9.母子
走り抜けた一太刀の後、遥香の体は大きく傾いた。支えを失ったようによろめき、力無く路面へとくず折れていく。雨に濡れた紫の長髪が宙へ広がり、閉じた瞳の側から街路へ近付く。
「母様!」
あわや硬道へ衝突という瞬間、咄嗟に進み出た藍華によって女性の身は受け止められる。糸が切れた人形のように沈む体は、正面に立つ娘の腕内へと倒れ込んだ。
意識のない母を抱き止めた藍華は唇を噛み、ゆっくりと膝を折る。そのまま地へ膝頭を着けると、遥香の体を仰向けにして路上へ横たえた。
「母様……」
己の手に残る、実母を斬った生々しい感触。抱き止めた母の冷たい体。幾つもの要因が少女の胸を抉る。自ら決めた事、覚悟していた事であっても。
動かなくなった母の遺骸を見下ろしながら、藍華は物憂い気に目を伏せる。
十年という歳月を経て行われた、今は亡き母との再会。それは心を喪くした屍人形との、命懸けの殺し合いという形で実現された。
かつて心通わせた母子の決闘、それが少女の胸に宿らせたのは達成感ではない。言葉に出来ない侘しさと辛さ、切なさと悲哀の色。心中に滲む灰色の感情は、それまで勇猛な戦士として活動していた娘子の顔から覇気を奪い、強い懊悩を浮かべさせる。
頭では、これで良かったのだと理解している。しかし心が、全ての事実を完全に許容してはいない。埋め難い矛盾が軋轢を生み、我知らず少女の身を僅かながらに震わせた。
「……ぅ」
拭えない悔恨に胸を灼く少女の耳へ、不意に声が流れ込む。か細く弱々しい、生気を欠いた音が。
それでも彼女の意識を、思考の深海から現実へ引き戻すには充分だった。藍華は今一度焦点を眼前へと戻し、路面へ横たえられた母を見る。赤黒く薄汚れた着衣に身を包む女性は、閉じられていた瞳を力なく、薄っすらと開いていく。
「母様? 気が付かれたのですか」
少しずつ上がっていく瞼の奥、藍色の瞳を覗き込むようにして藍華は問う。不安、喜び、哀しみ、申し訳なさ、様々な感情が綯い交ぜになった自身の顔が、目の前の双眸に映っている。
「……あい、か」
しばらく呆然と少女を見返していた遥香。その唇が小さく動き、掠れた声が娘の名を呟く。十年ぶりに愛する母から名を呼ばれ、藍華の顔は瞬間的に強張った。しかし次には表情筋が力を失い、輝いていた眼光の軟化と共に目を涙で潤ませる。
「はい」
込み上げてくる無数の感情を堪えるように、少女は短な一言だけで返事する。十年分の想いが溢れ出ないよう、必死に心を抑え込んで。
そんな我が子の姿を藍瞳に映しながら、遥香は口許を緩ませた。声なく穏やかに微笑むと、静かに右手を動かして娘の頬に触れる。
「……大きく、なったわね」
昔となんら変わらない優しさを面上に刷き、掠れた声で囁く。今は遠きあの頃と同じ、慈母の微笑を顔へと湛え。愛しい娘を視界に収め、添えた片手を緩やかに動かす。
死別した母に頬を撫でられながら、藍華は記憶そのままな母を見詰め続ける。微かに震える唇からは声が出ず、代わりに目から滴る涙が数滴、遥香の頬へと落ちた。
「……藍華」
湧き上がる想いと涙でくしゃくしゃになった娘の泣き顔へ、穏やかに笑みかける母。生気のない白面は無数の雨粒に濡れているが、愛娘の成長へ対し確とした喜びが窺い知れる。
優しげな微笑が藍の眼を覗く折、少女もまた実母の顔を凝視して止まない。自らの網膜に、そして記憶に、彼女の姿を余す事無く刻み付けんとするように。
「本当に――」
遥香の唇が動き、新たに何かを語ろうとした瞬間。唐突に、彼女の言葉は途切れた。出る筈だった声の消失と同時、女性の体は塵と化して崩れ去る。肉体は粉微塵に果て、全てが微細な砕粉に変じて霧散していく。
