・第一話 初めての植物
「はい、これ、誕生日プレゼント」
そういって早苗ちゃんが差し出したのは、ピンクのリボンが掛かった白い箱だった。透明な部分から中が覗け、植木鉢に入ったテニスボール大の緑色のものが見える。
仙人掌? 初めて家族以外からもらう誕生日プレゼントが、仙人掌……。
「気に入らなかった? やっぱりポーチとかがよかった? この前遊びに来たとき、うちの仙人掌を長い間見てたからさ、欲しいのかなぁって思って……。お母さんと一緒に植えかえてラッピングしたんだけど……。ダメだった?」
早苗ちゃんはためらいながらも早口で言った。左手の甲を爪でひっかいている。これは早苗ちゃんが不安な時の癖だ。
仙人掌を気に入らなかったかだって? とんでもない。私は嬉しさのあまり言葉が出ないって、状態だったのだ。だから私は、硬い顔で見つめてくる早苗ちゃんに満面の笑みをつけて言った。
「めっちゃ嬉しい! ありがとう!」
早苗ちゃんは途端に表情を崩した。心底ほっとしたようだ。
「よかったぁ……。私、ちょっと唐突なことしちゃったかなぁって、心配してたんだぁ……。杏里ちゃんが仙人掌欲しそうに見えたのは、私の勘違いだったのかな、ってね。実はお母さんにも、もっと普通のにしなさいって言われてたし……。でもね、私、杏里ちゃんには一番それを渡したかったの。それ、私が去年、最後におばあさんに会った時にもらった、大切な仙人掌うちの一個だからさ」
「そうなんだぁ。そんな大切なの、もらっていいの? 私は嬉しいけどさ……」
「全然いいの! 杏里ちゃんは私の親友だからさ。……親友の証!」
ここで早苗ちゃんは一呼吸置くと、大事にしてね? と小さく付け加える。
「もちろん! 一番日当たりがいいとこに置くよ! ほんとにありがとう!」
私が右手の親指を立てながら言葉を返すと、早苗ちゃんは笑い、じゃあ、明日ね、と手を振って自宅に帰っていった。私も、背後にある玄関を開けて家に入る。そして、扉をぴっちりと閉め、鍵をかけてから、仙人掌の包装を解き始めた。ラメ入りの綺麗なリボンを解き、箱の蓋を開けると、そこにはツヤツヤと緑色の仙人掌があった。小さくて無数にある棘は黒く、ツンツンと尖っていて、緑を引き立てより美しく見せている。
――私の初めての植物だ。学校での朝顔みたいに、みんなで一緒にするやつじゃなく、私の為に選ばれた初めての植物だ。
私は暫らくその美しさに見惚れた後、靴を脱ぎ捨て、母に仙人掌を見せに走った。
母は二階にあるベランダで布団を干していた。私は母の作業が終わるのを待ち、母がベランダへの網戸を閉めたところで、仙人掌を背中に隠して話しかけた。
「ねぇお母さん。私、誕生日プレゼントに早苗ちゃんから何もらったと思う?」
「さぁ? ハンカチとか、お菓子?」
「ブー! ほら、仙人掌もらったんだよ〜」
ばっと仙人掌を母の目の前に突き出し、私は言った。だが、母はチラリと仙人掌に目を向けると、そう、よかったわね、としか言ってくれなかった。私は素っ気無さにがっかりする。もっと嬉しがってくれると思ってたのにと。が、私の様子など気にせず去って行く母の背中を見て、すぐさま思いなおした。まぁ、いっか。私の誕生日プレゼントだし……、とね。
さて、母へのお披露目も一応終わったことだし、と、私はリビングにある裏口から庭へ出る。今日は日曜日なので、父が趣味の洗車をしていた。父が飛び散らす水で空に小さな虹ができているのが見える。
我が家の南西の角を右に曲がると、家の西面に沿って、花の植わったプランターが並んでいるはずだ。しかし、久しぶりに見た五、六個のプランターは、花の割合より雑草のそれが多いくらいの荒れ放題な状態だった。母のいい加減な花の世話に溜息をついて、私は家の壁の南の隅に立っている、支柱に枯れた蔦が撒きついた紫色の小さなプランターをどけ、そこに仙人掌を置いた。
その場所は、西、東、南の三方向から日光の当たる、我が家で一番日当たりのいい場所である。仙人掌の黄色い植木鉢を覗くと、雑草はまったく生えていない。砂よりちょっと大粒な白っぽい土と仙人掌だけが見える。私の目には、この仙人掌がうちにある植物の中で一番輝いているように見えた。それはきっと雑草に埋もれていないというだけの理由ではないのだろう。
