第104話 旧交
現在、魔族にあって最も多忙なる者。それはレボルト・ハイマンとオークロードの2名であろう。
レボルト将軍は、今や魔族の軍事司令官として魔人兵の調練に余念がない。
オークロードは、バルムガルド王都ラナンディアにて国内の人間たちの管理支配を行っているだけでなく、国外の情報収集をも担当している。
そのオークロードから、書簡が届いていた。
「ローエン派に魔法の鎧、とはな……」
ゴズム岩窟魔宮。謁見の間と定められた、岩の大広間である。
岩製の玉座に巨体を収めたままデーモンロードは、魔族の共通言語で書かれた書簡に見入っていた。
ヴァスケリア国内のローエン派が、ゾルカ・ジェンキムの息女を味方に引き入れ、魔法の鎧の兵団を造り上げたらしい。
平和主義を唱えていた者たちが、戦力あるいは暴力と呼べるものを手に入れてしまったのだ。
玉座の傍らで揺らめいている者に、デーモンロードは声をかけた。
「ローエン・フェルナスがどのように思うであろうな……訊いてみる事は出来ぬか? ゴーストロードよ」
「かの大聖人は、苦難に満ちたる生涯を一片の悔いもなく全うし、その魂は唯一神の御下に召されております……私の力で呼び戻す事は、もはや出来ませぬ」
揺らめく者……ゴーストロードが、辛うじて聞き取れる声を発した。
姿、と呼べるものは辛うじて視認出来る。それは、人影のようなものを内包した白いローブである。フードの中では、真紅の眼光だけが朧げに輝いている。
「ただ唯一神教は元々、レグナードの圧政に抗するべく立ち上げられたものでございます」
「ふむ。戦う力は持って当然、むしろ今までが不自然であったという事か」
確かに、レグナード魔法王国以降の人間たちの歴史を見れば、唯一神教はむしろ他者を攻撃・征服するための宗教であるとしか思えないところがある。あのアゼル・ガフナーを見ても、それは明らかだ。
デーモンロードは、書簡を読み進めた。
ローエン派が戦力として有する、魔法の鎧の兵団。その司令官とも言うべき戦士が1人、存在するらしい。オークロードは名前までは突き止められなかったようだが、それは黒い魔法の鎧を与えられた男であるという。
「あやつか……」
デーモンロードが、忘れられるわけはなかった。斬撃の長弓を持つ黒騎士。
厄介な魔法の鎧の装着者が、これで5人になってしまった。
この5名がしかし団結せず、各個撃破の隙を晒しながらバラバラに行動しているのが解せないところである。
それどころか、どうやら仲間割れのような事までやらかしたらしい。
オークロードは書簡の中で報告している。リムレオン・エルベット及びブレン・バイアス両名が、ローエン派の政治的陰謀によってヴァスケリアを追われ、バルムガルドに入り込んでいるという。
デーモンロードの顔面で、傷跡が熱く疼いた。左眼球を潰して走る、一直線の刀傷。
「貴様もついに来るか、リムレオン・エルベット……」
デーモンロードは拳を握った。青黒い、凶悪なほど力強い拳が、炎をまとう。読み終わった書簡が、灰に変わった。
「お気をつけ下さいませ、デーモンロード様……」
ゴーストロードが言った。
「貴方様は、敵となる者全てを御自身の手で粉砕せねば気が済まぬ御方……今少し、他者をお使いなさいませ」
「それをやって1度、痛い目に遭っておるのでな。どのみち痛い目に遭うのならば、自分で戦った方がましであろうよ」
「されど今は、この私がおります。このゴーストロードめを、どうかお使い下さいませ」
朧げだった真紅の眼光が、いくらか明るく輝いた。
「あのバンパイアロードを差し置いて、この私を死せる軍団の統率者に任じて下さった御恩……報いる機会を、どうかお与え下さいませ」
「バンパイアロード……ブラックローラ・プリズナか。あやつは元々、魔族における立身栄達になど何の興味も持っておらぬ」
あの女には、そう容易くは再起出来ぬほどの痛手を与えてやったつもりである。だが消滅させたわけではない。あの森の中でブラックローラ・プリズナを完全に消滅させる事は、デーモンロードの力をもってしても困難を極める。
「まあ良い、やってみよゴーストロード。魔法の鎧を着る者ども、それにアゼル・ガフナー……私に敵対する輩が動き回っておる。そのうち何人かでも始末出来るようなら、やってみるが良い」
