ブックリスト登録機能を使うには ログインユーザー登録が必要です。
警視庁本部庁舎6階
Welcome To The Jungle (8)
 外国映画には時として、原題とはまったく意味の異なる邦題がつけられる事がある。中にはネーミング・センスを疑いたくなるような酷いものもある反面、原題以上に作品内容を見事に表現した素晴らしい邦題があるのも事実だ。その最たる例のひとつが「愛と青春の旅だち」であろうと真壁は以前から思っていた。何せ、原題は“An Officer and a Gentleman”である。訳せば「将校と紳士」になり、何だかしっくりこない。
 警視庁本部庁舎に向け、永代通りを走る青いGT-Rの車内は凄まじい轟音が鳴り響いていた。先程まで流れていた“ガンズ”も十分にうるさいと感じていた真壁だったが、今度のやつは更にうるさい。もはや音楽とは呼べない凄まじき轟音としか表現のできない代物であった。
 パッセンジャーシートをやや後ろに寝かせ、両腕で枕を作る妙典は、初夏の雲ひとつない空をフロントガラス越しに眺めていた。少し落ち込んでいる様にも思える。流石の妙典も警視庁術科センターでの射撃訓練の酷い有り様にしょげ返っているのだろうか? …術科センターの職員食堂で昼食のカレーを食べて以来、いまだ一言も口を開こうとしない。
 そんな妙典のシート脇に凄まじい轟音の源であるCDのケースが無造作に置かれていた。ジャケットには“Strapping Young Lad”、“Heavy As A Really Heavy Thing”との文字が躍っている。どちらがバンド名で、どちらがアルバム名なのか定かではないが、真壁が察するに “ストラッピング・ヤング・ラッド”がバンド名であろうと思った。
 そのCDジャケットの端っこに折り込まれた帯が挟まっている。帯にはこのアルバムの邦題が太い文字で表記されていた。
“超怒級怒潯重低爆音”
 まさにこの轟音を表現するに相応しい邦題だと真壁は感心した。

「なぁ、真壁ぇ…」
 轟音の鳴り響く中、妙典は初めて口を開いた。
「…不思議に思わねえか?」
「え、何がです?」
 先程から空を眺めていたのは、しょげ返っていたからではなく考え事をしていただけなのか? …という疑問符を含んだ真壁の問いかけだった。
「捜査本部だよ。何で木場署じゃなく、第七方面本部なんだろな?」
 妙典の問い返しに真壁も少し考え込み、答えた。
「木場署も部屋が空いてなかったとかではありませんか?」
「木場署管轄って、今たいしてデカいヤマ抱えてねえんだよなぁ」
「…と、申しますと?」
「たかが刺殺事件の割には、捜査本部がデカいんだよなぁ…」
「妙典さんはただの刺殺事件ではないと思ってらっしゃるのですか?」
「本庁の喫煙ルームも閑散としていたし、そんな気しねぇか? …変態オタク眼鏡小僧」
 言われてみれば確かにそうである。集合住宅で起きた刺殺事件となれば身内の怨恨か押し込みの線が有力である。命の重さに差などないが、集合住宅で有力者が殺されると考えるのも不自然だ。そのどれでもないとすると、どの様な可能性が残っているのだろうか? …V6ツインターボの回転に合わせ、真壁の頭も回転を始めた。
 それにしても妙典の心理状態をつかむのは困難極まりない。ただのサボり行為と思われた本庁の喫煙ルームもしっかりと観察している。街中をふらついているだけかと思わせておいて、目的地は当初からはっきりとしている。しょげ返っているかと思えば担当外にも関わらず、事件を冷静に分析している。射撃の腕前を見て、不死身なのは妙典でなく狙われた相手の方なのかもしれないとの疑念こそまだ残ってはいるが、大場係長の言うように最後には頼りになる男なのかもしれないと真壁は思い始めていた。
