第31話 北の嵐
バウルファー・ゲドン侯爵の城に、魔獣人間はもはや1匹も残っていない。
残っているのは、魔獣人間まであと少しというところで止まってしまった残骸兵士たちと、クズとしか言いようのない人間の兵隊だ。
そのクズたちが、城内で何やら騒いでいるようである。
メイフェムは、とりあえず城壁の上に降り立ち、見下ろしてみた。
ボロ布同然の服を着せられた、10人ほどの男女がいる。城の地下牢に捕えられていた、領民たちだ。
どうやら脱走を企てたらしい彼ら彼女らを、30人近い兵士たちが取り囲んでいる。
「てめえらよォ、逃げ出したら死刑って俺らちゃんと言ったよなあ? なあ? なあ?」
「1人でも逃げ出したら俺らの責任になっちまうんだっつぅーの!」
「俺らに迷惑かけんじゃねえよ、クソボケがっ」
兵士数名が、領民たちの中から男を1人、引きずり出して槍で叩きのめし、殴る蹴るの暴行を加え始める。
「や、やめ……どうか、お許しを……お見逃しをぉ……」
懇願する男の顔面に、容赦のない蹴りが入る。
他の領民たちは今のところ暴行を受けてはいないものの、全方向から槍や剣を突き付けられ、身を寄せ合って怯えている。
その中から1人が、殴られ蹴られている男に向かって駆け出した。
「やめて……お父ちゃんを、いじめないで……」
7、8歳くらいの、小さな女の子である。
暴行を受けている父親に弱々しく駆け寄ろうとする彼女を、兵士の1人が嫌らしく抱き捕えた。
「おおおお、可愛い嬢ちゃんがまだ生き残ってんじゃねーかよ」
「おおう、女も14歳過ぎちまうと脂肪がつく一方だしなぁあ。こっこのくれえが食べ頃ってかぁー」
おぞましく笑う兵士たちに捕われ群がられ、女の子が悲鳴を漏らす。
「やっ……やだぁ……たすけて、お父ちゃん……」
助けを求められた父親が、兵士たちにガスガスと踏み付けられながらも顔を上げ、声を発する。
「あの、もし……うちの娘を、気に入っていただけましたら……差し上げますからぁ……」
醜く腫れ上がった顔が、醜い愛想笑いを浮かべた。
「だ、だから私だけは見逃して……ここから、逃がしちゃくれませんかねえ」
その男の身体の上に、メイフェムは思いきり着地していた。
グシャアッ! と様々なものが足元に広がり、ぶちまけられる。猛禽の爪でそれらを踏みにじりながらメイフェムは、
「何で……どうして……」
声を震わせ、左腕を振るった。
背ビレの生えた鞭が、兵士たちを片っ端から打ち据える。
首が飛び、頭蓋骨が破裂した。腕がちぎれ、上半身そのものが原形をなくして心臓や肺を露出させる。
大量の鮮血を浴びながら女の子が解放され、呆然と尻餅をついた。
彼女の父親の臓物を踏みちぎりながらメイフェムは、
「どうして貴方たちは……私に、汚いものしか見せてくれないの……?」
他の領民たちと、そして彼らに槍を突き付けている兵隊に、微笑みかけた。
「お願いよ、いい加減に自覚して? 貴方たちが、ケリスに守られて生きているという事……」
血まみれの鞭が、メイフェムの周りをゆったりと泳ぐ。
凶暴な海蛇に似た凶器を、左手から生やした魔獣人間。その姿に、兵士も領民も仲良く怯えている。
ならば、仲良く皆殺しにするまでだった。生きている限りケリスの命を穢し続ける、このような生き物たちは。
血まみれの鞭を振るおうとするメイフェムの片足に、その時、
「やめて……」
女の子が、しがみついてきた。
「たすけてくれて、ありがとう……みんなも、たすけてあげて……みんなを、ころさないで……」
