1
小学校五年生にあがると同時に、梶原沙由里は地方へ引っ越すことになった。彼女が引っ越すことになったのは、父親の転勤によるものだった。
引越し先は、周りが山と田に囲まれた田舎だった。新鮮な空気と緑に囲まれた、長閑なところだ。しかし、幾分不自由なところもある。例えば、近くのスーパーまで車で十五分ほどかかること。また、ファミリーレストランやゲームセンターや書店なども町まで行かないと存在しない。
そんな緑に囲まれた田舎にぽつんと、忘れ去られたように学校が建っていた。そこが、沙由里の通うこととなった新しい学校だ。校舎は色褪せ古びており、今にも取り壊されそうな感じがしていた。また、校舎の所々には小さなひびが入っているところもあった。
沙由里は引っ込み思案なほうで、新しく友達ができるかずっと不安だった。しかし、そんな彼女の不安は学校に通い始めて間も無く拭い去られた。
沙由里の通うこととなった学校は、五年生が十二人しかいなかった。クラスも一つだけで、彼女はすぐにとけこむことができた。
「今日、学校の隣の公園で遊んでいかない?」
沙由里がランドセルに教科書を入れていると、隣の席の福田絵里がいった。彼女は沙由里が転校してきて、真っ先に声を掛けてくれた一人だった。
「うん、いいよ」
沙由里は笑顔で返事した。
「それじゃ、あたし先に行ってるね」
絵理はそういうと立ち上がり、ランドセルを背負って教室を出て行った。沙由里は日直当番の仕事を済ますと、急いで公園に向かった。
公園は、滑り台、ジャングルジム、ブランコといった遊具があるだけの小さな公園だ。それらの遊具もだいぶと古びている。ブランコの鎖などは、茶色く錆びている。田舎ということもあってか、土曜日や日曜日、それに休日でも利用する人たちは少ない。
沙由里が公園に着くと、絵理が手を振って呼んだ。沙由里は微笑み手を振り返した。
ベンチに絵理を挟むように、白鳥裕子と植木香澄が座っていた。二人は、絵理の親友だ。沙由里が転校してきたとき、絵理と一緒に声を掛けてくれた。それから四人は仲良くなっていった。
沙由里は三人の座っている前の小さなベンチに腰掛けた。
「ねえ、赤い風船って知ってる?」
唐突に絵理が切り出した。裕子と香澄は首を横に振った。
「なにそれ?」
沙由里が訊いた。
「最近噂になってんだ。ここら辺の空を、赤い風船が飛んでるらしいの。なんでも、その風船を手にした人は幸運な人なんだって」
「その風船一度だけ見たことある」
沙由里は少し考え込んでからいった。
「いつ見たの?」
「確か一ヶ月くらい前だったと思う」
それは沙由里が引っ越してきて、間もないころだった。二階の部屋を片付けているとき、ふと視線を窓の外にやった。そのとき、青空に赤い風船がふわふわと漂っていたのだ。風船にはなにか括り付けてあったような覚えがあった。
「幸運ってどういうこと?」
赤い風船がどうして幸運なのか、沙由里にはさっぱり意味がわからなかった。
「これは本当かどうかわからないんだけど、赤い風船は願いが叶う風船なんだって。だから幸運なんだよ」
三人はぷっと吹き出した。沙由里は風船を手にして願いが叶うなどばかばかしいと思った。そんな都合のいい話など単に噂に過ぎないだろう。
「そんなことあるわけないじゃん」
香澄が笑い飛ばした。
「そうそう、そんな簡単に願いが叶うようなことがあったら、苦労なんてなにもしなくていいんだからさ。ただの噂だよ」
裕子は香澄に同意した。やはり二人とも全く信じていないようだ。絵里は罰が悪そうで、俯き沈んだ表情をした。
「絵里は信じてんの?」
香澄に訊かれ、えっ、といって絵里は顔を上げた。
「う、ううん。そんなの信じてないよ。ただちょっと面白そうな噂だなと思ってね」
