3、純粋無垢な彼女
3、純粋無垢な彼女
冬枯れの中を身に纏っていたぶ厚いコートはもう要らなくなっていた。衣服は店先に並びだすのと
同時に買うことに決めていると、親友は言う。誰より先に手に入れたいのはもちろんのこと、シーズ
ンの初めに出てくるものが一番丁寧に作ってあり、仕立てがいいからだ。
今日はその彼女に付き合って買った服を着ている。伊豆に向かう鈴木家リムジンの車中。
時は三月下旬。学校は春休み。
毛利蘭は親友である鈴木園子と一緒であった。鈴木家の別荘が伊豆にあり、春休みを利用してふた
りで羽を伸ばしにきたのだ。以前訪れた時、あれは夏だった。そして、例のごとく事件が起きてしま
った。
「今回はなにも起きないといいわね」
蘭は当時のことを思いだして苦笑いした。その時は一緒に行った、今はもういない少年を思いだし
て、無意識にため息がこぼれた。
「蘭。あんた、またため息」
ゴメン園子、と言い、またため息をついてしまった。首をすくめて呆れている園子を見て少し笑っ
た。近ごろ、ため息が習慣になりつつある。いけないと思いつつも、もう止めようと思いつつも、つ
い嘆息してしまう。
原因は誰より自分がわかっている。
─── コナンくんがいなくなってからだ。
幼なじみの新一と入れ替わりに現れた小さな少年を、知らず知らず頼りにしていた。時に、新一の
言葉を届けてくれるから、とかじゃなくて、実際頼りになったのだと思う。
所詮、自分はひとりで生きていけない種類の人間だ。だれかれ頼りにしていないとダメになるタイ
プの。新一を待ち続けている、その行動はある意味、当てにして、たぶん大きく頼りにしている証拠
だ。
「もうすぐ着くよ」
その声に外の景色を見た。別荘に行く前の寄り道。おいしいケーキがあると評判のカフェ。少し休
憩しよう、という園子の提案だ。
そこに、少し目を惹く男女がふたり。
彼らはぽかぽかとする陽気の中、のんびりと歩きながらやってきた。
午後のティータイム時とはいえ、客はまばらであった。東京の喧騒で慣らされている感覚から言え
ば空いていて、落ちつける雰囲気のいいお店だった。
ふたりはしばしそこを訪れて、気分転換を図る。他人に干渉されない造りと、その静寂な雰囲気と
香りのよい珈琲を好んだからだ。
ふたりが伊豆に来て、もう三週間が過ぎようとしていた。
「昔ならずっと部屋にいても平気だったのに」
ここへ訪れるたびに、言い訳みたいに志保は言う。
「窓の格子が檻の柵に見えるだなんて、随分贅沢になったものね」
「それが普通だろ」
深く考えさせないように、新一はさりげなく言う。
外出をできるだけ控えていたふたりが今日もどちらともなく言いだして、このカフェにやってきた。
珈琲とシフォンケーキ。
まもなく運ばれて、ゆっくりと味わう束の間の休息。
蘭と園子のもとに紅茶とシフォンケーキが運ばれてきて、フォークでつついていた時だ。園子がふ
と顔を真正面に向けると、あまりの驚愕に頓狂な声をあげそうになる。その声はかろうじて押し殺
して、今一度そこを見やる。
蘭からはふり向いて見なければ見えない位置の、お互いの声も届かない、姿もなんとなく確認がで
きるくらいの少し離れたその席に、久しく会うことのなかった見知った顔があった。
知らない土地で知っている人物に出会うこと自体、結構びっくりすることだ。それがまして、クラ
スメートであり、親友の幼なじみであり、なお且つ一年近く行方不明になっていて、親友が逢いたい
と懇願しても叶うことのない相手なら尚更だ。
しかも。
女性を連れている。その上、とびきり美人の。
自分はもちろん知らない。おそらく蘭だって知らない。
もしかして、と園子は考える。新一の評判はすこぶる良い。それを知っての依頼者かもしれない。
でも、それは虫の良すぎる甘い考えだと、園子は思い直す。
「あなたと出かけると、事件が起きるのが心配よね」
「それは失礼だろ」
新一は抗議し、そう言えば、夏に園子の別荘で事件があったんだ、と話しだす。
ほらご覧なさい、今日は無事を祈るわ、と志保は冷たく言い放つ。