「ありがたき……幸せにございます……」
ゴーストロードの姿が、スッ……と消えた。
デーモンロードは太い両腕を組み、隻眼を閉じた。1つ、考えなければならない事がある。
岩窟魔宮近くのタジミ村に、バルムガルド王制の残党が集まっている。非力な人間どもが、魔族への抵抗運動の真似事をしている。そう思ってデーモンロードは、今まで放置してきた。
その人間どもが、恐るべき戦力を保有してしまったとしたら。
魔人兵から魔獣人間へと進化・昇格した3名……リザードバンクル、クローラーイエティ、ドッペルマミー。彼らが、あの竜の御子と戦い、かなりのところまで追い込んだ。
追い込まれた竜の御子が、どうやらタジミ村に匿われているらしい。魔獣人間3名が、そう報告したのだ。
竜の御子。デーモンロードにとっては、魔法の鎧の装着者たちと並ぶ災厄である。始末せねばならない。巻き添えでタジミ村を滅ぼす事にでもなれば、恐らくレボルトが良い顔をしないであろうが、やむを得ない。
デーモンロードの青黒い巨体が、ゆっくりと玉座から立ち上がった、その時。
何者かが、謁見の間に飛び込んで来た。と言うより、放り込まれて来た。
肉塊が2つ、ビシャッ、グチャアッと床に激突する。魔人兵とデーモンだった。共に、屍である。叩き潰されたのか切り裂かれたのか判別し難い死に様を晒し、身体の内容物をドバドバと垂れ流している。
いや、デーモンの方は辛うじてまだ生きていた。大量の臓物を床にぶちまけながら、声を発している。
「で……デーモンロード、様……しっ、侵入者に、ございま」
す、まで言い終える前に、そのデーモンは破裂して飛び散った。白い光の塊が飛んで来て、死にかけのデーモンを直撃したのだ。
唯一神の、力の発現。聖職者による攻撃である事が、デーモンロードにはわかった。同じような白色光の塊を、自分も19年前、大いに喰らった事がある。
ゆらりと右手をかざしたまま、その女は謁見の間に歩み入って来た。魔人兵の屍を1つ、左手で引きずりながら。
「侵入者なんて人聞きの悪い。礼儀正しくデーモンロード殿へのお取り次ぎをお願いしたのに、断ったりするから……こういう事になるのよ」
人間の美女の面影を残す口元が、そんな不敵な言葉を紡ぐ。
顔面の上半分から迫り出したクチバシ。魅惑的な曲線を保ったまま、ムッチリと筋肉を隆起させた黒い身体。左右で形の異なる翼。たくましい両の美脚と、その末端で床を掴む猛禽の爪。
人間でも魔族でもないその女が、引きずって来た魔人兵の屍を、デーモンロードの眼前にビチャッと投げ出した。
「来客への対応が、なっていないようね?」
「それは貴様が招かれざる客であるからだ」
その招かれざる客に対してデーモンロードは、力強い両腕を広げて歓迎の意を表した。旧交ある相手である事に、違いはない。
「まあ来てしまったものは仕方がない、私が歓待してやろう。よく来たな、メイフェム・グリムよ」
「手ぶらで悪いわね。お土産の代わり、と言っては何だけど……貴方の命を奪ってあげるわ、デーモンロード」
「ほう、それは素晴らしい。何よりの土産だ」
デーモンロードは、にやりと牙を剥いた。
レボルトは現在、魔人兵の部隊を率いて、岩窟魔宮の外で調練の真っ最中である。ここにいれば、デーモンロードの護衛として、この女魔獣人間と戦ってくれた事であろう。いない以上、このような来客への応対は、魔族の帝王自らが行わなければならない。
「私の命を狙う理由を、一応は聞いておこうかメイフェム・グリムよ……まさかとは思うが20年前の如く、人間どもを守りたいなどという思いに目覚めたわけではあるまいな?」
「守る……ふふっ、懐かしい言葉よね」
メイフェムは笑いながら、左手を振るった。鞭が伸び、パァンッ! と鮮やかな音を鳴らした。
「19年前に貴方を殺し損ねたせいで今、いろいろと不愉快な事が起こっている。何だか私たちの不手際が、垂れ流しの晒しものになっているようで気に入らないから……まあ今更だけど、赤き竜のいる所へ送ってあげるわ」
女魔獣人間の黒い全身に、殺意が漲っている。
19年前は青臭く小賢しいアゼル派の尼僧でしかなかったメイフェム・グリムが、今は人間ではないものと化して、デーモンロードの眼前に立っている。