自分の父親の臓物がこびりついた、猛禽の爪。そんなものを生やした足に、女の子は恐れげもなくすがりつき、子供らしい愚かな事を言っている。
「助けた……私が、貴女を? ふざけた事を言う子ねえ……」
左腕だけで、メイフェムは女の子を抱き上げた。
抱き上げられた小さな身体に、血まみれの鞭がシュルッと絡み付く。
「あんまりふざけた事言ってると……殺しちゃうわよ?」
「…………!」
可愛い顔を引きつらせ、青ざめさせながらも、女の子は懸命な眼差しでメイフェムを見つめている。そして噛み締めた唇から、か細い言葉を紡ぐ。
「みんなを……たすけて……」
「…………」
メイフェムは待った。
左手の鞭にほんの少し力を込めれば、幼い少女の身体など一瞬にしてズタズタの肉塊と化す。
それを、すぐには実行せず、メイフェムは待った。
いくら待っても、しかし兵士らも領民たちも動かない。ただ固まって、怯えているだけだ。
「……どうして誰も、この子を助けようとしないの……?」
女の子を抱き捕えたままメイフェムは1歩、踏み出した。
踏み出したら、止まらなくなった。
「1人でも助けに出て来たら……貴方たち全員、許してあげる……逃がしてあげる……つもりだったのに……」
領民と兵士が何人かずつ、一緒くたに潰れて飛び散った。
「やっぱり駄目……貴方たちに、ケリスが命を捨てただけの価値はない……」
自分の手足がどのように動いているのか、メイフェムはわからなくなっていた。
とにかく女の子を左腕に抱いたまま、右手を動かす。右足を、左足を動かす。
その度に兵士の生首が、領民の臓物が、舞い上がり噴き上がる。
血や脳漿、臓物の汁……様々な体液を浴びながら、メイフェムは叫んでいた。
「だから、ねえ返して……ケリスを返してよ……返しなさいよねえちょっとぉおおっ!」
領民も兵士も、すでに1人も生き残っていない。
屍を、メイフェムは右手で振り回し、叩き付けていた。両足で踏みにじり、猛禽の爪で引き裂いていた。
肉も臓物も体液も、一緒くたに泥のような飛沫に変わり、飛び散り続ける。
泥沼で水浴びをしているような様を晒しながら、メイフェムは絶叫していた。
「ケリス! ケリスッ、ケリスぅうううううううぅッッ!」
「やめて……」
女の子が、メイフェムの左腕と鞭に拘束されたまま、泣きじゃくっている。
「もうやめて……おねがい……」
すでに遅い。領民も兵士も1人残らず、もはや死体とも呼べぬ有り様となって、辺り一面にぶちまけられている。
メイフェムは、とりあえず殺戮の動きを止め、荒く息をついた。
汚らしい生き物たちが、汚らしい死に様を晒している。ただそれだけの光景を見回しながら、思う。
こんな、汚らわしい連中をも守ろうとするのだろう。あの魔法の鎧を着た者たちは。
「……どうして?」
女の子が、泣きながら問う。
「あたしを、たすけてくれた人が……どうしてこんな、ひどいことをするの……?」
「それはなお嬢ちゃん。そのお姉さんが、見ての通り人間じゃねえからよ」
答えたのは、メイフェムではない。
少し離れた所で城壁にもたれている、1人の若い男だ。
「人間が気まぐれに、捨て猫か何かを拾う。それと同じようにお嬢ちゃんを助けた……人間がムカついて、蟻んこの群れか何かをガンガン踏み潰す。それと同じように、そのクソどもをぶち殺した」
若者、と言うより少年であろうか。
それほど大柄ではない、無駄なく引き締まった身体を、薄汚い旅装に包み込んでいる。腰には長剣。旅の剣士、といった装いである。
