第30話 金剛の獅子
シェファの全身で、魔石が赤く輝いた。
周囲に炎が生じ、渦巻きながら空中あちこちで球形に固まり、幾つもの火球となった。
「汚い人間が、そんなに嫌なら……さっさと死んで! 天国へでも行っちゃいなさいよ!」
シェファに怒りに呼応して、魔石の杖が激しく電光をまとう。
棒状の稲妻と化した杖を、シェファは思いきり振るった。
それを合図として、周囲の火球たちが一斉に飛翔し、襲いかかる。いよいよ人間の姿を脱ぎ捨てたメイフェム・グリム……魔獣人間バルロックへと。
かつて竜退治の英雄の1人であった牝の魔獣人間が、無造作に左手を振り上げた。
掌の根元から生えた鞭がヒュンッ……と一閃し、周囲を薙いだ。
火球が全て打ち払われ、爆発し、人外のものと化した尼僧の姿を全方向から激しく照らす。
そこへ、リムレオンが斬り掛かっていった。
魔法の剣の斬撃。それを、バルロックが右足で迎え撃つ。猛禽の爪を生やした蹴りが、リムレオンの手元を高速で打ち据える。
魔法の剣が、高々と蹴り飛ばされた。
それが落下して来るよりも早く、バルロックの右足が、着地せぬままリムレオンの腹に突き込まれる。猛禽の爪が、槍の如く、魔法の鎧の腹部を激しく突いた。
リムレオンの身体が、後方へと吹っ飛んだ。
直撃の瞬間、自分から後ろへ跳んだのだ。それで魔獣人間の蹴りの威力が、かなり減殺されたはずである。
ブレンが教えた通りに、リムレオンの身体は動いている。とは言え、それで勝てる相手なのか。
「……それなりに鍛錬を積んではいるようねえ、メルクトの若様」
軽く腹を押さえて着地したリムレオンに、バルロックが微笑みかける。庇のようなクチバシの下で見え隠れする端正な口元が、妖しく不敵に歪む。
「貴方たちも、ゾルカと同じね。汚らしい人間どもを守るために一生懸命、戦う力を鍛え上げて私に喧嘩を売ってくる。微笑ましいわぁ……あの赤き竜から見た私たちも、こんな感じだったのかしらねえ」
「……知るわけないだろう、そんな事」
リムレオンが呻き、腹を押さえたまま片膝をつく。威力を減殺したはずの蹴りが、それでも効いている。
立ち上がれずにいたリムレオンの身体が突然ビシィッ! と宙に浮いた。
背ビレの生えた鞭が、一閃していた。
打ち据えられた魔法の鎧は無傷だが、血飛沫が点々と飛び散っている。
「若君……」
「リム様!」
ブレンが呻き、シェファが叫んだ。叫びながら彼女が、リムレオンの落下地点に駆け寄って行く。
地面に激突し、手足を投げ出したまま、リムレオンは動かなくなっていた。
動かぬ若君を背後に庇い、魔石の杖を魔獣人間に向けながら、シェファが絶叫する。
「こッ…………ンのォオオオオオオオオオオオオっっ!」
血を吐くような、怒りの絶叫。
それに合わせて魔石が、杖の先端で、赤い光を燃え上がらせる。シェファの魔力が、収束されているのだ。
先程ゴルジ・バルカウスを一撃で灼き砕いた赤色光。それがドギュルルルルルッ! と迸り出て宙を奔り、そして止まった。バルロックの眼前で、目に見えぬ何かに激突し、止まってしまった。
不可視の防壁。
この魔獣人間は、人ならざる身でありながら尼僧としての信仰心を失ったわけではなく、こうして唯一神の加護を発現させる事が出来るのだ。
その不可視の防壁と、シェファの放った赤色光の束が、同時に砕け散った。相殺。赤と白の光の飛沫がキラキラと美しく舞い散り、消えてゆく。
それらを蹴散らすように鞭が跳ねた。刃のような背ビレを生やした、怪物の尻尾にも似た鞭。
それが、シェファの全身にビシビシッと絡み付いていた。
「きゃっ……う……ッ」
少女の悲鳴が、詰まった。