この女が人間の小娘であった時には全く気付かなかった、ある事に、デーモンロードは今になって気付いた。
(ほう、この女……意外に、美しい……)
自分が何故、こんな所にいるのか、メイフェムは全く理解していなかった。
ゴズム岩窟魔宮がデーモンロードに奪われ、魔族の本拠地と化している。その近くにあるタジミ村が、いつまでも無事でいられるはずがない。
別にあの村がどうなろうと、自分の知った事ではない……などと思う前にメイフェムは、気が付いたらこうして岩窟魔宮に殴り込んでいた。そして魔獣人間バルロックとなり、1対1でデーモンロードと向かい合うなどという命知らずの極みをやらかしている。
(……何をやっているの、私は)
メイフェムは舌打ちをした。ダルーハやドルネオといった単細胞な男どもに比べて思慮深く行動している、という自負は昔からあったのだが、今はこの様である。
タジミ村は、大きくなり過ぎた。
バルムガルド全土から人が集まり、今や魔族に対する抵抗拠点となりつつある。
デーモンロードには無論、弱者に対するいたわりの心など微塵もない。だがこの怪物には昔から、非力な者たちをわざわざ殺戮するというような行為を面倒臭がるところがあった。殺した人間の数なら、デーモンロードよりも自分の方が多いのではないか、とメイフェムは思っている。
だからタジミ村は、今まで無事でいられたのだ。人間どもが魔族と戦う真似事をしている、などとデーモンロードは侮っていたのであろう。
だが今、タジミ村にはゼノス・ブレギアスがいる。そしてガイエル・ケスナーが、匿われている。
シーリン・カルナヴァート王母が、この両名に先陣を切らせて、魔族に戦を挑むような事にでもなれば。
「……貴女なら、やりかねないわね。シーリン殿下」
油断なくデーモンロードを見据えたまま、メイフェムは苦笑した。
この青黒い大悪魔にとって、今やタジミ村は警戒の対象となってしまった。
いずれデーモンロードは、ガイエル・ケスナーを殺しに向かうであろう。タジミ村の人々が、巻き添えとなって大勢死ぬ。シーリン・カルナヴァートも、今や国王となったフェルディ王子も、殺されてしまうかも知れない。
そしてあの、取るに足らぬ仔犬のような少女も。
「だから何よ……何だって言うのよメイフェム・グリム、あんた何トチ狂ってんのッ!」
自身に罵声を浴びせながらメイフェムは、思いきり左腕を振るった。
鞭が伸び、宙を裂き、青黒い悪魔の巨体をピシッと打ち据える。大して痛みを与えていない。デーモンロードがわざとかわさなかったのは、明らかだった。隻眼の異相が、ニヤリと不敵に微笑んでいる。
メイフェムは踏み込みながら、念じた。
「唯一神よ、貴方の敵である悪魔族を討ち滅ぼすために……力を貸しなさいっ」
右手に光が生じ、それが実体を得て長剣となる。
それを構え、斬り掛かって来る女魔獣人間に向かって、デーモンロードは左手を振るった。炎が発生し、それが燃え盛る鞭となってゴオッ! と伸びた。
赤い大蛇の如く襲いかかって来た紅蓮の鞭を、バルロックは跳躍してかわした。そのまま着地せず、左右形の異なる翼をはためかせて空中に舞い上がりながら、デーモンロードに左手を向ける。
鋭利な五指に囲まれた掌が、白く発光した。右手の長剣と同じ、唯一神の力の発現。その白い光が球形に固まり、発射される。
「うぬっ……」
撃ち出された白色光球を顔面に食らい、デーモンロードはよろめいた。死にかけた雑魚のデーモンは粉砕出来ても、この怪物には、よろめかせる程度の痛手しか与えられない。
構わずメイフェムは、空中からの狙撃を続けた。白い光球が次々と撃ち出され、デーモンロードを直撃し、青黒い外皮の表面で砕け散って光の飛沫となる。
よろめかせる程度の痛手とは言え、目くらましにはなったか。
そう見て取るや否や、メイフェムは急降下を敢行した。女魔獣人間の黒い身体が、猛禽の如くデーモンロードを襲う。そして空中から長剣を突き込む。狙いは、悪魔の太い首筋。
狙われた頸部を守るべく、デーモンロードは頭を動かした。猛牛が、角を振り立てる動きだった。
気の触れた鍛冶屋が作り上げた刀剣を思わせる、歪み捻れた悪魔の角が、バルロックの剣と激突する。