「人間じゃねえ奴ってのは人間に対して、そーゆう事が出来るのよ。何しろ人間じゃねえからな」
不敵に微笑む顔立ちは、整ってはいる。短めの黒髪に、鋭いがどこか人懐っこさのある眼差し。どこか品格のようなものも、感じさせなくはない。
メイフェムは息を整えながら、とりあえず会話に応じた。
「ゼノス王子……久しぶり、というほどでもないかしらね。しばらく姿をくらませていたようだけど」
「ちょっと北の方にな」
北。ダルーハ軍によって蹂躙され尽くした、ヴァスケリア王国北部の各地方。今はバルムガルド王国を後ろ楯に得た唯一神教ローエン派が、戦災復興の大盤振る舞いをして幅を利かせているという。
「ダルーハ軍の残党が、破れかぶれになって暴れ回っていたらしいんでな。ちょいと用心棒稼業の真似事をしに行ってみたのよ」
ダルーハの死後、その残党が王国北部に集まり、戦災を被った民衆を脅かしている。そんな噂を、メイフェムも聞いた事はある。
その残党たちが改心し、ローエン派に帰依して、今では復興のために働いている。そんな話も聞いたが、これは恐らくローエン派の法主たるクラバー・ルマン大司教あたりが流した噂だろう。
本当のところ、ダルーハ軍の残党がどうなったのかは不明である。
「……だけど俺が北に着いた時にゃあ、ダルーハ軍の残党なんざ1人も生き残っちゃいなかった」
城壁にもたれて腕組みをしたまま、ゼノスは語る。
「改心してローエン派に入ったってのは嘘だ。証拠があるわけじゃねえが……ダルーハ軍の残党はな、間違いなく皆殺しにされてる。血の臭いみてえなもんが、まだ残ってやがったのよ」
「……少し興奮しているようね? ゼノス王子」
「まあな」
牙を剥くように、ゼノスは微笑んだ。
「軍か何かが動いた様子もねえ。とにかく少人数で……下手すると1人で、ダルーハ軍の残党を皆殺しにした奴がいる。少なくとも、俺やあんたと同じくらいのバケモノだ」
メイフェムの頭にまず思い浮かんだのは、昨日ゴルジ・バルカウスから聞いた話である。
女王エル・ザナード1世が寡兵を率いてバルムガルド軍4万を撃退した、と言われている東国境の戦。
ゴルジの話によると、かの女王が密かに使役している怪物がついに現れ、たった1匹で、バルムガルド軍兵士を少なくとも3000人近く虐殺したのだという。
ダルーハを討ち取った怪物ならば、人間の兵士3000人ごとき、殺し尽くすのは容易い事であろう。
そんな怪物を、エル・ザナード女王が秘密裏に操って、王国の治安を乱す輩を片っ端から狩り殺している。それは、充分に考えられる話だった。
「会ってみてえよ、そのバケモノに……もしかしたら、俺らの仲間になってくれるかも知れねえぜ?」
「……どうかしらね、それは」
その怪物の正体が、メイフェムの想像通りであるとしたら。
今は人間の女王に力を貸しているようだが、いずれ間違いなく人間の敵に回るだろう。だからと言って、ゴルジやメイフェムに力を貸してくれるとは限らない。
(赤き竜……お前の血が、この世に残ってしまったのだとしたら……)
「……ま、そんなわけで俺がやる事もなくなっちまったんでな。ちょうどサン・ローデルへ帰りたがってる女の子が1人いたんで、その子と一緒にここまで来たわけなんだが。ちょっと何か面白そうな事になってんじゃねえか? おい」
「確かに厄介事は持ち上がっているけれど……貴方に手を貸してもらうほどのものではないわ」
この男を介入させたくない、と思っている自分に、メイフェムは気付いた。いや、何者も介入させたくない。
(これは、私の戦い……!)