後には襤褸切れのようなブラウスとロングスカートだけが残り。遥香の腕へ刺さっていた一刀は、支えを失い路面へと転がった。
音もなく消えていく母だった物を、藍華は無言で見詰めている。全身を紫水に濡らしながら、黙して微動だにしない。重い水分を乗せて垂れた前髪は彼女の顔を隠し、表情を判然とさせぬ。そんな中、紫雨に汚れた面貌の下、頬を透明な水が一筋伝った。
降り頻る雨粒が硬路を打ち、規則的な雨音を刻む。何処か遠くでは、獣の咆哮じみた絶叫が上がっている。立ち並ぶ家屋の向こう側には、蠢く何者かの影と気配。世界は依然として今を進めているが、少女は動かない。一点へ向けられた視線、引き結ばれた唇、色を喪くした表情、振れない四肢。重い沈黙は、その後も只管に続く。
「さようなら……母様」
どれ程の時間、そうしていたのか。不意に、藍華の口から零れ出たのは端的な声。跳ね飛ぶ水音に飲み込まれてしまいそうな、小さな声音。けれど確固とした響きを以って、大気を貫き通す力強さが込もる。
これと共に上げられた彼女の顔は、既に前を見据えていた。深い哀色の情感を内へ含みつつ、下向きの要素を一切垣間見せない。決別の意が、そこには存在している。独特の色合いを食み、以前に増して強健な決意と覚悟が透けて見えた。迷いのない眼差しと、凛とした面立ちは、彼女の心に灯った類稀な自立心を感じさせる。母への依存は何処にもない。
「私は、往きます」
完全に消えた遥香へと一言だけ告げて、藍華は無駄のない所作で立ち上がる。その最中、自らの刃を鞘へと納め、路面に置かれたままだった白刃を拾い上げ。片手で刃を振るい、水滴と浮いた汚れを合わせて飛ばす。
迷いも嘆きも早々に捨て去り、母への気持ちに終止符を打った娘。再び両の脚で地を踏み立つ少女は屈強な戦士の色を全身に刷き、藍の双眸で遠く聳える巨塔を見遣る。猛禽の如く鋭さ増した瞳は凍て付いた輝きを照らせ、一刀握る手指へと力が込もった。低く鳴る柄と肉の軋み音が、彼女だけの世界に満ちる。 程無く、藍華は一人歩き出す。全ての元凶が哄笑を吐く、遥かな高建目指して。
「ふふふ、ボクの傑作が壊されてしまいましたか」
死者の蔓延る都を見下ろし、少年は嗤う。奇怪な髑髏を片手に持って、さも愉しげに歪められた口唇は、弦月の形を作る。
「アレには随分と手間隙を掛けたのですけどね」
わざとらしく両肩を竦め、大袈裟に溜息を吐く。実際には全く堪えている様子はない。寧ろ逆だ。必死に笑いを押し殺そうとしているのが、小刻みに上下する肩から知れた。
「まぁ、いいでしょう。もっと、面白そうな玩具が手に入りそうですから」
誰にともなく呟きながら、美貌の少年は両瞳を輝かせる。鈍く光る邪悪の眼が映すのは、彼方下方に在る一人の少女。魔力を宿した瞳だから見る事の出来る遠距離の映像へ、彼は舌なめずりをする。
「早く来て下さい。そして貴女をボクの手で弄らせて下さいよ。貴女の母と同じ様に。ふふふ、はははは」
温もりを欠いた柔声が、少年の口から滑り出る。濃厚な悪意と狂気が滲む声に、握られた髑髏は妖光を増したかのよう。純然たる害意の塊へ、纏わされるのは瘴気。巨大な闇を従えた少年の、欲望に塗れた高笑いは続く。
今作はタイトルが示す通り母と娘の話がメインとなっています。
その為、遥香&藍華親子の決着がついた段階で、終わりという形となります。
屍術師の少年と藍華の戦いや、母を失った藍華がどんな人生を歩んだか、街人に襲われた若者、少年と女性戦士のその後などは、また別のお話という事で。
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