第20話 ダーク・プリーステス
人間の持つ魔力など、たかが知れている。
幼い頃から、魔術師としての修行に打ち込める環境にある者ならばともかく。金も人脈も無い普通の人間が魔法関係の仕事をしようと思ったら、攻撃魔法兵士になるしかない。
そして攻撃魔法兵士になった者が、まずやらされるのは。たかが知れている人間の魔力を地道に高めてゆく修行ではなく、魔石という便利な道具の使い方に習熟する事。それと、発射した攻撃魔法を標的に命中させる訓練である。
火の玉が当たれば焼け死んでくれる人間相手の戦いならば、それでも良かった。
が、人間ではないものを相手に戦うには。
メルクト領主の城、庭園の一角で。シェファ・ランティは魔石の杖を、突き込む寸前の槍のように構えていた。
城の関係者であれば、ある程度は自由に歩き回っても良い事になっている。
シェファの前方、いくらか距離を隔てた所に、巨大な岩がある。
それに魔石の杖を向けたままシェファは、己の乏しい魔力を、杖の先端の魔石へと収束していった。
ただ気合いにまかせて火球をぶっ放したところで、人間ではないものに痛撃を与える事は出来ない。
少ない魔力ならば、せめて絞り込むべきなのだ。細く、鋭く、そして固く。
魔石が、ぼんやりと赤く輝き始めた。その輝きが、
「……はっ!」
シェファの気合いに合わせて一瞬、激しく燃え上がる。
燃え上がった真紅の光が、ピ……ッと筋状に細く束ねられて、宙を奔った。
炎、と言うよりは高熱そのもの。
それが、一筋の線となって魔石から走り出し、まっすぐに伸び、そして大岩に突き刺さる。
赤い光は、すぐに消えた。
岩に、小さな穴が穿たれていた。そこから細かな亀裂が、何本か広がっている。
拍手が聞こえた。
「見事……なかなかのものだ。ほんの僅かな修行で、それを出来るようになるとは」
はっ、とシェファは振り返り、睨んだ。
木陰から、1人の男が姿を現したところである。
灰色のローブを着た、穏和だが一癖ありそうな中年男……確かゾルカ・ジェンキムとか名乗っていた、魔術師である。
「覗き見……してたの……」
魔法に関しては大先輩である人物を、しかしシェファは睨みつけていた。
「あんた方、本物の魔術師から見ればゴミ、みたいな攻撃魔法兵士が。一生懸命、修行の真似事してるとこ……覗いて、面白がってたってわけ」
「そんなつもりはない。たまたま通りがかって視界に入ってしまっただけだよ」
「たまたま通りがかった? 領主様の、お城の中を?」
シェファは思わず魔石の杖を、ゾルカに向けてしまっていた。むやみに人に向けてはいけない、と教わってはいるのだが。
「あたし一応、このお城で働かせてもらってるから……侵入者は取り締まんなきゃいけないのよね、おじさん」
「侵入しやす過ぎなのだよ、この城は」
図々しく見回しながら、ゾルカが言う。
「ダルーハが死んだからとて平和になったわけではないという事、御領主には申し上げておかねばならんかな」
「何しに来たの……」
敵意剥き出しで訊きながらもシェファは、何となくわかっていた。この魔術師が、何用あってこの城に不法侵入を働いたのか。誰に用事があって、メルクトにとどまっているのか。
「何で……リム様の周り、うろついてんのよ……」
「心配かね、彼が」
無遠慮な事を、ゾルカが訊いてくる。
シェファは思わず、怒鳴っていた。
「一体何なの! どういうつもりよ! リム様を変な事に巻き込んで!」
強制したわけではない、彼が自分で選んだ道だ。などとゾルカ・ジェンキムは言うつもりだろう。
このところリムレオンは、無謀にもブレン・バイアス兵長の訓練に参加している。そして毎日、ぼろ雑巾のようになっている。
あの脆弱で可愛い若君が、戦いなど始めようとしている。
彼がこんな道を歩み始めるよう仕組んだのは、このゾルカという男であり、あの腹黒い女王なのだ。
「彼が自分で選んだ道……などと言うつもりはない。仕組んだのは私なのだから」
悪びれもせず、ゾルカは言った。
「許せぬなら、あれを……私に向かって、試してみると良い」
穴の穿たれた大岩を、ゾルカはちらりと見やった。
「やはり攻撃魔法というものは、人を殺さなければ、本当には身に付かないからな」
「あんた……」