シェファの細身に蛇の如く巻き付いた鞭が、ミシミシ……ッと締め付けを強めてゆく。魔法の鎧を、内部の人体にまで圧迫が及ぶほどに締め上げているのだ。
「シェファ……!」
ようやく上体を起こしたリムレオンの眼前から、シェファは連れ去られていた。バルロックが、左手で鞭を引いたのだ。
引きずり寄せられたシェファの細身が、魔獣人間の左腕にガッシリと抱かれ、捕えられる。
「生意気なお嬢さん……貴女、私と同じね」
捕えた少女に、メイフェムが優しく微笑みかけた。
「あの若様が、例えば世界を救うために命を投げ出したりしたら……貴女、絶対に許せなくなるわよ? 世界中の人間たちをね」
「一緒に、しないで……あんたみたいなバケモノとっ……!」
魔獣人間の鞭と腕力で締め上げられながらも、シェファは気丈な言葉を発している。
その気丈さを、メイフェムは明らかに楽しんでいた。
「……貴女もバケモノになってみない? 何か、面白い魔獣人間になりそうな気がするのよねえ」
「放せ……」
言ったのはシェファではなく、リムレオンだった。どこかへ落下した魔法の剣を探そうともせず、魔獣人間に殴り掛かって行く。
「シェファを……放せぇええええッ!」
白い魔法の鎧に包まれた身体が、バルロックに向かって突進し、そして再び宙を舞った。
魔獣人間の、蹴り。
たくましく肉感を増した美脚が、下から上へと一閃し、リムレオンの身体を打ちのめしたのだ。
高々と吹っ飛び、地面に激突したリムレオンが、しかし即座に一転し、立ち上がる。
立ち上がって、すぐに片膝をついてしまう。
「放せ……シェファを……っ!」
面頬からゴボッ……と血反吐の飛沫が飛び散った。
(俺は……何をしている……)
ブレンは、戦斧を握り締めた。こんなもので、少なくともグールトレントあたりとは格の違う魔獣人間に対し、どれほどの事が出来るのかはわからない。が、そんな事は問題ではなかった。
(若君が戦っておられる、シェファも戦っている……なのに年長者たる俺は、何をしている!)
左腕でシェファを捕えているバルロックに向かって、ブレンは駆け出そうとした。
弱々しい声が、それを止めた。
「待て……ブレン殿……」
弱々しいが、聞き流す事の出来ない何かを秘めた声。
ゾルカだった。
真っ二つにちぎり殺されたはずのゾルカ・ジェンキム。その上半身が、消えゆく命を声として絞り出している。
エミリィが近くに座り込み、ゾルカの腹部の断面に向かって片手をかざしている。震えるその手が光を発しているが、黒ずみ始めた臓物をただ照らすだけだった。
「駄目……あたし、こんなの治せない……」
「ありがとう……いいんだ。戦いに敗れた者が、死ぬ……それだけの事……」
血色の完全に失せた、蝋人形のような顔で、ゾルカは無理矢理に微笑んでいる。
「……それよりブレン殿……早まっては、いけない……無駄に命を捨てたところで、あの2人を救う事など……」
魔獣人間の左腕が、シェファの身体を、鞭から解放しつつ放り投げていた。青い鎧をまとう少女の細身が、まるで物のように投擲され、リムレオンに激突する。
リムレオンが、シェファを抱き止めようとして失敗し、もろともに重なり合って倒れていた。
そちらに、バルロックが微笑みを向ける。
「ねえ貴方たち……どちらかが殺されそうになっても、守ってあげられる? 逃げずにいられる? 一緒に、死んであげられる?」
少年少女に歩み寄るその足取りが、急速に速まった。
「試してあげるわ……」
魔獣人間の、右足が踏み込み、左足が蹴り上がる。
「く……っ」
シェファが、リムレオンを庇って上体を起こし、眼前に両手をかざす。その全身で、魔石が輝く。