今日は天気がいい……。仙人掌に影を落とさないよう、少し左に寄る。空を見上げると、さっき母が干していた薄い夏用の布団の端が、熱気を含んだ風に揺れていた。
その日の晩は、家族四人で直径十五センチの小さなホールケーキを囲み、私の七度目の誕生日を祝った。店売りのケーキには、
『七月十四日
杏里ちゃんおたんじょうびおめでとう! 』
と、書かれていた。
ケーキの蝋燭を吹き消した後に両親から渡されたプレゼントは、私が発売当初から欲しがっていた「ニンゼンドーDSlite」と、お母さんの希望であろう、漢字練習用のソフトだった。二万円近くするプレゼントだったけど、順番が悪かった。はい、と儀式の一環のように渡されたそれは、高いお金を出してくれた両親には悪いけれど、早苗ちゃんがくれた仙人掌の嬉しさに勝てなかった。
・第二話 オレンジジュース
次の日から、私の日課は仙人掌の世話になった。登校前に軽く水をやる。そして帰宅後、夏の焼け付くような日差しで乾いた喉を、冷蔵庫から取り出した、心地よい温度に冷えているオレンジジュースで潤したら、仙人掌にも水分補給の時間だ。たっぷりと、愛情を込めて水をやる。そしてもし雑草が生えてきていたら、割り箸を使って抜いてやる。箸使いが下手な私がそうすることは難しかったけれど、箸を使わないと仙人掌の針が手に刺さって痛い思いをすることになる。初めて刺さった時には、その痛さに思わずいたっ、と声が出てしまった程だ。不思議なのは、刺されてすぐに、絶対血が出たと思って手を見ても、しばらく痛みの余韻を感じるだけでなんともないことだ。
そういえば、プレゼントをもらった翌日に学校で早苗ちゃんが、終業式の放課後杏里ちゃんの家へ遊びに行っていい? と聞いてきた。私の家で遊びたいというのは珍しい。いつも私達は、早苗ちゃんの家でゲームをして遊ぶ。不思議に思って理由を聞くと、仙人掌の様子をみたいからだと言う。私が、あいつ愛されてるな、と内心苦笑しながら二つ返事でOKすると、早苗ちゃんは嬉しそうにある知識をくれた。
早苗ちゃん曰く、植物は話しかけてやると大きく成長するそうだ。だから私は、毎日二回目の水遣りの後に十分ぐらい、仙人掌にその日の学校での出来事を聞かせてやることにした。もちろん仙人掌はうなずいたりしないけれど、その時間、私には仙人掌が真摯に耳を傾けてくれている気がした。
誕生日から四日後の夜、お風呂からあがり大好物のオレンジジュースを一口飲んでいる時に、私はある事を閃いた。明日、仙人掌にオレンジジュースをあげよう。
私の家で、オレンジジュースは、私の好物にもかかわらず、二週間に一度ぐらいしか買ってもらえない。昔、母に理由を聞くと、私の好きな百パーセントのそれは高いからだというようなことを言われた。値段が普段は一リットルで二百円以上するので、母は百五十円くらいになったときにしか買わないのだと――。
値段を聞いたとき、私は予想外の高額に驚いた。一本百円ぐらいだと思っていたからだ。で、毎日イッパイ飲みたかったけど、母の説明に納得し、一日二口で我慢することにしたのだ。
私の大切な仙人掌だもの。私は明日の分を麦茶で我慢して、仙人掌にあげよう。そう心に誓って、その日は眠りについた。
翌日、学校から帰った私は、手も洗わずに冷蔵庫へと向かった。一刻も早く仙人掌にジュースをあげたい、きっと喉がカラカラになっているだろう……。仙人掌が喜んで急成長する様を思い浮かべ、私は一人ニコニコする。
リビングでコーヒーを飲みながらテレビを見ていた母が、リビングのドアを開けた時におかえりと言ったけど、私は無視した。母は返事ぐらいしなさい、と言って目をテレビに戻す。毎日母はこの時間、録画したケーブルテレビのドラマを見ている。スペイン語で話しているドラマで画面の下部に字幕が出る。私は聞くたびに、スペイン語ってどうして怒っているように聞こえるんだろう、と思う。普通の会話ですらだ。母は聞いていて疲れないのだろうか?