あの魔法の鎧を着た3人。
メルクトの若君は、信じられないほど戦いの技量を上げた。その従者のようなものであろう攻撃魔法兵士の少女も、なかなかの曲者である。
そして、確かブレン兵長とか呼ばれていた、獅子のような男。
あの3名が、3対1の戦いにもう少し専念出来るような状況であったら、メイフェムも危なかった。生きてゼピト村を出る事が、出来たかどうか。
ケリスの死を穢し続ける人間どもを、どうあっても守ろうとするあの輩のおかげで、結局このサン・ローデルでは、ゴルジもメイフェムもほとんど何も出来なかった。
領主バウルファー・ゲドン侯爵を担ぎ上げて起こすはずだった戦乱は、今や準備段階で潰されかかっている。魔獣人間はことごとく始末され、ゴルジ・バルカウスも1人殺されてしまった。
無論メイフェム1人が責任を負うべき事ではない。
が、あの3色の魔法の鎧を着た者たちだけは、ここで片付けておかなければならないだろう。
何故ならあの3人は、メイフェム・グリム……魔獣人間バルロックと戦って、生きているからだ。
メイフェムが、仕留め損ねているからである。
(倒す……貴方たちだけは、この私が……!)
慌ただしい足音が複数、聞こえて来た。慌ただしい声と共にだ。
「こ、これは何事であるか!」
バウルファー・ゲドン侯爵が、衛兵数名を引き連れて、この場に踏み入って来たところである。
もはや死体とも呼べぬ有り様の兵隊や領民たち、それに魔獣人間バルロックの姿を目の当たりにして、侯爵も衛兵らも青ざめている。
「き……貴様はメイフェム・グリムか……」
「いかにも領主様。こんな姿でも貴方への忠誠心は変わりませんから、どうか安心なさって?」
人間の原形が辛うじて残る口元で、メイフェムは微笑みかけてみた。が、バウルファー侯は安心してくれない。
「きっ貴様は、また兵士を殺したのか!」
体格の良い侯爵が、まるで子供のように見苦しく喚き散らす。
「一体どうなっておる! 貴様たちが来てからというもの、兵士の数が減るばかりで叛乱の準備など一向に整わぬではないか! おまけにあの愚か者のカルゴめが、事もあろうに私に対して刺客を放ったそうな! その刺客どもに貴様らの魔獣人間がことごとく討ち殺されておるとも聞く! 申し開きをしてみせよメイフェム・グリム、貴様ら一体何の役に立っておると言うのだあああああああ!」
喚くバウルファー侯の周囲で、衛兵たちの頭が片っ端から破裂し、眼球や脳の飛沫を噴出させる。
「殿方が、あまり騒がしくなさるものではなくってよ……」
脳漿にまみれた鞭を、侯爵の周囲で揺らめかせながら、メイフェムは言った。
「どっしりと構えていなさい……あんた自分じゃ何にも出来ない人なんだから。ね?」
「ひ……ぃ……」
首から上が吹っ飛んだ衛兵たちの屍に囲まれて、バウルファーが無様に尻餅をつく。
その様を嘲笑うように、ゼノスが言った。
「メイフェム殿に、ゴルジ殿からの伝言だ……こんな使えねえオヤジは捨てて、バルムガルドへ来てくれとよ」
「あら……ゴルジ殿は、サン・ローデルに見切りをつけたのかしら?」
「バルムガルドって国そのものを魔獣人間の実験に使えそうな状況に、なりつつあるらしい」
バルムガルドという国名を口にした、その一瞬だけ、ゼノス王子の不敵に整った顔立ちが微妙に歪んだ。
怒りや憎しみの表情に似ているようで、少し違う。哀れみ、のようでもある歪み方だ。
「バルムガルドが、ゴルジ殿の実験場に……このサン・ローデルのようになってしまうとしたら、貴方は満足?」
怒らせてしまうかも知れない質問を、メイフェムはゼノスにぶつけてみた。
