彼女が言うことには 春野天使編
これは、同じ設定・登場人物で小説を書こうという「グループ小説」の第三弾です。「グループ小説」のキーワードで検索すると、他の先生方の作品も読むことが出来ます。
僕は柿沼良介。
普通のサラリーマンの家に生まれ、ごくありふれた家に住む、ごく普通の十六才の高校二年生。普通レベルの公立高校に通い、成績も中くらい。優等生でもなく不良でもなく、何の問題もない生徒だ。いわゆる一番目立たない、いてもいなくても分からないような存在だ。
だけど、僕にはある一つの特別な能力がある。それは、幽霊が見えるという能力。最初の頃はかなり驚いて、ショックだったし、すごく恐ろしくもあった。でも、幽霊が見えるということに慣れてくると、幽霊なんて全く気にならなくなった。僕にとって幽霊は、生きている人間と同じ様に見えるだけなのだから。
一番最初に僕が見た幽霊は、僕が三歳の頃、お通夜で見たお祖父ちゃんの幽霊だった。まだ三歳だった僕の記憶ははっきりしていない。それがお祖父ちゃんの幽霊だったと分かったのも、小学生になってからのことだ。
ただ、母親から『おじいちゃんは天国に行ったから、もういなくなってしまったのよ』と聞かされ、あの日からお祖父ちゃんには会えなくなったんだと思っていた。
お通夜の日、それがお通夜というものだと分かったのも後からで、黒っぽい地味な服を着た人達が次から次へと家に来ては、帰って行った。家の玄関に飾られた大きな提灯と菊の花がいっぱい並んだ畳みの部屋で、禿げたお坊さんがポクポクと何かを叩いていたことはよく覚えている。菊の花が飾られた段には、お祖父ちゃんの写真があって、その前には大きな木の箱があった。お通夜に来た人は、順番に木の箱の前に行っては、箱の小さな窓から中を覗いて見たりしていた。
みんなが帰った後、僕も木の箱の前に行って、そっと窓を開けてみた。そこにはお祖父ちゃんの顔があった。目を瞑っていてまるで眠っているようだった。
『死んだ』ということが理解出来なかった僕は、お祖父ちゃんが木の箱の中にいるのがとても不思議だった。
「お祖父ちゃん、天国へ行ったんじゃないの?」
僕は、お祖父ちゃんの顔を見ながら聞いてみた。でも、お祖父ちゃんは目を瞑ったまま動かない。
「お祖父ちゃん」
もう一度僕が呼びかけた時、僕の肩をそっと叩く感触があった。僕が振り返ってみると、そこにはお祖父ちゃんが立っていた。
「お祖父ちゃん?」
僕は箱の中のお祖父ちゃんを見てみる。お祖父ちゃんが二人。不思議そうに二人のお祖父ちゃんを見比べる僕を、お祖父ちゃんはニコニコしながら黙って見つめていた。
「良介、触っちゃダメよ!」
直ぐに母親が部屋に入って来て、お祖父ちゃんの幽霊は消えてしまった。
「いま、お祖父ちゃんが二人いた」
僕は母親にお祖父ちゃんのことを話したが、母親は相手にしなかった。父親は「幽霊でも見たんじゃないのか?」と後で笑って僕に言った。
そう、あれは確かにお祖父ちゃんの幽霊。初めて僕が見た幽霊だった。
その日以来今日まで、僕は様々な幽霊を目にすることになる。
心霊写真も何度も撮った。自分が写っている写真に霊が写ることもあるし、僕が撮った写真に写ることもある。あまりに何度も変な写真が撮れるもんで、友達は僕と一緒に写りたがらない。僕は写真も撮らせて貰えない。その点、家族は霊の存在など全く信じていないから楽だ。写真に妙な光が写ったり、知らない人の顔が写ったり、体の一部が消えて写っても、いっこうに気にしない。ただ、僕が写真を撮るのが下手なんだと思っている。
霊の存在を全く信じず否定する人達には、霊の方も寄ってこないから、霊を呼び込む体質の僕がそばにいても大丈夫だろう。
学校でも幽霊は何度も見た。彼ら彼女らは、学校にずっと居座っている。中には学校で自殺した霊もいたが、大抵学校に何か思いを残している場合が多い。みんな大人になる前に亡くなった子達だから、未練も大きいのかもしれない。