「何の抵抗も防御もしない。私を、殺したまえ……それでリムレオン殿が、あの指輪を捨てて平穏な暮らしに戻ってくれると、本気で思うのならばな」
戻ってくれる、わけがなかった。
何も出来ずにいるシェファに、ゾルカが、腹立たしいほど優しく語りかけてくる。
「君がこうして修行をしているのは、リムレオン殿を助けたいからか? そのための力が、欲しいからかな」
図々しいのを承知の上で、ゾルカは訊いているようだった。
「だが魔獣人間と戦えるような力は、修行や鍛錬では、なかなか身に付かないもの……戦う力など身に付けるよりも、出来る事があるとは思わないか」
優しく教え諭すような口調が、シェファは気に入らなかった。
「リムレオン殿を、近くにいて支えてやる……それだって、彼を助ける事になるだろう」
「……戦う力もないのに、どうやって支えろってのよ……」
シェファは呻き、そして叫んだ。
「リム様はねえ、あんたたちのせいで戦いなんか始めちゃったの! わかる? 戦う人の近くにいようと思ったら、戦う力がなきゃ足手まといにしかなんないでしょうが? 足手まといになりながら支えてあげるなんて出来るわけないでしょうがッ! そこまで考えてもの言いなさいよね!」
「ふむ……」
気を悪くした様子もなく、傷付いたふうでもなく、ゾルカはただ考え込んだ。
その時。城の方から、物音が聞こえて来た。穏やかならざる喧噪が、伝わって来た。
聞き慣れたブレン兵長の怒声も、聞こえて来る。
歩兵と攻撃魔法兵士の合同訓練の時も、あの巨漢の兵長は、男女差別をする事なくシェファを怒鳴りつけるのだ。
城の方から聞こえて来るこの騒ぎは、しかし訓練によるものではない。
ここ何日かの間、シェファが立て続けに経験させられた……実戦の、喧噪だ。
「……侵入者は、私だけではなかったようだな」
ゾルカの穏和な顔立ちが、引き締まった。
「君とはもう少し話をしていたいが、それも後だな……行こう。城内を守る君の仕事を、手伝いたい」
思った通りである。
立ち上がるのも辛い状態だったと言うのに、魔法の鎧を装着した途端、まるで別人の如く身軽に力強く、身体が動く。
否。別人の如く、ではなく完全に別人なのだ。魔法の鎧を、着る前の自分と着た後の自分は。
が、そんな事は関係無しに魔獣人間は現れてしまう。そんな事を気にしている間に、人が殺される。
今回も、また。
魔獣人間バジリハウンドを左拳で殴り倒しながら、リムレオンは見やった。
石像と化した、ブレン兵長と兵士たち。
元に戻す手段はあるのか。ないとしたら、またしてもリムレオンがぐずぐずしている間に人が死んでしまった、事になる。
「僕のせい……なんて思うのは、うぬぼれなんだろうな」
呟きながらリムレオンは、裂け目の入った面頬越しに睨み据えた。よろりと起き上がりつつある、6本腕の魔獣人間を。
「うぐ……わっ若造めが、バウルファー侯に逆らうか」
炎の吐息を口元で揺らめかせながら、バジリハウンドが呻く。
「惰弱なる父親を庇って、偉大なる伯父君に刃向かおうてかぁあぁあああああ!」
揺らめいていた炎がゴオッ! と膨張し、吐き出され、リムレオンの全身を包み込む。
魔法の鎧がほんの少しだけ暖まるのを、リムレオンは感じた。
「……って、駄目だな。まともに浴びてるようじゃ」
こんな炎は、かわせなければならない。ブレンや兵士たちが、そうしていたように。
かわせなかった炎を突っ切って踏み込みつつ、リムレオンは魔法の剣を抜き放ち、一閃させた。
「ぐがッ……!」
短く悲鳴を漏らしながら、バジリハウンドが後退りをする。
その巨体が斜め一直線に裂け、臓物がドパァアッと噴き上がった。
人間ならば生きてはいないだろうが魔獣人間は死なず、後退りをしながらもカッ! と両眼を見開き、リムレオンを睨む。
燃え上がるような赤い眼光が、青く変色しつつ、バジリハウンドの両目から迸ってリムレオンを直撃した。
ブレン兵長らを石像に変えた、邪眼の光。
微かな衝撃のようなものを、リムレオンは全身に感じた。
魔法の鎧が、邪眼の光を弾き散らせた、その衝撃だった。
赤色に戻った両目を見開いたまま、バジリハウンドは愕然と固まった。
そこへリムレオンは、容赦なく斬り掛かって行く。魔法の剣が、バジリハウンドの首筋に向かって振り下ろされる。
そして、跳ね返された。
「な……っ」
