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第15話 竜の指輪(前編)

 メルクト地方は、ダルーハ・ケスナーの叛乱にも巻き込まれず、そしてそれ以前から、平和で治安の良い土地として知られていた。

 が。やはり若い娘が人気のない場所を1人で歩いていれば、こういう輩が現れるものだ。

「いよう、姉ちゃん。いくらだい?」

「おお、尼さんじゃねえか。って事ぁ……へっへへへ、哀れな子羊どもにタダで、そのたまんねぇーカラダ恵んでくれるってワケだぁなあ?」

「子羊っつーか狼だけどなぁゲヘヘへヘ」

 風体の悪い、5人の男。

 山賊や強盗、ですらない。町から町へとうろついている、ゴロツキどもだ。

 メルクト地方の、少々さびれかけた街道である。

 ゴロツキどもに囲まれているのは、まだ少女とも言える年頃の娘だった。

 たまらない身体と評された、確かに凹凸のくっきりとした魅惑的な肢体を、唯一神教の法衣で禁欲的に包み込んでいる。

 ベールから溢れ出した長い髪は、眩い銀色で、光の当たり方によっては白髪にも見えてしまう。

 が、美貌は若々しい。滑らかな頬は瑞々しさに満ち、眼差しは強く、顔立ちの整いようは、しかしどこか冷たいものを感じさせる。

 名はメイフェム・グリム。

 王都エンドゥールの唯一神教会中央大聖堂で、かつて聖職を務めていた。

 今は、こうして旅をしている。そして確かめている。

 人間という生き物が、いかに神の慈悲を受けるに値せぬ存在であるのかをだ。

「狼……ですって?」

 メイフェムは、とりあえず微笑んでやった。

「せいぜい野良犬ね、お前たちは。もう少し日の当たらないところで、残飯漁りでもしていなさい」

「……っくぅ〜、来た来たキタあああ! 俺こーゆう女イジメんの大好き!」

 ゴロツキの1人が、掴みかかって来る。

 掴みかかって来たその手に、しゅるっと何かが巻き付いた。ミミズあるいはヒルに似た、奇怪な虫……いや、触手である。

「な……んだっ、コレ……!」

 同じ触手が3本、5本と、ゴロツキの全身に絡み付く。

 がんじがらめに拘束されたゴロツキの身体が、じたばたと暴れながら、やがて宙に浮いた。浮かべているのは、

「やっぱダメだぁ……男の身体にコイツを巻き付けたって、面白くも何ともねェー」

 甲冑に身を包んだ、騎士姿の男である。

 その全身鎧の、あちこちの隙間から、大量の触手がニョロニョロと溢れ出して伸び、ゴロツキ1人をぐるぐる巻きに束縛し、宙に持ち上げているのだ。

 明らかに人間ではないものの肉体を全身甲冑で隠した、その男に。メイフェムは、冷たい視線と言葉を投げた。

「……ついて来い、と命令した覚えはないわよ?」

「ついて行けって命令されちまったんでさぁー、ゴルジ様によォ」

 答えながら男が、触手の拘束力を強めたようだ。

 宙に浮いたゴロツキが、潰れた悲鳴を漏らす。その全身に、触手が食い込んでゆく。

 首が、ちぎれた。手足が、ねじ切られた。胴体が締め潰され、内臓を噴出させる。

 肉の残骸と化したゴロツキの屍が、びちゃびちゃと落下する。

 血まみれの触手を、男は、残り4人に向けた。

「あぁーやっぱ男をイジメ殺したって面白くも何ともねェー。ちゃっちゃと皆殺しにさせてもらうぜぇえ」

「わわ……ひぃっ……」

「な、何だこのバケモノ……」

 逃げ腰になりつつも、ゴロツキの1人が短剣を構えた。

 構えたその手が、ちぎれて飛んだ。悲鳴を上げようとした顔面が、潰れて散った。

 触手が何本か、鞭のようにヒュヒュンッと一閃したのだ。

 残り3人となったゴロツキたちは、すでに背を向けて逃げ出している。

「待てやぁーコラァ!」

 鎧の男が、ひゅん……っと触手をうねらせ振るう。

 最も逃げ足の遅い1人が、転倒した。首から下の身体だけがだ。ちぎれた生首は、高々と宙を舞っていた。

 残る2人のゴロツキは、立ち止まっていた。と言うより捕獲されていた。いつの間にか眼前に立ち塞がる、1人の男によってだ。