「ところで妙典さん。賭けの件、OKですか?」
「はぁ!? 賭けだぁ? …端から、俺様はのってねえからな。…だいたい車に名前をつけるなんざぁ、まったくオタクの考えそうなことだぜ。まぁ、お前さんがでっかい勲章ぶら下げてくるか、イレズミでも入れてくるなら考えてやってもいいがな」
 イレズミとは警察の隠語で実弾に当たり火薬が飛散した跡のことを指す。洗っても落ちないからイレズミと言う。つまり「弾に当たってみやがれ!」と妙典は言っているのだ。相変わらず皮肉めいたことを言うものだと、真壁は鼻を鳴らした。しかし数時間前とは異なり、たいして腹もたたなくなっており多少なりとも慣れてきている自分を恐ろしく感じた。
「あぁん!? 何だぁ、ありゃ?」
 青いGT-Rが永代橋に差し掛かろうとした時、空を見上げる妙典は驚きの声をあげた。妙典の目線を追うと欄干の天辺に立ち尽くすひとりの男がいた。
 真壁は慌ててハザードランプを点滅させ、青いGT-Rを止める。と同時に鳴り響く“超怒級怒潯重低爆音”も消え去った。
 妙典は起き上がりダッシュボードのパトランプをルーフに置き赤色灯を回す。すぐさま無線を片手に連絡を取った。
「警視302から至急報。永代橋にて自殺志望者と思しき男ひとり。年は二十代から三十代。現認では欄干に登り、かなり危険な模様。緊配手配求む」
「警視庁、了解」との応答を受け、無線を置いた妙典は携帯を開いた。
「…おう! 俺様だ。妙典だ。…緊急事態なんで頼み聞いてくれるか?」
 妙典の携帯から漏れる話声に真壁は耳を傾けた。どうやら通話の相手は警察関係者ではなさそうである。
「…でさぁ、永代橋で自殺しようって奴がいるもんで、段ボール箱ありったけ持って来てくんねえか? …ひとり、そっちへ向かわせる。…頼んだぞ」
 携帯を折りたたむ妙典は真壁に顔を向けることなく叫んだ。
「実地訓練その3! …永代二丁目に石井酒店ってのがある。俺様のダチ公がいるから、今すぐ段ボール箱取りに行って来いや!」
「は…はい!」
 青いGT-Rを飛び出した真壁は実地訓練の名の下、停滞する車を縫うように今来た永代通りを全力で逆走した。

 真壁は道行く通行人を掻き分けて走りに走った。やたらと走るシーンの多い刑事ドラマがかつてありはしたが、今の真壁がまさにそうであった。しかし走りながらでも頭はフル回転させている。何せ情報は「永代二丁目」と「石井酒店」の二点しかない。携帯を開いて調べようかとも思ったが、今はその時間さえ惜しかった。地元のことは地元民に聞くのが一番だ。地元民を探すしかない。少なからず、スーツ姿のサラリーマン風の男は除外だ。仕事でここにいるだけで普段の行動範囲は限られる。作業着姿の男も同様だ。コンビニやランチの店を探すのなら話は別だが、地元の酒店である。そこまで詳しいとは思えない。ただ、町工場などの経営者なら地元のことには詳しい筈だが、この時間に経営者に当たる可能性はけして高くはない。ベビーカーを押す主婦ならば地元民である可能性は限りなく高いが、流石に夕方近くの車通りの多くなったこの時間にもなると見かけはしない。子供連れの親子でもいればよいのだが、あいにく見つかりはしなかった。
 そうこうするうちに「永代通り江東区永代二丁目」と表記された歩道橋のたもとまでやってきた。立ち止まり息を切らし辺りを見回すが、そのような酒店は見当たらない。すぐ傍のクリーニング屋に目が止まったものの客が多過ぎて店員には当分たどり着けそうもなかった。しかし、この時間にクリーニング物を受け取りに来るのであれば地元民の可能性は極めて高い。繁盛するクリーニング屋に入りきれず外で待ち続ける、歳にして七十といったところの男性の姿が目に入る。ここは亀の甲より年の功、賭けてみる価値はありそうだ。
