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第34話 嵐がもたらすもの

 夢のような3年間だった。

 その夢を、アレンは今もまだ見続けている。

 否。夢というよりは、妄想だ。

 妄想の中で、エミリィ・レアは常に従順だった。アレンのいかなる求めにも、恥じらいながら応じてくれた。

 何でも、させてくれた。

 最初は可愛らしく嫌がりながら、最後には必ずアレンを受け入れてくれた。

「うっ……」

 出そうになった声を、アレンは辛うじて呑み込んだ。

 声は抑えられても、欲望の噴射を押さえ込む事は出来なかった。

 ドピュドピュッと噴出したものが、雑草の茂みの中へと消えてゆく。肥料か何かにはなるだろうか、とアレンはぼんやりと思った。

「はあ、はあっ、はぁ……ふう……」

 呼吸が整ってくると、快感の余韻に代わって、猛烈な自己嫌悪が沸き上がって来る。

「ごめん……ごめんよ、エミリィ……」

 まずは唯一神に向かって懺悔をしなければならない身でありながらアレンは、この場にいない少女に詫びていた。

 ヴァスケリア王国北部ガルネア地方、リュセル村の唯一神教会。その小さな庭園の片隅に立つ物置小屋の陰で、アレン・ネッドは姦淫の罪を犯していた。妄想の中にいる少女を相手にだ。

 現実のエミリィとは、3年も一緒に旅をしながら、姦淫どころか手を繋いだ事もない。

 自分だけでなくマディックも、クオルもレイニーもそうだろう、とアレンは信じている。抜け駆けのように彼女に手を出した者など、いないはずだ。

 法衣をいそいそと着直しながら、アレンは思い出に浸った。

 4人で、旅をしていた。

 ディラム派が主流となっている唯一神教会の腐敗を、憤りながら何か出来るわけでもなく、細々とローエン派の教えを守りながら、ただ旅をしていた。

 サン・ローデル地方のゼピト村に立ち寄った際、そこに住む1人の少女が両親を病で亡くした。

 財物の寄進がなければ何もしないディラム派の教会は、貧乏人の村人には墓地を貸そうともしなかった。

 だからアレンたち4名で、ささやかながら唯一神教式の葬儀を行ったのだ。

 死者を悼む気持ちは無論あった。が、それよりもディラム派への反発心が大きかったのは認めなければならない。半ば腹いせのような葬儀だった。

 それでもエミリィは、いたく感謝してくれた。その場でローエン派に入信し、旅に同行してくれた。

 夢のような至福の3年間が、そこから始まったのだ。

 その3年の間にエミリィは12歳から15歳へ、愛らしい少女から美しい乙女へと成長した。アレンは21歳から24歳になり、大して何も変わらなかった。

 女を知らないのは相変わらずで、解放出来ない性欲を、こうして1人で処理する日々が続いた。増えた、と言っていい。

 日に日に美しくなってゆくエミリィを、アレンは妄想の中で犯し続けた。

 この3年で大して何も変わらなかった、のではなく、より卑しくなったと言うべきであろう。

「何をやっているんだ、私は……」

 自己嫌悪に打ちひしがれてアレンは座り込み、頭を抱えた。

「唯一神よ、卑しく愚劣なる下僕アレン・ネッドをお許し下さい……いえ、罰をお与え下さい」

「アレーン」

 呼ぶ声が聞こえた。

 同じく唯一神教の法衣を着用した若者が1人、教会の庭園で、見回しながら呼んでいる。

 クオル・デーヴィ。かつての旅の仲間の1人である。他2人、マディック・ラザンとレイニー・ウェイルは、いささか手の届きにくい所へ行ってしまった。

「おおいアレン、どこにいる? ちょっと手伝っておくれよぉー」

「あ、ああ。何だいクオル」

 アレンは慌てて、物置小屋の陰から出て行った。

「何だ、そんな所で何をしていた?」

「もっ物置の整理をね。それより何を手伝うって?」

「ああ……村長が、昨日からちょっとな。咳が、止まらなくなっているらしい」

 リュセルの村長は、1週間ほど前から急に足腰が立たなくなり、今は半ば寝たきりのような状態である。確か、もう70歳は超えているはずだ。

 アレンもクオルも、初歩的な癒しの力は使える。が、それで老いによる病をどうにか出来るものではない。

 それでも2人がかりなら、軽い風邪くらいは治してあげられるかも知れなかった。

 村長宅へ向かうべく教会を出たところで、通りすがりの村人たちに声をかけられた。

「あ、おはようございます司祭様がた」

「おはようございます。唯一神の恵み多き日になりますように」

 クオルと共に礼儀正しく挨拶を返しながら、アレンは心の中で苦笑した。

(司祭様、とはね……まさか私たちが)