幽霊というのは、夜暗くなって出現すると思われてるが、日中明るいうちでも普通に存在している。明るいと目に付きにくく見落としてしまいがちだからだろう。昼間出てくれた方が、怖さが半減するから良いと思う。
電車に乗っている時、街を普通に歩いている時、僕は彼らの姿を目にする。でも、彼らは普通の人間の姿だから、よく見ないと幽霊だって分からない。ただ、現れてる場所がちょっと普通じゃない。駐車している車の上に寝そべっていたり、電車の網棚の上に座っていたり、道路の真ん中に突っ立っていて、何度も車にひかれていたりする。
もちろん、彼らは死んでいるから、車は彼らの体をすり抜けて通っていくし、線路で寝ていても電車は平気で彼らの上を走り抜けていく。
僕はなるべく彼らを見ても、見て見ぬフリをする。中には旅行に行った先から、ずっと僕の肩にのっかかってついて来た女の人の霊もあった。それでも僕は無視する。話し掛けたりもしない。幽霊との我慢比べだ。そのうち僕に見込みがないと思って、大抵の霊は去っていく。
だけど、今回の霊は今までとは違っていた。
突然の死、それが子供の霊ということで、地上に残した未練というのも、これまでと比べて大きかったのかもしれない。
その日の朝。
僕はいつもどおりの時間に家を出て、学校へ行くために駅に向かって歩いていた。
通りを曲がって駅前の交差点にさしかかった所で、たくさんの人だかりが目に入って来た。通勤通学で混み合っている時間帯だが、いつも以上に人が集まっている。
何かあったんだろうか? 僕も好奇心にかられて、人だかりの方へ足を進めた。ちょうどその時、大きな救急車のサイレンが聞こえてきた。その後からパトカーも現れる。
事故だ。人だかりをかき分けて前に出ていくと、道路の隅に小さな子供用の自転車が転がっていた。自転車の籠から何かの袋がこぼれていた。車とぶつかったらしい自転車は、ハンドルと前のタイヤ部分が歪んでいた。そして、自転車から少し離れた場所に、一人の女の子がうつぶせに横たわっていた。
小学生くらいのその女の子の体の下には、真っ赤な血がべっとりと流れている。その血の量の多さからして、女の子がかなり重症であることが分かった。
「あ、あの子が自転車でいきなり飛び出して来たんですよ。スピード出して、よけることさえ出来なかったです」
女の子をひいたと思われるサラリーマン風の男が、青ざめた顔をして警察に話している。その傍らで、女の子が担架に乗せられ運ばれていくのが見えた。
まだ、意識はあるようだ。苦しそうに顔をしかめて唸っている。僕は思わず、吸い寄せられるように担架に近づいて行った。
「……うぅ……あぁ……」
女の子が、弱々しく僕の方に片手を伸ばす。一瞬、女の子と目が合った。何かを訴えるような目で僕を見る。だが、その目は虚ろで、今にも意識を失ってしまいそうだ。
「あ……」
最後の力を振り絞って僕の方へ伸ばした女の子の手が、コトッと下におりた。彼女はそのまま意識を失い、救急車の中へ運ばれていった。
多分、あの子は助からないだろう……何か嫌な予感が僕の中でわき起こる。霊が見えるだけあって、僕の感は割りに鋭い。朝から嫌なものに遭遇したもんだ。サイレンを鳴らし、走っていく救急車を見送りながら、僕はため息をもらした。
それから数日が経った。
あの交通事故のことも忘れかけていた頃、僕はあの女の子と再会した。
学校帰り、交差点の中央に一人の女の子が突っ立っていた。もちろん交差点を車はバンバン走っている。僕は一目で女の子が幽霊だって分かった。女の子は僕の存在に気付くと、振り向いて体をスッと僕の方へ移動させてきた。
その子の顔を見て、すぐにこの前交通事故に遭った女の子だと気付いた。女の子は、まるで僕のことを待っていたかのように笑顔を向けてくる。嫌な予感は的中した。僕は、彼女を無視して足を進める。女の子はヒタヒタと僕の後をついてくる。
「ちょっと、無視しないでよ」
僕の家の前まで来た時、女の子がスッと僕の前方に移動してきた。