 巨漢だった。大型のフードと広いマントで、顔も身体もすっぽりと覆い隠している。

 そのマントがばさりと広がり、ゴロツキ2名を包み込んでいた。

 人間2人をマントの内側に抱き隠したまま、巨漢はくるりと背を向けた。

 彼の肉体の前面で何が起こっているのか、メイフェムの方からは見えない。

 とにかく、くぐもった絶叫が2人分、聞こえてきた。ジュクジュクと、湿っぽいものが蠢くような音と一緒に。

 男の肉体がマントの下で蠢く音、だった。

 ゴロツキたちの悲鳴が、その音に呑まれ、消えてゆく。

「まっ……ずぅうい、コレ……」

 男の巨体が、メイフェムの方を向いた。人体2つを包み込んで膨らんでいたマントが、平らになっている。

「男、まずぅい……生ゴミの味がするうぅ……」

「そう……蠢く生ゴミのようなものね、この世の人間たちは」

 口調冷たく、メイフェムは同意してやった。

 そうしながら、ゴロツキたちの屍を見下ろし、眺め回す。

(こんな連中を守るために、私たちは死ぬ思いで戦った……ケリスは、本当に死んだ……こんな連中を、守るために……っ!)

「んー……でもなァ。こいつらの気持ち、わからねェーでもねえんだなぁコレがよぉー」

 鎧の男が、ゴロツキの生首を1つ、触手を巻き付けて拾い上げた。

「こいつらぁよー、本当にあんたとヤりたがってたんだよメイフェムさん……だだだだからコイツらの代わりに俺がよぉーゲヘヘへへへへ」

「アンタ、美味そう……おっ俺もアンタの、いろんなトコしゃぶりたいぃいい……」

 甲冑姿の男とマント姿の巨漢が、左右からメイフェムに迫ろうとする。

 この者どもも、同じだった。守る価値も救う価値もない人間たち。

 人間をやめる事で、その救いようのない下衆ぶりが、究極の域にまで達してしまったようである。

 使い捨ての手駒として、それなりに有用な者どもではあるが、あまり無礼を働くようであれば別に殺してしまっても構わない……

 メイフェムがそれを実行に移す、よりも早く、気配が生じた。そして声。

「やめておけ……人間ではないものに生まれ変わった、ばかりで死にたくはなかろう?」

 大量の血を思わせる、暗い赤色のローブ。両目と口にだけ裂け目の入った、白い仮面。

 そんな奇怪な出で立ちの男が、いつの間にかそこに立っている。

 鎧の男が、触手をビクッと震わせて硬直し、恐れおののいた。

「ご……ゴルジ様……い、いつからそこに居たんスかぁー」

「その気になれば私はいつでも、どこにでもいる。悪口を言う時などは気をつけるのだな」

 仮面の男……ゴルジ・バルカウスが、冗談にしては愛想のない口調で言う。

 この男に関する詳しい事を、メイフェムは知らない。知ろうとも思わない。

 思惑がどうであれ、自分に力を貸してくれている。今は、それだけでいい。

「……あまり、お1人で出歩かぬ方が良い。メイフェム殿」

 ゴルジが言った。

「無論、1人で歩いている貴女をどうこう出来る者など、そうはおるまいが……今は怪物がうろついておる。我々など問題にならぬほど、恐ろしい怪物がな」

「……ダルーハを殺した、怪物……」

 メイフェムは呻いた。

 現女王エル・ザナード1世が直々にダルーハを討ち取った、などという話を無論メイフェムは信じていない。あの男が、人間の小娘などに殺されるわけはないのだ。

 腑抜けのヴァケリア王国軍に、ダルーハ・ケスナーを倒せるほどの戦士がいるとも思えない。

 ダルーハを戦いで殺せる者が、いるとしたら。

「そう……怪物だ」

 ゴルジが言った。

「先頃の戦においてエル・ザナード1世女王が、怪物……としか呼びようのないものを使役していたのは、どうやら間違いないようだ。ダルーハの使っていた魔獣人間が、その怪物によってことごとく倒されている」

 問題は1つ。その恐るべき怪物が、今もまだエル・ザナード1世に力を貸しているのか。彼女の身に危険が迫れば、また現れるのか。ダルーハを殺すほどの怪物を、エル・ザナード女王は今もまだ配下に従えているのであろうか。

