甘いローソク
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ではどうぞ、お楽しみ……いただけるといいなあ^^;
……さん。つか……さん
なんだ?
塚原さん
「う……ぐっ!?」
塚原は、自分を呼ぶ声に目を覚ました。とたんに、己の左足を襲う激痛に、うめき声を上げる。
「つかさんっ。お願いや。しっかりしてくれ」
聞き覚えのある声が、名を呼ぶ。悲鳴にも似たその声が、がんがんと頭を揺さぶる。
「つか……さ……あああああ!」
だれだっ!
そう声を上げようと息を大きく吸い込んだとたん、いがいがとした何かが咽喉を削り、酷くむせる。だが、そのおかげで、少し頭がはっきりとしてきた。
そうだ。坑道での作業が終わり、疲れきった身体を励まして、地上へ上がろうと片付けていたとき――
咳き込む勢いで体が揺れる。左足を引きちぎれるのではないかという痛みが襲い、ごどんという音とともに、わずかに楽になる。
――不気味な地鳴りのあと、サイレンが鳴り響き、何が起きたのか理解する暇もなく、意識を失ったんだ。
「つかさ……ん」
ごうごうとした耳鳴り以外は、しんと静まり返った中、何かを引っかくような音が、こりこりと聞こえる。そして、掠れて絶え絶えの声。
「関谷!?」
塵埃にまみれて痛む目を無理やり開き、その声の主の名を呼ぶ。幸運にも消えずにすんだランタンの明かりが、黒い坑道を橙に染める。だが、唯一の希望であるその明かりが、塚原の心に絶望の影を落とした。
もう、この場所は、坑道とはいえなかった。落盤によって崩れ落ちた岩盤の隙間。それ以外の何物でもない。
「くそったれ」
塚原はそう毒づいて、悲鳴を上げる身体を無理やり引き起こす。体のあちこちが痛い。特に酷い痛みは、左足からやってくる。しかし、それを無視して、ランタンにいざりよる。ほやがひび割れ欠けただけのそれを手に取り、あたりを照らす。
大小の岩が積み重なったその下に、うつぶせになったまま地面に爪を立てた男の姿が浮かんだ。安全帽が転がり、その横に、見覚えのある鉢の開いた坊主頭。
「関谷っ!!」
痛む足を可能な限り無視して、男のそばに寄る。そっと肩をゆすると、ごろりと頭が転がって、わずかに持ち上がった。
「塚さん……」
「おい、大丈夫か?」
黒い何かで顔を汚した関谷の顔が、泣き笑いの表情に歪む。まだこの鉱山に来てから日の浅いこの男は、面倒見のよい塚原を慕ってよく懐いていた。しかしその人懐っこい顔は、もう、見る影もない。
「しっかりしろ。今出してやる」
「う、うん。頼んます……」
ランタンを関谷の頭上において、下半身を隠す岩に手を伸ばす。すぐに、塚原の顔が歪んだ。破れた作業ズボンの膝から下が、ふた抱えはあろうかという大きな岩の下にもぐりこんでいた。
「くそっ……待ってろ」
最前まで天井を支えていた役立たずの木材をてこ代わりに、それでも岩を動かそうとする。まずは、足の上の岩を、さらに押さえる岩。
「ぐ……」
肩が折れようかというほど力を込める。少し岩が浮き、その奥にランタンの明かりが差し込んで……
「ひぃっ」
塚原は木材を放り捨てると、這うようにそこから逃げ出した。そして、激しく嘔吐する。
昼に握り飯と沢庵を入れただけの胃袋には、すでに戻す物は何もない。しかし、空嘔吐きは止まらない。
「塚さん。どうしたんや」
悲鳴にも似た泣き声で、関谷が問う。しかし塚原はそれに答えることができない。
岩の奥にあったもの。
顎から後頭部にかけてを押しつぶされた、男の顔。見覚えのあるセルの眼鏡の向こう側に、飛び出て、零れ落ちかけた眼球。班長でもあり、先輩でもあり、塚原の友人でもあった滝本の、変わり果てた姿。
関谷の泣き声が響く中、塚原は苦い胆汁までもすべて吐き続けた。
「塚さん。わいら、死ぬるんかな……」
「何を言ってるんだ。大丈夫。絶対に助けが来る」
弱気になる関谷を励ましながら、塚原自身、それが気休めでしかないことに気づいていた。
燈油を節約するため、ぎりぎりまで芯を下げたランタンの火は、ほやが割れているにもかかわらず、揺らぎもしない。まったく空気が動いていないのだ。地上まで一キロ近く。どれくらいの坑道が埋まってしまっているのだろうか。
「関谷。咽喉は渇かんか?」
「うん、渇いた。水が欲しい」
「待っとれ」
塚原は、腰に下げた水筒を手に取った。アルミのそれは歪にへしゃげているものの、チャポチャポという音をわずかに聞かせてくれる。うつぶせのまま動けない関谷の顔を、できるだけ横に向けさせ、水筒の口をくわえさせる。こぼれないように慎重に水筒を傾け……
ごほっ、ぐほっ。
咳き込んだ口から、水をほとんど吐き出し、ぐうといううなり声を上げながら、身体を痙攣させる。
「おい、しっかりしろ」
ひゅうひゅうという呼吸の音が、ごろごろと収まるまで、背中をさすってやる。冷や汗でじっとりと作業着は、それでも熱を持っていた。だがそれは、塚原も変わらない。
脈が撃つたびにぶり返す左足の痛みは、今は股のあたりまで上がってきている。その代わり、作業着の袖を破った布で縛った膝から下は、もう何の感覚もない。少し力を抜くとがちがちという音を響かせる歯は、決して恐怖だけのためではない。骨の髄を凍らせるような寒気が、少し汗ばむような坑道の瓦礫の下で、塚原の身体を震わせているのだ。