「すいません。…この辺りに…石井酒店て…ご存知ありませんか?」
「はぁん?」
 真壁は息も絶え絶えに年配の男に聞いてみた。少々耳が遠いのか、真壁の発声が悪かったのか、聞き取れない様子である。一呼吸空けた真壁はもう一度大きな声でゆっくりと質問を繰り返した。
「あのう、石井酒店て、この辺りに、ありませんか?」
「おう! 兄ちゃん。昼間から酒か?」
 ようやく通じたようだった。
「いえ、そういう訳ではないのですが、事情があって石井酒店を探しているんです」
「それなら、この通り行ったところの左手にあるぞ。今は二代目が継いでてな…」
 失礼だとは思ったが、ご年配の長くなりそうな話を途中で遮って真壁は礼を言った。
「ご協力ありがとうございます」
 一方通行の狭い路地の歩道を駆け行く真壁の背中に向かって年配の男は声を張り上げた。
「兄ちゃん! 昼間から、酒はほどほどにしときなよ!」

 妙典は腕組みをして重要文化財にも指定されているアーチ型の橋を眺めていた。夕方から夜十時にかけて青白くライトアップされるその橋は有数のデートスポットでもあり、数々のドラマや映画にも登場してきた。欄干の天辺は荒い網目の交差した柵状になっており、飛び降りるにしてもなかなか至難なことだと思った。欄干の天辺に立ち尽くす男はいまだ動こうとしない。しかし凝視すると小刻みに震えている。危険な状況に違いはなかった。
 一瞬首を傾げ、舌打ちした妙典はゆっくりと永代橋に歩を向けた。アーチ型の欄干のそばまで来ると歩道から水色のスチール製の橋床に飛び乗り、欄干を上り始めた。体力にだけは自信のある妙典にとって、永代橋の欄干をよじ登ることなど造作もない。だいたい見るからにひ弱そうな男が欄干に立ち尽くしているのだから、妙典に出来ない筈はなかった。
 欄干をよじ登って迫り来る妙典に気付いたひ弱そうな男は今にも飛び降りんばかりの奇声を発した。
「な、何だよぉ! …お前ぇっ!!」
 妙典は欄干から手を離し、右手を挙げる格好で一歩前に出た。
「よっ! …元気か!?」
 思いもよらぬ一言にひ弱そうな男は一瞬たじろいだものの、じりじりと歩み寄る妙典を見て叫んだ。
「げ…元気だったら、こんなとこにいる訳ないだろぉ!」
「…んなこたぁねぇよ。ここまで上がってくるのは結構骨が折れる。…元気がある証拠だ」
 周りの景色を見回し、妙典は答えた。
「何わけ分かんねぇこと言ってんだぁ? …お前、何様?」
「一応こういうもんだ」
 ジーンズの後ろポケットから取り出した警察手帳を広げて見せた。
「け…警察? …刑事かよ」
 妙典は黙って頷き、後ろポケットに手帳をしまった。
「警察が何の用だよ? …止めようたって無理だからな」
「止める気なんて更々ねえよ」
「じゃ…じゃあ、何しに来たんだ、お前?」
「ちょっとした思い出作りさ」
「思い出作りぃ?」
 悪戯っぽく話す妙典にひ弱そうな男は驚きを隠せなかった。
「ちょっといいか? …一本吸いてぇーんだが」
 よれよれの煙草の包みと丸い携帯灰皿を取り出した妙典はしゃがみ込み、咥え出した煙草に火を点けた。つられてひ弱そうな男もしゃがみ込んだ。
「…お前も吸うか?」
 妙典はよれよれの煙草の包みを差し出したが、あいにく最後の一本だった。一瞬躊躇したひ弱そうな男は包みごと奪うように煙草を手に取った。