沙由里には彼女が少し動揺しているように思えた。
彼女たちが解散するころには、すっかり空は茜色に染まっていた。真っ赤な太陽が、夕空に溶け込むように輝いていた。沙由里は公園を出ると、家に向かって駆け出した。
沙由里が家に着いたときには、汗だくになっていた。夕方とはいえ、五月の中旬にもなると、それなりに暑いものだ。背中はびっしょりと濡れていて、服が皮膚にまとわりつくのが気持ち悪かった。
「ちょっと、これどういうことなのよ」
沙由里が玄関のドアノブを握ったとき、中から怒鳴り声が聞こえてきた。母の声だった。沙由里は玄関のドアをゆっくり開き中に入った。
「なんで二十万も勝手に下ろしたのよ」
母が声の調子を変えずいった。沙由里は玄関で立ち止まり、二人の話に聞き入ることにした。
「いいじゃないか、たかが二十万くらい。どうってことないだろ」
父は落ち着いた様子のようだ。母の声の調子とは幾分違っていた。
「そういうことをいってるんじゃないのよ。家計の管理は私がしてるんだから、下ろすときは一言いってよね」
「わかった。今度からはちゃんとそうする」
「なにに使ったのよ。下ろしたからにはなにかに使ったんでしょ」
母にいわれ父は黙ったようだ。しばらく沈黙が続いた。二人の間に嫌な空気が流れていることは、沙由里でもわかった。なにが原因で二人は喧嘩しているのだろうか。
「いえないの? どうせ変なことにでも使ったんじゃないの」
沈黙を破ったのは母だった。先ほどとは声の調子が違っていた。冷めた声で、相手を軽蔑しているかのようだ。
「俺を疑ってるのか」
「だったらいってみなさいよ」
「いいだろ二十万くらい。なにに使ったって問題ないだろ」
「そういう問題じゃない。いえないようなことに使ったんでしょ」
バンと机を叩く音が聞こえた。その次に、父の怒鳴り声が家の中に響いた。
「俺が稼いだお金なんだ。なにに使っても構わないだろ」
沙由里は居心地が悪くなり、玄関のドアをおもいっきり開いて家を飛び出した。それに気付いたのだろうか、
「沙由里、どこ行くの」
と母が沙由里の背中越しにいったが、沙由里はそれを無視して駆け出した。足は自然と先ほどの公園へと向かっていた。
公園に着くと、ベンチに座り空を見上げた。そうしないと、涙が零れ落ちそうな気がした。そのとき、茜色の空にふわふわと漂うものが目に入った。沙由里は目を凝らしよく見てみた。それは赤い風船だった。以前見た風船と同じように、なにか括り付けられていた。
風船は徐々に高度を落としていき、木の枝に引っかかってしまった。それほど高くないところに引っかかっているので、木に登れば取れそうだった。
沙由里は立ち上がり、風船の引っかかっている木の下まで歩み寄った。下から風船を見上げてみると、括り付けられているのは手紙だということがわかった。沙由里にはそれが気になった。これが、絵里のいっていた風船なのだろう。しかし、彼女の話では風船のことだけで、手紙が括り付けられているということに関しては触れていなかった。
高いところが苦手なので、沙由里は迷った。少し逡巡してから、意を決し木によじ登った。風船の糸をつかみ、木から下りるとほっとため息をついた。
風船に括り付けられている手紙を取ると、沙由里は風船を空に放った。風船は息を吹き返したように勢いよく空に舞い上がっていくと、茜色の空に溶け込むように消えていった。
風船が消えたところで、沙由里は手紙のほうへと視線を移した。それと同時にぷっと、吹き出しそうになるのを、寸前で堪えた。
『あなたの願い叶えます』
手紙にはこう書かれていた。下のほうに、住所と電話番号が記載されているだけで、他にはなにも書かれていなかった。質の悪い悪戯だろうと思い、手紙をくしゃくしゃに丸めて屑籠に投げ捨てた。