新一は自分のケーキを早々と片付けて、珈琲を啜りながら、ケーキをゆっくりと味わう志保を眺め
る。
志保の皿のアイスクリームはまだ手付かずだ。彼女はケーキばかり食べているから、アイスクリー
ムはとろとろと溶けだしそうだ。
新一はそれを黙ってスプーンですくい取って口に放る。二度目、同じようにすくったところ、スプ
ーンごと横から伸びてきた手につかまれて、彼女の口におさまってしまった。
おいしい、と志保は小さく笑う。とられた、と新一は恨めしそうに言い、志保の唇に自分のそれを
重ねる。うまいな、としたり顔で新一は言い、志保に軽くにらまれた。その隙に、ケーキにも手を出
して、新一の口へとおさまる。
「志保が作ったケーキのがうまい」
新一はひとりごちる。
「ここに来る最大の目的は気分転換なの」
だから目的達成。志保は強く主張する。そだな、と新一も同意して、ふたりで笑った。
目の前で繰り広げられたその光景に、園子は思わず息を飲んで呆然とするよりほかなかった。それ
は園子の心臓にひどく衝撃的で、美しく映ったからだ。
その顔に、表情に、手の動きに、視線に、身体の寄せ方に、一挙手一投足まで目が奪われていた。
恋人同士のそれとして、すんなり受けいれられてしまうほど、ふたりは親しげで、お互いの距離が
なかったのだ。恋人たちばかりがほとんどを占めるそのカフェで、あまりに自然でごくあたり前のよ
うにふたりはいた。
時折見せるやさしい笑みも、ある意味不器用な新一なら意識的にすることはないと思う。
あれじゃあまるで恋人同士じゃない。眉根を寄せながら、園子はひとりつぶやく。
ふと気付くと、蘭がこちらを見て訝しげな顔をしている。きっと青くなったり赤くなったり、忙し
ない表情をしているに違いない。
「な、なに?蘭」
平然を装いつつ、園子は言う。できるだけ笑うようにしたから、頬が引きつっているのがわかる。
「なにって、それは園子のほうでしょ。大丈夫?」
蘭は心配そうに訊き、顔を覗きこんでくる。
今まさに目の前で起きていることを覚られないように、大丈夫、大丈夫、と慌てて返事をする。
そう、と蘭はふたたびケーキにフォークを刺す。ひと口、口に入れて、おいしいね、と満足そうな
顔をする。でしょう、と頷いてみせた。
まったく、どうなってるの。訳がわからないまま、蘭に気付かれないように小さくため息をついて
視線だけ上にあげて新一をキッと睨む。
その視線にようやく新一が気がついて、一瞬驚いた顔をしたが、すぐにいつもの顔に戻り、となり
に座る女性となにやら話している。園子はその様子にふたたび眉をひそめた。そうやってキスするみ
たいに顔を近づけて話すから、より一層慌ててしまう。そしてこちらを向いたかと思うと、人差し指
を顔の前で立てて、内緒だ、というゼスチャーをしてみせる。
その仕種に思わず腹が立って立ち上がろうとした時、蘭の善良的な瞳が視界に入った。
そんなことをしても、園子は窮した。
蘭を傷つけるだけだ。彼女には何の罪もない。蘭には幸せになって欲しいのに。
意気消沈して、盛大なため息をつく。蘭はあいかわらず怪訝な顔をし、園子は苦笑いした。
どこでどう暮らしていようが、あいつの勝手だ。そんなことはわかっている。でも、ただじゃ済ま
せないんだから。
心の中でそう呟いて、高揚した気を抑えようと紅茶を啜る。フォークを持ち、ケーキにえいっと一
刺しする。意気込んだフォークは上手い具合にささり、一口大の欠片ができる。それを口の中に放り
こんで、腹の中の煮えくり返った気持ちを抑えようとするが、そんなことは気休めでしかない。
視界の端のほうで、暢気に手をひらひらさせて立ち去ろうとするふたりの姿が入った。園子は顔を
ぷいと背けて無視をする。
店の扉がパタンと閉まる音を聞き届けて、ぶしつけとは思ったけれど、蘭に訊いた。
「新一くんから最近連絡あった?」
「一ヶ月くらい前かな。コナンくんがいなくなる少し前。電話あったよ」
「どうだった?」
「どうって、いつも通り。なにも変わらないよ」