冷蔵庫にたどり着いた私は取っ手を掴み、両開きのドアを左右同時にガバッと開ける。オレンジジュースはいつもの定位置、左側のドアポケットに入っていた。私はひんやりする紙パックを掴みだし、ドアを振り返り様に閉めてから来た道を引き返す。そして母の後ろを通り、裏口のドアに手をかけた。すると、
「杏里! あんたジュース持ってどこいくん!?」
と、母に呼び止められた。
先程返事をしなかったせいだろうか、少し怒っているようだ。私は、私を待っている仙人掌の元へ早く行きたかったが、母が本気で怒りだすと怖いので、とりあえずドアノブにかけていた手を下ろし、母の方を向いて返事をすることにした。
「ちょっと、仙人掌にジュースをあげようと思って」
私は正直に答えた。仙人掌にジュースをあげることは、別に隠さなきゃいけないことじゃないし、寧ろ、誉められるべきことだと思ったからだ。他者と物を共有しなさいって、いつも母は言っているのだから……。以前、弟に私の分のオレンジジュースを分けてあげたとき、母はえらいわね、と誉めてくれたのだから……。
そのため、次に母が取った行動は、私にとって意外なものだった。ドラマを止め、私の方へと歩み寄り、ジュースのパックを取り上げたのである。
「え?」
私は思わず呟く。そして無意識に取られたジュースを取り替えそうと手を伸ばした。
パシッ!
乾いた小さな音が聞こえた。母が、私がジュースへと伸ばした右手を叩いたのである。呆然と手の甲を見つめる私を残して、母はスタスタと冷蔵庫へ行き、ジュースを元の位置へ戻した。
冷蔵庫の閉まるパタンという音で、私は状況に気付く。そして声を上げる。
「ちょ、何すんの! 私のジュース返してよ! それになんで手ぇ叩いたん!」
私は母に軽い怒りを感じていた。叩かれた手は別に痛くなかったけれど、意味の分からない行動をされては当たり前に腹が立つ。
「何って? ジュースなおしたのよ。あんたが妙なことするつもりだったみたいだから」
母は当然のことをしたとばかりに軽く言った。私はますますワケが分からないので、続けて尋ねる。
「妙なことって? 私はただ、仙人掌にジュースをあげよ――」
「それ!」
母が強い語調で言う。続けて、口調が甘ったるく丁寧なものになった。私をバカにするときに、母はよくそのような口調を使う為、私は反射的に身構える。
「杏里ちゃん、貴方、仙人掌にジュースをあげようとしたのよねぇ。貴方の大好きな百パーセントのオレンジジュース……。ママもこれ、おいしいから結構好きよ」
母はそこで一呼吸おき、どうやったらこのバカな子に説明してやれるかしら、とでもいうような目で私を眺める。
私は今回何も悪いことはしてない! 心の中でこっそりと母の態度に抗議する。だが、口にだすようなことはしない。というかできないし、しても無駄だ。どうせ、母に口で勝てるわけはないのだから……。
私の握り締めた拳を見つめた後、母の目が私の目を捉える。目じりが微妙に下がっていた。絶対に私が困惑しているのを楽しんでいる……、と思ったが、それでも私は黙って母の言葉を待った。
「杏里ちゃん……」
さっきとは打って変わって、母は悲しそうな声を出す。
「貴方、さっき友達から貰った大事な仙人掌を枯らそうとしていたのよ。私が止めてやらなければ、仙人掌は枯れていたかもしれないわ。オレンジジュースなんて、仙人掌に悪いに決まってるじゃない。どうしてそんなことしようとしたの? ねぇ、どうして? ……まさか、そんなこと、考えもしなかったワケじゃないでしょうね?」
母は言い終わると、私の表情の変化に満足そうな表情を浮かべ、さっき座っていた座布団に戻ってドラマを続き再生させた。
私、仙人掌をもう少しで枯らすところだった? 私の頭の中で母の言葉が何度も繰り返される……。
(貴方、さっき友達から貰った大事な仙人掌を枯らそうとしていたのよ)
私は床へ座りこんだ。母の言葉が繰り返されるにつれ、仙人掌への罪悪感が、私の胸の中でフツフツと湧き出してくる……。
――ソ、ウ〜ヨ! アナ、タ〜ハ! カラソートシタノ〜ヨッ!!