 ディラム派が権力を握っていた時は教会組織に居場所がなく、旅の貧乏僧侶として彷徨うしかなかった自分やクオルが、今では司祭である。レイニーなどはもっと巧みに立ち回って、今やクラバー・ルマン大司教の側近だ。

 これも全てダルーハ・ケスナーのおかげだ、などとは思いたくなかった。

 ディラム派によって占められていた教会勢力が、ダルーハ軍による略奪と殺戮で一掃された。そのおかげでローエン派がこうして台頭の機会を得たのは確かなのだが。

「司祭様ぁー」

 前方から、子供たちが駆けて来た。7、8歳くらいの、男の子が2人と女の子が1人。

「おはよーございまぁす」

「おはよう……サーラは、もう大丈夫なのかい?」

 クオルが身を屈めて子供たちと目の高さを合わせ、微笑みかける。

「うん。サーラはもう、へいちゃらさ」

「司祭様たちのおかげだよー」

 答えたのは、サーラと呼ばれた女の子ではなく、2人の男の子だった。

 サーラは無言で、大人しめに微笑んでいる。笑顔は取り戻したものの、言葉は失ったままだ。

 2ヶ月ほど前まで、サーラはダルーハ軍残党に捕われており、笑顔も言葉も失うような目に遭っていたのだ。

 サーラだけではない。この村そのものが、ダルーハ軍残党によって食い物にされていた。

 そこへ、アレンたち一行が偶然、立ち寄ったのだ。

 ダルーハ軍残党に対し、村人への無法をやめるよう説得を試みたレイニーとマディックは、その場で殴り倒され蹴り転がされた。

 止めに入ったエミリィに、ダルーハ軍残党兵士たちが獣欲剥き出しで襲いかかった、その時である。彼が、現れたのは。

「ねえ司祭様ぁ」

 男の子2人が、問いかけてきた。

「あのバケモノのお兄ちゃんは? どこ行っちゃったの?」

「ああ、彼はね……」

 子供たちにどう説明するべきか、アレンは一瞬だけ迷った。

「……今は、旅に出ているんだ。王国じゅうの悪い奴らを、やっつけて回っているんだよ」

「へぇー、やっぱかっこいいなあ」

 男の子2人の目が、キラキラと輝いている。

「また来てくれるかなぁ、あの兄ちゃん」

「来てくれるさ。みんなが良い子にしていればね」

 あの若者の事を、唯一神の化身である、などと民に語っている聖職者も、大司教の側近の中にはいるらしい。唯一神御自らが下界に降りて悪しきものを滅ぼし、その後の支配をローエン派に委ねたのだ、などと。