 それを、まず確かめなければならない。メイフェムは訊いた。

「ゴルジ殿……エル・ザナード1世がメルクト領主の館に滞在しているというのは、確かな情報なのでしょうね?」

「単身、お忍びのような形でな。何を考えているのかは知らんが無謀な事だ。あの女王に、試しに危害を加えてみるのであれば、今が好機とは言える。メイフェム殿が自らおやりになる、つもりであったのだろうが……まあ、そんな事はこやつらに任せておくのだな」

「そ……その女王様っての、ヤッちゃっていいんスかぁー?」

 鎧の男が、マントの巨漢が、おぞましく悦び始める。

「お、俺、見たコトあるうぅ……今この国の女王様ぁ、すっげえ可愛いオンナの子おぉ……」

「おおおお、オッパイちっちぇーのがたまんねえよなぁあああああ」

「しししゃぶる、俺しゃぶる、可愛いおっぱいも何もかんもジュルジュルッてしゃぶるうぅ……」

 メイフェムは思う。

 人間の、醜悪なる本性が、目に見える形となったもの……それが、この魔獣人間という存在であると。

 唯一神に見放された、この人間という下劣でおぞましい生命体には、魔獣人間という生き方こそが最もふさわしいと。

「人間など……片っ端から、魔獣人間に造り変えてしまえばいいのよ」

「無茶を言っては困るなメイフェム殿。魔獣人間には適性というものがある。誰でも彼でも成れるわけではないのだよ」

 言いつつゴルジが、仮面の内側で、熱っぽく溜め息をついた。

「それにしても、ダルーハ・ケスナーを倒した怪物……複数の魔獣人間を、ことごとく狩り殺した怪物。一体いかなるものであるのか興味が尽きぬ。やはり魔獣人間であるのか? であるならば、どこの何者が造り上げたものか……会いたい。怪物にも、それを生み出したる創造主にも」

 魔獣人間ではないだろう、とメイフェムは思っている。魔獣人間ごときに、ダルーハが殺されるはずはない。

 もともと人間離れしていた男が、あの戦いの最後の最後、竜の返り血を浴びる事で人間ではなくなり、魔獣人間など問題にならぬほどの怪物に生まれ変わったのだ。

 そのダルーハを、戦いで打ち負かし、殺せる者。

 思い当たるものがメイフェムには、ないでもない。

 あの時、救出されたレフィーネ王女が、その身に宿していた命。

(お前の血が……この世に残ってしまった、という事なの?)

 かつて最大の敵であった存在に、メイフェムは心の中で語りかけた。

(それも良いかも知れないわね。私も、今なら……人間を憎み虐げた、お前の気持ちが……今なら、わかるわ。最強にして最凶なるもの……赤き竜よ)



 メルクト地方領主カルゴ・エルベット侯爵は、現在38歳。

 金髪碧眼の頼りなく整った顔に、あまり似合っていない髭を生やしている。

 息子リムレオンと比べて体格はいくらか立派だが、武芸の類には、やはりあまり縁のない人物である。

 そんなカルゴ侯爵が、城の門前広場で、身を投げ出すように平伏している。

「こっ……これは女王陛下、突然に……よもや、このような突然なるお越しを」

 声が震えている。舌も、うまく回っていないようだ。

 無理もあるまい、とリムレオンは思う。

 逆賊ダルーハ・ケスナー討伐の戦に、メルクトからは結局、1人の兵士も出さなかったのだ。

 女王直々に日和見の罰を与えに来た、などと父は思っているのだろう。

 ティアンナは片膝をつき、そんな侯爵の肩に優しく手を触れた。

「お顔を上げて下さい伯父上。本日は女王としてではなく、貴方の姪として帰って参りました。この懐かしいメルクトの地に」

「へ、陛下……この度は、このたびはぁ……」

 畏れおののくカルゴ侯爵に、それ以上は言わせず、ティアンナは口調をさらに優しくした。

「ダルーハ卿にあそこまでの暴虐を許してしまった、ヴァスケリア王家の無能・無力……それを棚に上げて、誰かを責めようとは思いません。ですから、お顔をお上げになって? 伯父上」

