第25話 残虐なる者たち
ゴロツキ同然の兵士たちによる暴行など、ブレン兵長のしごきに比べれば何という事もない。
それでも、口の中がいくらか切れて痛い事は痛い。
その痛みが、急速に薄らいでゆく。
リムレオンは、己の口の中を舐め回してみた。傷が、消え失せている。
「ごめんなさい、こんな事しか出来なくて……」
片手をかざしていたエミリィ・レアが、申し訳なさそうに言う。
唯一神教の僧侶たちの中でも、特に修行を積んだ者だけが持つ事の出来る、癒しの力。
以前メイフェム・グリムが、魔獣人間に対し使っていた。
あれよりは劣るものの、このエミリィというローエン派の少女にも、唯一神の力を癒しという形で発現させる能力がある。
「こんな事だなんて……ありがとう、助かったよ」
リムレオンが微笑みかけると、エミリィも控え目に微笑み、俯いた。顔が微かに赤い。体調でも悪いのだろうか。
「ヴァレリア様の御子息、であらせられますか」
ゼピトの村長が言った。
村はずれの、小さな森の一角である。ここで今、ちょっとした荒事があった。
村長も殴られ、流血していた。リムレオン共々、エミリィの治療を受けたところである。
「母を、ご存じなのですか?」
サン・ローデル地方の領民であれば、領主バウルファー・ゲドン侯爵の妹が、メルクト地方のエルベット家に嫁いだという事くらいは当然知っているだろう。
この村長から見ればリムレオン・エルベットは、自分たちの仕える領主の甥という事になる。
「ヴァレリア様は、我ら下々の者とも親しく接して下さる御方でした。心優しく、そして英明な姫君であられました。あの方がおられた頃はバウルファー侯爵閣下も、このような無法はなさらなかったもの……」
そこまで言って、村長は口をつぐんだ。
バウルファー侯が領民に対し、どのような無法を働いているのかは、まあ詳しく聞くまでもない。
伯父バウルファーとは、リムレオンは幼い頃に2度3度、会った事がある程度だ。挨拶的な会話くらいは、交わしたような気がする。その時は、特に良い印象も悪い印象も、伯父に対しては抱かなかった。
リムレオンは詳しく知らないが、その後、父カルゴと伯父バウルファーとの関係は、険悪というほどではないにせよ、少なくとも親密にはならなかった。エルベット家とゲドン家は疎遠となって交流も乏しくなり、リムレオンがサン・ローデルを訪れる事もなかった。
それが今、こうしてサン・ローデル領内に侵入し、とりあえず身を潜める村を探している。
父カルゴ侯爵から、領主としての命令を受けたのである。
逆賊バウルファー・ゲドンを討伐せよ、と。
「……ともあれヴァレリア様に、このような立派な御子息がおられた事は、嬉しい限りでございます」
「やめて下さい村長。見ての通り僕は、何も出来なかったんです」
リムレオンに出来た事と言えば、兵士たちに殴り倒され、蹴り転がされた事くらいである。
リムレオンを、そして村長とエミリィを助けたのは、ブレン・バイアス兵長だ。シェファと共に、補佐として付いて来てくれたのである。
そのブレン兵長が、気絶していた兵士2人を叩き起こして訊問をしている。
「貴様たちは、御領主の命令で人狩りなどを行っているそうだな?」
「よ、よそ者に話す事なんざぁ何にもねえよ」
ぷい、と横を向いた兵士の頭を、ブレンは優しく撫でた。撫でるように兵士の頭をガッシと掴み、無理矢理に自分の方を向かせ、正面から見据える。
「そう言わずに話してくれんか。お前たちとて領主の命令だから逆らえず、嫌々ながら、こんな無法を働いているのだろう? 俺たちは、それを止めてやりたいのだよ。だから教えて欲しい……狩り集めた領民を、どこに集めてどのように扱っている?」