目に見えぬ魔力の防壁がそこに出現し、だが蹴り砕かれた。光の破片が一瞬だけキラキラと生じ、消えた。
それを蹴散らして一閃したバルロックの左足が、シェファとリムレオンを一緒くたに叩きのめし、吹っ飛ばす。
無傷の鎧から血飛沫をまき散らし、2人は宙を舞った。
「やめろ……!」
激昂し、戦斧を構え、魔獣人間に斬り掛かろうとするブレンを、上半身だけのゾルカがなおも呼び止める。
「だから待て……命を、粗末にするなと言っている……ここは恥を忍べ、ブレン殿……」
「逃げろと言うのか……」
ゾルカがこのような状態でなければ、ブレンは間違いなく、胸ぐらを掴んでいたところである。
そんなブレンに、ゾルカは右拳を向けていた。細い、死にかけの右手が、何か小さな物を握り込んでいるのだ。
その右拳が、震えながら開いた。
「恥を忍んで……外付けの力に頼ってみろと、言っているのだよ……」
ゾルカの右掌の上で、小さな金属の竜が環を成していた。指輪、である。
ブレンは息を呑んだ。
「これは……!」
「魔獣人間と、生身で互角以上に渡り合う……貴殿の戦いぶりを、一目見た時から……私は、ずっと思っていた。この勇士に魔法の鎧を着せてみたら、一体いかなる事になるものかと……」
死にかけの手で差し出された竜の指輪を、ブレンはとりあえず受け取るしかなかった。
ゾルカの眼差しと口調に、最後の力が籠る。
「ブレン・バイアスという人間を、出来ればもう少し見極めたかった。強大な力を手にした貴公が……ダルーハ・ケスナーのように、なってしまわないという保証は……どこにも、ないからな……」
「だろうな。俺自身にもわからん、それは」
「だが私は……最強の戦士に魔法の鎧を着せてみたいという誘惑に、ついに打ち勝てなかった……」
ゾルカの両目から、眼光が失せてゆく。
「もはやブレン殿に頼むしかない……メイフェムを、止めてくれ……私は、誰を止める事も……出来なかっ……た……」
「ゾルカ殿……」
ブレンの呼びかけに、ゾルカはもう応えない。
少年兵の頃、物陰から盗み見ていた英雄の1人が、死んだ。
その英雄の形見の品を、グッ……と握り込みながら、ブレンは目を閉じた。
どれほど便利で卑怯なものであろうと、力は力。戦場では何より必要とされるもの。
力を用いて戦いに勝ち、守るべきものを守る。それが出来なければ、己の力のみで正々堂々戦ったところで意味はない。
ブレン自身が、リムレオンに向かって偉そうに語った事である。
リムレオンは起き上がろうとしたが、その前にシェファが、よろよろと立ち上がっていた。魔石の杖にしがみつきながらも魔獣人間の方を向き、リムレオンを背後に庇っている。
「シェファ……逃げて……」
込み上げる血反吐を飲み込みながら、リムレオンは呻いた。
振り返りもせず、シェファが応える。
「リム様が一緒に逃げてくれるんなら……それと、あいつが逃がしてくれるんならね……」
起き上がるのが精一杯の少年少女に、優雅な歩調で迫りつつある魔獣人間バルロック。
聖女メイフェム・グリムの面影を残した唇が、嬉しそうに言葉を紡ぐ。
「庇い合っているのね、貴方たち……素敵っ……もっと見せて」
魅惑的な女の曲線を失ってはいない、異形の裸身。その周囲を、背ビレのある鞭が海蛇の如く泳いだ。
「美しいものを、もっと見せて……お願いよ……」
「……うちの若君を玩具にするのは、やめてもらおうか」
力強い、声と足音が聞こえる。
誰なのかは確かめるまでもなく、リムレオンは叫んでいた。
「ブレン兵長……! 駄目です、村の人たちを連れて早く逃げて!」
うぬぼれに等しいという事は、リムレオンも承知の上だ。よりにもよって自分が、ブレン兵長を守ろうとしている。これほど身の程知らずな事があろうか。
