家を承認するための会合、1度は開かねばなりません」

 ゆらりと立ち上がりながら、レボルトは言った。

「日時や場所に関しては、いずれまた……」

「ジオノス2世陛下によろしくお伝え下さい。むやみに他国を狙わずともバルムガルドは富める国……行き過ぎた拡張主義はその富を損ない、貴国に大いなる不利益をもたらすでしょう。と」

「大いなる不利益……あの怪物が、我が国に攻め込んで来るとでも」

 レボルトの身体が、メキ……ッと痙攣した。秀麗な顔が一瞬、歪んだ。

 人間の表情筋では絶対に起こりえない歪み方だ、とティアンナは感じた。

「そうなったら、この私が迎え撃つ……そして倒す。それだけですよ」

「貴方は……!」

 ティアンナは思わず、玉座から立ち上がってしまいそうになっていた。横のモートン副王も、むくんだ顔を青ざめさせて目を見開いている。

 間違いない。こんなふうに身体を震わせ、表情をねじ曲げながら人間の姿を脱ぎ捨てていった者たちを、自分は知っている。先の戦で、嫌になるほど目の当たりにした。

 この場では人間の姿を脱ぎ捨てようとせず、レボルト・ハイマンは一礼し、背を向け、歩み去って行く。

 彼が今その気になれば、謁見の間を守る衛兵たちなど片っ端から虐殺し、エル・ザナード1世を殺害する事も出来るだろう。

 何故かそれをせずに去って行くレボルトの背中に、ティアンナは一言だけ問いかけた。

「……何故です?」

 廷臣たちが、キョトンとしている。この質問の意味を理解した者がレボルト以外にいるとすれば、モートンくらいであろう。

 歩みを止めず、顔だけを少し振り向かせて、レボルトは答えた。

「今ここで私がそれを実行すれば……人間ではないものが、人間の政に介入する事になる。それは許されないのですよ、女王陛下」

 鋭い、禍々しいほどに鋭い瞳が、ギラリと輝きを増した。

「私がこの力を振るうのは、あの怪物に対してのみ……奴は、この私が始末する。必ずだ」

 紛れもなく、魔獣人間の眼光だった。



 自分が何故こんな所にいるのか、リムレオンは時折わからなくなる。

 今は、領主の椅子に座っている。以前はバウルファー・ゲドン侯爵が座っていた椅子である。

 自分は伯父から全てを奪ってしまったのだ、という思いが、まるでバウルファー侯の亡霊のように、リムレオンの心に取り憑いて離れてくれない。

 2人、床に這いつくばるように平伏していた。

 うち1人は、本来ならば今頃この椅子に座っていたかも知れない人物である。

 ガートナー・ゲドン伯爵。30歳。亡きバウルファー侯の長男で、父親譲りの大柄な体格をしているが、明らかに鍛え方が不足しており、巨体というよりは肥満体である。

 逆賊に認定され、領地も特権も失ってしまったゲドン家の代表たるガートナー伯爵が、13歳も年下の新領主に対して、平伏しながら泣き事を漏らした。

「我らの財産を全て没収とは、あまりに惨い処置……せめて東部3町8村の徴税権だけでも、返していただくわけには参りませぬか。何とぞ、どうか」

「……伯爵、とりあえず顔をお上げ下さい。頭を下げられても、出来る事と出来ない事がありますから。メッケル司祭、貴方もです」

 ガートナーより少し年上と思われる中年の男が、土下座をしたまま顔だけを上げた。泣き顔に近い表情だ。

 メッケル・バウアー司祭。少し前までは司教だった。唯一神教会サン・ローデル地方聖堂の、頂点にいた聖職者である。

 ダルーハ・ケスナーの叛乱以前、ディラム派が教会の主流だった頃は、その宗教的権威を私用して不正に富を貪っていたらしい。エミリィ・レアの話によると、貧しい者のためには何もしないこの人物のせいで、彼女の両親は病死しても埋葬すらしてもらえなかったようである。