沙由里はがっかりと肩を落とした。こんなもので、本当に願いが叶うとは到底信じられない。信じた者がバカである。こんなウソっぽい手紙を見るために木に登ったことを恥じた。後悔先に立たずとはこういうことか。信じていないものだったのに、ちょっとした興味に負け風船を手にした。しかし、結果はそれに裏切られるという形で終わった。
その夜の父と母の口数は、驚くほど少なかった。おそらく先ほどの口喧嘩が影響しているのだろう。それだけではなく、目を合わせることすらなかった。重い空気の中、沙由里は黙々と夕食を食べていた。沙由里には事態が最悪の方向に転ばないよう祈ることしかなかった。
2
重い足取りで沙由里は学校に向かって歩いていた。昨日の父と母の口喧嘩がずっと頭から離れずにいた。そのせいで、あまり眠ることができなかった。立ち止まり、こみ上げてくる欠伸を呑み込み、ぐっと伸びをした。
「よし」
頬をぱんぱんと軽く二度叩くと、全てを振り払うかのように勢いよく駆け出した。そうすれば、胸の中のもやもやとしたものも、拭い去れるかもしれないと思った。
教室に着くと、沙由里は絵里と香澄のところへと向かった。二人は椅子に座りなにやら楽しそうに話をしていた。
「昨日、赤い風船手にしたよ」
沙由里がいうと二人はちょっと驚いた顔をした。沙由里は二人の前の席に着き、ランドセルを机の上に置いた。
「えっ! いつ? 昨日ってあたしたちと一緒にいたよね」
絵里がいった。
「あの後一回家に帰ってまた公園に行ったんだ。そしたら、風船が空を漂ってた。それが木に引っかかって、私が取ったの」
「どうして? 沙由里は赤い風船信じてなかったんでしょ」
「うん。だけど手紙が括り付けてあったんだ。それが気になってさ。ほら、絵里の話では手紙のことはなかったでしょ」
絵里は顎に手を当て考え込んだ。噂は知っていても、手紙が括り付けられていたということは知らないのだろうか。
「手紙ってどんな内容だったの」
絵里は窺うように訊いた。
「『あなたの願い叶えます』って書いてあった」
「それだけ?」
「あと、住所と電話番号が書かれてたよ」
「えー、なんかやだな。願いが叶う風船なのになんで住所と電話番号が書かれてるんだろうね。やっぱりウソっぽい」
香澄が割り込んでいった。その通りだと沙由里は思った。
「でしょ。やっぱりウソっぽいよね」
沙由里は香澄に同意した。普通に考えると質の悪い悪戯としか思えない。
「それでその手紙はどうしたの?」
「くしゃくしゃに丸めて捨てちゃった。それで風船は空に飛ばした」
「なんだ。捨てちゃったんだ」
香澄は少し残念そうにいった。
「だって悪戯としか考えられないんだもん。手紙に私の願いを書いて返信しても、叶わなかったらバカみたいだし」
沙由里は苦笑した。
「住所ってどこだったの?」
絵里に訊かれ、沙由里は手紙に書かれていた住所を答えた。その瞬間、絵里の表情が変わった。
「それあたしの家の近くの住所だよ。あたしそこの人知ってる」
「どんな人?」
香澄が訊いた。
「七十歳くらいのおじいちゃんだよ」
「そんな人が風船を飛ばしてたんだ」
沙由里は少し意外な感じがした。そういう悪戯のようなことをするのは、子供のような年齢の低い人たちの仕業だと思っていた。しかし、その住所は年配の人の住所であった。誰かがその住所を勝手に使って、悪戯をしたと考えるのが妥当のような気がした。
「でも悪戯って可能性が一番高いと思うよ。そこの家の住所を勝手に使っただけかもしれないし。それに『あなたの願い叶えます』って書かれてあっても、すんなり信じる人なんていないでしょ」
香澄がいった。彼女も沙由里と同じようなことを考えていたらしい。沙由里は頷いて同意した。沙由里がランドセルを持ち、立ち上がった瞬間チャイムが鳴った