ふいに聞きなれない声が耳に入り、私はびっくりして顔を上げ、キョロキョロと周りを見渡した。だが、聞こえるのはテレビの音声だけで、母が口を開いた様子はない。空耳だろうか? でも、確かに聞こえたような……。
数秒後、声の主に見当がつき、私は驚愕し、背筋が寒くなった。……アイツに違いない。毎日、あんなによくしてやったのに……。
私は裏切られたような気持ちになり、リビングを飛び出すと、二階にある自分の部屋へ全速力で向かった。階段を駆け上がっていると、恐ろしいような気持ちにもなって、目が潤んでくる。
「違う!!」
自室に入るとすぐに、私は涙ながらに叫んだ。
「違う、チガウ、ちがっ、う……」
ベッドによじ登り、布団に潜り込む。
(アナ、タ〜ハ! カラソートシタノ〜ヨッ!!)
さっきの声が頭の中で反芻される。
「ちがっ、私は、ただっ……。ただ……」
言い訳をしようと言葉を紡ごうとするが、喉に物がつっかえでもしたように、私はそれ以上声を出せなかった。
・第三話 熱
「もうすぐ御飯よ、起きなさい! 何回呼ばせるつもり?」
ガバッ。母が布団を引っぺがし去っていく。
御飯……?
時計を見ると、七時六分前だった。もう朝になってしまったのだろうか? なんだか瞼が腫れぼったく、熱を持っているみたいだ。それに……頭がボンヤリする……。そういえば、寝ている間に夢を見たっけ。怖いような、可笑しいような、不思議な夢だった。しばらく会ってない母方の祖母に、黄色い土管をけしかけられた。その土管はペンキ塗りたてで、そいつに伸し掛かられた私は、全身がベトベトになったのだ。
私、寝る前って何をしてたっけ……? ベッドの上に座り込み、しばらくボーッとしていると、母が私の部屋に戻ってきた。
「朝?」
私の口からはガラガラ声が出た。そういえば喉がカラカラだ。声を出そうとするとヒリヒリと痛む。母は静かに私の顔を覗き込み、額に手を当ててきた。
「今はまだ夜よ。杏里ちゃん大丈夫? 熱とかない?」
いつもなら寝起きの悪い私に二度目の怒鳴り声が飛んでくるところだったのに、母は優しかった。何故だろう?
「熱……あるみたいだね。ちょっと待ってくれれば御粥作ってあげるよ? いる?」
私はとりあえず頷いた。人の好意には甘えろ、だ。それに、御粥は私の好きなメニューだし、確かに熱っぽい気がする。母は私の返事を聞き、台所へと、階段を下りていった。
今が夜ってことは、私、四時間近く寝てたのか……。お母さん、よく起こさなかったな。私はベッドから降り、伸びをする。ピキッと私の体が鳴り、少しくらっとした。歩こうと足を踏み出したら、ふらついて転びそうになった。
寝起きってバランス感覚狂ってるよな。それに体がダルい……。
頭がはっきりするまで待ってから、ゆっくりとドアへ移動し、手すりを持ちながら、慎重に階段を降りる。板が軋んで音をたてた。無事台所へ着くと、私は冷蔵庫から麦茶を取り出した。
「もう降りてきたの」
言いながら母がコップを差し出す。私専用の、普通サイズより小さい、赤のチェック柄のコップだ。これじゃないと、まだ手の小さな私には扱いづらい。
トクトクと、重いペットボトルを傾け麦茶を注ぎ、すぐさま飲み干す。二杯目も注ぎ、又飲み干す。そこでやっと喉の乾きが癒えた気がした。