「火貸してくれよ。煙草なんてここ何年も吸ってねえ」
 ジッポーライターを投げ渡す妙典。胸元で捕らえるひ弱そうな男。二人の喫煙者のちょうど真ん中には丸い携帯灰皿が置かれていた。
「名前は何て言うんだ?」
 おどおどと煙草に火を点けて、煙を吐き出しむせ返る。しばらく間をおいてひ弱そうな男は答えた。
「飛田。…飛田圭介とびたけいすけ
「ふーん、飛田か…。よく飛びそうな名前だなぁ」
「からかってんのか? 刑事さん」
 つい先程まで激情していた飛田は落ち着きを取り戻しつつあった。
「で、何があったんだよぉ? …ここから飛び降りるつもりなんだろぉ」
 妙典の吐き出す煙が、うつむき口を噤む飛田の顔をかすめた。
「…派遣切りだよ」
 ポツリと飛田は呟いた。それを妙典は煙草を咥え黙って聴いていた。

 伝説のマラドーナの五人抜きかの勢いで一方通行の狭い路地の歩道を真壁は走り抜けていた。すると今にも剥がれ落ちそうな薄汚い「石井酒店」と書かれた看板を交差点の対面にみつけた。先程のご年配は左手と言っていたが、残念ながら右手だった。思い違いは誰にだってある。そう納得した真壁は石井酒店に飛び込んだ。
「すいません! 石井酒店さんですか!?」
 看板で店名を確認しておきながら言っていることがおかしいとは思ったが、構わず真壁は叫んだ。すると店の奥からモヒカン頭の同年代と思しき男が暖簾から顔を出し叫び返した。
「あんた、妙典さんのとこの人!?」
「はい。妙典に言われて来ました警視庁の真壁です」
「刻は一刻を争うんだ! 開いてるから、裏へ回ってくれぇ!」
 少々おかしな日本語だとは思ったが、真壁は迷わず店の裏手に駆け回った。倉庫の手前にリヤカーがあった。既に折り畳まれた段ボール箱が半分ほど積み込まれている。
「兄ちゃん! 倉庫にある段ボール、載せれるだけ、載せてくれ!」
「あ、はい」
 真壁は埃っぽい倉庫に駆け込み、空いた段ボール箱を折りたたみ重ねた。重ねた段ボール箱を抱え、リヤカーのもとに駆け戻るとモヒカン頭の男はリヤカーの持ち手部分とカブの荷台を荒縄で結わえていた。
「兄ちゃん! それで全部かい? …まだ載るだろ」
 真壁はまたも埃っぽい倉庫に駆け込んだ。再びリヤカーのもとに戻るとホンダ・スーパーカブとリヤカーは見事に一体化していた。男の永遠の浪漫のひとつ、合体というやつである。
「よぉし! 兄ちゃん、それ載せ終えたら、落ちないように支えててくれ!」
「えっ? リヤカーに乗って抑えるんですか?」
「当ったり前だろ! 何だったら兄ちゃんが運転するか? …永代通りは激混みだろ? …ここは地元民に任せとけって。裏道ならいくらでも知ってる。回れば急げだ! …十分以内で着いてやるから、振り落とされんなよ!」
「…分かりました。お任せします」
 やはりどこか日本語がおかしいとは思ったが、納得せざるを得ない真壁は荷台に乗り込み、リヤカーの両端を両手で握り締め、折り畳まれた大量の段ボール箱を身体全体で覆いかぶせるかのように押さえつけた。モヒカン頭の男は半キャップヘルメットを被り大声で真壁に言った。
「行くぞぉ、兄ちゃん! …早起きは三文の得だ!」
「…それよりも、道交法的にどうなのでしょうか? 自分が荷台でこうしてるって」
 緊張と興奮が少々入り乱れていた真壁は警官として聞くに値しないことを問いかけた。
「完全にアウトだな。…現行犯逮捕するかい? …兄ちゃん」
「…やめときます」
 リヤカーと合体したスーパーカブは勢いよく路地に飛び出した。

 永代橋の欄干の上でしゃがみ込む二人の男は相変わらず話し込んでいた。話し込むというよりも、ひ弱そうな男が一方的に話しているといった方が正確かもしれない。