「陛下……」

 カルゴ侯爵が、ようやく顔を上げた。泣き顔だった。

「ティアンナ様……ご立派に、なられて……」

 かつて近親相姦を疑われるほどに仲の良かった最愛の妹、の面影をカルゴ侯爵は、姪である女王に見出しているのかも知れなかった。

 城から飛び出して来た侯爵を追うように、もう1人、こちらへ歩み寄って来ている人物がいる。

「……あまり感心しませんわね、陛下」

 いささか太り気味で健康そうな、中年女性である。

「お1人で、このような所に来られるなんて。今や大切なお身体なのですから、軽はずみな行いは謹んでいただきませんと……誰よりも、国民が迷惑いたしますわ」

 カルゴ侯爵の妻でリムレオンの母親、ヴァレリア・エルベット侯爵夫人である。

 メルクトの前領主レミオル侯が、息子カルゴのために半ば無理矢理、迎え入れた嫁。実家はメルクトの北に隣接するサン・ローデル地方で、そこの現領主バウルファー・ゲドン侯爵が、ヴァレリアの兄である。

「ごめんなさい。伯母上のお叱りが懐かしくて、帰って来てしまいました」

 ティアンナは1度、微笑んだ後、表情と口調を重くした。

「……伯母上には直接、申し上げなければならない事があります。私は」

「おやめなさいな陛下。女王ともあろう御方が、お気になさる事ではありません」

 ヴァレリアも微笑んだ。苦笑、に近い笑みだった。

「愚かな甥でしたわ……甘やかして育てた、兄が悪いのです」

 ダルーハ・ケスナー討伐戦の際。バウルファー・ゲドン侯爵の子息が、王国正規軍の陣中において、軍規違反の罪で処刑された。という話はリムレオンも聞いている。手を下したのがティアンナ自らである、という話も。

「……それより、お気をつけ下さい陛下。兄は、根に持つ人間ですから」

「御子息の仇を、討とうとなされる? でしたら直接、お相手して差し上げたいところですが……」

 言いながらティアンナは軽く、天を仰いだ。

 人を殺す、というのがどういう事なのか、リムレオンには想像もつかない。

 人の上に立つ者となれば、命令1つで誰かの命を奪わねばならない事もあるだろう、と理屈ではわかるのだが。

 先程、オークの群れから自分たちを救ってくれた時のティアンナの戦いぶりを、リムレオンは思い返した。

 木偶人形でも切り倒すようにオークたちを殺戮してのけた、少女剣士の姿。

 あんな事が出来るなら人間も殺せるだろう、とは思える。

(僕が安穏としている間……ずっと戦ってきたんだ、ティアンナは……)

「領主様……」

 リムレオンの隣からシェファが、ふらふらと進み出て言った。泣きそうな声だった。

「あたしを……クビに、して下さい……」

「急に何を言い出すのだシェファ」

 カルゴ侯爵が、続いてヴァレリアが言った。

「リムレオン……お前が何か、意地悪をしたのではないでしょうね」

「ぼ、僕は何も」

「リム様のせいじゃありません!」

 シェファは叫び、泣き出した。

「あたし役立たずです、リム様を守れなかったんですぅ……リム様が、あたしのせいで危険な目に……」

「ど、どんな目に遭ったと言うのだ」

「言えませんそんな事! 言えるワケないじゃないですかああああ!」

 カルゴ侯爵の問いに答えられぬまま、シェファは滝のように涙を流した。

「な、泣くなよシェファ」

 リムレオンはとりあえず、なだめに入った。

「結果的に2人とも助かったんだから……何事もなかったんだから、いいじゃないか」

「……一体何があったのだ、リムレオン」

 カルゴ侯爵が訊きながら、息子の上半身裸の姿を、まじまじと見つめた。

「お前……まさか男に襲われたのではあるまいな? いつか、そんな事が起こるような気はしていたが」

「まあ、似たようなものですけど」

 リムレオンは1度、咳払いをした。そんな事よりも、領主に報告しておかなければならない事がある。

「……父上、領内にオークが入り込んでおります」

「オークだと……」

「ここだけではありませんよ、伯父上」

 ティアンナが言った。

「赤き竜の残党と思われる魔物たちが、王国各地で勢力を盛り返しているのです。恐らくは、ダルーハ卿の死に呼応して」

 一瞬だけ、ティアンナの目がリムレオンの方を向いた。

「リムレオンは勇敢に戦いました……戦わなければならない時なのです、伯父上」

「軍備の増強を、という事ですわね陛下」

 言ったのは侯爵ではなく、ヴァレリアだった。

「領内に魔物が現れてしまう以上、もはや先の戦のような日和見は許されないと……ですが陛下、軍備にはお金がかかるのですよ? メルクトも決して豊かというわけではありません。先代の陛下が、お金遣いの荒い御方でしたからねえ」