どうして?と蘭は訝しげに訊く。園子ったら変。そうかな、とぎこちなく笑う。そうよ、絶対に。
念のため、まさか他人のそら似ではないとは思うけれど。
「新一くんってこの辺りに縁がある?」
うーん、そうねえ。蘭は少し考えて記憶をたどる。そうそう。
「別荘があったかも。中学生にあがる前、一度来たことがあるよ」
伊豆のどの辺りだったのかも覚えてないけど。
園子はふうん、と小さく返事をして、窓から見えるふたりの背中を横目で見送った。
今回はなにも起きないといいわね、なんて悠長に言ってる場合じゃない。
めがねのがきんちょがいなくなったからって、ため息ついてる場合じゃない。
とてつもなく大きな事件が起こってしまったと、園子はおそろしく憂鬱な気分になっていた。
+++
別荘に到着しても、園子はイラついていた。ご飯を食べても、お風呂につかっても、大好きな真さ
んからメールが来ても、とにかく何をしても心の底から怒れていた。
今ここで蘭にぶちまけられないストレスと、ヤツに報復できないストレス。
その横で蘭が、どうしたの?と心配そうに訊く。そんな彼女のやさしい気づかいが園子は好きだ。
女性らしくてかわいいと思う。彼女を好きな男なら、その心配そうな顔ひとつだけで免罪符になって
しまいそうな。
蘭に秘密うちに、調べるように手配はした。でも、それだけでは物足らず、イラつくのだ。
見る気がないテレビがなんとなく点いて、スピーカーから笑い声が無機質に響く。蘭と園子のふた
りだけのリビング。
オレンジピールを入れたあたたかい紅茶を啜り、ため息にも似た息を吐く。そして思う。
蘭は、やっぱり新一のことが好きなのだろうか。待たせるだけ待たせて、どこでどう暮らしている
のかさえわからないような、ひどい男なのに。そりゃ、今まで、さんざん冷やかしておいて、だが。
カップをソーサーに置き、園子は訊いた。
「蘭はさあ、新一くんのこと好き?」
そう訊くや否や、蘭は顔を真っ赤にしてごほごほっと咳きこんでしまった。いまさら訊くまでもな
いことだと、園子はあーあ、と大袈裟に言い、肩でため息をつく。
「な、なによ突然」
「ごめん、愚問だったわ」
もう園子ったら、と蘭は照れくさそうに笑う。
苦笑いしながら、園子はふと思う。新一が好きだという蘭を、彼自身は知っているはずだ、と。
だったら、なにも焦らなくてもいい。あいつは逃げだすようなやつではない。なにをイラつく必要
があるのか。一旦そんな風に思うと、不思議と余裕さえ出てくる。
「新一くんはいつまで蘭を待たせるつもりなのかしらね」
園子はぽつりと言う。今のあいつに言ってやりたい文句が口をついてしまった。
「私は信じてるの。新一は待っててくれって言ったでしょ」
不確かな危うい言葉だけど。蘭ははにかみながら言い、まっすぐな瞳をする。
そんな風に彼が愛おしいという表情をするから、見ているほうはどうにもできない苦しさでいっぱ
いになる。
「蘭ったらお人よし」
いつもみたいに冷やかすことはできなかった。諦めに似た声で言うと、蘭はにっこり笑った。
「信じてないと恋なんて成立しないと思うの。そもそも恋なんて無謀だもの」
何をどう言われても、私には信じて待つことしかできないの。だから仕方ないじゃない。
蘭ははっきりと淀みなく言う。ある意味、身動きできないこの状況をちゃんと悟って諦めているの
は彼女のほうかもしれない。
「それでも、どうしても好きなの」
そんな純粋無垢な蘭の話を訊いているだけで、ほとんど泣きそうになってしまう。と同時に、一方
で憂鬱を通り越して暗澹としてくる。
「今日はやけに心配してくれるね」
「いつも心配してるわよ」
ありがとう。蘭は屈託なく笑った。私の好きな笑顔だ。
もしも今、新一がどこかであの彼女と寄り添っているとしたら。
昼下がりの、額がくっつきそうなくらいに顔を寄せていたふたりが頭の中を過ぎり、くだらなくな
って少し笑った。
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