ガギィンッ! と固いものに激突し跳ね上がった魔法の剣を、リムレオンは辛うじて握り直した。
目の錯覚、でなければ。魔獣人間の首筋に触れる前に、魔法の剣は跳ね返されていた。目に見えない楯にでも、ぶつかったかのように。
バジリハウンドが何か特殊な防御を行った、わけではないようだ。6本腕のうち4本で腹を押さえ、臓物の噴出を懸命に止めようとしながらも魔獣人間は、何が起こったのかわからぬ様子で左右を見回している。
「魔獣人間1匹の力など、その程度のもの。という事よ」
軽やかに石畳を叩く足音、と共に声がした。
涼やかで耳に心地良い、それでいて聞く者の腹を冷たく抉るような、氷の刃物を思わせる女の声。
「それもわきまえず、単独で抜け駆けをしようなどと……おかげで私たちの動きを、女王陛下の伯父君に知られてしまったわ。本来ならば死んで償って欲しいところ」
歩み寄って来たのは、1人の尼僧である。
若い。まだ少女と呼べる年頃、であろうか。
黒いベールと白銀色の髪に囲まれた美貌は、非の打ち所なく整って、どこか人形めいてもいる。
凹凸のくっきりとした身体は、唯一神教の法衣で禁欲的に包まれてはいるが、どこか禍々しいほどの色香は、そんなもので閉じ込める事は出来ずに溢れ出し、漂っている。
戦いを見守っている父カルゴ侯爵に、リムレオンはとりあえず進言した。
「父上……このお城は不法侵入され放題です。もう少し何とかするべきでは」
「そのようだな……」
「お気になさる事ありませんわカルゴ・エルベット侯爵様。人間の造る城などで、私たちの侵入を阻めはしないのですから」
エルベット親子にそんな冷たい笑みを向けつつも、その尼僧は、魔獣人間に向かって片手を掲げている。
優美で繊細な五指と掌が、淡く光を発していた。
唯一神教の司祭僧侶の中には、修行を積み、神の力を物理的現象として発現させる技能を身に付けた者が、稀にいるという。
バジリハウンドの身体を、目に見えぬ防壁で守ったのは、どうやらこの尼僧だ。
守られた魔獣人間は、しかし怯えていた。
「め、メイフェム・グリム殿……これは抜け駆けではないぞ。私はバウルファー侯の、正式なる命令を受けて」
「あの御方にも困ったものね。私たちが貸してあげている力を、御自分のものと勘違いなさって……」
メイフェムと呼ばれた若い尼僧が、そう言いながら、何か念じたようである。
掲げられた繊手が、バジリハウンドに向かって、ぼぉ……っと輝きを強める。
斜めに切り裂かれて臓物を垂れ流していた魔獣人間の肉体に、異変が起こった。
臓物がズルズルと、体内に吸い込まれてゆく。吸い込んだ傷口が、端から塞がってゆく。
神の力、による癒し。魔法の剣による斬撃が、全くなかった事にされてしまった。
「おお、これは……」
完全に傷の癒えた己の肉体を見下ろし、バジリハウンドが感嘆する。
そこへメイフェムが、冷ややかに声を投げる。
「とりあえず、やれるところまで戦って御覧なさい。ゾルカ・ジェンキムの造った魔法の鎧……どれほどのものか、もう少し見極めてみたいから」
彼女が見極めようとしているのは、魔法の鎧の力である。装着者たるリムレオン・エルベットの力ではなく。
そんなものは見極めると言うか、一見の価値すらない、といったところであろう。
「まあ、当然かな……」
苦笑しつつリムレオンは再び、魔獣人間に斬り掛かった。
魔法の剣が、しかしバジリハウンドの身体に達する事なく、不可視の防壁に跳ね返されてしまう。
跳ね返った剣を、リムレオンはいきなり投げつけた。魔獣人間に、ではなくメイフェム・グリムに向かって。
若い尼僧の人形めいた美貌が、ほんの少しだけ緊迫した。
バジリハウンドに向かって掲げていた片手を、メイフェムはとっさに己の眼前で構え直す。
目に見えぬ防壁が、メイフェムの面前に出現していた。
投擲された魔法の剣が、それに激突し、石畳に落下して空しい音を立てる。
よりも早く、リムレオンは踏み込んでいた。
魔法の手甲をまとう右拳。その一撃が、バジリハウンドの左胸にズン……ッ! と叩き込まれる。
思った通り、だった。メイフェムが、魔獣人間の援護よりも自身の防御を優先させた結果。バジリハウンドの周囲から、不可視の防壁が消え失せたのだ。
魔獣人間の頑強な胸板を凹ませ、肋骨を砕き、そして心臓を殴り潰す。その手応えをリムレオンは、魔法の手甲の上からハッキリと感じた。