「そっ外から来た奴が首突っ込んでんじゃねえよ!」
もう1人の兵士が、そう吐き捨てながら、ブレンに捕まっている仲間を見捨てて逃げようとする。
そして立ち止まった。立ちすくんでいた。
シェファが、ぼんやり赤く発光する魔石の杖を、その兵士に突き付けている。
「ブレン兵長……拷問なら、あたしがやります」
「間違えるなシェファ。俺が今やっているのは、拷問ではなく訊問だぞ」
「どうせ痛めつけて聞き出す事になるんでしょう? あたしがやります……あたし、残虐ですから」
「残虐……」
エミリィの声が、微かに震えた。怯えているようだ。
「あの人と、同じような事を……」
「何か言った?」
シェファが、ちらりとエミリィの方を見る。眼差しが、いささか険しい。
エミリィが、さらに怯えた。
「いえ、何も……」
「ふうん……どうでもいいけど、何か言う時はハッキリ口に出してよね」
「お、おいシェファ。そんな言い方は」
言いかけたリムレオンを、同じような目で睨みながら、シェファは言う。
「悪いけどあたし、今すごくピリピリしてるから。だってここ敵地みたいなもんでしょ?」
「……まあ、そうかな」
自分たちは、この地の領主と戦うために来たのだ。
「とにかく、こいつらから情報を引き出さなきゃいけません。ここの領主様が、あとどれくらいのバケモノを飼ってるのか……」
「し、知らねえな。なななな何だよバケモノって」
兵士たちの顔色が、明らかに変わった。
ブレン兵長が、傷跡のある厳つい顔をニコニコとねじ曲げる。
「俺たちもな、拷問などやりたいわけではないんだ。正直に話してもらえると助かるんだがなあ……バウルファー侯爵の配下には、あと何匹の魔獣人間が」
精一杯にこやかな笑みを浮かべていたブレンの顔が突然、緊張し引き締まった。
「御無礼を!」
叫びながらブレンがいきなり、リムレオンを、シェファを、村長とエミリィを、まとめて突き飛ばした。
何者かの襲撃が来たのだろう、と思いながらリムレオンは、息苦しさと柔らかさを同時に感じた。信じられないほど柔らかく心地良い圧力が、顔面を包み込んでいる。
エミリィの胸だった。
まるで押し倒すように、重なり合って倒れ込んでいた。
「こ、ごめん! 大丈夫?」
「はい……」
慌ててリムレオンは起き上がり、エミリィも上体を起こした。可愛い顔を赤らめ、俯いている。
その胸の膨らみは、唯一神教の法衣の上からでは目立たない。が、リムレオンの顔面に残る柔らかな感触は、その見た目以上に圧倒的なものである。
いわゆる着痩せする女の子なのだろう、とリムレオンが思った瞬間。思いきり、耳を引っ張られた。
「隅に置けないわねえ、リム様も」
近くで同じように起き上がったシェファが、にこにこ笑いながら、リムレオンの片耳をつまんで引っ張っている。
「初対面の女の子を、いきなり押し倒しちゃったりして……可愛い顔してケダモノなんだから、もうっ」
「いっ痛い、痛いよシェファ、僕は別に痛たたたたた」
「や、やめて下さい……」
エミリィが、怯えながら控え目に、シェファをなだめようとしている。
そんな3人を庇う形にブレン兵長は立ち、マントの下から戦斧を取り出して構えている。
彼に突き飛ばしてもらえなかった2人の兵士が、のけぞり痙攣し、硬直していた。固まった全身の所々に、小さな白いものが幾本も、短剣のように突き刺さっている。
白い、羽だった。
何本もの羽に全身を穿たれた2人の兵士が、のけぞったままビキビキッ……と硬直の度合いを強めてゆく。
似たようなものを、リムレオンは見た事があった。
ブレンとその配下の兵士たちが、魔獣人間バジリハウンドの眼光を浴びて石像と化した、あの光景。