「お茶、出したままでいいわよ。後十分もしたら御飯だから」
母が卵焼きを焼きながら言った。私の鼻を卵の焼けるおいしそうな臭いがくすぐる。お腹がグ〜ッと鳴った。
「もうすぐだから、席に座って待ってなさい。できるんなら皆の分のお茶を注いどいて」
お腹の音が聞こえてしまったのか、母は少し笑いながら言った。私は言われたとおり、三つのコップと私のコップ、計四つのコップにお茶を注いだ。ペットボトルは大分軽くなった。母がすでに並べていた料理が食卓に乗っている。今日の晩御飯はハンバーグだったようだ。皿に目玉焼きと野菜が乗せてある。
「悠く〜ん、パパ〜、御飯できたわよ〜」
ハンバーグを皿に盛り付けた後、母は階段へ通じるドアを開け、二階に向かって大声で家族を呼んだ。私をお風呂に呼ぶ時も、下に忘れ物をした時も、とにかく色々な時に母は同じように叫ぶ。実は内線電話があるのだが、母はめったに使わない。母の声は近所の人にも聞こえてるんじゃないだろうか? 私はそれを少し、恥ずかしく思ったりもする。だがもちろん母にやめて欲しいとは言ったことはない。そんなことをすれば怒られるに決まっているからだ。
私の今日の晩御飯は土鍋の御粥、卵焼き、ちりめんジャコに、瓶詰めのそぼろ鮭だ。階段を下りてくる音が二組聞こえ、私の左後方にあるドアが開く。父と弟が降りてきたのだ。
四人で食卓につけば、御飯の開始だ。いただきますはいつも言わない。皆が席につく、それが合図なのだ。母の作った御粥は、あいかわらずおいしかった。
御飯を食べた私はお風呂いはいる前に熱を測らされた。三十七度八分とバッチリ熱があったので、その日、私はお風呂に入れず、すぐに自室に行かされた。
三十分後ぐらいに、部屋に電気が付き、私は一度、うっすらと目を開けた。少し眠っていた私に母が氷枕と冷えピタ、麦茶の入ったペットボトルを持ってきてくれたのだった。頭が持ち上げられ、枕が氷枕に取り替えられる。そして母の手によって、髪をかき上げられ、おでこに冷えピタが貼られた。それを済ますと、母は部屋の電気を元に戻し去っていった。
熱い頭がヒンヤリとして気持ちいい。この三十分程の間に外では雨が降り出したようで、私は窓の向こうからのザーッという雨音を聞きながら、再び眠りについた。
翌日は正午過ぎに目が覚めた。正確に言えば母が意識せずに起こしたのだ。私の目覚ましとなったのは、母の、お昼〜〜という声だった。
その声で時刻が昼であると知った私は、のそのそとベッドから降りた。トイレに行きたいし、何かを飲み食いする必要があったからだ。
歩き疲れた人のように重い足取りで、半目のまま部屋から出ると、ちょうど、御飯に向かう為に遊具の置いてある部屋から出てきた弟と、ぶつかりそうになった。
「わぁ! お姉ちゃんやっと起きたんだ。ちゃんと歩かないと転ぶよ? 僕の上に倒れてこないでね」
五歳の弟は、そう言うと一人でスタスタと階段を下りて行った。
私も続いて降りる。トイレを済ましダイニングキッチンへ行くと、母が起きたの、何食べる? と聞いてきた。自分で起こしとして……、と私は不機嫌な表情を浮かべるが、母は意に介さなかったようだ。
まだ体がダルかったので、朝御飯兼昼御飯を軽く食べた後、私は又寝ることにした。熱を測ってみると微熱があったので、母もそれを了承する。