 領主ゲドン家とも結託して領民からの搾取に励んでいた司教が、今や司祭に降格し、一切の利権を失って、新領主の眼前で土下座をしているのだ。

「どうか……どうか私めに、エルベット家の方々のお力添えを……」

 女王の親族であり、いまやヴァスケリア王国西部における最大の領袖となったエルベット家の権威に、この元司教は何やら期待しているようである。

「唯一神の御心に背く事なく、清貧を旨として聖務に励んで参りましたのに……このような仕打ち、ローエン派の大司教勢力によるディラム派への不正な攻撃としか言いようがありませぬ」

 ディラム派を中枢とする教会組織が、ダルーハ軍によって完全に破壊された。それによって台頭の機会を得たローエン派の大司教が、王国全土からディラム派を一掃しようと考えるのは、まあ当然であろう。

 ここサン・ローデルにおいても、ディラム派の司教がこうして罷免された。クラバー・ルマン大司教の派遣したローエン派の司教が、そろそろ赴任して来る頃である。

「エルベット家は一介の地方貴族です。教会の人事に介入する権限はありません……が、異議の申し立てくらいなら出来るかも知れません」

 リムレオンは言った。

「新しく赴任して来る司教殿のお仕事ぶりを、しばらく見てみましょう。前の司教殿の方が良かった、という声が領民から少しでも上がって来たら、僕も考えてみる事にします」

「そ、そのような悠長な……」

 泣き事を続けようとするメッケル司祭を無視してリムレオンは、続いてガートナー伯爵に言葉をかけた。

「伯爵。徴税権に関しては、もう地方領主が好き勝手にはやれない体制が出来上がっています。それはご存じでしょう」

 ティアンナが作り上げた体制である。5公5民。この税制を、放っておけば搾取に走る地方領主たちに遵守させるため、ティアンナはかなり強引な改革を断行したようだ。

 王都からの監視体制も、税で私腹を肥やした領主に対する罰則も、強化された。

 東国境でバルムガルド軍に大勝した事で、女王エル・ザナード1世の権威というものは間違いなく高まった。だから、いくらか強引な政策も押し通せる。反エル・ザナード1世派の筆頭とも言うべきバウルファー・ゲドン侯爵がこの世から消えた今となっては、尚更だ。

「ガートナー伯。貴方がサン・ローデル地方東部3町8村でどれほど無法な搾取を行っていたのかは、調べさせていただきました」

 毅然とした口調を、リムレオンは作ってみた。

「体制がどうであろうと、貴方がたに徴税を任せるわけにはいきません。普通に暮らしてゆけるだけのものを月々、ゲドン家の方々にはお渡しします。それで足りないとおっしゃるなら、何か仕事をして下さい」

「む、無体な……我が父を殺め、領主の地位を奪い取っておきながら、それでも足らずに何と無体な事をおっしゃるのか」

 ガートナーが恨み言を呻く。

 殺して奪った。確かにゲドン家の人々にしてみれば、そういう事にしかならないだろう。

 言い返す事が出来ずにいるリムレオンに対し、ガートナーはなおも語気を荒げてゆく。

「いい気になるなよ小僧! 貴様は自分の伯父を殺害し、我らから全てを奪い! その無法を、女王の親族であるからと見逃されて」

「勘違いをなさっては、いけませんなあ」

 言葉と共に男が1人、領主の間にのしのしと歩み入って来た。

 タテガミのような頭髪と髭に囲まれた厳つい顔に、傷跡を走らせた男。見るからに軍人だが、軍装はしていない。大柄な力強い身体には、粗末な布服を着用しているだけだ。

 手土産のようなものを、左手でぶら下げている。角を生やした、魔物の生首だ。

「バウルファー・ゲドン侯爵閣下を殺害し奉ったのは、リムレオン・エルベット様ではなくこのブレン・バイアス……仇をお討ちになってはみませんかガートナー伯爵殿。受けて立ちますぞ?」