3
沙由里は玄関のドアを開けるのが怖かった。昨日の父と母の口喧嘩がふと脳裏を過ぎった。彼女はドアノブに手をかけると、おそるおそるドアを開いた。昨日とは違い、家の中は静けさを帯びていた。
ただいま、と玄関から居間のほうに向かっていった。すると、母が居間から顔を覗かせ、お帰り、と笑顔でいった。沙由里は少し安心した。玄関に父の靴はなかった。父はまだ帰っていないようだ。
二階の部屋に行き、ベッドに横になると、途端に眠気が襲ってきた。昨日、あまり眠れなかったからだろう。沙由里は目覚まし時計を八時にセットし目を閉じた。すんなりと眠りにつけた。
下のほうから大きな音が聞こえてきて、沙由里は目を覚ました。まだ眠気の残る目を擦り、時計を見た。時刻は七時三十分を指していた。大きな音、それは父と母が口論している声だということに気付いた。
沙由里は部屋を飛び出し、階段を駆け下りると家を飛び出した。二人が喧嘩している家にいるのが嫌だった。彼女は暗い夜道をしばらく走った。行き着いた先は広大な田に囲まれたところだった。
息を整え夜空を見上げた。満天の星が輝く中に、いくつかの小さな光がチカチカと点滅していた。それは、儚い光を点滅させながら、縦横無尽に飛び交っていた。沙由里は顔を下ろすと広大な田を見渡した。
点滅する小さな光は、田から飛び立ち夜空へと散っていく。沙由里はそれらに見入っていた。
引越ししてきて初めて見る蛍だった。いや、生まれて初めて見る蛍といったほうがいいのだろうか。沙由里がここに来るまで、蛍を見たのはテレビや昆虫図鑑でしかなかった。そもそも、引っ越してくるまでは都会だったので、蛍など見られる場所はなかった。
しばらく、蛍を見入ってから沙由里は家に帰った。沙由里が家に着いたときには、父と母の熱は冷めていた。
「どこ行ってたの?」
沙由里が玄関で靴を脱いでいるとき、母が後ろからいった。咎めるような口調ではなかった。
「蛍見てた」
「蛍?」
「うん。田んぼの上を飛んでたんだ。綺麗だったよ」
沙由里は母のほうに向くと微笑んだ。
居間に向かうと、沙由里は父の前の席に座った。父は何もいわず新聞を読んでいた。母は台所へ向かうと、カレーライスを持ってきた。それが夕食らしい。
案の定、今日の二人の口数も少ないものだった。昨日となにも変化は見られなかった。居間は重い空気に包まれていた。そのせいか、食事もあまりのどを通らない
原因はわからないが事態は最悪の方向に転びつつあるような気がしていた。
4
季節は移り変わり蒸し暑い六月になった。入梅もしてじめじめとしていた日が続いていた。父と母はずっと冷戦状態が続いている。沙由里には未だに原因がわからずにいた。沙由里が母にそのことについて尋ねてみても、母はなんでもないから、と答えるだけだった。
ある日、沙由里が学校から帰ると、話がある、と母にいわれ居間へ向かった。父は強張った表情で既に椅子に座っていた。沙由里はなんだか嫌な予感がしていた。
「あのね、お母さんとお母さんは離婚することになったの」
母はため息を一つつくと、真剣な表情をしていった。
「ウソでしょ」
沙由里は母がいったことが信じられずにいた。
父と母は首を横に振って答えた。どうやら事態は最悪の方向に転んでしまったらしい。二人の真剣な表情を見ると、ウソとは思えない。
「なんとかならないの。考え直せないの?」
答えはわかっていたが、沙由里は二人に訊いてみた。
「それは無理ね」
母が答えた。
「どうして、そんなことになっちゃったの?」
「全部お父さんが悪いのよ。お父さんが浮気なんかしたから」
「えっ!」
沙由里は胸に釘を打たれたような強い衝撃を受けた。そして、父に対して怒りがこみ上げてきた。沙由里は唇をかみ締め、俯いている父をきっと睨みつけた。