それと同じ現象が起こっている。
苦しげにのけぞり、苦痛と恐怖で顔面を歪め引きつらせたまま、2人の兵士は石化していた。
何者の仕業であるのかは、すぐにわかった。
睨み据えるブレン兵長の視線の先に、それは立っている。
白い、大男だった。
ふさふさと真っ白な羽毛。その所々から、岩のような筋肉が、盛り上がり突き出ている。
「あんた……人間のくせに強そうだな」
ブレンに話しかけるその口は、上下の顎の結合部まで裂けており、肉食しか出来そうにない牙を大量に生やしている。
両眼をギラギラと輝かせた、怪物そのものの顔面は、しかし辛うじて人間の面影を残してもいた。
頭髪はなく、その代わりのように大型の鶏冠が立っている。
羽毛と鶏冠を備えた、人ならざる大男が、ブレンと睨み合いつつ流暢な人語を発し続ける。
「けどまあ俺と白兵戦やろうなんて考えない方がいい。見ての通り、こいつは」
語りながら彼は左手で、脇腹の辺りから一掴み、白い羽を引き抜いた。石像と化した兵士2名の全身に突き刺さっているものと同じである。
「触れたもの全てを石に変える、コカトリスの羽毛よ……俺は魔獣人間オーガートリス。余計な事しゃべりそうな奴らを始末しに出て来ただけで今あんた方とやり合おうって気はないんだ」
求められてもいない自己紹介をしながら魔獣人間が、右手に持ったものをジャラッと鳴らす。
束ねられた鎖、である。
棘状の突起を何本も生やした、巨大な鋼鉄の球体を、彼は右肩に担いでいた。鎖で振り回す、大型の鉄球。
得物を持った魔獣人間というものを、リムレオンは初めて見た。
「やり合う気はない、ね……魔獣人間って、殺る気満々な奴ばっかりだと思ってたけど」
シェファが、敵意丸出しな声を発した。
「あんたのお仲間が何匹もねえ、勝手にメルクトに入り込んで、やりたい放題やってくれてるわけよ。おかげでリム様が……こんな、やんなくてもいい戦いをやる羽目に」
まずい、とリムレオンが思った時には遅かった。自分たちの正体と目的を、バウルファー侯爵配下の魔獣人間に知られてしまった。
「メルクトだと? まさか、あんた方がゴルジ殿の言っていた」
「魔獣人間は1匹も生かしておかない……! 武装っ、転身!」
マントを脱ぎ捨てながらシェファが荒々しく、右の細腕を振るった。
繊細な中指に巻き付いた竜の指輪がキラキラと青い光をこぼす。
鱗粉を思わせるその輝きが、シェファの全身を包み込む。
魔石の杖を携えた細身の女騎士が、そこに出現していた。全身の所々に魔石が埋まった、たおやかな甲冑姿。
「なるほど。そいつがゴルジ殿の言っていた……魔法の鎧、というやつか」
興味深げな声を出す魔獣人間オーガートリスに、魔石の杖が向けられる。その魔石が、燃え上がるように急速に、赤い輝きを強めてゆく。集束しつつある魔力の輝き。それが迸り出るよりも早く、魔獣人間の巨体が動いた。
「ここでぶっ放すのは、やめてもらおうか……!」
ジャラッと鎖が鳴り、ブゥンッと空気が裂け、グシャアッ! と衝撃が起こる。
「う…………ッ」
微かな悲鳴と共に、シェファの身体が宙を舞った。
流星の如く飛んだ鉄球の、直撃。
吹っ飛んだ少女の細身が、大木に激突し、ずり落ち、動かなくなる。
魔法の鎧には、凹みの1つもない。が、中にある少女の身体はどうなのか。
「シェファ……!」
リムレオンが呼びかけても、シェファは返事をしてくれない。動きもしない。
石像と化していた兵士2人が、同じく鉄球の直撃を受けて粉々に砕け散った。
が、リムレオンにとっては、どうでも良かった。
シェファが動かない。それ以外の事は一切、どうでも良かった。
