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第2話 裸の虐殺者

 ガイエル・ケスナー。

 という自分の名前だけは、辛うじて覚えている。

 その他の何もかも、自分は忘れてしまった。が、思い出すのは後でもいい。

 記憶など取り戻す前に、早急にやらなければならない事がある。

 下腹部から8匹の大蛇を生やした、単眼の魔獣人間。

 そんな怪物に捕われている少女を、一刻も早く助けなければ。

(魔獣人間……だと?)

 1つ、ガイエルは気付いた。

 魔獣人間というものを、自分は知っている。

 この世で最も忌まわしくおぞましい者たち。

 力を求めるあまり人間である事をやめた、生ける殺戮兵器。

 その魔獣人間が、言った。

「頭のおかしい野郎が出て来やがったなァ……けど男の裸になんざぁ興味はねえ。やっぱ女の裸だよ女女女女オンナ! ああ全部脱がしちまおうかなー、それとも着せたまんまブチ込んじまおうかなあぁいろんな穴によォー」

 3匹の大蛇に絡め取られ吊り上げられた少女。その周囲で、他5匹の大蛇が凶暴に嫌らしくうねり、牙を剥く。

「いっ……嫌……ッッ!」

 少女が身をよじり、歯を食いしばり、気丈にも悲鳴を呑み込んでいる。

 ガイエルは小石だらけの河岸を裸足で蹴りつけ、駆け出した。

「やめろ……」

「おぉーっと待ちなよ兄ちゃん」

 魔獣人間配下の兵士たちが、群がって行く手を阻む。

「そんな格好で正義の味方ぶってんじゃねえよバァーカ」

「男はさっさと殺して、お姫様で楽しませてもらうぜーえ」

「お、俺ぁどっちかってえと……こっちの兄ちゃんの方がよぉ、げっへへへ」

「い、いいケツしてんなあぁ兄ちゃんよオォ」

「たったまんねぇー、そのキュッてした感じの腹筋が、フトモモがああ」

「美味そうなモノぶら下げやがってよおお、くくく喰ってやるぜェー兄ちゃん」

 口々に世迷い言を吐く兵士たちに向かって、ガイエルは跳躍した。

 がっしりと筋肉の詰まった右の太股が、脛とふくらはぎと足首が、槍の如く伸びる。飛び蹴り、である。

 兵士が1人、真っ二つになった。

 宙を舞う上半身と、倒れ伏す下半身を蹴散らし、着地するガイエル。右の裸足に、臓物が絡み付いている。

 それを踏みちぎって、ガイエルは駆ける。群れる兵士らの、まっただ中へと向かって。

 駆けながら、右の拳を突き上げる。

 兵士の身体が1つ、殴り倒された。首が、おかしな方向に曲がっている。

 歩調を落とさずガイエルは踏み込み、前方の兵士に左肘を叩き付けた。

 眼球が2つ、飛び出して宙を舞った。潰れた顔面から血の涙を垂れ流し、兵士が倒れる。

「てめ……っ!」

「野郎! おとなしくケツ出してりゃ命だきゃあ助けてやったのによぉおおお!」

「ああああ、やっぱ男は殺さねえと駄目だぁなーッ!」

 凶暴な怒声と共に、幾本もの槍が、剣が、様々な方向からガイエルに襲いかかる。

 左右の素手を、ガイエルは無造作に振るった。まるで蠅でも追い払うかのように。

 様々な方向から降り注ぐ槍が、剣が、ことごとく折れて飛んだ。

 樫の長柄や鋼の刃を、両手で無造作に叩き折りながら、ガイエルは裸身を翻した。

 すらりと引き締まりガッシリと筋肉の付いた左脚が、後ろ回し蹴りの形に高速で弧を描く。

 兵士たちが高々と吹っ飛び、あるいはその場に膝や尻餅をついた。

 ある者は砕けた下顎をだらりと垂らし、ある者は眼球をぶら下げ、ある者は血を吐いている。

 そして皆、弱々しく痙攣しながら、死体へと変わってゆく。

「ふむ……」

 自分は今、武器も持たずに人間を殺戮している。

 それを実感しつつガイエルは、ある事を思い出しつつあった。

「俺は、どうやら……むっ」