 クラバー大司教は、とにかく何でもかんでも利用して、民衆を掌握しようとしている。

 目を輝かせる男の子2人に向かって、クオルが顔と声を強張らせた。

「……駄目だよ君たち、あんなものに憧れては」

 説教を始めようとするクオルの肩を、アレンは軽く叩いた。

 子供たちに、強いものに憧れてはいけない、などと言ったところで無理に決まっている。

 幼い頃のアレンも、そうだった。何も考えず、ダルーハ・ケスナーに憧れていた。

 クオルが難しい顔をしているのに気付かず、2人の男の子がはしゃいでいる。

「あくりゅう、てんしーん!」

「おれは、ざんぎゃくなのだ!」

 それを見つめるクオルの表情と声が、憎悪に近いものを孕んだ。

「子供たちが暴力礼賛主義に染まってしまう……! アレン、君はそれを黙認するのか?」

「落ち着けクオル。君にも私にも、彼を否定する資格はないんだ。子供たちが彼に憧れてしまうのを妨げる資格もな」

 ダルーハ軍残党の獣欲の餌食になるところだったエミリィを助けたのは、彼だ。サーラたち村の女の子を救出したのも、彼だ。

「……この村を救ったのは、我々ではなく彼なんだよ」

「結果的にそうなっただけだ……! あれは、あんなものは、何の英雄的行為でもない! 単なる暴力だ!」

 クオルの声は、震えている。

「あんな暴力なんかなくても村は救えたさ……ダルーハ軍の残党たちを、説得して改心させる事だって出来たはずだ」

 マディックとレイニーは、それをやろうとして袋叩きに遭い、殺されかけた。

 その間クオルは、木陰に隠れて怯えていた。

 咎める資格は自分にはない、とアレンは思う。何も出来なかったのは、自分も同じなのだ。

「……あ……ぁ……」

 サーラが、可愛い口をぱくぱくさせて何か言おうとしている。言葉を失っていた少女がだ。

「し……さい……さまぁ……」

「サーラ……喋れるのかい?」

「サーラはこのごろ、ちょっとずつしゃべるよー」

 男の子2人が、説明してくれた。

「これもエミリィ姉ちゃんのおかげさ」

「そうか、エミリィの……」

 身体は癒えても心は壊されたままのサーラに、四六時中付き添って様々な世話をしていたのは、エミリィだった。

「……どこ……?」

 サーラが、懸命に声を発している。

「エミリィおねえちゃん……どこに、いるの……?」

「……エミリィも、旅に出ている」

 としか、アレンには答えられなかった。

「ちょっと、いろいろと嫌な事があってね……でも大丈夫、すぐに帰って来てくれるよ。エミリィも」

「……いやなこと……あったの……?」

 エミリィ・レアは、現在の唯一神教会ローエン派の有り様に、絶望してしまったのだ。

 無理もない、とアレンは思う。今のローエン派は、バルムガルド王国によるヴァスケリア侵略の、片棒を担いでいるようなものなのだ。

 それを知りながら何もせず、何も出来ずにいるアレンにも、エミリィは愛想を尽かしてしまったに違いない。

「あたし……エミリィおねえちゃんのこと、なぐさめてあげたい……」

「……そうだね、私もだよ」

 サーラの頭を軽く撫でながら、アレンは思い返していた。去り行く若者の、別れ際の言葉を。

 俺に出来るのは殺戮だけだ。人の心を救う事など出来ん……それは、それこそが宗教の役目というものだろう。うちの馬鹿親父の尻拭いを押し付けてすまんが、あとの事は任せるぞ。

(……私は、何も出来ていないよ)

 今はここにいない、人間ならざる若者に、アレンは心の中で語りかけた。

(人々の心を救うには……やはり君がこの地にとどまって、その圧倒的な力を見せ続けるべきではなかったのか?)

 彼と出会って、アレンは1つ確信した事がある。

 圧倒的な暴力というものは、使い方さえ誤らなければ、綺麗事だけの平和宗教などよりもずっと効果的に人々の心を救い支える。19年前の、ダルーハ・ケスナーのようにだ。



 つまらぬこだわりである事は、頭ではわかっている。

 これは戦いなのだ。戦争、と言ってもいい。卑怯なくらい強力な武器があるのなら、むしろ積極的に使うべきなのである。そうすれば、戦いも早く終わる。

 頭では理解しながらも、しかしリムレオンには出来なかった。魔法の鎧を着たまま、生身の人間と戦う事が。

(それをやったら、魔獣人間と同じになってしまう……)

 などとリムレオンが思っていても関係無しに、城内の兵士たちは襲いかかって来る。

 多少は腕を上げたとは言え、生身で多勢と戦えるような力は、リムレオンにはない。

 魔法の鎧を装着し、対抗するべきか。

 元々は人間であった者たちを大勢、殺害してきた。それと同じように人間を殺すのか、殺さなければならないのか。

 などとリムレオンが迷っている間に、ブレン兵長が戦ってくれた。無論、生身でだ。

 領主バウルファー・ゲドン侯爵の居城、その城壁の上である。城内を逃げ回っていた侯爵を、追い詰めたところだ。

 領主の身辺を警護する兵士たちが、槍や長剣を振りかざし、挑みかかって来る。

 彼らのまっただ中へと向かってブレンの方から、生身・素手のまま踏み込んで行った。

 丸太のような蹴りが跳ね上がって槍をへし折り、兵士の身体を吹っ飛ばす。

 蹴り飛ばされた兵士が後続の何人かに激突し、重なって倒れた。

 その間ブレンは、槍で突きかかって来た1人の兵士を無造作に掴み捕え、大型武器のように振り回し、他の兵士たちに叩き付けた。人が、物のように吹っ飛び続けた。

「……やる事ないわね、あたしたち」

 シェファが感心し、呆れている。彼女もリムレオン共々、魔法の鎧の装着を解いた生身の状態である。

 同じく魔法の鎧なしで大いに武勇を発揮していたブレンが、

「無駄な抵抗はやめよ! もはや貴様たちに味方する魔獣人間の類は1匹もおらぬ!」

 武器代わりにしていた兵士の身体を放り捨てながら、大音声を雷鳴の如く響かせる。

「ゴルジ・バルカウスもメイフェム・グリムも逃げ去った! 戻っては来ぬ。そんな状態でもバウルファー侯を見捨てず守って戦う貴様たちは、クズばかりのサン・ローデル地方軍の中にあって、まともな軍人の性根を失わなかった者どもなのだろう。あっぱれである。その忠誠、今後はこちらのリムレオン・エルベット様に捧げるが良い」