「武装転身…………っ!」
片膝をつき、右拳で地面を殴る。
中指にはめられた竜の指輪から、光の紋様が広がり、リムレオンの全身を下方から激しく照らす。
少年の細身を包むその白色の輝きが、魔法の鎧に変わった。
騎士の姿となったリムレオンが、駆け出し、踏み込むと同時に魔法の剣を抜き放つ。そして叫ぶ。
「う……ぁ……ぁぁああああああああああああああッッ!」
殺意が絶叫となって、喉の奥から、身体の奥から、迸っていた。
殺す。それだけが、リムレオンの心に満ちた。
シェファに鉄球など喰らわせた怪物を、魔法の剣で叩き斬る。斬り刻む。
それ以外の何もかもが、リムレオンの心の中から消え失せた。
魔獣人間オーガートリスが、己の眼前で鎖を引き伸ばす。そこへリムレオンの斬撃が激突する。
殺意を宿した魔法の剣が、鎖に弾き返されて跳ね上がる。
構え直そうとしたリムレオンの胴体に、オーガートリスの左足がズドッ! と叩き込まれた。魔法の鎧がなかったら、臓物を叩き潰されていたであろう蹴り。
鎧は相変わらず無傷だが、中のリムレオンは、面頬の内側で血を吐いていた。
「うっ……ぐゥ……ッ」
懸命に血反吐を呑み込みながらリムレオンは、自分の身体が地面に激突したのに気付いた。
蹴り飛ばされていた。鎖鉄球を叩き込むのにちょうど良い距離が、開いてしまっている。
リムレオンは慌てて立ち上がり、魔獣人間の次なる攻撃に備えた。鉄球が、どの角度から飛んで来るのか。かわすしかないのか、かいくぐって反撃する事は可能か……
だが、鉄球の一撃は来なかった。
鎖を握る右手ではなく、オーガートリスは左手を動かしていた。投擲の動き。凶悪なほど力強い左手が、いくつもの白く小さなものを投げつけたのだ。
直後、リムレオンの身体は動かなくなった。
全身に、白い短剣のようなものが突き刺さっている。
羽だった。魔法の鎧の各関節の隙間に挟まって、まるで突き刺さっているかのようだ。
「くっ……?」
リムレオンの肉体には、何の異変も起こっていない。
が、魔法の鎧はビキビキッ……と石になりかかっていた。元々の白色と、黒っぽい石の色がせめぎ合って、リムレオンの全身は今、灰色を帯びている。
「なるほど……中身はともかく、その魔法の鎧は大したもんだ。俺の石化能力を、その程度で止めちまうとは」
感心しつつも魔獣人間が、ジャラ……ッと鎖を持ち上げる。
巨大な鉄球が、オーガートリスの頭上でブゥンッと回転した。
「もったいない気もするが、叩き潰しといた方が良さそうだ……」
その回転が、止まった。鉄球が、オーガートリスの足元にドスンと落下する。
エミリィが、リムレオンの眼前に立って、魔獣人間と対峙していた。
「やめて……やめて下さい……」
「駄目だ……ッ!」
吐血の味が残る口で、リムレオンは呻いた。
オーガートリスも、呻いていた。
「エミリィ……なのか?」
「え……?」
細い両腕を広げてリムレオンを庇いながらエミリィが、いくらか間抜けな声を出す。魔獣人間に知り合いなどいない、といった様子だ。
構わず、オーガートリスが呟く。
「エミリィ……そうか、帰って来ていたのか」
「……アサド……だな?」
名を呼んだのは、村長である。
「何だ、その姿は……領主様のお城で、お前は一体……何を、されていた?」
「見ての通りだよ村長。ゴルジ殿いわく、俺はそこそこの成功作品らしい」
アサド、という人間名を持つらしい魔獣人間が、若干は人の原形を残した顔で苦笑した。
「久しぶりだが、つもる話をしようって気はない……当初の予定通り、このまま退散させてもらうぜ」
「アサド……?」
エミリィが、呆然と呟いた。
「……なの……?」