バジリハウンドの口から、ゴボッと大量の血反吐が溢れ出し、くすぶっていた炎の息を消してしまう。赤く燃え上がっていた眼球から、光が失せる。
己の脇腹に肘を打ち付ける感じに、リムレオンは右拳を引いた。
左胸に拳の跡を刻印された魔獣人間の巨体が、崩れるように倒れ、動かなくなる。すでに、絶命していた。
「あら……死んでしまったの? 魔法の鎧の力、まだよく見ていないと言うのに」
優雅に呆れながらメイフェムが、魔法の剣を拾い上げ、リムレオンに向かって放り投げた。投擲攻撃、ではなく単に放り投げただけだ。
リムレオンの足元で魔法の剣が、石畳の隙間にザクッと突き刺さって立つ。
「仕方がないわね……私が少し、試してみるとしましょうか。ゾルカの作品が、どれほどのものか」
人形のようだったメイフェムの美貌に、生気ある表情が浮かんだ。
笑み、なのであろうか。
冷たく整った顔立ちが、とてつもなく暗く、禍々しく、歪んだのだ。
「どれほどの力でゾルカが、私たちの邪魔をしようとしているのか……」
そんな邪悪な表情さえもが、ぞっとするほど美しい。
リムレオンは直感した。
少なくとも、あのブラックローラという少女と同じくらいには……あるいは、それ以上に。このメイフェムという女性は、怪物だ。
「貴女は一体、何者……そして一体、どういうつもりなのか」
メイフェムがわざわざ投げ返してくれた魔法の剣を拾い、構えながら、リムレオンは訊いていた。
「僕と戦うつもり、だと言うのなら何故、これを僕に返したりする? 正々堂々の勝負のつもりか、あるいは……僕を、馬鹿にしているのか」
「気のせい、かしらね」
メイフェムが、禍々しくも優雅に嘲笑った。
「魔法の鎧が、何やら口をきいているような……空耳よね、きっと」
「…………!」
改めて、リムレオンは気付いた。
このメイフェムという女は、魔法の鎧の力を試そうとしている。装着者たる非力な少年など、眼中にないのだ。
(何だ……僕は……)
生まれて初めて、に等しいものを、リムレオンは感じていた。
(僕は……屈辱を感じている、のか……?)
優美でしなやかな尼僧の姿が、ユラリと前傾した。
踏み込んで来た、とリムレオンが気付いた時には、攻撃が来た。いかなる攻撃なのかは、全く見えなかった。
とにかくリムレオンは今、吹っ飛んでいる。
魔法の鎧に包まれた身体が、石畳に激突し、だが即座に起き上がった。
「く……っ……」
起き上がり、魔法の剣を構えつつ、リムレオンは見回した。
見回して探すまでもなくメイフェム・グリムは、すぐ近くにまで迫っていた。邪悪な美貌が、リムレオンの眼前でニヤリと歪む。
禁欲的な法衣が、あられもなく割れた。かなり際どい高さまで、裂け目が入っている。
そこから、白く長い右脚が、優雅にしかし高速で跳ね上がっていた。
蹴り。信じられない角度からリムレオンを襲い、兜を打ち据える。
脳漿がたぷたぷと波打つ音を、リムレオンは聞いたような気がした。
視界が暗転しかけたが、リムレオンは辛うじて倒れず、踏みとどまった。倒れそうな身体を、魔法の鎧が支えてくれている。
だがリムレオンが必死に踏みとどまっている間、メイフェムの右足がもう1度、離陸していた。
法衣の裾を払いのけるように躍動した美脚が、鞭のようにしなって唸り、リムレオンの腹に叩き込まれる。
「ぐっ! ……ぇえ……っ……」
面頬の内側で、リムレオンは血を吐いた。
魔法の鎧は無傷である。が、その中にある脆弱な人体は、無事ではいられない。
リムレオンの身体が、蹴り折られた感じに屈んだ。兜に守られた頭が、お辞儀をするように下がる。
それを迎え撃つ形に、メイフェムの右足が跳ね上がる。
白い、しなやかな美脚が、法衣を割って下から上へと、斬撃の如く一閃する。
首をちぎり飛ばすかのような蹴り。魔法の兜から、火花と血飛沫が飛び散った。
前屈みに倒れかけていたリムレオンの身体が、後方にのけ反りながら吹っ飛んでいた。
そして1度、石畳にぶつかって一転し、立ち上がる。
魔法の鎧が、倒れる事を許してくれない。
無傷の兜の中で、しかしリムレオンの顔面は血まみれだった。
たぷん、たぷん……と波打つ脳漿の中で、意識が溶けて無くなりかけている。
(僕……生きてる……のか……?)