「え……僕?」

 いきなり名指しをされて、リムレオンはうろたえた。

 ブレンに叩きのめされた兵士たちは、城壁上のあちこちで石畳に横たわり、苦しげに呻いている。血を吐いている者もいるが、1人も死んではいない。深刻な重傷を負った者もいないようだ。

 全く無傷の者が1人だけいる。豪奢な甲冑に身を包んだ、体格の良い人物。

「な……何なのだ、貴様たちは……」

 城主バウルファー・ゲドン侯爵。見るからに高価な全身鎧がよく似合った威風堂々たる姿に、しかし隠しようもない怯えが露わになっている。

「何の権利があって……領主たるこの私に、かような無法を働くのか……」

「無法を働いたのは貴方です、伯父上」

 1歩リムレオンは進み出て、何年かぶりの伯父・甥の会話を試みた。

「領民を、あのようなものに造り変えて……」

「わっ私ではない! 私は何もしておらぬ! 全てはあのゴルジ・バルカウスとメイフェム・グリムが」

 リムレオンは腰の長剣を、シャッ! と音を立てて抜き放った。もちろん魔法の剣ではない、普通の長剣だ。

「言い訳をするくらいなら戦って下さい伯父上。1対1の、勝負です」

「ちょっとリム様……!」

 何か言おうとするシェファを、ブレンが止めた。

「おやりなさい若君、それにバウルファー侯爵閣下。このブレン・バイアス、僭越ながら立会人を務めさせていただく」

「感謝します。さあ、伯父上」

 魔法の鎧を装着せぬままリムレオンは長剣を構え、切っ先をバウルファーに向け、言い放った。こんな偉そうな口をきくのは生まれて初めて、かも知れない。

「おっしゃる通り、領主を相手に無法を働いているのは僕たちの方です。僕を斬り殺しても、罪に問われる事はありませんよ」

「若造が……!」

 バウルファーも長剣を抜き、構えた。堂々たる構え、ではある。

 自分よりも一回り以上は大柄な伯父の甲冑姿を、リムレオンはじっと見つめた。

 若い頃から、リムレオンなどよりもずっと長い期間、武芸で身体を鍛えてきたのであろう事は間違いない。

 そんな相手に対し、リムレオンは躊躇なく踏み込んだ。そして長剣を突き込んだ。

 切っ先が、バウルファーの顔面に突き刺さる寸前で止まった。リムレオンが止めたのだ。

「ひ……っ……」

 若い頃から鍛えてきたのであろう剣技を発揮する暇もなく、バウルファーは怯えに支配されていた。堂々たる構えが崩れ、立派な甲冑姿がへなへなと座り込んでしまう。

 尻餅をついた伯父の顔面に長剣を突き付けたまま、リムレオンは声をかけた。

「……終わりです、伯父上」

「ま……待て、待ってくれ……」

 思った通りの命乞いを、バウルファーは始めていた。

「まさか私を殺すつもりではあるまいな……誰の命令だ、カルゴか? 一領主にそのような命令を下す権限が……ま、まさかエル・ザナード1世女王が?」

「誰の命令であろうと、貴方を生かしておいてはならない。僕は、そう思っています」

 リムレオンは言った。

「伯父上……貴方が守らなければならない領民が一体何人、惨たらしい姿に変わって命を落としたか」

「全てはゴルジ! それにメイフェム! あやつらがした事だ! 私は、私とて止めようとはした、だが止められるわけがなかろう? あの怪物どもを!」

 座り込んだまま、バウルファーは泣き出していた。

「私は怪物どもに担ぎ上げられ、そして捨てられたのだぞ! 領民どもよりも誰よりも、私こそが被害者なのだ! わからんのか、それがわからんのかあああああああ!」

「……リム様、どいて」

 シェファが、魔石の杖をバウルファー侯に向けた。

「やっぱリム様がやる事じゃないわよね。あたしに任せて、こういう事は」

「シェファ……」

 自分は何をやっているのだ、とリムレオンは思った。

 何故、バウルファーの眼前でこの長剣を止めてしまったのか。あのまま顔面を突き刺し、頭蓋骨の中を抉っていれば、伯父のこんな無様に泣き喚く姿を見ずに済んだのだ。