「それでね、沙由里はお母さんと一緒に来なさい。田舎のおばあちゃんの家に行くのよ。また引越しをすることになっちゃうけど」
「やだ。そんなのやだよ。もう友達と離れたくない」
沙由里は思わず声を大にしていった。
「わがままいわないの」
「それなら、お父さんといる。そしたら転校しなくていいんでしょ」
母はため息をついて、首を振った。
「それは止めておいたほうがいいわよ。沙由里がそうしたいってなら、お母さんはそれでもいいけど」
「どうして?」
「お父さんはその浮気した人と再婚するつもりよ。沙由里はその人を快く受け入れられるかしら」
沙由里は返す言葉に詰まった。父は自分を捨て、母を捨て、新たな人生を踏み出そうとしている。沙由里は怒りで少し呼吸が荒くなっていた。母は続けた。
「それにお父さんは、沙由里を邪魔に感じちゃうんじゃないかしら。新しい人と新たな一歩を踏み出すときには、過去の産物なんて邪魔なものよ」
母は薄っすらと笑みを浮かべた。沙由里は母の言葉にショックを受けた。過去の産物、自分はそんな存在で父にとっては邪魔なものなのだろうか。
「な、なにいってんだ。沙由里が一緒にいたいなら、お父さんはそれでもいい」
父は明らかに動揺した様子で、顔を上げた。それでも、という言葉から、父が自分と一緒にいたいということを望んでいないと窺える。沙由里は沈んだ表情で俯いた。目には涙が滲み出していた。
「私……お母さんのほうについて行くよ」
沙由里は俯いたまま答えた。涙が頬を伝い落ちた。
5
大切な話があるといい、沙由里は三人を呼び出した。昨日突然決まった、転校するという話を彼女たちにするためだった。
沙由里は俯きながら学校の隣の公園のベンチに座っていた。昨日の話を思い出すと、胸の奥からぐっとこみ上げてくるものを感じた。
咄嗟に空を仰いだ。俯いていたら、涙を零してしまうかもしれないと感じた。梅雨の時期には珍しく、澄み渡った青空だった。泣くのは全てを話してからだ。
しばらくベンチに座っていると、三人が楽しそうにお喋りをしながら、沙由里のほうに歩み寄ってきた。沙由里はそれを見ているのが辛くなり、わざと目を逸らした。沙由里の視線の先では、小さな子供たちが砂場で砂山を作って遊んでいた。
「話ってなに?」
ベンチに座るなり絵里がいった。
「私転校することになっちゃった」
「えっ!」
香澄と裕子が同時に声を漏らした。
「きっといろいろ事情があるんだろうけど、転校は考え直せないの?」
裕子が尋ねてきた。できるものなら転校などしたくない。しかし沙由里にはどうすることもできない。昨日の状況で、あの二人が仲直りをするとはとても思えなかった。
「うん、だめみたい」
「あたし、沙由里と別れたくないよ」
香澄は涙ぐんでいた。
「私だって、皆と別れたくない。でも仕方ないんだ」
「いつ転校するの?」
裕子が訊いた。沙由里は首を横に振った。
「まだわからない。だけど転校は確実だと思う」
「遠いところなの?」
「うん。お母さんの実家のほうだから、遠いところになっちゃうね」
沙由里の隣から嗚咽が漏れていた。彼女がふと横を見ると、香澄が涙を流していた。
「泣かないでよ。私だって悲しくなっちゃうじゃない」
香澄は涙を拭うと、取って付けた様に笑った。
「手紙書くからさ。それに、電話もする。夏休みにはこっちにも遊びに来るよ」
沙由里は明るく装っていった。本当は泣きたいくらい悲しかったが、ぐっと涙を堪えた。
「絶対だよ」
「うん、約束する」
沙由里は三人に向かって微笑みかけた。そして、彼女たちはぎこちなく沙由里に微笑み返した。
「来年は蛍見に行こうよ。私いい場所見つけたんだ」
「うん、行こう」