元々は光であった長剣が、まるでガラス細工のように砕け散り、キラキラと光の粒子に戻って消滅した。デーモンロードの角は、全くの無傷である。
「くっ……!」
得物を失いながらもメイフェムは、空中で思いきり身を捻り、左脚を振るった。美しくたくましい脚線が、鞭のように高速でしなった。その蹴りが、隻眼の悪魔の顔面を打ち据える。
牙を食いしばりながら、デーモンロードは後方へとよろめき、踏みとどまり、そして炎の鞭を一閃させる。
紅蓮の一撃が、バルロックの全身を打ちのめした。
凄まじい熱量と衝撃に襲われたまま、メイフェムは羽ばたく事も出来ずに吹っ飛び、何かに激突した。
岩の、台座のようなもの。それが女魔獣人間に激突されて砕け崩れる。
岩の破片を払いのけながら、メイフェムは弱々しく上体を起こした。身体は、辛うじて動く。
先程まで岩の台座に載せられていたものが、近くに転がっている。それがメイフェムの視界に入った。
生首ほどの大きさの、壺である。どうやら液体が入っているらしく、しっかりと栓がされている。
「これは……」
間違いない。メイフェムが、ゴルジ・バルカウスと共にこの岩窟魔宮にいた頃から、あった物である。
竜の血液。
返り血を浴びるほどの接近戦で竜を仕留められる勇者のみを、人間ではないものに進化させる物質。
「デーモンロード……貴方、こんなものを一体どうするつもりなの」
その壺を左手で掴みながらメイフェムは、よろよろと立ち上がっていた。
「これを浴びて進化出来るのは、ごく1部の人間だけ……魔族にとっては、何の意味もないものよ」
「魔獣人間の材料に使えぬものか、と思ってな」
バルロックを愚弄するように炎の鞭を揺らしながら、デーモンロードは言った。
「上手くすれば……あの竜という生き物どもの恐るべき力を、解明して我ら悪魔族のものとする事が出来るかも知れん」
「貴方たち悪魔は、昔からそうなのよね……竜という種族に、劣等感を抱き続けている。そうでしょう? 赤き竜には絶対に逆らえなかったデーモンロードちゃん」
「……遠慮する事はないのだぞメイフェム・グリム。それを頭から浴びて、私と少しはまともに戦える力を身に付けてはどうだ」
「冗談。こんなものを浴びて生きていられるのは……ダルーハだけよッ」
メイフェムは、壺を投げつけた。
竜の血を浴びて力を得る事が出来るのは、ダルーハ・ケスナーのような選ばれた人間だけだ。魔獣人間が浴びたところで、全身が焼けただれるだけである。
投げつけられた壺を、デーモンロードは無造作に右手で払いのけた。
この世で最も危険な物質の容器となっている壺が、その程度で割れるはずもなく無傷で床に転がる。
その間、バルロックは踏み込みながら身を翻し、デーモンロードに背を向けながら上体を下げ、左脚を後ろ向きに跳ね上げていた。猛禽の爪が、下から上へと一閃し、デーモンロードを襲う。
「むっ……」
青黒い悪魔の巨体が、とっさに1歩後退して、その斬撃のような蹴りをかわす。
いや、完璧にはかわせなかった。左の爪先にメイフェムは、ざっくりと微かな感触を捉えていた。
デーモンロードの分厚い胸板に、裂傷が刻み込まれている。女魔獣人間の爪痕。
その程度の傷で動きを鈍らせるはずもなくデーモンロードは、左手の炎の鞭を、剣に変えた。
それが振るわれる前にメイフェムは、左足を着地させ、デーモンロードの方を振り向きながら右足を離陸させた。筋骨たくましい美脚が、回し蹴りの形に一閃し、デーモンロードの左手を直撃する。
炎の剣が、蹴り砕かれたかのように崩れ散って火の粉と化した。
青黒い悪魔の巨体が、怯んで揺らぐ。
メイフェムは蹴り終えた右足で踏み込みながら、攻撃を念じた。唯一神の加護が、右手に発現し、光の剣となった。
それをバルロックは、思いきり突き込んだ。
白い光の切っ先が、デーモンロードの胸板、爪による裂傷の部分をグサリと正確に抉る。
刺さった刃が、しかし心肺に達する事なく止まってしまったのを、メイフェムは手応えで感じた。
悪魔の強靭極まる胸の筋肉が、光の刃をガッチリと挟み込んで止めている。
「この……ッ!」
メイフェムは渾身の力で踏み込み、光の長剣を強引に突き入れようとする。