「……悪かったなエミリィ。ここで荒っぽい事をやらかすつもりは、なかったんだ」
エミリィの両親の墓を一瞥しつつ、オーガートリスは背を向けた。
動けぬまま、リムレオンは叫ぼうとした。
「待て……!」
「安心しなよ、メルクトの若君。俺がぶちのめした女の子は、そんな大した怪我はしてないと思う。ぶっ殺した手応えじゃなかったからな……ほんと大したもんだよ、その魔法の鎧は。中身はともかく、な」
「……我々を見逃して立ち去るのか、貴様」
歩み去ろうとする魔獣人間の背中に、ブレン兵長が声を投げる。
「こちらの若君や魔法の鎧の事を、聞いているのなら……我々の目的も、わかるのではないのか? 放っておくのか」
「うちの領主様を殺しに来たんだろう? そんなもの勝手にやればいいさ……ただな」
オーガートリスは立ち止まり、顔だけで振り向いた。
「……ゴルジ・バルカウスとメイフェム・グリム。この2人にだけは、手を出さない方がいい。余計なお世話だろうが言っておく」
「……もう遅い」
リムレオンは呻いた。ゴルジともメイフェムとも、すでに戦い始めてしまっている。
動かなかったシェファが、ブレン兵長に抱き起こされ、微かに身じろぎをした。
悪くとも、死んではいない。
殺意に満ちていたリムレオンの心に、いくらかは会話をする余裕が生まれた。
「……あの2人の目的は、一体何なんだ。伯父上を利用して、何をしようとしている?」
「知らんよ、そんな事は。俺にわかる事は、ただ1つ……奴らは頭がおかしい。それだけだ。頭がおかしい連中の目的なんて、わかるわけがない」
吐き捨てるように、オーガートリスが答える。
エミリィがリムレオンの方を向き、片手をかざした。
先程、傷を癒してもらった時と同じく、淡い光がリムレオンの全身を包み込む。
魔法の鎧から、拭い落としたかのように灰色が消え失せた。各部関節に挟まっていた白い羽が、抜け落ちてゆく。
半ば石像になりかけていた魔法の鎧が、元に戻っていた。
「あ……りがとう」
「あの、リムレオン様……魔獣人間って、何なんですか……?」
エミリィが訊いてきた。絶叫になる寸前の、震える呻き声だ。
「アサドが……あたしの知り合いが、魔獣人間とかいう怪物で……メルクトの若様が、こんな鎧を着て戦って……わけ、わかんないです……」
「見ての通りだよエミリィ。俺は、人間じゃなくなった……それだけの事だ」
オーガートリスが言った。
「人間をやめるしかなかったんだ。この村を守るためには……力が、必要だからな」
「何言ってるの、アサド……」
「わからなくていいよエミリィ、それに村長。これから先、何が起こっても見て見ぬふりしていてくれ。メルクトの若君、あんた方も余計な事はするな」
鉄球を担いだ魔獣人間の後ろ姿が、言葉と共にのしのしと遠ざかって行く。
「俺はこの力で、とにかくゴルジとメイフェムに気に入られなきゃならん。俺が奴らのお気に入りになれば……少なくとも、この村だけは守れる」
「ケイトはどうした……」
村長が呻き、怒鳴った。
「ロックとカーシャはどうなったのだ、おい!」
「そいつは聞かない方がいい……」
その返答を最後に、魔獣人間オーガートリスは、木立の向こうへと姿を消した。
「アサド……」
もはや届かぬ言葉を、エミリィが呟いている。リムレオンは、声をかける事が出来なかった。
視界の隅で、青い光が生じた。
ブレン兵長の腕の中でシェファが、武装を解いていた。青い光に戻った魔法の鎧が、少女の中指、竜の指輪へと吸収される。
生身に戻ったシェファが、ブレンに支えられたまま、弱々しい声を出す。
「リム様……」
「シェファ、大丈夫……なのか?」
