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第12話 魔王の道

 蝶よ花よ、と育てられた。

 何の苦労もなかった、と言っていいだろう。自分も、妹も。

「痛いよう……お姉ちゃん……」

 か細くすすりなく妹を、そっと抱き締める。そうしながら走る。

 何故、走っているのか、時折わからなくなる。

 逃げているのだ。それは、辛うじてわかる。

 何から逃げているのか、どこから逃げ出したのか、それが今ひとつ思い出せない。最初からわかっていない、のかも知れない。

「痛いよう……」

 妹が泣いている。あれからずっと、泣き続けている。

 エンドゥールで1、2を争う豪商の家に生まれ、本当に何の苦労もなく育ってきた。

 王都で最も美しい姉妹と言われ、皆にちやほやされてきた。

 いい気になっていた、のは確かだろう。美貌や財力を鼻にかけた驕慢な振る舞いも、今思えば少なくなかった。

 だが、こんな目に遭わなければならないほど悪い事はしていない。自分も、妹も。

「お姉ちゃん……痛いよう……」

 泣き呻く妹を、ひたすら抱き締めてやる。それしか今の自分には出来ない。

 王都城外で、王国正規軍が大敗したらしい。という話は聞こえていた。

 聞こえたその日のうちにダルーハ軍が城壁を破り、エンドゥールに攻め入って来た。

 両親は殺され、使用人たちも殺され、自分と妹は兵隊に捕えられた。

 それからどんな目に遭ったのかは、覚えていない。思い出せない。思い出したくない。

「痛いよう……お姉ちゃん……」

 あれから妹は、これ以外の言葉を一切失ってしまった。

 思い出したくもない目に遭わされ続け、気が付いたら、姉妹揃ってこんな所にいた。どんな所なのかは、未だによくわからない。

 とにかく、逃げ出した。

 失敗作、出来損ない、廃棄処分。あの男が、そんな事を口走っていたからだ。

 意味するところは不明だが……殺される。自分も妹も。それだけは間違いなかった。

「痛いよう……」

 泣いている妹を抱き締めながら、走り続ける。

 前方に、兵士たちが立ち塞がった。

「待て、バケモノ!」

 そんな意味不明な事を言っているが、意味を考えている場合ではない。

 腕を振るった。いや、もしかしたら脚かも知れない。

 とにかくそれだけで、立ち塞がっていた兵士2人が吹っ飛んで壁と床に激突し、絶命した。

 あの時。ダルーハ軍の兵士たちが屋敷に押し入って来た、あの時に、この力があれば。妹を、守れたのに。

 そんな事を思いながら、立ち止まる。

 外に出ていた。

 目が潰れそうなほどに、太陽の光が眩しい。日差しを浴びるのは、一体どれくらいぶりであろうか。

 思った瞬間、身体の一部が破裂し、飛び散った。

 痛みはない。痛みなど、もはや感じない。だが倒れていた。

「痛いよう……お姉ちゃん……」

 泣きじゃくる妹を、倒れたまま抱き寄せる。

「出来損ないの分際で、まだ自我を残しておるのか」

 声がした。あの男の声だ。

「うぬらのような失敗作が、そこかしこで無様に敗れて私の名を貶めておるのだよ……もはや出来損ないは1匹たりとも外へは出さぬ。全て廃棄処分だ」

 またしても、身体のどこかが破裂した。

「いた……い……よう……」

 やめて、妹をもう虐めないで。そう叫ぼうとしたが声が出ない。最後にまともな言葉を発したのはいつだったか、もはや忘れてしまった。

「ほう……? まだ生きておるとはな」

 あの男が、何か言っている。

「生命力には、いささか見るべきものがあるのかも知れん……が出来損ないに違いはあるまい? 見苦しい、早く死なんか」

 身体の2、3カ所が、一斉に破裂した。飛び散った肉片が、さらさらと焦げ崩れてゆく。