結局、元気になったのは夕方だ。私はまずお風呂に入った。約二日ぶりのお風呂に、体の汚れ、疲れがとれ、心が和んだ。私は体調が崩れると毎回髪がベタベタになるから、髪を洗うのが特に気持ちよかった。
お風呂から上がると、ちょうど御飯の時間になっていた。どうやら長湯をしてしまったらしい。夕食後、大好きなテレビアニメを見てから、私は自室へ行った。
あと一日で夏休み……つまり、明日は終業式だ。後は成績表を貰えば終わり。そう思うと気が楽だった。私は学校が嫌いだけど、平均以上の成績をとっている限り、両親は何も言わない。
成績に関して、私の両親はあんまり厳しくないな。寝る前に明日の用意をしながら、ふと思う。
その日は寝てばかりになった。
・第四話 終業式
「あ〜ん〜り〜ちゃぁ〜〜ん!!」
寝坊した私が慌てて歯を磨いていると、早苗ちゃんが迎えにきた。早苗ちゃんはいつもインターホンを鳴らさない。十回目ぐらいに、何で? と尋ねたら、電気代の節約だ、と言われた。母は私からそれを聞き、面白い子ねと、さして面白くもなさそうに言ったものだ。
急いで口をゆすぎ、ランドセルを持って玄関へ行く。そして、母のいってらっしゃいの声に見送られ、私は一学期最後の学校へと向かった。
徒歩十分の学校への道中、私達はいつもおしゃべりをして過ごす。セミの五月蝿い声が暑さを倍増させる中、月曜日である今日の話題は、毎週のごとく昨日のアニメだった。主人公が双子の魔法戦士であるこのアニメは、男女を問わず、小学校低学年を中心に大人気だった。
「あんなとこで終わるんだもん。続きがめっちゃ気になるよねー。 ザク、どうなっちゃうんだろう?」
「そこはやっぱり、アイラが助けにくるんだよ。弟をほっとくわけないじゃない」
早苗ちゃんに向かって私は自分の予想を話す。
「でも、二人は今喧嘩中だよ。ザクが一人で乗り込んで行ったって、知らないんじゃない?」
切り替えされて、私は言葉に詰まる。二人が喧嘩中なのを忘れていたのだ。
「どっちにしろ、次回が楽しみだよねー。あっ、校門のところに佐藤先生が立ってるよ。そこまで競争しよう? よ〜い、ドン!」
早苗ちゃんに追求されたくなくて、私は話を終わらせて駆け出す。後ろから早苗ちゃんが、待ってよう、と言って追いかけてきた。
「はいっ! それでは、体調に気をつけて、楽しい夏休みを過ごしてね。宿題もちゃんとするのよ。じゃあ、かいさ〜ん!」
佐藤先生の言葉で皆が一斉に席を立ち、教室はにわかにうるさくなる。
「か〜え〜ろっ!」
廊下にでると、早苗ちゃんが待っていた。私のクラスが、一番終わるのが遅かったようだ。二人で靴箱へ向かう。
「今日、杏里ちゃん家でお昼食べる約束だったけど、時間決めるの忘れてたよね? 帰ってすぐに行ってもいい?」
靴を履き替え、校門に向かって歩き出すとすぐ、早苗ちゃんが言った。
私は約束を思い出し、しまった、と思う。寝込んでしまうなどと忙しくて、約束なんてすっかり忘れていたのだ。確か早苗ちゃんは、仙人掌を見たいって言ってたっけ。ここ二、三日、仙人掌の様子を見てないや。一昨日の晩に雨が降ったから水は大丈夫だろーけど、雑草が生えてきてるかも……。ちょっとマズイなぁ……。それに、お母さんに御飯のこと、言ったっけ……?