 魔法の鎧を着て、魔獣人間や残骸兵士を殺戮する。今まで自分がやってきたそれらと、何が違うと言うのか。

「……若君の温情に感謝なさるのですな、バウルファー侯爵閣下」

 ブレンが、伯父と甥の間に割って入って来た。

 リムレオンは長剣を下ろした。安堵してしまった自分が、情けなかった。

「若君は貴方のために、逆賊としての刑死ではない、もっと栄誉ある最期を御用意なされた……謹んで受けよ、バウルファー・ゲドン」

 謎めいた事を言いながらブレンが、泣きじゃくるバウルファー侯爵の頭を片手で撫でた。いや、掴んだ。もう片方の手を、侯爵の顎の辺りに添えた。同じく、掴んだ。

 そして、捻った。

 頸椎の折れる音が、鈍く重く響いた。

「ブレン兵長……!」

 息を呑みながら、リムレオンは叫んだ。

「何を……貴方は、一体……!」

「私は何もしておりませんよ、若君」

 だらりと頭部が垂れ下がったバウルファーの屍を、ブレンは軽々と抱え上げ、城壁の外へと放り捨てた。

「御覧の通りです。バウルファー・ゲドン侯爵は自身の罪を悔い、死をもって償うべく城壁から身を投げた……御立派な最期でございました」

「これが……」

 シェファも、息を呑んでいる。

「なるほど、これが大人のやり方ってわけ……勉強になるわぁ」

「シェファお前もな、やたらと自分の手を汚そうとするのはよせ。若君もです。先程も申し上げた通り、人間など殺せたところで偉くも何ともないのですから」

 人間の首をへし折る手が、リムレオンの細い肩を優しく叩く。

「魔法の鎧を着ている時は、大いに殺戮を行う。生身の時は虫も殺せない……それで良いではありませんか」

「ブレン兵長……」

 リムレオンの胸中に1つの疑念が生じ、それはすぐ確信に変わった。

「貴方はもしかして……父上から、何か密命のようなものを」

 恐らくは殺害を躊躇うであろうリムレオンに代わって、手を下す事。バウルファー・ゲドン侯爵を、確実に絶命させる事。それを、カルゴ・エルベット侯爵はブレンに命じていたのではないか。

 それには答えずブレンは、にやりと微笑んだ。

「後味が悪い……と感じておられますか? 若君」

 その獰猛な笑顔がすでに答えだ、と思いながら、リムレオンは言った。

「……後味のいい戦いなんて、あるわけないですよね……」



 女王エル・ザナード1世に不満を抱く地方貴族たちの中で、一番の大物と言えば、やはりサン・ローデル領主バウルファー・ゲドン侯爵であった。

 彼が他の地方貴族を糾合し、バルムガルドあたりと結びついて叛乱を起こしていたら、恐ろしく厄介な事になっていただろう。

 そうなる前に、バウルファー侯は自滅してくれた。

 自身の罪を悔い、城壁から身を投げた。

 伯父カルゴ・エルベット侯爵からの書簡には、そう記されている。

 無論ティアンナは信じていない。誰か、手を汚した者がいるはずなのだ。

「私は……とうとう貴方にまで汚れ役を押し付けるようになってしまったのね、リムレオン……」

 玉座の上から、謁見の間の天井を見上げながら、ティアンナは呟いた。

 馬鹿げているほど高い天井のあちこちに、豪奢な彫刻が飾られている。

 その中に、全裸の天使の像があった。少しだけ、リムレオンに似ている。

 あの従兄には今少し、返り血で汚れるような事をしてもらわなければならない。

 伯父からの書簡によると、バウルファー・ゲドンに魔獣人間という戦力を提供していた者たちが、行方をくらませたままであるらしい。その者たちの名も、記されていた。

 ゴルジ・バルカウス、及びメイフェム・グリム。

 後者に関しては、ある程度は調べがついている。19年前、ダルーハ・ケスナーに同行して赤き竜と戦った、勇者の1人。アゼル派の聖武術を使う尼僧で、書簡によると魔獣人間と化し、リムレオンを大いに苦しめたのだと言う。