「痛い……よぉ……お姉ちゃあ……ん……」

 やめて、お願い。私はどうなってもいいから妹は、妹だけは。もうこれ以上、傷付けないで。

 叫んだが、やはり声にはならない。

 代わりのように、誰かが言った。

「……何をなさっているのです、ムドラー・マグラ殿」

 女性の、と言うより少女の声だった。聞いただけで美しい容姿が想像出来る声。

 危ない、こんな所にいては駄目。女の子がこんな所にいたら、私たちのような目に遭わされる。だから早く逃げて、出来れば妹を連れて。

 いくら叫んでも、やはり言葉にはならなかった。



 王宮の、楼閣と楼閣を繋ぐ渡り通路である。

 まるで巨大な橋のようなその上で、ダルーハ軍兵士たちが群れていた。

 また誰か虐められているのだとしたら、放ってはおけない。

 魔獣人間に拉致されて、という形にせよティアンナがここエンドゥール王宮に戻って来てから、2日目である。

 この2日間、こんな場面を幾度となく城内で目にしてきた。

 ティアンナが歩調強く歩み寄って行くと、渡り通路の中央に群れている兵士たちがギョッとしたように振り向いて、うろたえた。

 城中に生き残っている小役人や宮女といった人々に、ダルーハ兵が危害を加えている。そんな場面にティアンナが近付いて咎めると、咎められた兵士らは舌打ちをしながらも大人しく退散して行く。

 この2日間、そんな事の繰り返しだった。

 ダルーハに気に入られた。ダルーハの妾となり、寵愛を受けている。

 ティアンナに関しては今、そんな噂が城内に広まっていた。

 実際のダルーハ・ケスナーは、ティアンナに手を出すどころか、1人の女性も身辺には置いていない。

 配下の兵隊にはあらゆる性犯罪を許可する一方、自身は全く女を近付けようとしていないのだ。

 やはり、とティアンナは思う。ダルーハにとっては、レフィーネという妻だけが全てであったのだ。

 渡り通路に群れて通行の妨げをしている兵士たち、の中に1つ、見知った人影がある。

 黒いローブに身を包んだ、細身の男。

 フードに囲まれたその顔面は、潰れかけた状態のまま固まっていた。巨大な瘡蓋の中で、2つの眼球が血走っている。

 そんな顔面が、ティアンナの方を向く。

「何だ……貴様か、ティアンナ王女」

「……何をなさっているのです、ムドラー・マグラ殿」

 ティアンナは、とりあえず訊いた。誰かを虐めている、のは間違いないようだが。

「ダルーハに気に入られたからとて、大きな顔をするでないぞ。お前という素材を、私は諦めたわけではないのだからなぁティアンナ姫……そなたならば、あのダルーハをも打ち倒せるほどの魔獣人間に」

 そんなムドラーの言葉を、ティアンナは聞いてはいない。

 あまりにも惨たらしいものの姿が、見えたからだ。兵士たちが、やや遠巻きに取り囲んでいるもの。

「これか……これが、気になるのか」

 舌打ちと共に、ムドラーが言う。

「醜かろう、おぞましかろう。だから外には出したくなかったのだ。私の名を辱める事になるからなぁ……この出来損ないがッ!」

 ムドラーの、怒りと魔力が高まった。

 小さな爆発が起こり、肉片の飛沫が飛び散りながら灰と化す。

 出来損ない、と呼ばれたものが吹っ飛ばされ、ティアンナの足元でビチャッと石畳に激突し、広がった。

 そして、声を発する。

「痛いよう……お姉ちゃぁん……」

「ええい、まだ人間のつもりでおるのか」

 ムドラーが、苛立たしげに語り始める。

「そやつは魔獣人間のなり損ないよ。1人では体力が保ちそうになかったゆえ2人、一緒くたの肉塊として繋ぎ合わせてやったのだ。仲の良い姉妹であったようなのでなあ。慈悲深き扱いであろうが?」