 前国王ディン・ザナード3世は、ダルーハでなくとも誰かが叛乱を起こしていただろう、と言われるほどの重税を、王国全土に課していた。

 過酷な徴税の命令と、苦しむ領民との間で、カルゴ侯爵はずいぶんと苦労を強いられていたものだ。

 そのディン・ザナード3世の後継者である若き女王が、それでもあまり悪びれた様子もなく応える。

「もちろん王家としても出来る限りの事はいたします……今ヴァスケリア王国を脅かしているのは、お金がないからと言って手心を加えてくれるような、優しい敵ではありませんから」

 こんな事を言いに来たのではないだろう、とリムレオンは思った。確かに大事な事なのだろうが、多忙な女王が直々に足を運んで地方領主に伝えなければならない、ほどのものでもない。軍備増強の命令なら、布告で済む。

「……おっしゃる通りですわね。泣き言を申し上げても意味はありません、か」

 言いつつヴァレリアが、泣きじゃくるシェファの背中を優しく撫でた。

「というわけだから泣くのはおやめなさい、シェファ。貴女が気に病む事ではありません。リムレオンは少し、危険な目に遭った方が良いのだから」

 母の容赦ない言葉と眼光が、リムレオンに向けられる。

「お前もお前。男なのだから、自分の身はそろそろ自分で守れるようになりなさい」

「は、はい」

 頼りない返事をしつつもリムレオンは、別の事を考えていた。

 女王エル・ザナード1世は一体何のために、こうして2度目の里帰りを、単身で決行したのであろうか。

(僕を助けに来てくれた……というわけではないだろう? ティアンナ……)



 王宮という場所には本当に、顔の醜い人間たちしかいなかった。

 どちらかと言うと、男よりも女の方が醜かった。とティアンナは思う。

 あらゆる女たちが、母マグリアに対する嫌がらせしかしなかった。

 物心ついたティアンナがまず思ったのは、母を守らなければ、という事だった。

 母に嫌な事をする女たちを、懲らしめてやりたい。ティアンナは、そう思った。

 そんな時、1人の、王宮に勤める人間にしては顔の醜くない男性に出会った。年配の、近衛兵だった。

 ティアンナは彼に、剣技の基本を教わった。

 母に嫌がらせをする女たちを懲らしめるには、まず自分が強くなるしかないと思ったからだ。

 今にして思えば、それはまさに暴力への渇望だった。

 母上を守りたい、それは立派なお心です。幼いティアンナに剣を教えながら、その近衛兵は言った。

 しかし姫様。母上に嫌な事をする女性たちに剣で仕返しをしよう、などと思ってはいけませんよ。そんな事をしたら貴女が、それに母上が、さらなる仕返しを受けてしまいます。そうなったら貴女はまた仕返しをしたいとお思いになるでしょうね。きりがなくなってしまいます。それはとても悲しい事なのですよ、姫様。

 同じような事を、母マグリアにも言われた。ティアンナ、お前はとても強くて勇敢な子。そして優しい子。だけど私のために強くなりたい、などと考えては駄目よ? 私のために誰か他人を傷付けようなんて、考えては絶対に駄目。そんな事をしたら私も悲しくなるし、お前も悲しくなるわ。悲しい思いをしてから、では遅いのよ……

 2人のそんな言葉の意味を、ティアンナが何となく理解したのは。マグリアを特に目の敵にしていた正王妃が、馬車の事故で亡くなった時である。

 母に嫌がらせをする女性たちの中でも1番の有力者が、死亡したのだ。ティアンナにとっては喜ぶべき事、のはずだった。

 喜ぶ前にティアンナは、見てしまった。正王妃の屍にすがりついて痛々しく号泣する、1人の少女の姿を。

 正王妃が生んだ、ティアンナにとってはろくに口もきかぬ姉の1人に過ぎない、王女だった。

 もしも死んだのがマグリアであったら、自分もあんなふうに大泣きするのだろう。その時は、ティアンナはそう思った。

 だが結局、1滴の涙も出なかった。

 ただ、何を食べても味がしなくなった。か弱いリムレオンを引きずり回して野山を駆けても、楽しくなくなった。

「久しぶり……お母様」

 こぢんまりと可愛らしい墓石に、ティアンナは声をかけた。

 メルクト領主の城、その庭園の片隅に立てられた、小さな墓である。

 ティアンナは微笑みかけ、声をかけた。

「信じられる? お母様。私……今、女王なのよ。この国の」

 後宮の一角で母子2人ひっそりと暮らしていた頃には、全く思ってもいなかった事態である。

 いずれ政略結婚にでも使われるのであろう、とは思っていた。

 平民の子供とは違う。少なくとも食べるのに不自由はない、そこそこは着飾る事も出来る生活をさせてもらっているのだから、せめて自由のない結婚くらいは我慢して受け入れようとティアンナは思っていた。