 ゆっくりと思い出している場合でもなかった。

 魔獣人間が、5匹もの大蛇を、一斉に伸ばして来たのだ。

「てめ、てめえは! 逆らうかこの俺に、この魔獣人間サイクロヒドラ様に! そいつぁつまりダルーハ様に逆らうって事だぞゴルァわかってんのかああああああああああッ!」

 超高速で空中を泳ぎながら牙を剥き、襲いかかって来る大蛇たち。

 それらに向かって、ガイエルの方からも踏み込んで行く。そして両腕を振るう。

 左右の前腕が、メキッ……と震えながら周囲を薙ぎ払う。

 牙を剥いた大蛇の生首が、5つ。ぼとぼとと落下した。

「ぎゃ……あ……っ」

 頭部の失せた5本の蛇体を苦しげにうねらせ、単眼を大きく見開きながら、魔獣人間サイクロヒドラが悲鳴を漏らす。

「……1つ、思い出した事がある」

 振り切った両腕を軽く広げ、ガイエルは言った。

 広げた両手に、いつの間にか何かが被さっている。

 赤い、手甲。節くれ立った五指の先端は尖り、まるでカギ爪のようだ。

 手首の辺りから肘にかけて、鋭利なヒレが生えている。左右のそれが、今は大蛇の血でヌラリと汚れている。

 ……手甲ではない。左右の前腕で皮膚が、筋肉が、赤く甲殻状に変化し、刃物のようなヒレを生やしているのだ。

「俺は、どうやら……人間、ではない」

 魔獣人間。自分も、そうなのか。

 目の前で少女を捕え虐めている、この醜悪下劣な怪物と。自分は、同類なのであろうか。

 そこまでは、まだ思い出せない。

 ただ、気になる事はあった。今サイクロヒドラがわめいた言葉の中に、1つだけ、聞き流せない単語があったのだ。

「ダルーハ様、とは一体何者だ」

 異形化した右手を軽く掲げ、甲虫の節足に似た五指をカチカチと鳴らして見せながら、ガイエルは訊いた。

「その名には、聞き覚えがある……俺の頭の中で、実におぞましく響く言葉だ」

「聞き覚えがある、だあ? バカ野郎、ダルーハ様の事知らねえ奴なんかいねぇよ今この世にゃあよおおお!」

 サイクロヒドラが叫ぶ。と同時に5匹の大蛇の頭部が、ニョキニョキと一斉に急速に再生し、牙を剥いた。

 そして多方向から襲いかかって来る……のを待たずにガイエルは踏み込み、左腕を振るった。

 怪魚のヒレに似た有機質の刃が、一閃した。

 少女の両手両足に巻き付いていた3匹の大蛇が、滑らかに切断された。

「きゃっ……」

 解放され、落下して来た少女の身体を、ガイエルは両腕で抱き止めた。

 そうしながら身を翻す。

 力強くしなやかな裸身が、少女を抱いたままギュルッとねじれて回転し、左足が後ろ向きに跳ね上がって弧を描く。

 斬撃にも似た、後ろ回し蹴り。

 サイクロヒドラの肥えた腹部が、ザックリと裂けた。

 血と脂肪の混ざり合ったものが大量に噴き上がり、臓物が溢れ出して宙を舞う。

 表記不能な悲鳴を上げて、サイクロヒドラがのたのたと後退りをした。

 魔獣人間の血と脂にまみれたまま、ガイエルの左足がゆったりと着地する。

 人間の素足、ではなかった。

 たくましく筋肉の締まった太股の下で、膝が、脛が、ふくらはぎが、足首が。刃の生えたブーツでも履いたように、異形化している。

 赤い、甲殻質のブーツ。長く鋭い爪は、まるで地面を握り潰すかのようだ。

 右足も、同じ形状に変化している。

 両手両足のみを生体凶器化させた、裸の男。

 中途半端に人間の形状を残した、そんな怪物に抱き上げられたまま、少女が息を呑んでいた。

 細く小柄でしなやかな、どこか仔猫を思わせる柔らかい感触が、ガイエルの両腕と胸の間に満ちている。

 しばらくこのまま抱擁していたい、という誘惑を、ガイエルは無理矢理に断ち切った。

「あ、あの……」

「すまないな、こんな手で貴女の身体に触れてしまった」