「若君も無茶をおっしゃる。その怪物から逃げる事など、出来るはずがありません」
傷跡のある厳つい顔に苦笑を浮かべながら、ブレンは右手で拳を握っている。
その太い中指で、何かがキラ……ッと光を放っている。
「……うそ……」
シェファが呆然と呟いた。リムレオンは、声も出なかった。
竜の指輪。間違いはない。自分やシェファと同じものを、ブレン兵長が手にしてしまった。
「……なるほど、そういう事……」
少年少女に対する攻撃を、バルロックはとりあえず中断し、ブレンと向かい合う。
「やっぱりゾルカね。魔法の鎧の装着者を、あと2人か3人はどこかに隠していると思っていたわ」
「愛人のような言い方は、やめてもらおうか」
ブレンの右拳で、竜の指輪が輝きを増す。
「この力の使い方に関しては、若君の方が先達であられます。至らぬ所が見えたなら、遠慮容赦なく御指導願いますぞ」
「ブレン兵長……」
「まずは真似をするところから始めさせていただく……武装、転身っ」
光り輝く右拳を、ブレンは天空へと向かって突き上げた。
その拳から投影されたかの如く、光の紋様が空中に生じた。様々な記号や図形を内包した真円。
光をインクとして空中に描き出されたそれが、轟音を発して輝き、稲妻に似た光を放つ。どこか異なる世界から、電撃を召喚したかのような様である。
その電撃光が、ブレンを直撃した。
力強く拳を突き上げた巨体が、激しい電光に包まれた。
電光が実体を得て、ブレンの全身に固着してゆく。
空中に描かれた光の紋様が、いつの間にか消えていた。
天に向かって拳を突き上げた、勇壮なる騎士の姿が、そこに出現していた。
黄金に似た、だが金よりは落ち着きのある黄銅色の全身甲冑。その所々が、パリパリと微かな電光を帯びている。
傷跡のある獅子のような顔も、今は厳めしい面頬の内側だ。
腰に取り付けられているのは、やはり黄銅色の、大型の戦斧である。
魔法の鎧と、魔法の戦斧。
黄銅色に武装したブレン・バイアスが、帯電する右拳をゆっくりと下ろし、魔獣人間を睨み据える。面頬の外からでも闘志のぎらつきが見て取れる、烈しい眼光だ。
「なるほど……これは確かに良くありませんな、若君」
腹に響くような重い低音で、ブレンは笑っている。
「修行や鍛錬では絶対に得られない力が、全身に漲って……今の私は、何でも出来そうな気になっております。下手をすると癖になりますな、これは……魔獣人間になってしまった時というのは、こういうものなのだろうなあメイフェム・グリムよ」
「さあ、どうかしらね……」
会話は、そこまでだった。
バルロックの左手が動いた。と見えた時には、背ビレのある鞭が、ブレンの身体にビシビシッと巻き付いていた。黄銅色の魔法の鎧に、容赦ない締め付けが加わってゆく。
ブレンがそれに抗い、両腕を広げた。
魔獣人間の肉体の一部である鞭が ブチブチッ! とちぎれて飛び散り、肉片と化す。
「うっ……」
微かな苦痛と動揺の呻きを漏らし、バルロックが半歩ほど後退りをした。
その間にブレンは、魔法の戦斧を右手に持って構えながら、踏み込んでいた。黄銅色の力強い甲冑姿が、猛然と魔獣人間に迫る。
バルロックの右手に一瞬、光が生じた。その光が実体を得て、棒状に物質化する。
抜き身の、長剣だった。
まっすぐに突進し、戦斧を振り下ろすブレン。身を翻し、右手で長剣を一閃させるバルロック。
左上から右下へと閃いた長剣が、魔法の戦斧をガキィッ! と受け流す。紙なら燃やせてしまいそうな火花が散り、ブレンの巨体が前方へとよろめき泳ぐ。
そこへ、魔獣人間の左足が襲いかかった。右手で剣を振るいながらの、左後ろ回し蹴り。