 ティアンナの足元で、ぶちまけられたように倒れているもの。

 それは、人間だった。

 言葉では表現し得ぬほど醜悪で痛ましい物体と成り果てていながらも、どこかに人間の原形を感じさせるもの。

 それがティアンナの足元で、蠢いている。痙攣している。まるで泣いているように。

 ティアンナは、崩れ落ちるように膝をついた。その「姉妹」の傍らで、跪くような格好となった。

 跪いたまま、押し潰されそうになった。ティアンナの、身も心も。

「…………何……?」

 そんな呟きが漏れた。

 これは一体、何なのか。どういう事なのか。一体、何が起こっているのか。

 ヴァスケリア王家がダルーハに敗れたせいで一体、何が行われてしまったのか。

「安心するが良いぞティアンナ姫。そなたは、そのように無様にはならぬ」

 ムドラーが何か言っている。黙らせなければ。ティアンナはまず、そう思った。

 この男を、永遠に黙らせなければ……殺さなければ、ならない。このような事を、これから先、2度とさせないために。

(……それが、私の戦い……)

 ガイエルに向かって偉そうに言い放った通り、今は己自身の戦いをするべき時……その最初の戦いが今、ここにある。

「そやつらは所詮、劣悪な素材であったという事だ。だがティアンナ姫、そなたは違う。そなたこそ最強最美、究極至高の魔獣人間に」

「ムドラー・マグラ」

 自分でも意外なほど、ティアンナは落ち着いた声を出せた。

「このような事を続けている限り、貴方はいつかガイエル様に殺されるでしょう……が、それを待ってはいられません」

 魔石の剣を、ティアンナはすらりと抜いて構えた。

 細い刀身の根元に埋め込まれた魔石が、ぼんやりと赤く輝き始める。

「……私が、貴方を殺します」

「やれやれ……やはり少しばかり血を吸って、大人しくさせねばならぬかぁあア」

 ムドラーの声が一瞬ヒクッと裏返った。その細い身体が痙攣し、膨張し、黒いローブがちぎれ飛ぶ。

 6本の吸血触手が、大蛇の如く躍りうねる。

「もはやダルーハが何を言おうと構わぬ。そなたをダルーハ以上の最強生物に生まれ変わらせてくれようぞぉティアンナ姫、あの逆賊めを討ちたいのであろーがぁあああ!」

 瘡蓋の塊のようになった顔面だけは、それほど変化していない。

 とにかく魔獣人間ヴァンプクラーケンの姿を露わにしたムドラーが、2本の吸血触手をティアンナに向かってニョロニョロと伸ばす。

 弱々しくのたうち震える「姉妹」の傍らで身構えつつティアンナは、伸びて来るものたちを、じっと見据えた。

 これまで何度も、魔獣人間を力任せに叩き斬ろうとして、失敗してきた。だからティアンナは今、見極めようとしている。

 2本の吸血触手が、どれほどの速度で、どの角度から襲いかかって来ているのか。

 どの角度で、どれほどの力で、どの瞬間に、剣を振るえば良いのか。

 上手くゆくかどうかは、わからない……否。上手くいかせなければ、ならないのだ。

 ガイエルは今、近くにいない。ティアンナが独力で、戦わなければならない。

 それが、己自身の戦いというものなのだ。

 赤く輝く魔石が、燃え上がるように光を強めた。

 細身の刀身が、松明の如く燃え上がった。その炎が、ティアンナの凛とした美貌を、赤く激しく照らし出す。

 1歩だけ踏み込みながらティアンナは、燃え盛る炎の剣を一閃させた。