「…一流とはいえないけど大学院まで出たさ。そしたら就職氷河期でさあ。就職口がないんだ。…面接で大学院まで出ましたと言ったら、あからさまに嫌な顔されたよ。年齢的には入社二、三年目。なのに新卒。おまけに大学院出だと初任給も高い。正直煙たがられたよ」
 遠くの景色を眺める飛田はひとつひとつ思い出すかの様に語り、妙典はそれを黙って聞いていた。
「それで仕方なく人材派遣会社に登録した。手取りは安かったけど寮があったから、何とかなった。それこそ、この十年間必死に働いたさ。いろんな所にも行った。…けど、派遣法が変わって、出向先から一方的に切られた。他の仕事先も探してもらったけど、年齢的に難しいって言われて…派遣登録も切られた。派遣登録を切られたら寮も追い出された。…いきなりホームレスだよ」
 妙典はふーんと鼻を鳴らし、短くなった煙草を片手で揉み消し携帯灰皿が一瞬熱を帯びた。
「刑事さん、ハート・ワークって知ってる? …政府が派遣切り対策で始めた職業訓練所。そこで習得した技能で仕事を斡旋してくれるって所。そこにも行ったさ。でもなぁ、住所も連絡先もない人は登録さえできないって断られた。…国は何にも分かってねえよ」
 妙典は酷い話があるものだと感慨深げに空を見上げた。
「刑事さんはいいよね。公務員だからクビにならない」
「そうでもねぇよ。クビにはならんが、自動車教習所の教官に回されちまう事だってある」
「でも仕事があるだけマシだよ」
 行き場のない怒りに共感した妙典は努めて明るく飛田に言った。
「しかしお前、スゲーなぁ。こっから飛び降りて死のうと思ったんだろ? …人間、死ぬほど勇気のいることはねえ」
「そうかなぁ?」
 そう言って永代橋を見下ろした二人はいつの間にか集まっていた野次馬に初めて気がついた。
「何か、いつの間にか、お客さん増えてんなぁ。…どうする? このまま大人しく降りるか?」
 妙典は飛田の顔を覗き込むように言った。
「どうすればいいんだろ、刑事さん」
 永代橋を見下ろす二人の目に野次馬を蹴散らすかのような勢いで突進してくるリヤカーを引いたカブが飛び込んできた。しゃがみ込む二人がたたずむ欄干の手前で急停車し、半キャップメットを被った男とよれよれになったダークスーツの男が走り寄り二人を見上げた。すぐさま妙典の携帯が鳴り、静かに開いた。

 携帯を切った石井は半キャップメットを脱ぎ捨てた。
「妙典さんは何と言ってますか?」
 リヤカーに揺られてよれよれの真壁はモヒカン頭の石井に問いかけた。
「持ってきた段ボール広げて、横長で四段積みにしてくれってさ」
 真壁には妙典の考えが分かった。欄干から積み上げた段ボール箱に飛び降りるつもりだ。
「おい! 刻は一刻もねぇ! さっさと仕事に取り掛かるぞ」
 そう言った石井はリヤカーの折り畳んだ段ボール箱を抱え出した。真壁も慌てて段ボール箱を抱え、ひとつひとつ箱を組み立てていった。その時初めて石井の黒Tシャツの文字が目に入る。

“Suicidal Tendencies”

 訳せば「自殺的傾向」…恐らくバンド名だと思われるが、この状況下で極めて不謹慎な言葉である。しかし石井の言葉を借りるならば「刻は一刻を争う」時なので手を休めるわけにはいかない。ひたすら段ボール箱を組み立て、石井が積み上げていく。見かねた野次馬の中にも手を貸し始める者が現れ、暗黙のうちに連帯感が構築されていった。それに比例して四段積みの段ボール箱も着々と出来上がりつつあった。
「妙典さーん! できましたぜー!」