白色光の刀身が、魔獣人間の力と悪魔の筋肉に耐えられず、そのまま折れてキラキラと砕け散った。
「惜しかったな……実に、惜しい」
耳元に、デーモンロードの声。それと同時にメイフェムの身体は、右腕の激痛と共に翻っていた。
デーモンロードの凶悪なほど力強い右手によって、メイフェムの右腕は後ろ手に捻り上げられていた。
「くっ……は、離しなさい! このっ!」
「人間である事を捨て、戦いと殺戮の道を選んだ女……やはり貴様、人間であった時よりも格段に美しい」
メイフェムの耳元で、デーモンロードが熱っぽく妄言を囁く。
「私の妻になれ、メイフェム・グリム……かつて魔族にとって不倶戴天の敵であった女が、魔族の皇后となるのだ。面白いではないか」
世迷い言と共に、青黒く武骨な左手が、女魔獣人間の腰の辺りにまとわりつく。
とりあえず振り払おうとせず、メイフェムは言った。
「……貴方、バカなの?」
「頭を使おうとして1度失敗した。まあ馬鹿なのであろうな」
おかしな感触が、後ろから当たって来た。
デーモンロードの股間で隆々とそそり勃ったものが、メイフェムの力強い尻を、嫌らしく突き回している。
「素晴らしい尻だ……お前ならば強い子を産める。魔族の世継ぎよ……あの竜の御子よりも強い子を、お前ならば産める」
獣のような猛禽のような怪魚のような悪魔の鼻面が、耳元で荒い息を吐いている。
会話をしてやる気にもなれずメイフェムは、左足を思いきり後方へと跳ね上げた。
猛禽の爪が、デーモンロードの股間をザックリと抉った。
「ぐっ……ッッ!」
悲鳴を漏らすデーモンロードの腕を振り払い、メイフェムは1度、跳躍して間合いを開いた。
途端、全身に凄まじい熱さが巻き付いて来た。
炎の鞭だった。デーモンロードの右手から伸びたそれが、燃え盛りながら幾重にもバルロックの身体を拘束している。
赤い大蛇のような炎によって、両腕と胴体を一まとめに巻かれ、両脚を束ねられたまま、メイフェムは床に投げ出された。
「心配はいらぬ……その炎は、ただ動きを封じるためのもの。お前のその美しい肉体を焼き尽くすような事はない」
股間から大量の血を噴出させながら、デーモンロードは激痛に耐えて傲然と立っている。
炎に拘束されたままメイフェムは、芋虫か何かのように、のたうち回るしかなかった。
「くっ……こっ殺しなさいデーモンロード。私を生かしておいたら、その程度の傷では済まない目に遭うわよ」
「それは楽しみだ……」
白く鋭い牙で激痛を噛み殺しながら、デーモンロードは苦しそうに笑った。
何体かのサキュバスが、謁見の間に歩み入って来た。うち2体は、何やら湯気を発するもので満たされた瓶を運んでいる。
薬品、のようである。
「ものは考えようだメイフェムよ。私の妻となれば……私の寝首を掻く機会も、いずれ巡って来ようというもの」
「デーモンロード…………ッッ!」
紅蓮の束縛の中からメイフェムは、隻眼の悪魔を睨み据えた。
サキュバスたちが、嫌らしいほど白く美しい手で瓶の中身をすくい取り、デーモンロードの股間に丹念に丁寧に塗りたくっている。
「赤き竜を倒した英雄の1人でありながらっ……ひ、人ならざるものと化して人間どもを、大いに殺戮してきた……ふっ、ふふふ、まさに魔族の女帝にふさわしき女よ」
「……痛いのでしょう。やせ我慢をせずに、悲鳴でも上げたらどうなの」
動けぬままメイフェムは、そんな言葉を返していた。
「確かにな……アゼル・ガフナーも、ダルーハ・ケスナーも、あの魔法の鎧を着た者どもにレボルト・ハイマン……竜の御子でさえも、私にこれほどの痛みを与える事はなかった。だが、こんな傷はすぐに治る。お前に私の子を産ませてやるぞ、メイフェム・グリムよ」
言いつつデーモンロードが、片手を上げる。
サキュバスが何体か、メイフェムに近付いて来た。
「連れて行け……丁重に扱うのだぞ。いずれはお前たちの筆頭として、この私に尽くす事となる女だ」
(ケリス……)
寝首を掻く機会が巡って来る。デーモンロード自身のその言葉を噛み締めながらメイフェムは、失われてしまった面影に、心の中で語りかけていた。
(この怪物を、確実に仕留めるためには……私、貴方を裏切ってしまうしかないの? ケリス……)