絵里が応じた。
「それに、キャンプや夏祭りにも行きたい。花火も見たいな。田舎の花火って綺麗なんだろうな」
沙由里は空を見上げ、田舎の空に打ち上げられる花火を想像してみた。
木々に囲まれ、綺麗な星空の中にぱっと咲き誇る花火。そして一瞬にして夜空の塵となる儚い花火。都会では見られない、花火の真骨頂がそこにはあるような気がした。そこには邪魔する、ビル群や街灯がないのだ。
彼女たちが帰った後も、沙由里は一人になりたくて、公園のベンチに座っていた。いつの間にか、空は赤く染まっていた。沙由里はふと夕空に目を向けた。そして、不意に赤い風船のことを思い出した。どうせ悪戯なのだろうけど、最後に付き合ってやるか。そう思い、沙由里は屑籠のほうへと歩み寄った。
しかし、屑籠の中は空っぽだった。考えてもみれば当然のことである。沙由里が風船を手にしたのは、先月のことで、今更、そんなものあるはずがない。
ベンチに戻ると、再度夕空に目を向けた。そのとき、ふと例の赤い風船が目に飛び込んできた。あの時と同じように、風船には手紙が括り付けられている。
風船は穏やかな風に乗り、ふわふわと夕空を漂っている。それはどんどん小さくなっていき、夕空の中へ溶け込むように消えていった。沙由里はぼんやりと、それを始終目で追っていた。
「ぼんやりしてどうかなさいましたか、お嬢さん」
突然声をかけられ、沙由里は我に返った。お嬢さんとは一体誰だろう、と一瞬そんなことを考えた。公園には沙由里しかいない。それで、その言葉が指すのは自分だということに気付いた。
声をかけてきたのは、杖をついた老人だった。メガネを掛けていて、顎には白い髭を生やしていた。
「赤い風船を見てたの」
沙由里は答えた。
「ああ、あれですか」
老人は優しく沙由里に微笑みかけた。そして、彼女の隣に腰掛けた。
「えっ? おじいさん、あの風船のこと知ってるの?」
「ええ。あれは私が飛ばしたものですから」
老人は、さも当然のようにいった。
「じゃ、『あなたの願い叶えます』ってのは、ふざけて書いたわけ?」
沙由里はつい咎めるような口調になってしまった。依然、沙由里には悪戯としか思えず、老人のいったことは信じられなかった。
「いえいえ。ふざけてなんかいませんよ。私は人の願いを叶えられる。だから、赤い風船に手紙を括り付けて、願いを求める者を探しているんですよ。もっとも、赤い風船を飛ばすのは月に一回だけですけどね」
「じゃ、私が前にここで拾ったやつもおじいさんが飛ばしたやつなのかな」
「ほお、お嬢さんも拾われたのですか」
「悪戯だと思って捨てちゃった」
「やはりそうですか。だから、私のところに願いが届かなかったわけだ」
老人は苦笑し、ちょっと残念そうな顔をした。
「誰だって悪戯って思っちゃうでしょ」
老人はうんうんと首を縦に振った。
「確かにそうですね。大抵の人はそう思うでしょうね」
「それじゃ風船を飛ばしてる意味がないじゃない」
「だからこそ、私は赤い風船を飛ばしているのですよ」
「どういうこと?」
沙由里は老人の意図がわからず首を傾げた。
「何も疑わず、純粋な心を持った者の願いを叶えたいのですよ。風船を悪戯だと思って、願いを届けない人には叶えられません。だけど、私のところに願いを寄越した者の願いは叶えます。人の願いを叶えられるのなら、どんどんそれを使えばいいではないかと考える人もいるかもしれませんね。しかし、そういうものではないんですよ」
「私はそういう力があるなら、使っていけばいいと思うな。それで人を幸せにできるなら、使うべきなんだと思う」
「ええ、お嬢さんのおっしゃることはもっともだと思います。でも私は考え方が違うのですよ。確かにそういう力があるのなら使うべきなんだと思います。しかし、それで本当にいいのだろうかと疑問に思ったのですよ」