泳いだ身体を即座に踏みとどまらせ、振り返りながら、ブレンは左腕を掲げた。防御の形に掲げられた左前腕に、猛禽の爪を生やした蹴りが激突する。
強固な魔法の手甲と魔獣人間の左足が、鍔迫り合いの如く交わり、弾け合うように離れた。
いくらか距離を隔ててバルロックは着地し、ブレンは魔法の戦斧を両手で構え直し、睨み合う。
睨み合いは一瞬で終わり、双方同時に踏み込んだ。
魔法の戦斧が横薙ぎに唸り、豪快に空振りをする。
バルロックは、上空へと回避していた。跳躍しつつ、左右形の異なる翼をはためかせて空中にとどまり、地上のブレンに左手を向ける。
鋭利な五指に囲まれた掌が、白く発光した。癒しの力や不可視の防壁と同じ、唯一神の力の発現。
その白い光が球形に固まり、魔獣人間の左掌から発射されてブレンを襲う。
「ぬ……っ」
兜に命中した。黄銅色のたくましい甲冑姿が、微かに揺らぐ。
倒れず踏みとどまって立つブレンを、バルロックは容赦なく空中から狙撃し続けた。3発、5発と、魔獣人間の左掌が連続で光球を発射する。
降り注ぐそれらを、ブレンは魔法の戦斧で、片っ端から打ち砕いた。白い光の飛沫が、粉雪のように舞い散っては消える。
十数発、正確には14発目で、光球の発射は止まった。
15発目は、狙撃ではなく斬撃だった。バルロックが、右手の長剣を両手で握り、空中からブレンに斬り掛かる。
急降下と共にまっすぐ振り下ろされゆく刃が、白い光を帯びていた。今の光球と同じ性質の、聖なる光。
落雷にも似たその斬撃を、ブレンは戦斧を掲げて受け止めた。魔法の斧と光の剣が、激しくぶつかり合って甲高く音を発する。
その残響が消えぬうちに、魔獣人間の肢体が、空中で竜巻の如く捻転していた。猛禽の爪を生やした美脚が、後ろ回し蹴りの形に弧を描く。
直撃。黄銅色の魔法の鎧が、火花を散らせる。
後方に吹っ飛んだブレンの巨体が、大型肉食獣の如く地上でしなやかに一転し、何事もなく起き上がって戦斧を構えた。
直撃を喰らったように見えて、本当には喰らっていない。この兵長が、さんざんリムレオンに教え込んでくれた回避技術である。自分ならそんな事をする暇もなく直撃を受けていたであろう、とリムレオンに思わせるほどの蹴りだったが。
地上に降り立ったバルロックが、着地したその足で地面を蹴り、ブレンに斬り掛かる。
白い光をまとう長剣を、魔法の戦斧が弾き返す。弾き返された刃が、即座に別方向からブレンを襲う。
それが、幾度か繰り返された。
舞うように激しく躍動する牝の魔獣人間と、腰を落としてどっしりと身構えた黄銅色の甲冑姿。両者の間で、白く輝く長剣と魔法の戦斧が、激しく何度もぶつかり合う。5合、10合。
20合近くになって、2つの武器がガキッ……と噛み合い、止まった。
魔獣人間の長剣にギリギリッと戦斧を押し付けながら、ブレンが言う。
「噂に聞く、アゼル派の聖なる武術か……他宗教に対する攻撃・弾圧のため、古の唯一神教司祭たちが開発し磨き上げたという」
「攻撃と弾圧……それが宗教というものよ。特に唯一神教はね」
「嘘です!」
叫んだのはエミリィだった。
「人々に平和と安らぎをもたらすのが唯一神教です! 安らぎと救いを求める人々の心から生まれたのが、元来の唯一神教ではないのですか!」
「ローエン派のお嬢さんが、そんな綺麗事を言っていられるのも……アゼル派の先人たちが、返り血にまみれながら唯一神の教えを広め、定着させたからよ」
喋りながらもメイフェムは、魔法の戦斧に押し込まれ、いささか苦しげに身を反らせている。やはり単純な力の押し合いでは、魔法の鎧を装着したブレンの方に分があるか。
と思えた瞬間、バルロックの全身が螺旋状にグリッと捻れた。