 どこかの国の王に嫁ぐ、事にはなるかも知れないにせよ。自分が王になる事など、全く考えてはいなかったのだが。

 私たちは王国の民が納めてくれるもので安穏と生きていられるのだから、自由のない結婚くらいは我慢しなければ駄目よ。

 そう語っていたのは母マグリアで、彼女自身、父レミオル侯爵に命ぜられるまま国王ディン・ザナード3世の側室となった。

 そこそこの寵愛は受け、そのため他の女たちの嫌がらせを受けたわけであるが、それだけが原因ではないだろう。王侯の暮らしというものが、そもそも身体に合っていなかったに違いない。

 マグリアは病に倒れ、療養を命ぜられ、娘ティアンナを連れてメルクトへと帰郷した。

 そして療養のかいもなく今こうして、生まれ育った小城の庭園で眠っている。

「あれから、いろいろな事があったわ……私もね。お母様と同じで、お嫁に行かされそうになったの」

 母の死後、数日も経たぬうちに7歳のティアンナは、隣国リグロアの王太子のもとへ輿入れする事になった。

 が、輿入れの前日。リグロア王国は、大国バルムガルドの侵攻を受けて滅びた。ティアンナの夫となるはずだった王太子の生死は、今なお不明である。

 ともかく。リグロアを併呑したバルムガルド王国の次なる標的はこのヴァスケリアで、国境での小規模な戦が何年も続いた。

 だが昨年ようやく和平が成立し、お決まりの政略結婚が行われた。

 ヴァスケリアから王女が1人、バルムガルド王家に嫁いだのである。指名されたのはティアンナではなく、第4王女のシーリン・カルナヴァート。第2王子モートンの、同腹の妹だ。

 こうしてヴァスケリアと血縁を結んだバルムガルドは、先頃のダルーハ・ケスナー叛乱の際にも、忠実に同盟を守ろうとはしてくれた。ダルーハ討伐のため、3万もの援軍を派遣してくれたのである。

 その3万が、ダルーハ軍の猛将ドルネオ・ゲヴィンによって撃退され、同盟のかいもなくヴァスケリア王都エンドゥールは、ダルーハの手に落ちた。

 ティアンナ自らが軍勢を率いてダルーハを倒し、王都を解放した。世間では、そんな話になっているらしい。

「私もね、思っていた時期があったわ。お母様みたいに殿方の言いなりになって生きるのは嫌だ、なんて……」

 母の小さな墓標に、ティアンナは苦笑を向けた。

「だけどね、思い知らされたわ……強い殿方にすがって生きるのが、どれほど楽か。どれほど便利で、何の苦労もなくいられるか」

 それを教えてくれたのは1人の、人間ではない若者だった。

 ダルーハの叛乱は、ほとんど彼が1人で鎮圧してくれたようなものだ。ティアンナは、何もしていない。

(ガイエル様……)