 ニヤリと獰猛に微笑みながらブレンは、ガートナー及びメッケル両者の眼前に、魔物の生首を転がしてみせた。両者とも女性のような悲鳴を漏らし、尻餅をついた。

 ブレンに続いてぞろぞろと入って来た兵士たちが、尻餅をついた2人を引きずり起こし、捕え、連行してゆく。

 シェファがこの場にいなくて良かった、とリムレオンは思った。彼女ならば容赦なく攻撃魔法をぶっ放し、ガートナーもメッケルも焼き殺していたかも知れない。

 ブレンが、リムレオンに向かって跪き、報告した。

「若君……いえ侯爵閣下。魔物どもの一団が、西より領内へと侵入しておりました」

 侯爵閣下とは誰の事だ。一瞬、リムレオンはそう思った。

「幸いに領民に被害なきうちに殲滅いたしましたが、気を抜く事は出来ません」

「西……と言うと、ロッド地方でしょうか」

 リムレオンは考え込んだ。

 ロッド地方の領主はライアン・ベルギ侯爵という、自分とは全く面識のない人物である。ただバウルファー侯に近い、すなわち反エル・ザナード1世派の地方貴族であるという噂は聞いている。

 だからと言ってライアン侯が、魔物どもと結託して不穏な行動を起こしている、などと断定出来るものではないだろうが、それでもロッド地方に赴いて調べてみる必要はありそうだ。サン・ローデルに魔物を送り込んでいる元凶が、ライアン侯爵の領内にあるのならば当然、彼の了承を得て排除しなければならない。

「……ブレン兵長、留守を頼みます」

 領主の椅子から、リムレオンは立ち上がった。

「侯爵閣下……どちらへ?」

「ロッド地方へ、調査に行って来ます。魔物たちの出所を確かめないと」

「いけません、領主様がそのような! 一体何を言っておられますか」

 ブレンの大きな身体が、リムレオンの眼前に立ち塞がった。

「このブレン・バイアス1人に、お命じ下さるべきです」

「ブレン兵長は今、戦って来たばかりではありませんか。僕とて魔法の鎧の装着者です。調査くらいなら」

「いい加減になさい、お2人とも」

 領主の間に、一組の男女が入って来た。

 声を発しているのは女性の方である。やや太り気味の、中年女性。

 リムレオンの母、ヴァレリア・エルベットだ。

「領主様ともあろう御方が、単身で他の地方へ出向かれるなどと……貴方の身に何かあれば、ゲドン家の愚か者たちが領主の座に返り咲いてしまうかも知れないのですよ」

「愚か者って……母上、貴女の御実家の方々ではありませんか」

 ここサン・ローデルの統治には、旧領主ゲドン家の出身であるヴァレリアの助言が必要不可欠だった。エルベット家にあって、サン・ローデル地方の事を最も知り尽くしているのが、この母なのだ。

 もちろん様々な事に正式な決定を下しているのは、領主たるリムレオンである。が、その決定に至るまでの道筋は、母が整えてくれる事が多い。

「愚か者は、愚か者です……侯爵閣下、まさかあの者たちに負い目を感じていらっしゃるわけではないでしょうね?」

 容赦のない口調で、母は言った。

「いけませんよ、そんな事では。先程もそう、あそこは貴方が毅然とした態度をお取りにならなければいけないところ。ブレン兵長に頼らず、御自分であの者たちを退出させなければならなかった場面です。兵長も、あまり過保護な事はなさらないように」

「も、申し訳ございません」

 ブレンの大きな身体が、小さくなった。

「……貴方も、何やら負い目に近いものを感じていらっしゃる?」

 言いながらヴァレリアが、優しく微笑んだ。

「兄は、愚か者だから死んだのです。手を下したのが、たまたまブレン殿だったというだけの事。それより、こちらの侯爵閣下がバウルファー・ゲドンのようになってしまわぬよう、貴方にはしっかりとした補佐をお願いしなければなりません」