リムレオンの身体の周りでも、魔法の鎧が光に戻っていた。
指輪に吸い込まれゆく白い光をキラキラと引きずりながら、リムレオンが駆け寄って行くと、シェファは顔を逸らせた。目を合わせられない、といった様子だ。
「ごめんなさい……あたし、バカやって……あたしらの目的、リム様の目的、バケモノどもに知られちゃいましたね……ほんと、何やってんだろ。あたし……」
嗚咽に近い声を漏らすシェファの唇が、ゴホッ! と吐血で汚れた。
「肋を3、4本ばかり、やられたようだな」
ブレンが言った。
「エミリィ殿、すまんが治してやれんかな」
「あ……は、はい」
知り合いが魔獣人間となってしまった。その衝撃からひとまず逃れるように、エミリィが治療に取りかかってくれた。愛らしい片手を、そっとシェファに近付ける。
その可憐な五指と掌が、ぼぉ……っと光を発し、ブレンの腕の中で死にかけている少女を優しく照らす。
「痛……っ」
シェファが悲鳴を漏らした。
「痛い、いたい痛ぁい……ッッ! 肋骨がゴリゴリ動いてるぅ……っ」
「まあ、無茶をやらかした罰だと思え」
容赦ない事を言うブレン兵長に引きずり立たされるような格好のまま、シェファは泣きそうな顔で微笑んだ。エミリィに向かってだ。
「……ありがとう」
弱々しかった声に、少しずつだが生気が戻りつつある。
「何か、めちゃくちゃ痛いけど……ほんと、助かった」
「ご、ごめんなさい……あたしの力じゃ、ちょっとずつしか治せなくて……」
申し訳なさそうにしているエミリィと、微笑むシェファ。
この2人は仲良くなれそうだ、とリムレオンは思った。
最初はシェファが何故かエミリィを敵視していたようにも見えたので、少し心配していたのだが。
斥候を何人放っても、同じ報告しか返って来なかった。
戦場に到着し、己の目で見渡しながらティアンナは、自分が斥候でも同じ報告をせざるを得ない、と実感した。
バルムガルド軍壊滅、と。
「これは……一体……」
そんな声しか、出て来ない。
ガロッグ城塞の周囲は、まさに死屍累々としか表現し得ぬ有り様だった。
人間の原形をとどめている屍は、1つもない。
死体というよりは、人体の残骸である。こびりついている鎧の破片から、バルムガルド軍兵士であった事が辛うじてわかる。
肉も臓物も脳髄も一緒くたに潰れてぶちまけられ、今は黒ずんで腐敗臭を発している。
剣、槍、戦斧、弓矢、戦鎚……といった武器では、ここまでの人体破壊は出来ないだろう。
人間の武器では、あるいは人間の力では不可能な殺し方をされたバルムガルド兵たちが、見渡す限り、戦場全域にぶちまけられているのだ。
「残念ながら、と申し上げるべきでしょうか……我が軍の力によるもの、ではございません」
ティアンナと馬を並べる壮年の騎士が、重々しい口調で言った。
レネリア地方領主、ラウデン・ゼビル侯爵。
兵2000という小勢でガロッグ城塞に籠り、バルムガルドの大軍を止めてくれていた指揮官である。
過酷な籠城戦で頬はこけ、両眼は獣の如く炯々と輝いている。
その猛々しい眼光が、しかし怯えに近いものを孕んでもいる。
ラウデン侯に付き従っている兵士たちも、同じような顔をしていた。ギラギラと獣じみた、しかし何かに怯えてもいる表情。
間違いない、とティアンナは思った。ガロッグで籠城戦を行っていたヴァスケリア兵たちは、何かとてつもなく恐ろしいものを見たのだ。
その恐ろしい何者かが、ガロッグ城塞の周囲に広がる、この大虐殺の光景を作り出したに違いない。
戦場だが、これはもはや戦とは言えない。一方的な虐殺だ。
「我が軍は助かったのです。それは、紛れもなき事実……」