 心の中で、そっと名を呟いてみる。

 母も、それにあの年配の近衛兵も、幼い頃のティアンナに優しく教えてくれた。力で何かやり返しても悲しいだけだ、と。

 ケスナー家の父子は、今のティアンナに、強烈に教え込んでくれた。力による暴虐は、力による逆襲で叩き潰すしかない、と。

 左手に握り込んでいるものを、ティアンナはじっと見つめた。

 指輪である。蛇、いや細長い竜が、環を成している意匠だ。

 これをはめると、指に小さな竜が巻き付いている感じになるだろう。

 この指輪もまた、力である。ダルーハ・ケスナーとの戦いには結局間に合わなかった力。

 幸か不幸か、この力が無駄になる事はなさそうな状況に今、この国はある。

 ふと、ティアンナは気配を感じた。

 気配を隠そうともせず、その少年は、近くの木陰から姿を現した。

「……ごめん。邪魔をしてしまったかな、母子水入らずの」

「私は、独り言を言っていただけよ」

 ティアンナは振り向いた。

 リムレオン・エルベットが、いくらか遠慮がちに歩み寄って来る。

 この従兄は昔から、何をするにも遠慮がちだった。そのくせ、先程のような無茶をやらかす事もある。

 幼い頃から本当に、危なっかしくて目が離せなかった。

 だからティアンナは、どこへ行くにも彼を引きずり回していたものだ。

「……立派になったわね、リムレオン」

 1つ年上の従兄に、ティアンナはまるで姉のような言葉をかけていた。

「そんなに立派になるまで……本当、よく無事に生きていてくれたわ。弱いくせに死にそうな無茶ばかりする貴方が……ねえ、覚えている?」

「な、何をかな」

「私を助けに来てくれた事があったでしょう。水遊びしている私を、溺れていると勘違いして……泳げない貴方が、川に飛び込んで溺れて」

 ティアンナは笑い、リムレオンはうろたえた。

「おっ、覚えているわけがないだろう。そんなつまらない事」

「水死寸前の貴方を、私が助けてあげたのよね」

「……はいはい、感謝しておりますよ女王陛下」

 いささか荒っぽく、リムレオンが己の頭を掻いた。そして息をつく。

「そんな他愛ない昔話をするためにメルクトへ帰って来た、のなら嬉しいよ。昔話の相手くらいなら、僕にも出来るからね……だけど違うんだろう? ティアンナ」

 マグリアの墓前に跪きながら、リムレオンは言った。

「叔母上のお墓参り、とも違うような気がする。父上も母上も訊かなかったから、僕が訊くけど……ティアンナ、一体何をしに帰って来たの」

「…………」

 ティアンナはすぐには答えず、ただ左手の中の指輪を見つめた。

 9年ぶりにこの地を訪れて、1つわかった事がある。それはリムレオンが全く昔のままだ、という事だ。

 この従兄は、ティアンナが何か頼み事をすれば、絶対に無茶をする。凶暴なオークたちの面前に己の身を晒した、先程のように。

(……それを承知の上で帰って来たのでしょう、ティアンナ・エルベット)

 己に、言い聞かせる。

 そう。放っておけば平穏に生きてゆけるであろう1人の少年を、過酷な戦いへと引きずり込むために、自分はここに来たのだ。

「リムレオン、私は……」

 ティアンナは口籠った。リムレオンは黙って、言葉の続きを待っている。

 マグリアの墓前の空間が、重い沈黙に支配された。

 それを、何者かが破った。

「……おぉーいたいたぁ。オッパイの可愛い女王様1人、どうでもいいの1」

 騎士のような全身甲冑に身を包んだ男が1人、やかましく鎧を鳴らしながら、歩み寄って来ている。

 この城に仕える騎士、ではない。どころか人間ですらないのは明らかだった。

 全身鎧のあちこちの隙間から、何本ものおぞましい触手が溢れ出し、伸びうねっているからだ。

「だ……誰かな、君は」

 間抜けな事を言っているリムレオンを背後に庇いながら、ティアンナは魔石の剣を抜いた。

 何者なのか、などと問う必要もない。これと同種の生き物を、何体も見てきたのだ。

「お前たちが……まだ王国内を歩き回っているとはっ!」

「おぉー怒ってる睨んでる、そっそんな恐カワイイ顔で睨まれたらよォー、俺もお辛抱たまんねぇーッつぅうううううううの!」

 男の全身で甲冑が壊れ、その破片がちぎれ飛ぶ。

 大量の触手が暴れ出し、皮膜の翼が羽ばたいた。

 石のような外皮に包まれた、一応は人型の生き物である。

 カギ爪のある四肢、の他に一対の翼を背中から広げ、そして全身いたる所から、肉体を食い破った寄生虫のような触手を生やしている。

 醜く歪んだ顔面の下半分を占める口が、牙を剥きながら言葉を発した。

「ヤッちゃっていいって、ゴルジ様もメイフェム殿も言ってたからよォー。やややややってやんぜぇー女王様ぁあ! こっこの魔獣人間ローパーゴイルがおめえをズッポズッポぐっちゅぐっちゅってよぉおおおおおおおお!」

「そう……ゴルジ殿にメイフェム殿、とおっしゃるのね。お前を造り出した方々の、お名前は」

 それ以上の事は、どうやら戦って痛めつけて聞き出す、しかなさそうである。

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