「塚さん。わいな」
ようやく落ち着いた息を呑み込み、関谷が口を開いた。
「今日、誕生日なんや」
「そうか。上に出たら、誕生祝をしないとな。敬ちゃんの店でおごってやる」
行きつけの飲み屋の名を言う。関谷がそこの敬子に惚れているのは、この班の人間はみんな知っていた。だけどその名にはまったく興味を示さずに、関谷は話を続ける。
「わいな、バースデーケーキいうんを食うたことないんや」
「そうか。じゃあ、それも買ってやる」
「うっとこは、おとんがおらんかったし、おかん一人で、わいと妹と爺ぃの世話をせならんかったから、ケーキなんか、よう買わんかった」
「貧乏なんか、どこも一緒だ」
「うん。でもな……」
関谷の痩せて強張っていた顔が、ふと、緩んだ。頭から流れた血で黒く汚れているにもかかわらず、まるで子供のような表情を浮かべる。
「一回だけ、わい、駄々こねたことがあってん。武やん、わいと誕生日、一週間しか変わらんねん。武やんの家、おとんが商社づとめで金もっとったから、次の日ガッコで、自慢すんねん。バタァクリームがようさんのったケーキにローソク十本立てて、それふーって吹き消して。それがわい悔しゅーて」
「関……」
頬をじっとりと湿った岩肌に押し付けたまま、関谷は喋り続けた。たぶん、誰に話しているのか、この男にはもうわかっていない。普段はからかわれるのを恐れて、無理やり隠している関西弁が、いつもの無口な性格が嘘のように流れ出る。
「ほんで、おかんにケーキ買うてくれいうて。おかん、えらい困った顔してな、わいも、うちに余分なゼニ一銭もないの知っとったから、やっぱりええいうて、すぐ言うたんやけど……」
「買ってくれたのか?」
「ちゃうねん。作ってくれたんや。笑うでぇ」
実際にくつくつと笑いながら、関谷は目を開いた。ほとんど下を向いたまま、横目で見上げる。その目を見て、塚原はいっそう震えた。
「メリケン粉にな、砂糖混ぜてな。膨らし粉入れてな。いちごなんか買えんさかい、爺ぃのお八つの甘納豆混ぜてな。蒸しケーキや言うて。ばあちゃんの仏壇のローソク立ててな」
体が揺れるくらいに、笑う。膝と岩の際がきしきしと音を立てる。それなのに、関谷の夢を見るような表情は変わらない。
「ビンボくそうて、ほんま、嫌でいやでたまらんかったけど……そうやろ? そんなん、ガッコで自慢できひんやんか。でもな……」
関谷が、目をしばたいた。暗いランタンの明かりが、目の端で煌めいた。それがゆっくりと鼻を伝い、地面にぽたりと落ちる。
「ほんまに甘うてな、うもうてな、サチと半分やいうて言われてんのに、競争して食べてから、ローソクに火ぃ着けんの忘れとんのに気ぃついて」
完全に下を向いた関谷は、硬い地面に鼻面をこすりつけながら、ぐうぅと咽び泣いた。
「もういっぺんでええ。おかんのケーキ食いたい……」
関谷の爪が、硬い地面をかきむしる。こりこりという音が、狭い空間に反響する。
こりこり。こりこり。
爪が剥がれて、それが湿った音に変わっても、そうすることで、そのころに戻れるかのように。
「関、待っとけ。今食わせてやる」
「……え?」
突然の塚原の言葉に、音が止まった。
塚原は、ランタンの火を大きくした。その明かりで、狭く入り組んだ隙間の隅々を照らす。あった。岩に押しつぶされて壊れた木箱。四つんばいのまま近づき、その中身をいくつか掴み出す。発破だ。そのうちの一本の脇に歯を立て、外筒の油紙を食いちぎった。そのままへし折り、中のゼリー状の薬剤を搾り出す。
「ほら、食ってみろ」
指に掬い取ったそれを、ゆるく開いた関谷の口に押し込んだ。乾き、ざらついた舌が、それを舐めとる。ぺちゃぺちゃと、口が動く。
「あ――甘い」
「そうだろ。もっと食え」
関谷の口元にさらに運んでやりながら、塚原は自分でも口にする。発破――ダイナマイトの爆破薬に使われているニトログリセリンは甘いのだ、そう教えてくれたのは、南方帰りの滝本だった。甘いものに飢えた兵士たちは、上官の目を盗んでマイトをほぐして食っていた、そう言って笑っていた。
「なあ、おかん。わい、十歳やで。ローソク十本立ててぇや」
関谷も笑っていた。とても幸せそうな笑顔で。
「おお、待ってろ。十本な」
塚原は、発破を十本まとめると、箱の横に落ちていた縄でくくった。火。火は……
「滝本さん。火を借りるぜ」
岩の隙間に身体をもぐりこませて、頭の潰れた滝本の亡骸を引っ張り出し、胸のポケットを探る。滝本が自慢にしていたオイルライターは、二、三度石を回しただけで、柔らかい炎を上げた。それを、十本の導火線に次々と近づける。しゅうしゅうと音を立てて燃える、導火線。
「おい、関。消せよ。ほら。ハッピバースデーツーユー。おい」
ゆるりと顔を上げた関谷は、口を少し尖らせた。半ば閉じかけた瞳の奥に、導火線の火がはじける。
「ほら、ふーって。吹いてみろ。ふーって」
ふう……
微かな息が、煙を揺らせた。ことんと、関谷の才槌頭が、地面に落ちた。
「仕方がないな。手伝ってやるよ。ふーっ。ふーっ」
ふーっ
ふーっ
ふ――――
(fin)