ラウデン侯の言う通り、ガロッグ城外一面にぶちまけられているのはバルムガルド兵ばかりで、ヴァスケリア軍兵士の屍は見当たらない。籠城戦で1人の戦死者も出ていないという事はないだろうが、少なくともこの大虐殺は、バルムガルド軍のみに対して行われたようだ。
行ったのは、何者なのか。
ティアンナには心当たりが全くない、わけでもなかった。
「その意図があったのかどうか……ともかく、あれは結果的に我々を助けてくれました」
「あれ、とは……」
ティアンナは問いかけたが、答えを聞くのが恐ろしくもあった。
「……貴方がたが見たものを、私に聞かせて下さい」
「女王陛下、我々にもわからないのです。あれが一体、何者であるのか」
剛将として名高いラウデン侯爵の口調が、助けを求めているかのようでもあった。
「あのような……怪物が、この世に存在するなど……」
「怪物……ですか」
半ば無理矢理、ティアンナは微笑んで見せた。
「怪物ならば、先の戦で嫌になるほど見てきました。だから、どのような話でも信じられます……ありのまま、見たままの事を、どうか話して下さい」
「ゼッド……」
ラウデンが呼ぶと、1人の若い歩兵が進み出て来て拝跪した。
「城壁の上で戦っていた兵士の1人です。陛下、どうかこの者に直答をお許し下さいますよう……」
「ゼッド殿、とおっしゃられますか。まずは、お顔を上げて下さい」
ティアンナは声をかけた。
「そして、私にお聞かせ下さい。貴方が前線で目の当たりになさったものを、ありのままに」
「お……お許しを得て申し上げます」
ゼッドという名前らしい若い歩兵が、跪いたまま顔を上げた。
「あれは突然、空から舞い降りて来たのです。城壁に群がるバルムガルドの大軍、そのまっただ中に……赤い、悪魔……とでも申せましょうか」
「……赤かった、のですね」
ティアンナは呟いた。
赤色の、若き魔人。人間を、それに魔獣人間を、掃除でもするかの如く殺戮してゆく、猛々しく禍々しい姿。
それがティアンナの脳裏に甦る。忘れられる、わけがない。
「たった1人、いや1匹の、赤い怪物に……バルムガルドの軍勢は、削り取られていきました。削っている、としか言いようがないのです。奴が、腕や尻尾を1振りする度に、バルムガルド軍が少なくとも2人か3人、砕け散って赤い削りカスの如く」
「……わかります、手に取るように」
ティアンナは、片手で頭を押さえた。この場で行われた大殺戮の光景が、見たわけでもないのに脳裏に浮かび上がって消えてくれない。
「バルムガルド軍の反撃は……剣も、槍も、攻撃魔法兵団の炎や稲妻さえも、奴に傷を負わせる事はありませんでした」
恐怖か、興奮か、ゼッドの口調が熱っぽい震えを帯びる。
「そして奴は、口から炎を吐きました。まるで竜のように……その炎で、バルムガルド軍の数個部隊が一瞬にして消え失せました。あれが我が軍に向かって吐かれたものであったら、ガロッグ城塞など今頃、跡形も残ってはいないでしょう」
「女王陛下がお生まれになる前に、私は同じようなものを見た事がございます」
ラウデンが言った。彼が何を見たのか、ティアンナにはすぐにわかった。
「赤き竜、ですか……」
「はい。王国正規軍の精鋭部隊を、一瞬で焼き払い消滅させた、赤き竜の炎……あの頃からこのヴァスケリアという国は、何やら人間ではない者どもに魅入られている。そんな気がして、なりません」
「そう……なのかも、知れませんね」
ティアンナは空を睨んだ。
虐殺を行った後、何も言わずにこの場を立ち去ったのであろう若者に、心の中で語りかけた。
(私を……助けてくれた、おつもりですか……!)
実際、助かった。それは、紛れもない事実なのである。