 下着のような鎧をまとう半裸身が、しなやかに躍動する。その周囲で、炎が弧を描く。

 切断の手応えを、ティアンナは確かに感じ取った。これまで魔獣人間たちにことごとく弾き返されてきた無様な斬撃とは、明らかに違う。会心とも言うべき、手応えである。

 切断された吸血触手が2本、渡り通路の外側へと落下していった。

「ぎゃ……」

 悲鳴を漏らしながら、ヴァンプクラーケンが後退りをする。半分ほどの長さになってしまった2本の触手に、焼けただれた断面が残っている。

「ばっ馬鹿な……そんな、このような……」

「私だって伊達に、貴方たち魔獣人間に……危険な目に遭わされ続けてきた、わけではないわ」

 振り切った炎の剣を構え直しつつ、ティアンナは言い放った。

「力任せの攻撃しか能のない魔獣人間の動き、すでに見切らせていただきました。少なくとも貴方には負けません……そして、貴方を許すわけにはいきません」

 仲の良い姉妹、であったらしいものを、ティアンナは見下ろし、見つめた。

 目を逸らせたくなる惨たらしさに、耐えた。自分が目を逸らす事は許されない。民を守る事が出来なかった王族として、しっかり見つめなければならない。

「お姉ちゃん……痛いよう……」

「…………」

 ごめんなさい、という言葉をティアンナは呑み込んだ。

 軽々しい謝罪の言葉など、口にするべきではなかった。

「このような事……これからも続けたいのであれば、全力で抗いなさい魔獣人間」

 構えられた炎の剣が、さらに激しく燃え上がった。細身の刀身そのものが、赤く巨大化したかのようにだ。

「私も全力で、貴方を処刑します。覚悟なさい」

「うっぐ……そ、素材の分際で……創造主に刃向かうか……」

 ヴァンプクラーケンが怒り狂い、だがそれ以上に怯えている。

 兵士たちは、すでに逃げ始めていた。

「うぬっ、待たぬか貴様ら!」

 ムドラーの怯えた怒声に会わせ、残り4本の吸血触手のうち3本が跳ねた。そしてティアンナではなく、逃げ行く兵士らに襲いかかる。

 最も逃げ足の遅い者3名、の後頭部に、吸血触手の太い先端がズブ、グサッ、ずぶり、と突き刺さる。

 血と脳漿をしたたらせながら、その3人の兵士が痙攣し、のけぞり硬直し、そしてクルリと振り返って槍を構える。

 操り人形の動き、だった。

 裏返った眼球を血走らせ、ベロリと舌を垂らしながら。傀儡と化した兵士3人が石畳を蹴り、ティアンナに襲いかかる。

 魔獣人間という戦力に頼り切って鍛錬の足りぬダルーハ軍兵士、とは思えぬ、動きの速さと鋭さである。頭に刺さった触手から、何らかの力を注入されているかのようだ。

 ティアンナは跳ぶように駆け出し、踏み込んだ。燃え盛る炎の剣を、横薙ぎに振るう。

 右から左へ一閃、左から右へともう一閃。少女の細い半裸身の周りで、炎の弧が2つ、ほぼ同時に描かれる。

 傀儡の兵士が3人とも、構えた槍もろとも真っ二つになった。大量の臓物が3人分、空中にぶちまけられながら焼け焦げて崩れ散り、灰となる。

 その時には、ヴァンプクラーケンの姿は空中にあった。皮膜の翼を広げてはためかせ、半ば飛行に近い跳躍をしている。

 空中からの襲撃、の動きではなかった。

 傀儡3体が倒されている間にティアンナの頭上を飛び越えたヴァンプクラーケンが、巨体に似合わぬ不気味さで身軽に着地する。「姉妹」の近くにだ。

「う、動くな!」