「疑問?」
人を幸せにすること、そんなことでどんな疑問を思うのだろうか。
「願いを叶えられるなら、その力を使えば人は努力をしなくなってしまう。力にものをいわせ、人は何もしない。病人は病気を治してくれ、お金のないものはお金をくれ、権力のないものは社会的な地位が欲しいなど人の欲望は様々。人は努力をして得てこそ、そのものの価値がわかるものだと思います。だから私は力を公にしないんですよ。赤い風船は月に一回の私からのプレゼントですね。それを信じるか信じないかは、その人次第です」
老人は沙由里のほうに顔を向けた。彼の目は真剣な眼差しをしていた。その真剣な眼差しで、沙由里の顔をまじまじと見つめた。沙由里は老人の澄んだ黒い瞳に、全てを見透かされているような気がした。
「ここで会ったのもなにかの縁です。お嬢さんの願いを一つ叶えて差し上げましょう」
「えっ! いいの」
「ええ、今回は特別ですよ。なにか抱え込んでいるものでもあるのでしょう」
沙由里は俯き暗い顔をした。老人の鋭い洞察力に、沙由里の心はちくりと痛んだ。
「お母さんとお父さんを仲直りさせて。私じゃどうしようもできないの」
沙由里は顔をあげると、願いをいった。これで、二人が仲直りしてくれれば沙由里にとっては嬉しいことである。しかし、未だに彼女は半信半疑であった。
老人は一つ頷くと
「お嬢さんの願い承りました」
といい、にっと笑った。
老人は目を閉じると、唇を微かに動かし、なにか呪文のようなものを唱えた。だが、沙由里には聞き取ることができなかった。彼は目を開けると、パチンと指を鳴らした。
「お嬢さんの願いは叶いましたよ」
老人はそういうと、杖を支えにゆっくり立ち上がった。
「ご機嫌よう」
沙由里に微笑みかけ、老人は公園の出口に向かって歩き出した。杖を突いて、覚束ない足下でゆっくり出口に向かう。沙由里はぼうっと老人の背中を見つめていた。
6
沙由里は老人のことを反芻しながら岐路に着いた。玄関のドアを開くとき、一瞬、躊躇った。本当に父と母は仲直りしているのだろうか、という不安が胸の中にあった。もともと信じていなかったので、期待するだけ無駄なのかもしれないが気休め程度にはなる。
玄関のドアをそっと開き、沙由里は居間へと向かった。居間に入るなり、目を丸くした。父と母が楽しそうに談笑していたのだ。昨日の険悪なムードとは明らかに様子が違っていた。
「あれ、お父さんとお母さん喧嘩は?」
沙由里は驚きながら訊いた。
「お父さんが謝ってくれたから、もう許してあげたわ。この人、土下座までしたのよ」
母はくすくすと笑った。
「心配かけて悪かったな。お父さんは浮気なんかもう絶対にしないから」
「じゃ、転校しなくてもいいんだね。皆と別れなくてもいいんだね」
父と母は笑顔で首を縦に振った。
沙由里は自分の部屋へと向かった。願いは叶った。あの老人はうそなどいっていなかったのだ。
老人にお礼をいいたい、と沙由里は思った。老人の家は絵里が知っているから、直接お礼いいに行けばいいだろう。そして、それとは別に、沙由里はあることを思いついた。
便箋を用意すると、早速筆をとった。
『赤い風船は幸せの風船。きっとあなたの願いを叶えてくれる。皆さんに幸せが届きますように。』
便箋を赤い風船に括り付け、夕空に向かって放った。
悪戯だと思われるかもしれない。しかしそれでもいいと思った。老人のいうような純粋な人は無きにしも非ずだ。そのような人に風船が届くように願った。
それが遠くの空に消えるまで、沙由里はいつまでも見つめ続けていた。
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