「わたしのこと見えるんでしょ?」
生意気な言い方だ。お葬式も終わってそろそろ天国に行けばいいのに……と思いつつ、僕は女の子を無視して家に入る。
「待ってよ」
女の子は強行手段で、僕の肩に乗っかかる。僕に取り憑こうっていう気か! 無視だ無視。女の子はそのまま僕の部屋までついてきた。
「うわあ、あなたの部屋って綺麗ね。潔癖性なの?」
女の子は笑いながら、勝手に僕の机に上がりパソコンの電源を入れる。
「やめろよ」
流石に頭にきて、僕は電源を切る。
「やっと口を聞いた」
女の子はまた笑って、今度はテレビのスイッチを入れる。
「もう、やめろったら」
「男の子の部屋ってこんななんだ。わたし、お兄ちゃん以外の男の子の部屋って初めて入った。わたしの部屋よりずっと片づいてるね」
僕はテレビのスイッチも切り、ため息をつく。霊とコンタクトを取るなんて、本当はしたくないんだけど。
「僕に何の用?……」
ようやく話しを聞いてもらえそうだと思ったのか、女の子は安心したように微笑んだ。生意気な子だけど、なかなか可愛い顔をしている。
「わたしの名前はゆうり。あなたは?」
「柿沼良介」
「ふ〜ん、じゃ、良介って呼んでいい?」
「は? 僕は高校生。君はまだ小学生じゃないの?」
「そうよ、小学五年生。でもいいじゃない、わたしはもう死んでるんだから」
「……?」
そのことと名前を呼び捨てにすることと、どういう関係があるのか疑問だが、僕は好きにさせた。幽霊と言い合ったってどうしようもないから。
「それで、ゆうり。もう一度聞くけど、何の用でついてきたんだ?」
「幽霊の見えるあなたなら分かると思うけど、わたしがまだ天国に行ってないのは、やり残したことがあるからよ」
ゆうりは大人びた口調で話す。
「それをあなたに頼みたいの」
ゆうりは机の上からピョンと飛び降りると、僕の手をひいた。
「一緒に来て」
「どこに?」
「わたしの家」
僕はゆうりに手を引かれながら、ゆうりの後をついて行った。普通の人間が見れば、僕は一人で歩いているように見えるのだろうが、僕はゆうりにグイグイと手を引っ張られながら歩いている。時々、通りすがりの幽霊がゆうりに気付いて、僕達の方を見たりした。
「わたし、生きてる時は幽霊なんて見たことなかったけど、世の中にはすごくたくさんの幽霊がいるのね」
君もその一人だろ、と思いつつ僕は黙ってゆうりについて行った。
ゆうりの家は、駅の反対側。僕の家からさほど離れていない位置に建っていた。ゆうりがスイスイと家に入って行こうとして、僕は立ち止まる。
「待てよ。君は幽霊で、どこでもすり抜けて行けるけど、僕は玄関からじゃないと入れない」
「じゃ、玄関から入れば良いじゃない。生きてるってこういう時不便よね」
ゆうりはクスクス笑いながら、玄関ドアをすり抜けて行こうとする。
「あのね、僕と君は赤の他人。君の家族にも会ったことないんだよ。いきなり見ず知らずの男が訪ねて来たら怪しまれるだろ」
「わたしのお兄ちゃんの友達だって言えばいいじゃない。お兄ちゃんは部活で帰るの遅いし、お兄ちゃんに頼まれて忘れ物を取りに来たとかなんとか言って。お兄ちゃん友達多いから家にはしょっちゅう色んな友達来てるの。だから全然怪しまれないと思うよ」
「なるほどね」
ゆうりは割と頭の回転が早い。僕は言われたとおり、ゆうりの母親に軽く挨拶して家に入って行った。ゆうりの母親は僕のことをちっとも変だとは思わなかった。ただ、ゆうりが死んで間もないためか、かなりやつれて傷心しきったような印象だった。
大事な娘を亡くしたばかりだ。仕方のないことかもしれない。
ゆうりの二階の部屋に上がる途中、和室の部屋に仏壇と花かご、黒縁のゆうりの遺影があるのが見えた。線香の匂いが漂う仏壇を見ていると、やっぱりゆうりは死んでいるんだと実感してしまう。
「あの写真良いでしょ。わたし気に入ってたんだ。去年の夏休みに、家族でハワイに行った時撮ったのよ。ママもわたしが気に入ってるの覚えてくれてたんだと思う」