「国民が片っ端から人狩りに遭って、残骸兵士に変えられてしまう。まあ1000人に1人くらいは魔獣人間になれるかも知れないけれど……とにかく国としては終わりね。そうなったとしたら、ゼノス王子は御満足かしら? 貴方の目的は、バルムガルドへの復讐なのでしょう?」
「復讐ってのは自分の力でやるもんだぜ」
ゼノスは別に怒らず、苦笑した。
「本当に殺したい奴を、自分の手でブチ殺す。それが復讐ってもんだ。まわりくでえ事しなくても、今の俺なら出来るぜ? バルムガルドのクソったれどもを1人1人、丁寧にぶっ殺す……ちょいと時間さえかけりゃ難しい事じゃねえ」
確かに、メイフェムが行っている程度の殺戮であれば、この男にも出来る。
バルムガルド王宮に単身押し入って、国王ジオノス2世以下、国の主だった者たちを皆殺しにするくらいは造作もない事であろう。だがゼノスは、それを実行しようとしない。
「簡単に出来る、となったら急にやる気が失せちまってな……よくローエン派の連中が言う、復讐は何も生まねえってのは、要するにこういう事なんだろうなあ」
「少し違う気もするけれど、まあいいわ。それよりゼノス王子、使い走りのような事をさせて申し訳ないけれど、ゴルジ殿に伝えてくれるかしら。メイフェムはもうしばらくサン・ローデルにとどまる、とね」
「あんた……まさか、その使えねえ領主様に義理立てしてんじゃねえだろうな?」
座り込んで震えているバウルファー侯を、ゼノスは軽く睨んだ。
確かに、メイフェムがサン・ローデル地方を去れば、この領主はメルクトの若君に捕えられるか殺されるしかない。
あの若君を含む、魔法の鎧の装着者3名を、このまま放ってはおけない。かつてのメイフェムやダルーハに似た、愚かなる者たち。
(貴方たちを倒すのは、この私……!)
その思いは、しかしゼノスに語って聞かせるようなものではない。だからメイフェムは言った。
「私が決着をつけなければいけない戦いがある……ただ、それだけよ」
「……ま、好きにするさ。ゴルジ殿も急ぎってわけじゃねえだろうしな。ところで」
メイフェムの足元で泣きじゃくっている小さな女の子に、ゼノスの目がちらりと向いた。
「その嬢ちゃんはどうするよ? 捨て猫を拾ったみてえに面倒を見るつもりかい」
「……ゼノス王子に差し上げるわ」
蟻の群れを、踏み潰した。1匹だけ潰し損ねた。その1匹だけを今さら、むきになって踏み殺す気にもなれない。
「何年か大切に飼っていれば、そこそこは綺麗な娘さんになりそうじゃない。今のうちに自分のものにしてしまってはどう?」
「……勘弁してくれ。俺にゃもう結婚する相手がいるんだ。あんただって知ってんだろうが」
「片や一国の女王、片や滅びた国の王太子……まるで吟遊詩人の歌みたいな話よね」
「俺ぁもう王太子でも王子でもねえよ」
ゼノスは、暗く微笑んだ。
「……リグロア王国は、もう滅びちまったんだ」
ゾルカ・ジェンキムに、本来ならば遺体を引き渡すべき親族がいるのかどうかはわからない。
わからぬまま、埋葬してしまった。
ゼピト村のはずれの、小さな森の中。エミリィの両親の墓の、近くである。
3年前にこの墓を作ってくれたローエン派の僧侶たちのやり方を模倣して、エミリィが唯一神教式の葬儀を執り行った。大勢の村人が参列し、村を守るために戦って命を落とした魔術師の、魂の安らぎを祈った。
もう1人、ゼピト村を守るために戦って命を落とした者がいる。
それを知るのは、村人たちの中では、村長とエミリィだけだ。
「アサド……」
名を呟きながら、エミリィは見上げた。両親とゾルカ・ジェンキム、3名の墓を見下ろすようにそびえ立つ樫の巨木を。
その根元に、魔獣人間オーガートリスの遺灰を、可能な限り集めて埋めた。もちろん葬式など行っていない。