光を帯びた長剣が、魔法の戦斧を受け流していた。受け流されたブレンの身体が、魔獣人間と擦れ違う形に泳ぐ。
その擦れ違いざまに、バルロックは右足を高速離陸させていた。跳ね上がった蹴りが、ブレンの腹に叩き込まれる。
「ぐうッ……!」
魔法の鎧で守られた巨体が、腹を押さえて倒れ込む。だがすぐに起き上がりつつ、戦斧を跳ね上げる。
とどめ、とばかりに振り下ろされた長剣がガキィーン! と弾き返され、火花を散らせた。火花と一緒に、キラキラとした金属片が飛び散ってゆく。刀身そのものが、砕けていた。
魔法の戦斧が、さらなる勢いを得てバルロックを襲う。
徒手空拳となった魔獣人間が、それを左足で迎え撃った。力強い脚線が鞭の如くしなって一閃し、猛禽の爪が鋭く高速で弧を描く。
その爪が、白い光を帯びている。先程まで長剣にまとわりついていたもの同じ、唯一神の聖なる力。
白く光る軌跡を空中に残しながら、バルロックの蹴りが、ブレンの手元を打ち据えた。魔法の戦斧が打ち飛ばされ、くるくる回りながら広場のどこかへと落ちて行く。
もちろん探して回収する暇など与えるはずもなく、バルロックがさらなる蹴りを放つ。左右それぞれ1発ずつ。白く光る猛禽の爪が、ブレンの身体を高速で打ち据える。黄銅色の魔法の鎧が2度、火花を散らせた。
直撃のように見えて、しかしブレンは微かに巨体を揺らし、甲冑の内部に衝撃が流れ込むのを避けている。それがリムレオンにはわかった。
もう1つ、わかった。傍目には一方的に蹴られながらも、ブレンは反撃を狙っている。
「…………ッ!」
魔獣人間にも、それがわかったようだ。息を呑みながら蹴りを止め、後方へと跳び退っている。あと1発か2発、蹴りを放っていたら、ブレンの何らかの反撃を喰らっていただろう。
「危ない危ない……貴方に組み付かれたら、私たぶん何も出来なくなるわね」
「…………」
たくましい両腕を軽く左右に広げ、ブレンは巨体を前傾させている。
生身の戦いで魔獣人間を投げ飛ばし、首を押さえ、動きを封じて見せた彼の戦いぶりを、リムレオンは思い出していた。
光球の射撃や、異形の美脚による蹴り……間合いを開いての戦いならば、メイフェムの方が圧倒的に有利だ。が、それらの攻撃をかいくぐって組み付く事に、ブレンが成功すれば。
睨み合い対峙する両者を、息を呑んで見つめるリムレオン。
その近くでシェファが、魔石の杖を構えている。魔力が集中しつつある先端の魔石は、まっすぐバルロックに向けられている。
リムレオンは、ようやく気付いた。1対1の戦いについ見入ってしまったが、これは武術の試合ではない。
実戦の、殺し合いなのである。
蹴り飛ばされた魔法の剣は、少し離れた所で地面に突き刺さっていた。魔獣人間に気付かれず回収する事は、出来るであろうか……
いや。メイフェムは、すでに気付いているようだった。
「……ここまで、にさせてもらうわ」
じり、じりっ……と油断なく後退りをしながら、バルロックは言った。
その左手が、白い光を発している。癒しの力。ちぎれた鞭が、光の中から生え変わり、宙を裂いた。
とっさに、リムレオンは後ろへ跳んだ。足元で、魔獣人間の鞭がビシィッ! と地面を打つ。
魔法の剣を回収しようとするリムレオンへの、牽制だった。
「……覚えておきなさい。私は、ケリスの死を汚す者どもを許さない。そいつらを守ろうとする貴方たちもね」
「別に、許してもらおうとは思わんよ」
いつでも踏み込める前傾姿勢を崩さぬまま、ブレンが言う。
「立ち去るならば去れ。この場で息の根を止めておきたいところだが……俺たちが3対1の戦いを派手にやらかせば、この村に迷惑がかかる。もうかかっているかな」