「ダルーハ・ケスナーの女版、のようなものですかな」

 玉座の隣で、副王モートン・カルナヴァートがぼやいている。

「英雄と怪物は、どうやら紙一重のものであるようです」

「紙一重どころではない方も、おられるようですが……」

 ティアンナは溜め息をついた。

 東国境でバルムガルド軍を大量虐殺した何者かも、相変わらず行方をくらませている。

 彼と関係があるかどうかは不明だが、あの大虐殺が行われる少し前、北の戦災地で何かが起こったらしい。

 ダルーハ軍の残党が、北で暴れている。

 その知らせがティアンナの耳に入った頃には、しかしダルーハ軍残党は姿を消していた。

 改心しローエン派に帰依したのだ、などとクラバー・ルマン大司教は言っている。

 そう言いながらローエン派が、バルムガルドから軍事力を借りてダルーハ軍残党を皆殺しにしたのだ、という噂もある。こちらの方が真実に近いとティアンナは思っているが、皆殺しを実行したのは、ローエン派でもバルムガルド軍でもないだろう。

 東国境の虐殺跡を目の当たりにした今なら、わかる。

 北の戦災地で彼は、同じような大殺戮を行ったのだ。己の父親がしでかした事の、後始末をするために。

 結果として戦災地の民衆が助かったわけであるから、自分が文句を言う筋合いではない。ティアンナは、そう思う事にしていた。

 だがもう1つ、思ってしまう事がある。

(やはり……貴方を野放しにしておくべきではなかったかも知れませんね)

「あやつの所在はいまだ掴めませんが……」

 モートンが言った。

「いささか気にかかる報告が1つ上がって来ております。陛下のお耳に入れる事、お許し願えましょうか」

「お聞かせ下さい、副王閣下」

「それでは……」

 1つ咳払いをして、モートンはもったいつけた。

「ダルーハ軍の残党は、実は北で皆殺しにされた者たちだけではないようなのです。ダルーハ・ケスナーに比較的、近い地位にあった部隊長の1人が、残党の一部を率いて逃げ回っているとの事。北の者どもと違って悪事を働いているわけではありませんが……念のため、監視を付けてあります。陛下の御命令1つで、いつでも討伐軍を差し向けられるのですが」

「……その前に皆殺しにされてしまうかも知れない、と?」

「父親がした事の後始末だけを考えて、あの男が動き回っているのであれば」

 特に悪事を働いているわけではない残党勢力を、彼は少なくとも放置してはおかないだろう。モートンはそう言っているのだ。

 上手くすれば、彼の所在が掴めるかも知れない、とも。

「逃げ回っている者たちは現在、サン・ローデル及びメルクト方面へ向かっているとの事」

「何ですって……」

 ティアンナは息を呑んだ。

 彼が、その残党たちを追って動いているのだとしたら。

 メルクト地方に、彼は姿を現すかも知れない。そして、リムレオンと出会うかも知れない。

「おわかりの事と思いますが陛下」

 語気を強めて、モートンは言葉を続けた。

「あの男が本気で暴れたら、町の1つや2つ……下手をすれば国が1つ滅びます。そんな事が起こる前に、手綱をお付けになるべきではないかと」

「手綱を……あの方に?」

「あの馬鹿怪物を飼い馴らせるのは陛下、貴女だけなのですよ。あやつは陛下の御ためとあらば何でもするでしょう」

 確かに彼は、頼んでもいない事を片っ端から暴力で解決してくれている。北のダルーハ軍残党、東のバルムガルド軍侵攻。面倒事が2つも、ティアンナが何もしていないのに片付いてしまったのだ。

 西のバウルファー・ゲドン侯爵の叛乱は、起こる前にリムレオンが片付けてくれた。

(殿方に仕事をさせて、自分は何もしない……これが、女王というものなの?)

「とにかく陛下は一刻も早く、あの男に手綱あるいは首輪を付けて御自分の手元に置かれるべきです。強大なる力を、陛下はお持ちにならなければいけません……何しろ、ゾルカ・ジェンキムが死んでしまったのですから」

「……そうですね」

 ゾルカが死んだ。それはすなわち、魔法の鎧の製造が不可能になってしまったという事である。

 ゴルジ・バルカウスなる、魔獣人間を戦力として保有する何者かが暗躍していると言うのにだ。

 人間ではないものへの対処は、リムレオン・エルベットに任せておけば良い。生前ゾルカはそう言っていたが、リムレオン1人に期待を寄せるのは酷というものだろう。

 もしかしたらメルクトへ向かっているのかも知れない1人の若者に、ティアンナは心の中から祈らずにはいられなかった。

(どうかリムレオンを助けて……ガイエル様……)

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