溺れている、とリムレオンは思った。深い深い水の底へと、自分は今、沈みつつある。
小さな白い姿が、こちらに向かって、泳いで来ていた。
眩しいほどに白く、可憐な……幼い、裸の女の子。
(…………ティアンナ……?)
あの時と同じだ。
水遊びしているティアンナを、溺れていると勘違いして川に飛び込み、助けようとして自分が溺れてしまったリムレオンを。ティアンナが、助けに来てくれた……
「……さすがに頑丈ね。私の蹴りで、凹ませる事も出来ないなんて」
現実に近付いて来ているのは、裸のティアンナではなく、メイフェム・グリムだ。
「気に入ったわゾルカ。貴方の作品、もらって行くわね……中身を潰してから」
「や……やめてくれ」
カルゴ侯爵が、おずおずと進み出て、おずおずと言った。
「どうか、息子の命だけは……わ、私の命を差し上げる。領主の地位も、差し上げるから」
「……本当に殺されながら、同じ事を言えますかしら? 侯爵様」
メイフェムの禍々しい笑みが、カルゴに向けられる。
(や……めろ……)
リムレオンは叫んだつもりだが、ゴボッ! と込み上げてくる血反吐が、声を潰してしまう。
突然、メイフェムが左手を掲げた。そしてバチッと何かを受け止めた。
赤い、線。
一筋の赤色の光が、宙を裂くように奔ってメイフェムを襲い、そして片手で受け止められてしまったのだ。
冷たく禍々しい美貌が、微かに歪む。掌に軽い火傷くらい、負ったかも知れない。
「リム様!」
シェファが叫んでいる。魔石の杖を、メイフェムに向けながら。
そしてシェファの傍らに1つ、見覚えある人影が立っていた。灰色のローブをまとった、穏和だが一癖ありそうな中年男。
ゾルカ・ジェンキムである。リムレオンのこの無様な戦いぶりを、いつから見ていたのだろうか。
(まいった……な……)
魔法の鎧の中でリムレオンは、意識を失いつつあった。
(魔法の鎧も、剣も……没収されて、しまうかな……)
気を失う瞬間。ほんの一瞬だけ、ティアンナの裸が見えた。
呼びかけても、リムレオンが返事をしてくれない。
シェファは、嫌な予感に胸を押し潰されそうだった。
リムレオンは倒れていない。立っている。
だがそれは魔法の鎧が立っているだけで、リムレオンはその中で、返事も出来ぬ状態であるようだ。
「リム様……!」
駆け寄ろうとするシェファを、さりげなく阻んで止めながらゾルカが、
「君は……」
法衣を着た尼僧姿の若い娘と、見つめ合っている。あるいは睨み合っている。
「メイフェム・グリム……の娘? なのか?」
「ケリスは私を、1度だけ抱いてくれたわ。だけど子供は出来なかった」
美しいが禍々しい笑みを浮かべながら、その尼僧が、のろけ話のような事を言い始める。
「ケリス以外の、誰かの子供……なんて、私が生むわけはないでしょう?」
「では私の、目の錯覚なのか……君が、19年前と全く変わっていないように見えてしまう」
ゾルカは、息を呑みながら喋っていた。
「……一体どんな若作りをしているのか、参考までに教えて欲しいものだ。私でも出来る方法だろうか?」
「簡単な事よ。人間を、やめればいいだけ」
どうやらメイフェム・グリムという名前らしい尼僧姿の女が、にっ……こりと笑った。
人間の笑顔ではない、とシェファは思った。
「そうすると副作用で、少なくとも外見は若返る……事がある。らしいわよ?」
「人間を……やめる、だと……」
ゾルカの声が、震えた。
「……魔獣人間……なのか、君は……」
その言葉を肯定も否定もせず、メイフェムは、ただ言った。
「……私はもう、誰の子供も生んであげられない身体よ」
「愛する者を失って道を踏み外すのは、ダルーハ1人で充分だと言うのに……」
「ダルーハは死んだ。ドルネオも……ケリスも、死んだわ。生き残っているのは、貴方と私だけ」