 ガイエルは少女の身体を地面に下ろし、立たせ、背後に庇った。

「……早く逃げろ」

「そうはいかねえ、逃がさねえよ……逃がすわきゃねえだろおぉーがッッ!」

 サイクロヒドラが単眼を血走らせ、わめいている。

 溢れ出した臓物が、腹部の裂傷にズルズルと吸い込まれてゆく。

「ダルーハ様がなァおっしゃったんだよ、王族は皆殺しだってなあ。見つけ次第どうゆう殺し方してもイイってなぁあ」

 臓物を吸い込んだ裂け目が急速に塞がり、叩き斬られた蛇たちも、凄まじい速度で生え変わる。

 あっという間に再生回復を終えた魔獣人間が、ぎらついた1つ目で少女を凝視し、8匹の大蛇を激しくうねらせて絶叫した。

「だっだからそのお姫様はよぉ、俺様がもぉーぐっちょんぐっちょんにヤり殺す! 身体じゅうのいろんな穴にコイツらをブチ込んでなぁあああ!」

 聞かず、ガイエルはすでに跳躍していた。

 空中で高々と右足を振り上げ、振り下ろす。

 刃状の爪を生やした踵が、鉈の如くビュッと空気を裂く。

 サイクロヒドラの巨大な単眼が、グチャッと潰れて飛び散った。ガイエルの右踵が、叩き込まれていた。

 一斉に少女を襲おうとしていた8匹の大蛇が、うねりながら硬直する。

 よろめいたサイクロヒドラの身体を左足で蹴りつけ、右踵を引き抜き、ガイエルは裸身を反らせて宙返りをした。

 そして着地し、硬直した大蛇の何匹かをグシャッと踏み潰す。

 原形を失った顔面の上半分をグジュグジュと蠢かせながら、サイクロヒドラが呻く。

「てめ、一体何モンだ……魔獣人間か……そのくせダルーハ様に逆らおうってのかぁあ」

「違うな。俺は魔獣人間ではない」

 うねり暴れる大蛇たちを、凶器化した足で踏みにじりつつ、ガイエルは言った。

「そのあたり、まだよく思い出せんのだが。これだけはわかる……今わかった。俺はな、作り物の怪物に過ぎぬ貴様ら魔獣人間などよりも、ずっと禍々しく悪しきものだ」

「ほざくんじゃねえ、とにかくそのお姫様はテメエになんざぁやらねえよ俺様のだ! 俺の肉奴隷だよ穴人形だよ、ヤり殺して楽しむ生きたオモチャだよおおおおおおお!」

 わめく魔獣人間の口元に、ガイエルは左拳を叩き込んだ。

 サイクロヒドラの、上下の顎が一緒くたに潰れた。ちぎれかけた舌が、だらりと垂れ下がる。

 魔獣人間の顔面の、下半分は潰れたが、上半分は再生を終えていた。

 脳天の奥から盛り上がって来た新たな眼球が、憎悪と劣情に血走って、少女を睨む。

 執拗な再生能力を有する巨体に向かってガイエルは、下から上へと右手を一閃させた。

 手首から肘にかけて生えた刃のヒレが、その一閃と共にメキッと巨大化する。

 臓物の汁と脳漿が、混ざり合いながら大量に噴き上がった。

 腹部から脳天まで、サイクロヒドラの身体が、縦一直線に切断されていた。

 ほぼ真っ二つになった巨体の断面から、ドプドプッと臓物が溢れ出す。

 それらを無造作に引きちぎりながら、ガイエルは語りかけた。

「俺はな、自分のこの馬鹿力の使い方を……どうもまだ今ひとつ思い出せん」

 隙あらば少女に襲いかかろうとする大蛇たちを踏み潰しつつ、手を動かす。

 その度に、汚らしいものが飛び散る。体液の飛沫、臓物、肉片。

「もっと上手い使い方が、あるはずなのだ。それさえ思い出せれば魔獣人間よ、貴様をもう少し楽に死なせてやれるのだが」

 語りかけながらガイエルは、ぼんやりと思い出しつつあった。

 自分は強い。だがそれは、この下等な魔獣人間と比べての事だ。

 今の自分の、この程度の強さなど、全く通用しない相手がいた。

(俺は……)

 引きちぎり、叩き潰し、蹴り砕く。

 半ば作業的にそれらを行いながら、ガイエルは今、ある記憶に辿り着こうとしていた。

(その男に、俺は……負けた……?)