 石井は両腕を大きく振って妙典に合図を送った。その姿を見守る真壁の背後から連なるサイレン音が聞こえた。真壁は音のする方へ全力で走り、両手を大きく広げて連なるパトカーを制止した。停車したパトカーから制服警官が飛び出し、敬礼と同時に真壁に言った。
「ご苦労様です。御成門署の岸下です。現場はどうです?」
「ご覧の通りです」
 真壁はたった今完成した四段積みの段ボール箱を指し示し、岸下の反応を待った。
「かなり緊迫した現場のようです。あの段ボール箱で大丈夫でしょうか?」
「今は見守るしかありません。念のため救急の手配も願えますか」
「了解しました。直ちに手配します」
 岸下は救急の手配を部下に要請し、残りの者には野次馬たちの安全確保をする様指示を出した。
 それを見届けた真壁は四段積みの段ボール箱の傍らに駆け戻り、頭の上で大きく丸との合図を妙典に送った。

「あいつ、何やってんだ?」
 頭上で大きな丸を作る真壁ではあったが、両足も大きな丸を描いていた。真壁の必死さは伝わるが、まったく気付いていないであろうその珍妙な格好に妙典は滑稽さを覚えた。
「あの刑事さん、面白いね。リアル・エイトマンだよ」
 自殺志望者の飛田も真壁の風変わりな格好に耐えられなかったようである。それを見据えた妙典は立ち上がり飛田に言った。
「なぁ飛田、ここでいっちょ、人生大きく変えてみねえか?」
 はぁ? …といった表情の飛田は妙典に顔を向けた。
「お前、飛び降り自殺しようとしてここにいるんだよな? …だったら飛び降りてみねえか?」
「何言ってんの? …刑事さん」
「見てみな。俺様のダチ公に段ボール箱を積ませた。この高さなら多少の擦り傷で済む筈だ」
「刑事さん、本気で言ってるの!?」
「ああ、俺様はいつだって本気だ。まぁ、いきなりやれとは言わん。先に俺様が手本を見せてやる」
「そ…そんなの普通の警察がやることじゃないよ。俺、刑事さんと話してここから大人しく降りようと思ってたとこなんだよ!」
 妙典は両手を腰に当て夕焼けが迫った空を暫し見上げた後、飛田の目を見て力強く言った。
「それじゃぁ、何にも変わんねえんだよっ! …一度は飛び降りて死のうと思ったんだろ!? じゃぁ、やってみろよ! …一度死んでみろよ! …そして生き延びてみろ! …そしたら、お前は生まれ変われる!」
 妙典の気迫に押された飛田は妙典の顔を見つめるしかなかった。
「…俺様なぁ、不死身なんだ。ガキの時分にトラックに轢かれてもかすり傷程度だった。ヤクザに撃たれても傷ひとつ負わなかった。だから捜査一課の連中も俺様のことを不死身と呼びやがる。…どうだ? ひとつ賭けてみねぇか? …お前さんの人生」
 正直、躊躇する気持ちもありはしたが、突拍子もない事を何の臆面もなく堂々と言ってのけるこの刑事に賭けてみようと飛田は思った。
「でも、どうやって? 俺、運動神経悪いし…」
「心配すんなぁ、簡単だよ。…大きく踏み出したら、空を見ろ。そうしたら次は大の字だ。大の字になったらヘソを見る。…たったそれだけだ」
「それだけで大丈夫なの? 刑事さん」
「ああ、大丈夫だ。俺様が言うんだから間違いねえ。じゃ、よく見とけよ。手本は一回しかねえからな…」
 そう言い放った妙典は右足を前に大きく伸ばし、一歩踏み出そうとした。
「ちょ…ちょっと待ってよ、刑事さん。刑事さんはやったことあんの?」
「そんなの、あるわけねえだろ。俺様だって初めてだ。言ったろ? 俺様は不死身だって」

 四段積みの段ボール箱の傍らで真壁と石井は欄干の二人を見上げていた。御成門署の警官のお陰で野次馬たちも安全な場所へ移動し終えている。どうやら妙典が先に飛び降りるようだ。緊張した面持ちでよれよれの刑事とモヒカン頭の酒屋は妙典の姿を凝視していた。
