坂東蛍子、霊を拝み倒す
藤谷ましろは怖いものが苦手だった。中でも幽霊は特に怖かった。夜トイレに行く際は廊下に懐中電灯を幾つも立て掛けて点灯させ、帰り際にその懐中電灯の光で失神するぐらい苦手だった。そんなましろが、日の傾いた帰り道に図書室に家の鍵を忘れたことに気付いた時、全身の筋肉が弛緩しその場にへたり込んでしまったのも些か仕方のないことであった。
それでも諦めて玄関前で両親の帰りを待たずに誰もいない学校に足を踏み入れる気になったのは、一重に坂東蛍子のおかげである。とりあえず学校まで戻ってきたは良いが、果たしてこれからどうしたものかと校門の前でましろが行ったり来たりを繰り返していると、校庭の方から部活動を終えた蛍子が颯爽と(ましろにはそう見えた)やってきたのだ。ましろに気付き手を振っている蛍子の姿を見た時、ましろは心底安心して再び地面へへたり込んでしまったのだった。
季節はまだまだ太陽がまどろみから目覚めずにいる春の最中、放課後暫くすると太陽は山の向こうに殆ど姿を隠してしまっていた。後は見回りの教員が生徒の不在を確認し鍵を閉めるだけと言ったような時間帯に、ましろと蛍子は冗談のように静まり返った長い廊下を図書室に向けてソロソロと進んでいた。ましろはすっかり蛍子頼りで、彼女の背中でシャツにしがみ付いて俯きながら、薄目で足元を確認し進んでいた。
「そんなに怖がらなくても大丈夫よ」
頭の上から蛍子が笑う声が響く。さすがは坂東さんだなぁ、とましろは思った。こんなに恐ろしげな状況でも臆さずに私を背に抱えて進み続けている。今にもあの教室のドアが開いて何か出てくるかもしれないのに。あるいはそこの消火器の裏に何か潜んでいるかも。ましろは自分の想像に一層身を震わせ、ガタガタと蛍子の背を揺すった。蛍子は苦笑しながら後ろ手にましろの頭を撫でる。
「何も出ないわ」
「で、でも、最近この辺幽霊が出るって話よく聞きますし・・・」
坂東蛍子は怖いものが苦手だった。中でも幽霊は特に怖かった。夜トイレに行く時は必ずぬいぐるみを抱きしめて廊下に出て、帰り際にトイレにぬいぐるみを置き忘れ、幽霊に連れ去られたその大事な友達を泣きながら目を瞑り匍匐前進で探しまわるぐらい苦手だった。そんな彼女が現在日も落ちた薄暗い校舎を歩いているのは、一重に藤谷ましろのためである。坂東蛍子は人一倍の見栄っ張りであったため、友人の前で格好悪いところは絶対に見せることが出来ないのだった。そのため、図書室に忘れた家の鍵を一緒に取りに行って欲しいと懇願するましろの頼みにも二つ返事で承諾した。
「で、でも、最近この辺幽霊が出るって話よく聞きますし・・・」
蛍子はそんな話は聞いたことがなかった。何て話をしてくれたんだ、と思いながら蛍子はましろの体温を確かめるためもう一度頭を撫で、薄目を開けながら仄暗い廊下を先程より慎重な足取りで前進した。自分達の足音が廊下に反響し、不気味な歪みを含んで耳の中に返ってくる。所々で廊下を照らしている消火設備の赤いランプが不吉な警告を自分に投げかけているように蛍子には思えた。もう少しで図書室だ。無事帰れたら美味しいものをいっぱい食べよう。頑張れ、私。
蛍子がましろに図書室の前に着いたことを知らせると、恐る恐る蛍子から手を離したましろが鞄から図書室の合い鍵を取り出す(曜日担当の図書委員には業務後に鍵を閉めるために特別に合い鍵が渡されていた)。ドアの前で震えながらガチャガチャやっているましろを見ながら、良かった、と蛍子は一息ついていた。どうやら何事も無く無事に帰れそうだ。当然だ。幽霊なんてこの世に存在しないんだから。仮にいたとしても、それは私の前ではない、別の遠い何処かにいるのだ。私とは関係ない。
「開きました」
随分手間取っていたましろも漸く解錠を済ませ、蛍子の方を振り返り笑みを浮かべた。すぐに凛とした表情を作った蛍子は、事も無げにドアに手をかけ、スライドさせた。
目の前では長い黒髪を垂らし青白い顔をした和服の女が、窪んだ眼窩の中に真っ黒な瞳を浮かべこちらを見つめていた。
マツは怖いものが苦手だった。中でも幽霊は特に怖かった。夜厠に行く時は一足毎に火をつけた蝋燭を置き、帰り際に火の消えてしまった真っ暗な廊下を見て、諦めて朝まで厠に籠っているぐらい苦手だった。そんな彼女が灯りの無い図書室にいたのは、読書に夢中になり過ぎて時を忘れていたからである。たまにこういうことがあるのよね、とマツは溜息をついた。どうして図書委員の人はいつも私にだけ声をかけてくれないのかしら。マツは所定の位置に本を戻し、宙に浮きながらフワフワとドアの方に向かっていると、机の上に何か置いてあることに気がついた。どうやら鍵のようである。忘れ物とは不用心ね、とマツは勇気を出して暗闇に手を伸ばし鍵を手に取り、職員室へ届けるべく図書室の外へ出ようとした。ドアに手をかけようとした瞬間、マツの目の前で勢いよくドアが開いた。目の前には知らない女子が二人、薄暗がりの中信じられないぐらい丸く見開いた目をこちらに向けて立ちつくしていた。
「キャァァァァァァ!!」
手前側の少女が突然絶叫した。
「いやぁぁぁぁぁぁ!!」
マツも絶叫する。幽霊だ、とマツは思った。腕を変な風に曲げ、顎が外れそうな程口を開けている。こんな恐ろしげな人間がいるはずが無い、どう考えても幽霊だ。
マツが目を逸らそうと視線を上げると、後ろに控えるもう一人の人物が視界に入った。その生徒は口から大量の泡を吹き白目を剥いてだらしなく虚空を見つめていた。
「わぁぁぁぁぁぁ!!やぁぁぁぁぁ!!」
「ひゃぁぁぁぁぁぁ!!」
「イヤァァァァァ!!!」
マツは全身をガクガク震わせながら、手を合わせて祈りを捧げた。すると目の前の少女も合掌し歯をガタガタ鳴らしながらお経を唱え始める。からかわれている!とマツは恐怖した。なおも諦めずに手を合わせ、マツは見開いた目から涙を流しながら目前で存在を誇示し続ける二つの霊魂の成仏を祈る。お願いします仏様、この悪霊の御霊を今すぐ迎え入れて差し上げて下さい。出ないと私が連れていかれてしまう!
途端にマツの体が光に包まれた。光は徐々に薄いベールのようになり、やがてマツの体を覆い尽くすと、マツの中から次第に恐怖の感情が取り払われ代わりに幸福感がゆっくりと全身を満たしていく。あぁ良かった、とマツは思った。願いを聴き入れてもらえたのね。
マツは光の中で、次第に見えなくなっていく二人の少女の魂の安寧を祈った。
【藤谷ましろ其他登場回】
・本の虫を探す―http://ncode.syosetu.com/n8123by/
・静寂の極意を得る―http://ncode.syosetu.com/n8783by/
・眼鏡越しに愛を見る―http://ncode.syosetu.com/n2550bz/