写真を見つめていた僕に、ゆうりは言った。
「そっか」
最後に良い思い出が出来たな、と僕は思う。
「でも、あの仏壇わたしのおじいちゃんとおばあちゃんと一緒なの。お墓だって一緒だし、ホントはわたしだけのが欲しかったなぁ」
しんみりした気持ちになっていた僕に、ゆうりは不満げに言った。わがままな奴だ。
僕の部屋を綺麗だと言ったゆうりだが、ゆうりの部屋もキチンと片づけられていた。もちろん、ゆうりがいなくなり誰も使わなくなった部屋だ。部屋が汚されることもない。
勉強机、本棚、ベッド、タンス、つい昨日までゆうりが使っていたそのままの姿で残っている。机の上に置かれていた赤いランドセルが印象的だ。まるで、明日の準備をして学校に持って行くのを待っているような感じがした。
「そのランドセルを開けて」
ランドセルを見ていた僕にゆうりが言った。
「幽霊になったら物に触れないのが不便ね。霊を感じてくれるあなたみたいな人しか触れないんだもん」
僕はランドセルを開ける。教科書やノートや筆箱がびっしりと詰まっていた。
「何を出すんだ?」
ゆうりはスッと僕の側に寄って来て、ランドセルの中を覗く。
「一番奥に入れてる白い日記帳よ」
「日記帳?」
僕は言われるまま、分厚い真っ白な表紙の日記帳を取り出す。ゆうりが日記を書くなんてちょっと意外だった。日記帳の約三分の一くらいの所に紐のしおりがはさんであった。多分、そこまで書いていたんだろう。僕は何気なく挟んだしおりの所を開いてみる。
「あっ、人の日記勝手に読まないでよ!」
ゆうりはムッとした表情で僕に近寄る。
「それ、交換日記なんだから、わたしと亜絵里の秘密がいっぱい書いてあるだからね」
「亜絵里? 君の友達?」
「そうよ……友達だった子」
ゆうりは目を伏せて寂しげに俯く。
「そうか。君は死んじゃったから、もう友達じゃないんだね」
「違う!」
僕の言葉にゆうりは顔を上げて、僕をキッと睨み付けた。
「違う……友達じゃなくなったのは、もっと前だもん……」
僕は開いた日記帳の日付をチラッと読みとった。最後の日付は一年前の五月二十六日だった。
「ふ〜ん、喧嘩でもしたのか? でも、一年間も書いていない交換日記を、何故ランドセルに入れてたの?」
「……亜絵里が学校に来なくなったから……」
ゆうりは低い声で呟いた。
「五年生になってから、亜絵里、登校拒否してるの。ちょっとしたことが原因で虐められるようになって。わたしとはもうだいぶ前に友達やめちゃったし、クラスが別々になったから関係ないって思ってたけど……」
「亜絵里ちゃんのことが気になるんだな。それでまた交換日記を始めようって思った訳だ。ゆうりもなかなか良いとこあるじゃないか」
ゆうりは激しく首を振る。
「そんなことない。わたしは嫌な奴だったよ。亜絵里のことずっとシカトしてたの。虐められてるの知ってても知らん顔してた。もっと早く亜絵里と仲直りしたかったなぁ」
ゆうりは、もう死んでしまった。その現実が僕の心に重くのしかかってくる。
「そろそろ家を出た方がいいんじゃない? ママに怪しまれちゃうよ」
ゆうりは悪戯っぽく笑う。僕は兄の忘れ物を取りに来ただけの兄の友達。長居は無用だ。
「わたしの頼み事は、その日記帳を亜絵里に届けて欲しいの」
ゆうりに手を引かれながら、僕は日記帳を片手にゆうりの家を後にした。
僕とゆうりは、また駅前まで戻って来た。
ゆうりの友達、亜絵里の家は、駅の反対側。つまり、僕の家のある方角だった。駅を通り過ぎようとした時、ゆうりが僕の腕をグッと引っ張った。
「ちょっと待って。亜絵里にお土産買って行ってよ」
ゆうりは、僕を強引に駅前のパン屋まで連れて行く。昔からある割りに有名なパン屋だ。
「なんでわざわざパンを買っていくんだ?」
「いいから、いいから、亜絵里はパンが大好物なの」
ゆうりは僕の背中を押して、パン屋に導く。できたてパンの良い香りが漂ってくる。確かに、ここのパンは美味しい。僕も時々買っていた。