「はっ……」

 小さくなったまま、ブレンが平伏している。

 1つ咳払いをしてから、リムレオンは訊いた。

「……ところで母上、そちらの方は?」

 ヴァレリアの伴って来た、1人の男性。先程から、恭しく跪いたままである。

 ブレンと同年代か、やや年下であろうか。紳士的な口髭を生やした穏和そうな男で、唯一神教の法衣を身にまとっている。

 ヴァレリアが紹介する前に、本人が名乗った。

「レイニー・ウェイルと申します。この度サン・ローデル地方聖堂の司教位を拝命し、赴いて参ったところでございまして」

 先程つまみ出されて行ったメッケル元司教の、後任者というわけだ。彼がまだこの場にいたとしたら、激しい言い争いが展開されていただろうか。

「リムレオン・エルベットと申します。サン・ローデルの領主をやらせていただいておりますが、至らぬ所ばかりで」

 跪いているレイニー司教に合わせて、リムレオンも片膝をついた。

「ローエン派の方々にも、いろいろと助けていただきたいと思います」

「新しい御領主様の事は、エミリィ・レアから聞いておりますよ」

 レイニーが顔を上げ、微笑んだ。

「彼女を、ご存じなのですか?」

「いささか縁がありましてな……それより侯爵閣下、御領内に魔物たちが入り込んでおります」

 微笑んでいたレイニー司教の表情が、曇った。

「私もエミリィも、実はそれで少々危険な目に遭いまして。その時はトロルが5匹ほどでしたが」

「トロルが……」

 リムレオンは息を呑んだ。

「そ、それでエミリィは?」

「ああ、彼女は無事です。ゼピト村にも被害はなく」

「そうですか……」

 メルクト地方でオークやギルマンに襲われていた頃と比べて、魔物たちの出現頻度が上がっていた。

 ブレンだけでなくシェファも、サン・ローデル全域を駆け回って対処してくれている。

 自分は何をしているのだ、とリムレオンは思う。何のために、竜の指輪を中指にはめているのか。領主の椅子になど、座っている場合ではないのではないか。

「……実に興味深い話だ。トロル5匹に襲われて無事とは」

 ブレンが、訊問のような口調で言った。

「いかにして危機を脱したのか、ぜひともお話をお聞きしたいが」

「それは……申し上げて良いものかどうか……」

 しばし躊躇った後、レイニーは口にした。聖職者の口には似合わぬ、禍々しい単語をだ。

「御領主様は……魔獣人間、というものをご存じでしょうか?」



 いくらか頬骨の目立つ顔立ち。がっしりと筋肉の引き締まった肉体。

 脱いだ上着を腰に巻き付けた、上半身裸の姿で今。ギルベルト・レインは、巨人のような大木と向かい合っていた。

 いくら巨大でも、樹木である。殴ろうが蹴ろうが斧を叩き付けようが、回避も防御もしないし反撃もしてこない。

「見かけがそこそこ立派なだけの、でくの坊か……まるで俺だな」

 呟きながら、ギルベルトは左足を離陸させて身を捻った。

 部下を、1人も救えなかった。その思いを宿した蹴りが、大木の幹を直撃する。

 人の胴回りほどもある幹が、その一撃で折れた。

 バキバキバキッと倒れて来た大木を、ギルベルトは裸の上半身で受け止め、左肩に担ぎ上げた。

 この大木を切り分けて薪に変え、村へ運ぶ。何か畑仕事の類があれば、ついでに手伝う。

 前の領主が人狩りなどをやったせいで労働力が激減しているらしく、体力だけが取り柄のギルベルトのような来訪者は歓迎された。

 サン・ローデル地方、ゼピト村の近くの山中である。ここにギルベルトは一軒の小屋をもらい、住んでいた。

 村へ下りて行っては、力仕事や汚れ仕事をこなす。それだけで村人たちは、食料などを分けてくれる。いろいろと、良くしてくれる。

 村に住んではどうか、と村長やエミリィ・レアは勧めてくれたが、ギルベルトは山中での1人暮らしを選んだ。

 あれだけ部下がいたのに、とうとう自分1人だけになってしまった。

「……これからどうするつもりだ、役立たずのギルベルトよ」

 蹴り折った大木を担いだまま、ギルベルトは空を見上げ、自身に問いかけた。

 木は、折り倒せば薪や木材となり、人の生活の助けとなる。

 だが魔獣人間は、生きている間は殺戮を行うだけ。死ねば、蛆もたからぬ有機物の残骸と化すだけ。本当に、何の役にも立ちはしない。

 エミリィから、いろいろと話は聞いた。

 前領主が人狩りなどをやらかしたのは、魔獣人間を造るためであったらしい。

 その魔獣人間造りを実際に行っていたのが、ゴルジ・バルカウスなる男であるという。

 魔獣人間などという出来損ないの生命体に過剰な期待を抱いている愚か者が、ムドラー・マグラ以外にも存在しているのなら、殺しておかなければならない。自分や部下たちのような者が、生み出される前に。