 倒れていた「姉妹」の身体が、石畳から引き剥がされる。痛ましいほど醜悪なその肉体が、吸血触手に絡め取られ締め上げられていた。

 捕われた「姉妹」の近くで、ヴァンプクラーケンの腹部が縦に裂けてカーテンの如く開き、うっすらと赤い光を漏らしている。

「動くでないぞティアンナ姫……そなたが大人しくしてくれるなら、廃棄予定であったこやつらの、命だけは助けてやっても良い」

「ムドラー……ッ!」

 怒りの声を噛み殺し、ティアンナは固まった。

「その剣を捨てよ。さもなくば予定通り、この出来損ないの廃棄処分を実行する。今この場でなぁ」

 魔獣人間の腹部に埋め込まれた、巨大な魔石。それが、赤い輝きを強めてゆく。

「痛いよう……お姉ちゃあん……」

「た……すけ……て……」

 一固まりの「姉妹」が、2つの声を同時に発した。

「わ……たし、は、いいか……ら……いもうと……だけは……たすけて、おね……が……い……」

「いい加減に黙らぬか……出来損ないの貴様らに! 言葉を話す資格などないのだよッ!」

 太い吸血触手が「姉妹」を締め上げる。痛ましいほど醜いその肉体が雑巾の如く搾られ、体液がビチャビチャと大量にしたたり落ちた。

「やめなさい!」

 ティアンナは叫び、炎の剣を構え、しかし斬り掛かる事は出来なかった。

 ヴァンプクラーケンの腹部から破壊の光が迸り出る、よりも早く踏み込んで、魔獣人間を一撃で斬殺する。その自信がなかったから……だけではない。

 凄まじい気配が、背後から、荒波の如く押し寄せて来たのだ。力強く石畳を叩く、足音と共に。

 ティアンナは振り向かなかった。人質を取っている魔獣人間から、視線を外すわけにはいかない。

 それに、振り向かずともわかる。この圧倒的な気配の主が、誰であるのかは。

 ヴァンプクラーケンが硬直し、声を引きつらせた。

「だ……ダルーハ……様……」

「無理に敬称を付ける事もあるまい……それはそれとして、人質とは感心せんな」

 ティアンナの横で、甲冑姿のダルーハが立ち止まる。

 隻眼が、ヴァンプクラーケンを射すくめる。

 精悍な口髭からギラリと白い牙をのぞかせながら、ダルーハは言った。

「我らダルーハ軍は、暴力で弱者を蹂躙する軍団よ。人質などという平和的な手段に頼らず、ただ純粋な暴力のみで……な」

 言葉と共に、炎が迸った。

 燃え盛る、火炎の吐息。それがダルーハの口から溢れ出して迸り、ヴァンプクラーケンの巨体をゴォオッ! と包み込む。

 捕われの「姉妹」もろとも、である。

 一瞬、ティアンナの頭の中が真っ白になった。何が起こったのか、わからなくなった。

 そんなふうにティアンナが呆然としている、一瞬の間に。「姉妹」の醜く痛ましい肉体が、

「痛いよう……お姉ちゃん……」

 弱々しい悲鳴を漏らしながら、灰に変わった。

 その遺灰をまき散らしながらヴァンプクラーケンが、石畳の上でのたうち回っている。

 悲鳴を垂れ流して暴れる巨体は、ブスブスと煙を発して焼けただれ、今やその醜悪さは凄惨なほどだ。

「ひぎっ、ぐぎゃああああああああああだっダルーハ様、なななな何をなされますかァアアアアアアアアアアア!」

「ムドラーよ、戦いとは暴力のみで行うもの。人質など使うな。己の持つ純粋なる暴力のみで弱者を圧倒し、強者勝者となれ。それがダルーハ軍、唯一の軍規である」

 形良い口髭を焦がす事もなくダルーハが、微かな炎をチロチロと、蛇の舌の如く揺らして言った。