「まぁ、妙典さんなら平気だ…」
 緊張を揉み解すかのようにモヒカン頭の男は自分に言い聞かせた。
 その矢先、片足を前に大きく突き出した妙典の身体が欄干から離れた。
「せ…先輩っ!」
 真壁は思わず声を上げていた。それも今まで妙典に対して一度も使ったことのない言葉で叫んでいた。
 妙典は天を仰ぐ大の字の体勢で四段積みの段ボール箱の真ん中に落ちた。
「先輩!」
「妙典さん!」
 真壁と石井は四段積みの段ボール箱に駆け寄った。すると段ボール箱を蹴散らすかのうな妙典が姿を現した。
「先輩っ! 大丈夫ですか!?」
 詰め寄る真壁に目もくれず、肩に引っ掛かる段ボール箱を払いのけ、何事もなかったかのように妙典は言った。
「俺様が死ぬわけねぇだろぉ!」
 その言葉を聞いた真壁は安堵し、よれよれの具合が更に増した。
「おい! 安心するのは、まだはえー。今からがメイン・アクトだ!」
 妙典は欄干の上でしゃがみ込む飛田の姿を見上げた。
「いいから早く積み直せや! …潰れてる箱はもう一度組み立てろっ!」
 妙典に一喝されて真壁と石井は我に返った。真壁は踵を返し、飛び散った段ボール箱を拾い上げはじめた。気付けば御成門署の警官も遠くに飛散した段ボール箱を拾い上げている。野次馬たちも段ボール箱を組み立てている。それを石井が受け取り積み直している。誰がその役割を指示したわけではない。ただ、今ここに居る者たちが出来うる事を無心でこなしているだけであった。
 四段積みの段ボール箱が再び積みあがり、あとは欄干の上でしゃがみ込む男を待つのみであった。
「おーし! 飛田ぁー!! あとはお前の番だぁぁー!」
 妙典は夕焼けが迫った永代橋の欄干に向かって大きく叫んだ。

 飛田は相変わらずしゃがみ込んでいた。一度は飛び降りる決心をしたもののどうしても踏み切れないでいた。下の方から不死身と言ってのけた刑事の叫び声が聞こえる。見下ろすと扇形になった警官と野次馬が取り囲むように段ボール箱が積み上げられていた。段ボール箱の傍で不死身と名乗る刑事とエイトマン、モヒカン頭の三人が見上げている。
 おずおずとその光景を眺めていた飛田は意を決して立ち上がり、夕焼けが迫った東京の空を眺めた。
 大きく踏み出し空を見る。大の字になったらヘソを見る。飛田は頭の中で何度も復唱し、恐怖を払いのけようとした。それでも恐怖は付きまとい思わず目を閉じた。暗闇の中でも復唱し、いまだかつてない恐怖と戦っていた。
 大きく踏み出し空を見る。大の字になったらヘソを見る。大きく踏み出し…と復唱したところで右足が大きく前へ動いた。すると自然に身体が欄干から離れる。またも恐怖心に苛まれ飛田は大きく目を見開いた。夕焼けが迫った空が見える。薄汚れた東京の空の筈なのにとても美しかった。その美しさに身を任せるかのように身体の力が抜け、大の字で寝そべっていた子供の頃を思い出した。思い出に浸る中で誰かの呼び起こす声が聞こえた。ハッと顔を上げるが誰もいない。その時、夢から覚めるような衝撃が体中を駆け巡った。

 四段積みの段ボール箱に飛田は落下した。妙典ほどではないが段ボール箱が飛び散った。妙典、真壁、石井、そして御成門署の警官と野次馬は固唾を飲んで静まり返っていた。静寂が永代橋をつつみ、誰一人として口を開こうとはしなかった。長く続く沈黙の中、四段積みの段ボール箱の陰からひょっこりと顔を出す男がいた。飛田だった。
 飛田は四段積みの段ボール箱から転げ落ちるかのように這い出て、ゆっくりと立ち上がった。我に返った飛田は力強く両腕を掲げ腹の底から叫んだ。