メイフェムの美貌から、笑みが消えた。いくらかは、真摯と言える表情になった。
「ねえゾルカ、私と一緒に来て……は、くれないわよね」
「当然だ。ドルネオやダルーハ、それに君が、いくら人間に絶望しようとも。私は」
あるものにシェファは気付き、見入った。
武器を振り上げた戦士たち、の石像。実に良く出来ている。そして似ている。ブレン・バイアス兵長ら、シェファと顔なじみの兵士たちに。
まるでブレン兵長の部隊が、石像と化したかのようである。
そんな石像たちに向かって、ゾルカが片手を掲げた。
「私は、人間を……やめたりはしない」
掲げられた魔術師の片手から、キラキラと光が走り出し、宙を漂い、石像たちにまとわりつく。
その光が消える、と同時に。戦士たちの石像が、倒れた。
倒れた時には皆、石像ではなくなっていた。
「……むう……っ、い、一体何が……」
「……全員、無事か?」
「たっ隊長! 我らと戦っていた怪物が、倒れております!」
「一体、誰が仕留めたのだ……」
生身の兵士たち。生身の、ブレン兵長。
彼らを一瞥もせずにメイフェムが、
「……貴方なら、そう答えると思っていたわ」
くるりと背を向けた。
その優美な背中に、ゾルカが声をかける。
「1度くらいは考えてみたのかメイフェム……今の君を見たら、ケリスがどれほど悲しむか」
「ねえゾルカ、覚えている? ダルーハは本当に傍若無人、人を人とも思わない最悪な男だったけれど……1つだけ、正しい事を言っていたわ」
語りつつ、メイフェムは歩み去って行く。
「死んだ者は、悲しみなどしない。喜びもしない。何もしてはくれない……そうでしょう、ゾルカ」
「メイフェム……」
もはや何を語りかける事も出来ずゾルカは、メイフェムを見送っていた。
彼女が何者であるのかは、よくわからない。わかった事は、1つだけ。
(……化け物……!)
シェファは唇を噛んだ。
火力を収束した、岩をも穿つ攻撃魔法が。あの女には、片手であっさりと弾かれたのだ。
(どうして……リム様の周りに、あんな化け物ばっかり……!)
「君の」
メイフェム・グリムの小さくなってゆく後ろ姿を見送りながら。ゾルカが、シェファに問いかけた。
「名前を、まだ聞いていなかったな」
「シェファ・ランティ……」
「……君の言う通りだ、シェファ」
メイフェムを見送っていたゾルカの眼差しが、ようやくシェファの方を向いた。
「戦う者の傍にいたいと思うならば、戦う力がなければならない。足手まといになりながら支える事など、出来はしない」
左手で、ゾルカはそっとシェファの右手を取った。貴婦人をダンスにでも誘うかのように。
右手でゾルカは、シェファの掌に、小さな何かを載せた。そして握らせた。
「リムレオン殿を助ける、事しか考えていない君ならば……力に溺れる事も、ないだろう」
などと言いながらゾルカが手を離し、背を向ける。
「ちょっと……」
シェファが呼び止めようとした、その時。
立ち尽くしているリムレオンの身体が、白く輝いた。
その白い光が、彼の右手、中指にはめられた竜の指輪へと吸収されてゆく。
魔法の鎧から解放された、血まみれのリムレオンが。がく……っと膝を折り、ゆっくりとその場に倒れる。
「リムレオン……!」
「若君!」
カルゴ侯爵が、ブレン兵長が、駆け寄って行く。
倒れそうになった息子の細身を、侯爵が抱き止めた。
ブレンが、兵士たちが、気遣わしげに領主親子を取り囲む。
「リム様……」
死体、寸前のリムレオンを直視出来ずにシェファは、顔を逸らせながら見回した。
メイフェムの姿もゾルカの姿も、もはやどこにも見えない。
右手に握らされた、小さな固いものを、シェファは見つめた。
細長い竜が環を成した意匠の、指輪だった。