 呼吸が止まるほどに息を呑みつつ、ティアンナは声を発した。

「ダルーハ卿……貴方は……ッッ」

「俺の事などよりも、ほれ。まだ戦いは終わっておりませんぞ女王陛下」

 ダルーハの言う通りではあった。

 おぞましく焼けただれたヴァンプクラーケンが、それでも力尽きてはおらず、立ち上がろうとしている。

「ゆ……許さんぞ、ティアンナ・エルベットそれにダルーハ・ケスナー……まとめて灼き殺してくれる、消し飛ばしてくれる……」

 憎悪の呻きと共に、魔獣人間腹部の魔石が、赤い輝きを強めてゆく。

 ティアンナは避けず、ただ踏み込んだ。

 炎の剣を、渾身の勢いで突き込んでいった。

 燃え盛る切っ先が、ヴァンプクラーケンの腹を……そこで真紅に輝いている魔石を、直撃する。

 爆発しそうなほどに赤く激しく輝いていた大型魔石が、砕け散った。

 発射寸前だった魔力光が溢れ出し、ヴァンプクラーケンを体内から灼く。

「ぐっ……ぎゃ……ぁああああああだっダルーハ、私を助けぬか! 魔獣人間という戦力を与えてやった恩を忘れたのかああぁァアアアアアアアアアアアア!」

 爆発にも似た赤い光が膨張し、魔獣人間の巨体を、内側から呑み込んでゆく。

 やがて渡り通路の上に、巨大な火柱が生じた。

 その真紅の爆炎の中で、魔獣人間ムドラー・マグラは灰すら残さず、消滅していった。

 爆発の輝きを全身で受けながらティアンナは、紅蓮の炎をまとう剣をゆっくりと構え直した。ダルーハ・ケスナーに向かってだ。

「ダルーハ卿……御自身が何をなさったのか、おわかりですか……」

 自分が今どんな表情をしているのか、どんな口調で言葉を発しているのか、ティアンナはわからなくなっていた。

 一切の冷静さが、自分から失われつつある。それは辛うじて自覚出来たが、止められはしない。

「何の罪もない……救われなければならない者たちを、貴方は……」

「女王陛下よ、俺はただ道を歩いているだけだ」

 何でもない口調で、ダルーハは言った。

「……歩いていれば、蟻を踏み潰す事もあろう?」

「……ダルゥーハァアアアアアアッッ!」

 喉が潰れそうな怒りの絶叫が、迸った。

 声帯をヒリヒリと痛めながらティアンナは、猛然と踏み込んで行く。激しく燃え上がる炎の剣を、叩き付けるように振り下ろす。

 ダルーハの身体が揺らいだ。

 かわされた、とわかった瞬間、ティアンナの右腕に激痛が走った。炎の失せた魔石の剣が、石畳に落下して音を立てる。

 ティアンナの右腕は、後ろ手に捻り上げられていた。

 少女の細腕を左手でギリギリとへし曲げつつ、ダルーハが言う。

「強者が道を歩けば、弱者は踏み潰される。そういうものですよ、女王陛下」

「……ならば踏み潰しなさい……私を……ッ」

 痛みに耐えて、言葉を発する。ティアンナに出来る事は、それだけになってしまった。

「これ以上、私を嬲る事は……女王として、許可しません……っ! さあ殺しなさい!」

「……そうだな。潰れて飛び散ってみるか、ティアンナ女王」

 ゆらり、とダルーハが右手を掲げた。

「美しい乙女も、無様な虫ケラも、そうなってしまえば大して違いはない」

 かつて王都城外の戦で、大勢の王国正規軍兵士を殴り殺し引きちぎった、力強い右手。少し強めに振り下ろされるだけでティアンナの肉体は、まさに踏み潰された虫ケラ同然の有り様となるだろう。

(ガイエル様……どうか後はっ)