「あくまでも守ろうとするのね、弱い人間を……」
メイフェムは跳躍した。そうしながら皮膜と羽毛、2種類の翼を羽ばたかせる。
「貴方たちは本当に、あの頃の私たちにそっくり……いずれ絶望するわよ、人間という生き物に」
「俺はなメイフェム殿。若作りをしているあんたよりは年下だが、それでも30何年かは人間として生きてきた。人間がどれほど薄汚くて度し難い生き物であるかは、ようく知っているつもりだ」
ブレンは言った。
「あんた方と違って、人間に望みなど抱いてはいない。だから絶望など、しようがない」
「……愚かなところまで、ダルーハやゾルカにそっくり……!」
それだけを地上に向かって吐き捨ててから、メイフェムは一気にその場を飛行離脱した。
左右形の違う翼をはためかせる魔獣人間の姿が、上空へと遠ざかって行く。
人間ではない者たちが、とりあえずは全員、ゼピト村からいなくなった。
メイフェム・グリム1人は取り逃がしたものの上々の結果だろう、とリムレオンは思う。村人からは、1人の犠牲者も出なかったのだ。
元村人の魔獣人間が1人と、助っ人に現れた魔術師が1人、計2名の死者が出ただけだ。
アサドは燃え尽き、微かな灰しか残っていない。
ゾルカの方は真っ二つにちぎれ、先程まではゴミのように放り出されていたが、今は上半身・下半身共に、村人らによって丁寧に横たえられている。
その傍らにエミリィが跪き、唯一神への祈りを呟いていた。
リムレオンも、跪いていた。
いや、跪くつもりはない。恭しく跪いて死を悼むような相手ではないのだ。
何しろシェファに竜の指輪など持たせて、戦いに巻き込んだ人物なのだ。
次に会ったら一言二言は責め立ててやらなければ、と思っていたところ、その前に死んでしまった。
リムレオンに戦う力を貸してくれた、言わば恩人でもある。その礼を1度くらいは言わねばならないか、と思っていたところ、その前に死んでしまった。
ゾルカ・ジェンキムに対して、リムレオンには複雑な思いがある。少なくとも、跪くような相手ではない。
にもかかわらずリムレオンは、地面に両膝をついていた。
全身からキラキラと、何かが散って行くのがわかる。魔法の鎧が、光に戻っていた。
続いてリムレオンは、顔面に生暖かい液体がぶちまけられるのを感じた。
己の、血反吐だった。
口からゴボゴボと大量に溢れ出して地面に広がった鮮血の中に、リムレオンは顔から倒れ突っ伏していた。
魔法の鎧の上から、さんざん叩き込まれた魔獣人間の攻撃が、今になって本格的に効いてきたようである。
痛みはない。痛覚が、破壊されている。
村人たちが、騒ぎ立てていた。若君、と叫ぶブレンの声も聞こえた。女の子の悲鳴も聞こえる。シェファか、エミリィか。
1つ、リムレオンは理解した。
せっかく3対1の状態に持ち込めたのに、ブレンが魔獣人間バルロックをあっさり見逃してしまった理由。それは村人たちを戦いに巻き込んでしまうのを恐れたため、ではない。いや、それが全く念頭になかったわけではなかろうが、真の理由はたった1つ。
(僕が、もう……使い物に、ならないから……)
あのまま3対1で戦っていたら、バルロックを仕留める前に、リムレオンが力尽き殺されていただろう。現に今、こうして力尽きているのだ。
シェファは自力で、ゴルジ・バルカウスを倒した。
ブレンは、敵の最大戦力であるメイフェム・グリムと互角に戦い、追い払った。
リムレオンはと言うと、シェファの力を借りて、ようやくアサドの殺害に成功しただけである。
(僕1人が……足手まとい……)
その思いに押し潰されながら、リムレオンの意識は、血反吐に溶け込むように失われていった。