「亜絵里は、ここのチョココルネに目がないのよ。ほっぺが落ちそうなくらい美味しいって言ってたもん」
ゆうりは、チョココルネの棚に僕を連れて行く。
「そうそう、上手いよなこれ」
僕は自分の分も買おうとトレイの中に入れる。
「それから、メロンパンもね。ここのメロンパンは本物のメロン果汁がたっぷり入ってるんだよ。それと、あんドーナッツとフレンチトーストも! これはわたしの好物」
ゆうりは楽しそうに笑う。つい、ゆうりが幽霊だと言うことを忘れてしまいそうだった。
「君は食べられないだろう」
「食べられなくても、好きなものがあると嬉しいもんなの。なんならわたしの仏壇に供えてくれてもいいよ」
「分かった。分かった」
僕には妹がいないけど、妹ってこんな感じなのかな? なんかつい我が儘をきいてしまうような、可愛いもんなんだなと思いつつ、トレイの中に次々とパンを入れていった。
山積みのパンのお金を払っている時、店員さんが少し変な顔で僕を見ていた。きっと、僕が姿の見えないゆうりと話していたからだろう。店員さんからすれば、一人で喋っている僕は、怪しい人に見えたかもしれない。
少し油断し過ぎた。幽霊とコンタクトを取ってる時は、気を付けなければ……近所なんだし、変質者だと思われるとマズイ。
亜絵里の家は、僕の家からそう遠くはなかった。亜絵里の家を訪ねた時、今度は『ゆうりの兄です。亜絵里ちゃんに渡したい物があるんですが』と亜絵里の母親に言った。友達の兄なら母親も顔を知っているんじゃないかと心配したが、ゆうりは大丈夫だと言った。『でも、亜絵里はわたしのお兄ちゃん知ってるからね』とゆうりは付け加える。亜絵里に不審がられたらどうしようかと思ったが、ゆうりはパンと日記帳を渡してくれたら亜絵里は分かってくれると言った。
多少の不安を抱いていた僕だが、亜絵里の母親はすんなりと僕を通してくれた。『大変だったわね』と母親は憂いを帯びた顔で僕に言った。『亜絵里もすっかり落ち込んでいるのよ。お兄さんの顔を見たら少しは元気を出してくれるかもしれないわ』
僕は後ろめたいような複雑な気持ちで、亜絵里の部屋のドアをノックした。
何度目かのノックの後、部屋のドアが静かに開いた。ドアが開くのを待たなくても、ゆうりは自由に部屋に入れるが、彼女は僕の後にそっと立っていた。
亜絵里は僕の顔を見ると、ビクッと身を縮め目を見開く。
「誰?……」
大きな黒い瞳に、黒く真っ直ぐな長い髪。亜絵里は落ち着いた雰囲気の美少女だ。だが、滅多に日の光にあたっていないかのように青白い顔で、黒い目も虚ろで元気がなかった。
「あ……その、君に渡したい物があるんだ。ゆうりから頼まれて」
「ゆうり?」
僕は亜絵里の目の前に、白い日記帳を掲げる。亜絵里はその日記帳を見て、大きな目を一層大きくさせて驚いた。
「それから、これも」
僕はパンの袋も亜絵里に見せる。
「ゆうりに頼まれて、君の大好きなチョココルネを買って来た」
「どうしてそんなこと知ってるの? あなた誰?」
キツネにつままれたような顔をしている亜絵里だが、僕の手から白い日記帳とパンの袋を受け取った。
「僕は柿沼良介。君やゆうりの近所に住んでいるというだけで、本当は赤の他人なんだけどね」
日記帳とパンを抱えて部屋に入っていく亜絵里の後から、僕とゆうりも中に入っていった。亜絵里は勉強机の上に日記帳とパンの袋を置き、椅子に腰掛ける。そしてそのまましばらく、亜絵里は何も言わず黙って座っていた。
僕はどうしていいか分からず、側に突っ立っていた。さっきまでうるさいくらい喋っていたゆうりも急に黙り込み、じっと立っている。気まずい沈黙。カチカチという小さな時計の針の音だけが、静かな部屋に聞こえる。
「……パンなんか、いらなかったのに……」
沈黙を破り、亜絵里がふと口を開いた。亜絵里の小さな肩が小刻みに震えている。
「ゆうりがパンなんか買いに行かなきゃ……」
亜絵里は体を震わせ、シクシクと泣き出す。