こうして自分1人、ひっそりと祈る。それ以外の何をしてやれると言うのか。人間をやめてまで村を守ろうとした、少年のために。
幼い頃は、この樫の木の周りを走り回って、よく一緒に遊んだものだ。
エミリィにとってのアサド・ラグは、そんな幼なじみの1人でしかない。
それ以上の思いが芽生えたりする前にエミリィは、あのローエン派の僧たちと一緒に、旅に出てしまったのだ。
帰って来た時には、アサドは人間ではなくなっていた。そして死んだ。誰に感謝をされる事もなく。
感謝をするだけならば、簡単だ。
いくら心の底から感謝をしたところで、しかしそれは決してアサドに届く事はない。
死んだ者に何かを届ける事など、出来はしないのだ。
両親の葬儀を行ってくれたローエン派の僧侶の1人が、旅の最中、エミリィに語った。
我々は宗教的儀式として弔いを行う。だけどエミリィ、君も心のどこかで気付いているだろう? 死んだ者に対し、生きている者がしてやれる事など、本当は何もないんだ。大切な誰かの死というものは、生き残った者がただ受け止めるしかない。決して忘れられぬまま、心に抱き続けるしかないんだ。だから辛いのさ。生きるという事は、死ぬよりもずっと。
北の戦災地で出会った1人の若者も、言っていた。
生きている者が何をしたところで、死んだ者は喜んでくれない。悲しみもしない。何もしてはくれないのだ、と。
寒い時季でもないのに、エミリィは身震いをした。
あの若者の事を思い出す度に、身体が震える。恐怖が甦る。
恐怖だけではない、忘れ難いものをも、あの若者はエミリィの心に刻み込んでくれた。
己の父親を殺してきたばかりだ、と彼は言っていた。両親は本当に愛し合っていたが、まず母が病気で亡くなり、そのせいで父がおかしくなり、自分が殺さなければならなくなった、とも。
そして父がやらかした事の後始末まで、自分がする羽目になった。
そう言いながら、あの若者は、エミリィの眼前で人を殺した。大勢の人間を殺した。
ダルーハ軍の残党を、彼はまるで掃除でもするかのように殺し尽くしたのだ。
アサドのように、人間ではないものへと変わりながら。
ローエン派による戦災復興活動が本格的に始まったのは、その直後からである。
あの人間ではない若者が、ダルーハ軍の残党を皆殺しにした後だからこそ、ローエン派の聖職者たちは全く手を汚す事なく、救世主のような顔をしていられるのだ。
とにかく北の戦災地は、ダルーハ軍の残党によって無法地帯と化していた。
そこへ、あの人間ならざる若者が現れ、戦災を被った人々を守るべく、ダルーハ軍残党と戦った。復興に微力を尽くそうとするエミリィたちをも、彼はついでに守ってくれた。
大勢の人間を守るため、あの若者は己の身を、返り血で大いに汚したのである。
ダルーハ軍残党を虐殺し尽くした後、彼は怯えるエミリィに向かって言った。
あとは、お前たちローエン派の出番だ。もはや神にすがるしかなくなってしまった者たちを、せいぜい救ってやれ。
そう言い残し、あの若者は北の戦災地を去った。
入れ替わるように現れたのが、クラバー・ルマン大司教ら、唯一神教ローエン派の中核たる人々である。
彼らはダルーハ軍の暴威が完全に消え失せた北の地で、バルムガルド王国から与えられた金を民衆にばらまき、何の苦労もなく危険な事も血生臭い事も一切せずに救世主面をしている。
ある1つの疑念を、エミリィは捨てられずにいた。
あの人間ではない若者は、クラバー大司教が金で雇った、汚れ役だったのではないか。
ローエン派の中枢にある人々が、自分たちの手は汚さず平和主義の建て前を保ったまま戦災地の救世主となるため、代わりに手を汚してくれる者を雇った。それが、あの若者だったのではないだろうか。