 うっすらと甦りかけた、敗北の記憶。自分は一体、誰に負けたのか。

「どうも……な。まだ思い出せん。力の使い方を」

 ガイエルは重く暗く、微笑んだ。

「だから嬲り殺しになってしまった。すまんなあ……本当に、すまん」

 心から謝罪をしつつ、左手を振るう。刃状のヒレが一閃。

 サイクロヒドラの、もはやどの部分だかわからなくなった何かが、断ち切られた。

 魔獣人間は、完全な細切れと化していた。

 肉片か臓物の断片か判然としないものたちが、無数のナメクジの如く地面を這いずり、弱々しく蠢きながら力尽き、干涸びてゆく。

 もはや死体とも呼べぬ、萎びた残りカスの集まり。

 そんな有り様となったサイクロヒドラを見下ろし、ガイエルは1つ息をついた。そして思う。

(駄目だ……こんな戦い方では)

 こんな雑魚同然の魔獣人間1匹を殺害するのに、ここまで時間をかけているようでは。とてもあの男には勝てない。

 まだ顔も名前も思い出せぬ、あの男には。

「まあ今は、そんな事よりも……だ」

 ガイエルは、周囲を見回した。

 魔獣人間の配下であった兵士たち。その最後の1人が、斬り殺されたところだった。

 ガイエルが助けた、少女によって。

 どうやら魔石が埋め込まれているらしい細身の長剣を、少女がゆっくりと鞘に収める。

「見事なものだ」

 ガイエルは声をかけた。

 河原のあちこちで死んでいる兵士たちの中には、ガイエルが素手素足で叩き殺した者ばかりでなく、滑らかに斬殺された者や、焼き殺されて灰に変わった者もいる。

 魔獣人間がいなかったら自分の助けなど必要なかっただろう、とガイエルは思った。

「剣技と攻撃魔法の融合、か……これだけの技量を身に付けるには、さぞかし血の汗を流した事だろう」

「……他に、打ち込めるものもありませんでしたから」

 少女が微笑んだ。どこか寂しげな、翳りを帯びた微笑。

 こんなふうに微笑む女性を1人、ガイエルは知っている。

 思い出せない。だが確かに、その女性はいる。あるいは、いた。

 少女が顔を上げ、愛らしく首を傾げた。

「どうか、なさいましたか?」

「いや……」

 ガイエルは咳払いをした。

「……貴女は、普通に俺と話せるのか。俺が恐くはないのか? たった今、反吐が出るような嬲り殺しをやらかした俺が……人間ではない、この俺が」

「私は、貴方よりもずっとおぞましい怪物に、嬲り殺されるところだったのよ?」

 少女が微笑んだ。明るい、だがやはり翳りのある笑顔。

「貴方は、私を助けて下さいました。それが全てです……本当に、ありがとう」

「……別に、人助けをしたわけではない」

 応えつつガイエルは、右手を軽く掲げてみた。

 まるで人の前腕の形をした奇怪な甲殻生物のような、赤い生体凶器。

 魔獣人間を惨殺する役には大いに立ってくれたが、ひとまず戦いの終わった今は、特に必要のないものである。

 ガイエルがそう思った瞬間、変化が生じた。

「1つ思い出した……俺は、下劣なる者どもを見ると殺戮せずにはいられなくなる性格らしい。だから殺した。それだけだ」

 刃状のヒレが、畳まれるように縮まってゆく。

 甲殻状に隆起していた前腕が、細く柔らかく変化してゆく。と言うより、元に戻ってゆく。

 右腕だけではない。左腕も、両足も。人間ガイエル・ケスナーの、しなやかな素手素足に戻っていた。

 この異形化は、己の意思である程度、制御出来るものであるようだ。

「要するに……俺は、残虐なのだ。感謝などしてはいけない」

 少なくとも外見上はまともな人間の裸身に戻った身体を、ガイエルはくるりと翻して少女に背を向けた。

 無理矢理に未練を断ち切って、さっさと歩き出す。

 自分のような人外の怪物が、こんな美しい少女の傍にいてはならない。

「どこの姫君かは知らんが、さっさと帰る事だ」

「あ、あの……」

 そんな声を出しながら少女が、ガイエルの背中を、と言うより尻を、見送っている。

「殿方の、お尻……とっても綺麗……」

「何だと?」

 己の耳を疑いながら、ガイエルは思わず振り返った。

 少女が、慌てふためいている。

「あっいや、そうではなくて! 今の私に、帰る場所はありません!」

「……考えてみれば、俺もそうだ」

 ここを立ち去って、どこへ行けば良いのか。どこへ帰れば良いのか。それも、ガイエルは思い出せずにいるのだ。

 この少女は、いかなる事情があって、帰る場所がないなどと言っているのか。

 王家だのお姫様だのと、魔獣人間は言っていた。

 武芸にのめり込んだ姫君が、腕試しの家出でもしているのか。

 いや。あの魔獣人間は、こうも言っていた。王族は皆殺しだ、と。

 ダルーハ様と呼ばれる何者かが、その皆殺しを命じているらしい。

(ダルーハ……)