「生きてるぞぉぉぉー!」
 その雄叫びを耳にした永代橋に居合わせた人々からパラパラと手を叩く音が聞こえ始める。やがて大きな拍手に変わり、飛田は妙典に飛びついた。
「刑事さん、俺生きてるよ。まだ生きてるよ」
「だから言ったろ、俺様は不死身だって」
 まったくかみ合わない会話ではあったが、欄干の上で起こったこと、そして今の状況を手に取るように真壁は理解した。堰を切ったように石井も興奮気味に自殺志望者だった男に声をかけた。
「兄ちゃん、すげぇなぁ。こんなダイブ、リキッドルームで背面ダイブした奴を見て以来だぜ!」
 興奮する石井に反して真壁は脱力感に苛まれた。
「先輩…いや、妙典さん。妙典さんと一緒だととても疲れます。大場さんが言っていた通りです」
「真壁ぇ。お前、今頃わかったのかぁ? …もうちょい優秀な奴だと思ってたんだがなぁ」
 妙典の相変わらずな皮肉を聞いて真壁は安堵感に包まれた。確かに最後には頼りになる男なのかもしれない。今は本気でそう思っている。
 御成門署の岸下が駆け寄り妙典に声をかけた。
「お怪我がなくてなによりです。失礼ですが、本庁の妙典刑事でいらっしゃいますか?」
「あぁ、そうだけど…」
「やはりそうでしたか、噂はかねがね聞いております。噂に違わぬ凄い刑事でいらっしゃる」
「ひょっとして俺様の知り合い?」
「いえ、知り合いというわけでは…。本庁に不死身と信じて疑わぬ凄い刑事がいると聞いております」
「ほぉ、そんな噂が飛び交ってるのか。言っとくが、俺様マジで不死身だかんなぁ」
「まぁ、相当無茶をなさる方だとも伺っております」
 苦笑する岸下は飛田の腕を軽く掴み妙典と真壁に言った。
「ご苦労様です。身柄確保及び補導手続きは本署の方でやらせて頂きます」
「明日には出れるんだろ? こいつ」
「まぁ、軽く事情を聞くだけですから」
 了解とばかりに頷いた妙典だったが、何かに気付き自殺志望者だった男に詰め寄った。
「おいっ! 飛田! …灰皿どうした?」
 面食らった飛田は叫んだ。
「あぁ、いっけねぇ! …欄干の上に置きっぱなしだぁ!」
「おめぇ、何やってんだよ! 馬鹿野郎っ!!」
「それどころじゃなかったんだよ、刑事さん」
「…まぁ、いいや。あれは俺様とお前だけの記念品てことにしてやるよ…」
 呆れ果てた妙典はさっさと行けと合図をした。飛田は岸下に連行され、振り向き叫んだ。
「刑事さん、ありがとう。今度こそしっかり生き抜いてみせるよ」
「兄ちゃん、仕事に困ったらウチに来な。最近親父も足腰弱っちまって配送大変なんだ。待ち人来たるだからな!」
 石井が妙な日本語を投げかけた。ありがとうございます、と飛田は一礼しパトカーに乗り込んだ。その様を見届けた妙典は傍らに立つ御成門署の制服に一言告げる。
「すまねぇが、お宅らもうちょい待機してもらっていいか? …段ボール片付けなきゃならねぇ」
刑事 警察 アクション サスペンス ロック ハードロック ヘビーメタル ガンダム ガンダム台詞 カレー 音楽 バディ 会話 台詞 セリフ 警視庁 捜査一課 13係 コンビ ウィット ユーモア コメディ お笑い 掛け合い コミカル 現代 完結


+注意+
・特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
・特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)
・作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。