「あの朝、ゆうりから久しぶりにメールが来たの。『今日遊びに行くから待ってて。亜絵里の好きなパンを買っていくよ』って。ゆうりは自転車でパンを買いに行ったのよ……自転車の側にパンの袋が転がっていたって言ってた。ゆうり、私の大好きなチョココルネをいっぱい買ってたの」
僕はゆうりに目を向ける。ゆうりは俯いて足をモジモジさせていた。
「亜絵里と仲直りしたかったから。パンを買ってって、また交換日記しようって言いたかったの」
ゆうりは下を向いたままボソッと言った。
「亜絵里に学校に来てもらいたかったし……」
「亜絵里ちゃん」
泣いている亜絵里に僕は声をかける。
「ゆうりも一緒に来ているよ」
「……え?」
涙に濡れた顔を上げて、亜絵里は僕を見る。
「信じてもらえないかもしれないけど、僕には幽霊が見えるんだ。さっきも言ったろ、パンも日記帳もゆうりに頼まれて持って来たって」
女の子、特に泣いている女の子にどう接したらいいものか、僕は戸惑いながらも亜絵里に笑顔を向けて言った。
「ゆうりが? ゆうりがいるの?」
亜絵里はキョロキョロと室内を見回す。
「わたしには見えない」
「ちゃんといるよ。君の直ぐ横に」
ゆうりはスッと亜絵里の元まで移動した。そして、僕を見る。
「ね、わたしも亜絵里と話しがしたい。出来ないの?」
僕は首を振る。霊感のない人間には無理だ。ゆうりは寂しそうな顔をする。
「もう一度、ゆうりと交換日記したかったな……」
亜絵里は小さく呟きながら、白い日記帳をめくった。途中で途切れた真っ白いページに、ポタリと亜絵里の涙が落ちる。
「ゆうりだけが、わたしの友達だったから……」
僕は机に近づき、ペン立てに置かれていたボールペンを手に取る。言葉の会話は出来なくても、文字での会話は出来るんじゃないだろうか?
「ボールペンを軽く握って、日記に近づけてごらん。ゆうりの言葉を書いてもらうから」
僕はゆうりの手を取ると、亜絵里が握ったボールペンの上にゆうりの手を重ねた。
「ゆうり、言いたいことを書けよ」
僕はゆうりに言う。ゆうりは僕の顔を見て微笑む。
「じゃ、書くよ」
真っ白なページの上に、ゆっくりとボールペンが動く。『今までごめんね。亜絵里はずっとわたしの友達だよ。ありがとう』少し形の崩れた文字が、亜絵里の手を通して書かれていく。最初ビックリしていた亜絵里だが、言葉を見ているうちに笑顔が零れ、新たな涙が頬をつたっていった。
ゆうりの言葉が終わった後、亜絵里はその言葉の下に書き加えた。『ありがとう、ゆうり。わたし頑張るからずっと見守っていてね』
僕もいつの間にか、涙が溢れてきた。
ゆうりはその後、無事に天国へと旅立って行った。
帰り際、命日とお盆とお彼岸には必ず戻って来るから、その間は亜絵里のことを宜しく頼むと言い残していった。
今では僕と亜絵里が、交換日記をやりとりしている。今更交換日記なんて恥ずかしい気がしたが、これも亜絵里とゆうりのため。いや、本当は僕自身、結構楽しんでいた。
何より、日に日に亜絵里が明るくなり、学校へも通うようになってくれたことが嬉しい。今では虐められることもない。何故なら、亜絵里の側にはいつも僕がついているから。流石に高校生相手では、小学生の悪ガキも手出しは出来ない。
しかし、一つ困ったことがある。家族や友達達が、僕のことをロリコン呼ばわりすることだ。確かに、小学生と高校生では、親子のような関係にさえ思えることもある。
まあ、それでも良いかもしれない。数年経てば、亜絵里はすっかり大人っぽくなり、僕とも釣り合ってくるだろう。亜絵里が僕をどう思っているかは疑問だけど……。
ただ、毎年命日とお盆とお彼岸に、あの口うるさいゆうりが帰って来るのが少し気がかりだ。 完
短編ですが、一万文字近くの文字数になりました。(^^;)
この設定は面白く、続編も書いてみたいような気がしました。幽霊が見える人の話によると、幽霊は至る所にごく普通に存在しているようです。悪霊もたまにいますが、大抵は善良?な霊だと思います。