 心の中で呟いた途端。とある記憶の断片が、微かな頭痛を伴って甦った。

 ガイエルは、頭を押さえた。

 たった今ズタズタに惨殺した魔獣人間、など全く問題にならないほど強大な何者かと、自分は確かに戦った。

 そして敗れ、断崖から谷川へと叩き落とされた。

 どれほどの時間、どれほどの距離を流されたのか、とにかくこの森の中の河原に漂着し、目覚めて今、この少女と出会ったのだ。

「1つ訊きたい……ダルーハ様、というのは一体何者なのだろうか?」

「本当に記憶を無くされているようですね。この王国で、ダルーハ卿の名を知らぬ者はいません」

 死んだ魔獣人間も先程、同じような事を言っていた。

 この王国。確か、ヴァスケリアというのが国名だ。辛うじてガイエルは覚えていた。

「ダルーハ・ケスナー卿は私にとって、憧れの殿方でした。あの方は、邪悪なる竜を討伐し、捕われていた王女を助け出し、その王女と結婚する……などという今時、吟遊詩人でも謡わないような事を成し遂げられたのです。私が生まれる前の話ですが」

 夢見るような口調で、少女は語った。

「正確には、今から19年前と聞いております。私が物心ついた頃には、ダルーハ卿はすでに、生きながらにして伝説となっておられました。竜退治の英雄ダルーハ・ケスナー。王国内外に響き渡るその名を、民衆は憧れをもって、王侯貴族の者たちは幾らか苦々しい思いで、聞いていたようです」

「なるほど、竜退治の英雄か」

 この世界には、魔物とか怪物とか呼ばれる危険な生命体が数多おり、その大部分が人間に害をなす。

 中でも、竜。これが現れた国は、1年で滅びると言われている。

 魔物・怪物の頂点に立つ存在。一息の炎を吐くだけで武装兵士の数個部隊を焼き払う、巨大なる魔獣。

 人間から金銀財宝を奪い、食物を奪い、命を奪い、何の戯れにか時折、若く美しい娘を奪ったりもする。

 まさに災厄そのものと言うべき怪物、それが竜なのだ。

 これを退治した者が英雄と呼ばれるのは、当然であった。

 ダルーハ・ケスナーなる人物は、そんな竜殺しの英雄であるらしい。

 19年前と言えば、ガイエルが生まれた年である。

「その英雄が、何かろくでもない事をやり始めたというわけか」

「はい……竜退治から19年を経た今のダルーハ・ケスナーは、逆賊です」

 少女の口調と表情が、暗く沈んだ。

「竜をも打ち倒したその力をダルーハ卿は、己の野心を満たす方向で振るい始めたのです……王都エンドゥールはすでに陥落しました。3日ほど前、ダルーハ卿の軍勢によって」

「やはり……貴女は、王族なのか?」

「……ティアンナ・エルベットと申します。ヴァスケリア国王ディン・ザナード3世の第6女……と言っても王都が陥落した今となっては、王家の身分になど意味はありませんね」

「ダルーハ卿とやらは、そうは思っていないようだな。魔獣人間など使ってまで、王家の生き残りを狩り出そうとしている」

 言いながらガイエルは、己の側頭部の辺りを軽く掴んだ。

 ダルーハ、という名を口にする度に、微弱な頭痛が電流の如く、頭の中を駆け抜ける。

「……貴女はこれからどうするつもりなのか、訊いてもいいだろうか」

 頭痛を握り潰すように頭を押さえつつ、ガイエルは言った。

「逆賊ダルーハ・ケスナーを打倒して王国を取り戻す意志があるのか。あるいは王族の身分など捨て去って、ダルーハの手の届かぬ所まで逃げるのか。どちらを選ぶにしても……俺は、ささやかながらティアンナ姫の力になれると思う」

「えっ……」

 少女の顔に、戸惑いが浮かぶ。

 ガイエルは気恥ずかしさに耐え、微笑んで見せた。

「恩を売るつもりはないんだ。俺は今、記憶を取り戻したい。そのためには、とにかく何かしら行動をしなければならないと思う。その行動が、ティアンナ姫の護衛であっても、俺は一向に構わない……貴女は、構うだろうか? まあ迷惑だろうな確かに」