 ギルベルトはそう思ったのだが、しかしエミリィの話によると、ゴルジ・バルカウスはすでに死んでいるらしい。複数の魔獣人間を引き連れてゼピト村を攻めたものの、村を守ってくれた者たちに倒されてしまったのだという。

「魔獣人間など、その程度のもの。いずれは誰かに倒されるしかないという事か……うん?」

 折り倒したばかりの大木を担いだまま、ギルベルトは振り向いた。

 地面に残った切り株の傍らに、いつの間にか人影が1つ、うずくまっている。

「ふぅうむ、これは……」

 若い女だった。娘、いや少女と言ってもいい。エミリィ・レアよりも、1つか2つ年上であろうか。

 地味な灰色のローブに、細身を包んでいる。あまり着飾ろうという気はないようだ。

「これは、まったく……種も仕掛けもありません、って感じよねえ。本当にこんなブッとい木、蹴りで折っちゃったんだあ」

 鮮やかな折れ跡の残った切り株をまじまじと観察しながら、その少女は何やら感心している。

 あまり長くない、さらりとした髪に囲まれた顔立ちは、美しい。が、一癖ありそうなものを感じさせる。

 そんな美貌が、ちらりとギルベルトの方を向いた。

「強いのねえ、お兄さん……いや、おじさん……かな? 微妙なお年頃って感じ」

「……30を過ぎたばかりだ。文句があるか」

 会話に応じてやりつつもギルベルトは、担いでいた大木をズゥ……ンッと地面に転がした。何か、嫌な気配を感じたからだ。

「貴様は何者だ小娘。俺に、何か用があるのか」

「あたしはセレナ・ジェンキム。通りすがりの旅の魔術師……もどきです」

 名乗りながら、少女は立ち上がり、1度だけ身を翻して見せた。地味な灰色のローブに一瞬、魅惑的な身体の曲線が浮かんだ。

「もどきですから当然、強い攻撃魔法とか使えません。強くてかっこいい、お兄さん? おじさま? に助けてもらえたらなぁーって感じなんだけど」

 何から助けて欲しいのかは、すぐに明らかになった。

 嫌な気配に続いて、まず音が聞こえた。金属製の甲冑が複数、カチャ、カチャ……と音を立てている。

「なるほど……追われているのか、こいつらに」

 ギルベルトは見回した。

 落ち着きなく金属音を鳴らしながら、周囲に群れつつあるもの。それは鈍色の全身鎧に身を包んだ、歩兵たちだった。

 ざっと数えて15、6人。1人の例外もなく、頭から手足の爪先に至るまで、生身の露出が一ヵ所もない。顔を覆う面頬に横一筋、視界確保用の裂け目が走っているが、その奥に眼光の輝きは感じられなかった。

 生気と呼べるようなものを全く感じさせない、鈍色の甲冑兵士たち。死体に全身鎧を着せているのか、とギルベルトは一瞬思った。

 屍のような鎧歩兵たちが、しかし動いている。長剣や槍を構え、じりじりと包囲を狭めて来る。

 その包囲の中でギルベルトは自然に、セレナ・ジェンキムと身を寄せ合う格好になっていた。

 とりあえず、訊いてみる。

「おい、何だこいつらは」

「んー、一言で言うと……出来損ない、かな? あたしの親父が造った物の、失敗作みたいなもん」

「出来損ない、か……」

 今の自分の相手にはふさわしい、とギルベルトは思った。

 1度でいいから、人を守るための戦をしたかった。部下たちは、そう言いながら死んでいった。

 人を守る。その真似事くらいなら、自分にも出来るかも知れない。部下たちの分まで、などと思ってしまうのは柄ではないが。

 魔獣人間のような出来損ないの怪物とは違う、本物の怪物が、もうすぐ自分を殺しにやって来る。

(それまで、少しあがいてみるか……もう少しでいい、待ってくれよ若君)

 

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