仮にそうであるにしても彼は、暴虐を働いていたダルーハ軍残党を一掃し、戦災地の人々を救ったのだ。それだけは、紛れもない事実なのである。
戦わなければ、そして殺さなければ守れないものが、確かにある。それを、あの若者は教えてくれた。
ローエン派の聖職者たちが綺麗事を言っている間にも、この世では大勢の人々が、綺麗事では決して守れないものを守るべく、戦っている。血まみれになっている。
リムレオン・エルベットもそうだ。彼は、ゼピト村を守るために戦ってくれた。
その戦いで力尽き、血を吐いて倒れた。
エミリィがとりあえず癒しの力で傷を治しはしたが、彼の意識はまだ戻らない。
(リムレオン様……)
胸の内で、彼の名を呼んでみる。
無論、返事などあるわけがない。
エミリィの脳裏でリムレオンは今、己の血反吐に沈むが如く、倒れ伏している。
戦い、傷付き、倒れた少年の、血まみれの美貌。
思い浮かべる度に、エミリィの胸が切なく、狂おしく、高鳴る。
心の中の呟きが、つい声に出てしまった。
「リムレオン様ぁ……」
「……リム様なら、まだ寝込んでるわよ」
高鳴る心臓が、そのままビクッと止まりかけた。
近くの木陰にシェファ・ランティが佇み、エミリィを見つめている。あるいは睨んでいる。
この少女も、リムレオンとほぼ同時に倒れ、気を失っていたのだが。
「あ……し、シェファさん……良かった、気が付いたんですねっ」
「おかげさまでね」
応えつつシェファが、じっとエミリィを見据える。
「……で、リム様に何か用? 何なら、あたしが言伝しておくけど」
「いえそんな、ただリムレオン様が心配で……すいません、勝手に心配させていただいてます」
シェファは懸命に、愛想笑いを浮かべた。そうしながら、心の中で詫びた。
(ごめんなさい、お父さん、お母さん……)
自分は今、墓前で、この上なくよこしまな妄想に浸りかけていたのだ。
(ごめんなさい、ゾルカ様……ごめんね、アサド……愚かなる下僕エミリィ・レアを、どうかお許し下さい唯一神よ……)
「……ありがとうね、エミリィさん」
軽く溜め息をつきながらシェファが、何やら礼を言っている。
「あたしの怪我も、治してくれたんでしょ?」
「癒しの力、くらいですから。あたしが自慢出来るのは」
唯一神の加護を発現させる技術を教えてくれたのも、あの僧侶たちである。
「エミリィさんにも、この村の人たちにも……厄介になりっぱなしよね、あたしたち」
「シェファさんたちは、この村を守ってくれたじゃないですか」
「……下手したら昨日のバケモノどもにこの村、皆殺しにされてたかも知れないのよ」
化け物、皆殺し。そういった単語を耳にすると、エミリィはやはりあの若者を思い出してしまう。
「あいつらだって、あたしたちがいるから来たわけだし」
「そんな、シェファさん……」
「……ま、迷惑だろうとは思うけど。せめて明日まで、この村に居させてくれると嬉しいな」
シェファが遠くを見つめた。領主バウルファー・ゲドン侯爵の居城の方角をだ。
「明日になったら、あたしたち、ここの領主様と話つけに行くから……間違いなく殺し合いになるとは思うけど。あのバケモノ女もいる事だし、あたし生きてられるかわかんないから今言っとく。本当に、ありがとうねエミリィさん」
「……あたし、何もしてません。癒しの力は、あたしじゃなくて唯一神の御業です」
シェファもまた、戦おうとしている。戦わなければ守れないものを、守るために。
リムレオンを、守るために。
彼とシェファが、どういう関係にあるのか、どこまでの関係であるのか、大いに興味はあるがエミリィは考えない事にした。
少なくとも、自分が入り込む余地などない事だけは明らかだからだ。