「そんな事は……」

「俺は初対面の姫君に、実に図々しい頼み事をしているのさ。記憶を取り戻す手伝いをして欲しい、とな……どうか力を貸していただきたいのだが」

 全裸のまま、ガイエルは頭を下げた。

「そ、そんな、そのような」

 ティアンナ姫が、慌てふためいている。王家の人間にしては、他人に頭を下げられる事に、あまり慣れていないようだ。

「……私は王族として、ダルーハ卿と戦わなければならないのでしょうね本当は。だけどもしかしたらダルーハ卿の方が、今までの王家よりも良い政治をしてくれるかも知れません。英雄と呼ばれた、あの御方なら」

 そんな事は絶対にない、とガイエルは言ってしまいそうになった。

 民衆を虐げる。あのダルーハという男にとっては、それが政治なのだ。

 ガイエルは、またしても頭を押さえた。

(何だ……俺は、知っているのか? ダルーハ・ケスナーを……)

「ヴァスケリア王家による統治は、理不尽なものでした。民衆はダルーハ卿の叛乱を、歓迎しているかも知れません。王家の再興など、誰も望んではいないでしょう……それを理由に、このまま遠くへ逃げてしまおうとしている私も、確かにいるのです。そんな私を、貴方は守って下さると?」

「守るとも。貴女のためではなく、俺自身のためにな」

 言いながら、ガイエルは気付いた。姫君に名乗らせておいて、自分はまだ名前を教えていない。護衛を申し出ていると言うのにだ。

「……俺は、ガイエル・ケスナーと申す」

「ケスナー……?」

 案の定、ティアンナが息を呑む。ガイエルは、にやりと微笑みかけた。

「噂の逆賊ダルーハ・ケスナーと、どういう関係にあるのか……俺自身、よくわからん。何しろ記憶がないのでな」

 ケスナーという姓が、ありふれたものか珍しいものであるのかは、よくわからない。

「記憶を取り戻した瞬間、俺は王家の敵に回るかもしれない……そんな俺が、姫君と行動を共にする事は、許されるだろうか?」

「記憶を失っている時。それは人の心がありのままになる時であると、私は思います」

 幾らか緊張した面持ちながら、ティアンナはまっすぐに、ガイエルの顔を見つめた。

「目覚めて真っ先に私を助けてくれた、ガイエル様のその心を信じます。私と共に行きましょう……と言っても、まずどこへ行けば良いのか、私にもわかってはいないのですが」

「では俺が決めて良いかな。とりあえず村か町か、とにかく着る物が手に入りそうな場所へ行きたいのだが」

「えっ……ふ、服を着てしまわれるのですか?」

 可愛い口に可愛い拳を当てて、ティアンナがそんな事を言っている。

「……何かおかしな事を、俺は言っているだろうか?」

「いっいえ! そのような事は!」

 ティアンナが、赤くなって慌てた。

「そ、そうですね。私が着ている物を、お貸し出来れば良いのですが」

「……勘弁して欲しいな、それは」

「では、せめてこれを」

 ティアンナが、ふわりとマントを脱いで差し出してくれた。確かに当面、これで身体を隠しているしかないだろう。

「すまないな、お借りする」

 受け取ったマントを、ガイエルは肩から羽織った。少女の残り香が一瞬、漂った。

 今までマントの下に隠されていたティアンナの身体の、ほとんど裸に近い曲線が、露わになった。

 胸と尻周りのみを覆う、まるで下着のような鎧。

 ほっそりとした二の腕に、柔らかくしなやかにくびれた胴。愛らしく凹んだ臍の周囲に、うっすらと浮かぶ綺麗な腹筋。

 スラリと引き締まった、左右の太股。

 ガイエルは、思わず見入った。

 か細くたおやか、に見えて実は過酷なまでに鍛え込まれた肉体である事が、ガイエルにはわかった。

「ガイエル様……あの、私……」

 ティアンナが、何やらもじもじと恥ずかしがっている。半裸も同然の姿を見られているから、というわけではなさそうだ。

「……殿方の裸って、とっても綺麗なのですね……私、初めて見ました」

「人間の裸ではない、という事を忘れてはならんぞティアンナ姫」

 苦笑しながらガイエルは、この姫君にも何かもっと着せるべきではないかと思った。

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