「もっ、申し上げます!」

 声がした。

 ダルーハ軍の兵士が1人、どたばたと渡り通路を駆けて来たところである。

「いいいいい一大事にございますダルーハ陛下!」

「……何事だ」

 ギロリと隻眼を向けられて、その兵士が、押し潰されたように跪き、頭を垂れる。

「も、申し訳ございませぬ! 取り次ぎの方がおられませぬゆえ、じじじ直に声をおかけするなどという御無礼を」

「直答を許す。さっさと報告せよ」

 ダルーハがそう苦笑すると、まだかなり若いと思われるその兵士が、いくらかは口調を落ち着けた。

「で、では申し上げます。元レドン侯ダルーハ・ケスナー、王都エンドゥールにて無様にも討ち死に遂げたる由!」

「ふむ、それは確かに一大事であるな」

 言いながらダルーハが、ティアンナを粉砕する寸前だった右手を、軽く跳ね上げる。

 跪いていた若い兵士がいきなり跳躍し、空中から左足を打ち込んだところだった。

 その飛び蹴りと、ダルーハの右手が、激突する。

 蹴りを弾かれた若い兵士が、くるりと鮮やかに後転しつつ着地。しながら、荒々しく兜を脱ぎ捨てる。

 男性にしては少し長めの赤い髪が、溢れ出した。

「ガイエル様……あっ」

 いきなり、ティアンナは解放された。へし折られる寸前だった右腕を左手で軽く押さえながら、尻餅をついてしまう。

 そんなティアンナなど眼中にない様子で、ダルーハが左手を振るい、ガイエルの右拳をはたき落とした。

「残念だったな親父殿! あんたの詰めの甘さのせいで、俺はまだ生きている!」

 ダルーハ軍の兵装をまとったガイエルの身体が、言葉と共にギュルギュルッ! と竜巻のように回転した。左右の長い脚が連続で跳ね上がり、超高速で弧を描く。

 巻き起こった風に煽られるが如く、ダルーハの身体がふわりと後退して、ガイエルの連続蹴りをかわした。

 空振りした両足を軽やかに着地させてガイエルが、ティアンナの眼前に立つ。少女を背後に庇い、父親と対峙する。

「ガイエル様……」

「逃げろ、ティアンナ姫」

 いくらか距離を隔ててダルーハと睨み合ったまま、ガイエルが言う。

「ここから先は、単なる親子喧嘩だ。人に見せるものではない」

「見せて差し上げれば良いではないか。貴様の無様なる死に様を、女王陛下になあ」

 左半分潰れたダルーハの顔面が、ニヤリと凶猛に歪む。

「あがいて見せろガイエルよ。あの時以上に、無様に、滑稽に……健気に抗う弱者を、虫ケラの如く踏み潰す。強者のみに許されたる悦楽よなあ。そうは思わんか」

「おふくろ様に死なれて本格的におかしくなった、とは思っていたが」

 対照的に端正なガイエルの顔にも、笑いが浮かんだ。不敵だが、どこか暗い、翳りのある微笑。

「……まさか、これほどとはな」

「弱者どもが、どいつもこいつも軽々しくレフィーネの事を口にしおる」

 ダルーハが、口髭の奥から牙を剥いた。

「……生かしては、おけんなあ」

「俺はな親父殿。おふくろ様に、あんたの事を頼まれているのだよ」

 ガイエルの、翳りある微笑。その根底にあるものを、ティアンナは垣間見たような気がした。

 寂しさ、悲しみ、に似ている。そのどちらでもあり、どちらでもない。そう思えた。

「あんたを生かしたまま取り押さえ引ッ立てて、おふくろ様の墓前で詫びさせてやるつもりだった……が、俺の力では無理だった」

「貴様まさか……俺を殺すつもりで戦えなかったから負けた、などと言うつもりではあるまいな」

「言わんよ、そんな事は。俺が言える事は、ただ1つ……」

 すっ……とガイエルは右手を掲げた。

 その右掌が、ゆっくりと下がり、顔を隠す。

「貴様を殺す。それだけだ……随分と俺の気に入らぬ事をしてくれたなあ、ダルーハよ」

「若造が……」

 ダルーハがさらに牙を剥き、笑顔なのか怒りの形相なのか判然としない表情を見せた。

 開かれた隻眼が、燃えるように光を放つ。

 力強い両腕が、息子に対して親愛の情を示すかのように広げられ、分厚い胸板が上向きに突き出される。

 微かに反り返ったその身体が、メキ……ッと震えた。

「ティアンナ姫、やはり逃げてくれ」

 ガイエルの右手の五指の間で、両眼が赤く光った。

「これは親子水入らずの……殺し合いだ」

「ガイエル様……」

 ティアンナは、後退りをするしかなかった。

 今から、鎧の破片が飛んで来るからだ。

「悪竜転身……」

「悪竜……転身……ッ」

 ガイエルとダルーハの声が、重なった。

 

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