「ねぇ、帰ってすぐに行ってもいい?」
私の返事が遅いので、早苗ちゃんはもう一度聞いてきた。
「え〜っと……。二十分後ぐらいでもいい? 私……、そう、ちょっとしなきゃいけないことがあるの」
「いいよぉ、分かった。じゃあ、家に帰って二十分後に行くね」
私はほっとした。二十分あればなんとかなるだろう。
その後の帰り道、私は聞き役になった。うん、へー、と適当に相槌を打ちながら、頭の中で帰宅後のシュミレーションをする。まずお母さんに御飯のこと確認して、仙人掌を見に行って、水をやって、雑草を抜いて……。
「じゃぁ、バイバイ」
「うん……ってあっ、バイバイ!」
私は慌てて手を振り返す。いつの間にか、家の前に着いていた。急いで玄関扉を開けて家に入り、靴を脱ぎ捨てる。ダイニングキッチンを覗くと、昼御飯を作る母の背中が見えた。
「お母さん、ただいまー」
「ああ、お帰りなさい。今日は早苗ちゃんが来るんでしょ? あの子、嫌いなものなかったわよね?」
言おうとしたことを尋ねられ、私はびっくりした。
「ないけど……。私、もう言ってたんだ。よかったぁ〜。ねぇお母さん、今日のお昼御飯はなぁ〜に?」
「オムライス。とりあえずチキンライスだけ作ってるのよ。卵で包むときに温めればいいでしょ。で、早苗ちゃんいつ来るって? 」
「今から約二十分後だって。私、仙人掌の様子見てくるからね」
そう言って、私はリビングのソファにランドセルを放り投げ、庭へ出る。ドアの正面に植わっている金木犀にセミがとまっているようで、センセンセンという鳴き声が五月蝿い。私はセミが嫌いだ。少し前まではセミの一生は短いのだから我慢しよう、と思っていたけど、最近佐藤先生が理科の時間にしてくれた話では、六年から十五年、土の中で過ごしているというではないか。土の中で鳴いて欲しい。そうしたらきっと、今よりは静かだろうから。
間近でのセミの声に耳を抑えながら、私は仙人掌の傍へと向かう。
その姿がはっきりと捉えられる位置に来たとき、私は仙人掌の異変に気づいた。……おかしい。黄色い植木鉢の中には、瑞々しい緑色ではなく、カラカラに乾いたような、くすんだ黄緑色のものが見える。
私は焦って植木鉢へ駆け寄り、思わず中のものに手を伸ばす。私の手が触れると……それは動いた。雑草を抜いてあげる時に、私の指をさした棘はふにゃりとして、ちっとも痛くなくなっていた。私は呆然としながら黄ばんだ表皮を掴んでみる。と、簡単に持ち上がり、異常な程軽い。おそるおそる中を覗くと……スカスカになっていた。つまり、仙人掌の内側がなくなっていたのだ!
私は愕然としながら考えた。何で? どうして?
二日前に雨が降ったのだから、水不足で枯れるわけがない。じゃあ、何故?
自分では分からない為、母に聞いてみることにした私は、仙人掌の成れの果てを右手にぶら下げ、キッチンへと向かう。周りから聞こえるセンセンという音も、もう気にならなった。
キッチンにいた母は私が泣きながら向かってくるのを見て、料理をしていた手を止め、軽くため息をついてから私と目線を合わせる為に膝立ちになった。そして悲哀のこもったような目で私を見つめる。どうやら、仙人掌が枯れた理由を知っているようだ。
「サっ……っボテンがっ……」
私は鼻水を啜り、双眸から溢れてくる涙を拭きながら、震える声を出した。
「杏里ちゃんの仙人掌……ね。昨日、パパが洗車中に車用洗剤をかけちゃったみたいで、ママが今日の九時ごろに見たときには、もうそんなんになっちゃってたの……」
母は私の頭を撫でながら、一応すまなさそうに言葉を濁す。私は大きくしゃっくりをした。
「パパに知らせたら、帰りに新しいヤツ買って来てくれるって。大きくて立派なヤツだそうよ。それに、杏里ちゃんが大好きなモンブランも……。ね? パパのこと許してあげるよね?」
私は言葉を返さず、下を見つめていた。涙がポタポタと絨毯に染みをつくる。
このとき私の胸の中には、悲しみと怒りと寂しさが同居していた。仙人掌が枯れた悲しみ、父の言動に対しての怒り、そして私と両親の価値観の違いによる寂しさだ。私の大切な仙人掌をすぐに代えがきくように言われたことで、思いいれの差を感じ、寂しかった……。
「あ〜ん〜り〜ちゃぁ〜〜ん!!」
暫し訪れた沈黙を破ったのは、なんとものん気な声であった。
私はビクッと身を強張らせると、右手に掴んだものへと視線を走らせ軽くパニックに陥った。早苗ちゃんにどう説明しよう?
「はぁ〜い、ちょっと待ってねー!」
母はその声に明るく答え、玄関へと駆けて行った。さっきまでの暗めな顔をすばやく引っ込めて。
母が私の脇を通り抜けたとき、私はあることを思い出した。そして弾かれたように冷蔵庫に向かい、中からひんやりとした紙パックを取り出すと、中身を右手に持っていたものにぶちまけた。
半分ほど入っていた液体が私の手と、成れの果て、絨毯をオレンジ色に染める。
私は何やら満たされた気持ちになり、うっすらと微笑んだ。
【了】 |