アリス王太子殿下の奥様は
アリス殿下視点です。
俺の妻は、俺だけの可愛い妻だ。
それは、譲れない。
可愛くて、賢くて、気遣いもできる――万能である。まさに、未来の王妃に相応しい女だと思う。正直、唐突に、俺にはもったいない女じゃないかと思ってしまうこともあるけど、そう言うたびに、“貴方だけです”と言うあいつが可愛い。
我が国でも権力を持っている、とある侯爵家のご令嬢、それが、王太子である俺の妻、ディアンテであった。
正直に言おう。
恥ずかしながら、俺は、はじめは、あいつのことが嫌いだった。物心ついた頃から婚約者だったわけだから、俺は、気付いたらあいつが嫌いになっていたというわけだ。
今思えば、理由は単純である。
まず、俺より頭が良かったこと。ことあるごとに、教師たちは、ディアンテならこれぐらいのことはできる、ディアンテの勉強はここまで進んでいると、俺は、優秀と言われたディアンテと比べられるハメになっていたからである。
次に、あいつは、元々、かなりの性悪であると噂だったこと。使用人に無理難題を突き付け、手をあげ、しょうもないことでクビにする。そして、自分より家格が低い者に対しては、とことん見下した態度を取る。もちろん、俺に対しては猫を被っていたが、あいつの悪い噂を聞くたびに虫唾が走った。
しかし、なんでもできるあいつの唯一であり、最大の欠点が、この性格であり、勉強では追いつけない俺も、性格ではあいつに勝っていると、そのことが心の拠り所になっていたということに気付いたのは、随分、経ってからだ。
そして、俺に会う時のあいつの身なり、態度。気持ち悪いくらいの猫かぶりにぶりっ子。キンキンと頭に響く、気持ち悪い猫なで声の混ざった裏声。幼児のくせに、臭いまでにつけている香水。鬱陶しいまでにしつこく、俺にまとわりつくという行動。その存在そのものがダメだった。
しかし、ヤツの優秀さは、俺はもちろん、父上である国王陛下が知ってる、俺と婚約可能な令嬢の中では、ずば抜けて1番だった。それどころか、俺よりも優秀で、少なくとも、国外流出は絶対に避けたい人物であることは間違いない。……あくまでも、国としては、だけど。
俺個人の感情が許されるのであれば、婚約破棄したいのは山々だったけど、王侯貴族の婚姻は、個人の我儘など許されるものではないと、さすがの俺も、嫌というほどわかっていたのだ。
俺の状況が……というか、俺の婚約者だった、現妻が変わったのは、俺たちが6歳の時だった。
当時、憎くて仕方なかった婚約者であるヤツが、高熱を出して寝込んだのだ。
正直、ふーん、くらいにしか思わなかった。いっそのこと、そのまま死んでくれれば、あいつと結婚なんてしなくてもすむのにな、と思いもした。
さすがに、巷にあふれる、女が好きな恋愛小説のように、身分のない女に一目惚れした王子が、とにかく尽力して、走り回って根回しして嫁にする――なんて、お伽話レベルの夢なんて見たこともないし、現実問題、そんなことをしたら、絶対に政務に問題が出てくるだろう。政務だけでなく、外交とかにも問題が出るかもしれない――俺は、そんな危ない橋を渡るつもりなんてない。ないけど、せめて、もう少し違うのもいるだろうと。恋愛結婚とか、そこまでの我儘を言うつもりはない。どう考えたって無理なのはわかってるから。しかし、もっとマシな女がよかった。
俺は、そんなことを考えて、馬車の中でため息を吐く。
まあ、当然の流れと言えば、当然の流れなんだが、ヤツが高熱を出したというのを聞いたのが1週間くらい前。そして、昨日、ようやく、意識を取り戻したと連絡がきた。どうやら、熱が高すぎて意識が混濁していたようなのだ。
で、意識が戻ったらしいので、婚約者として見舞いに行って来いというのは、我が父上であり、国王陛下の国王命令だ。ああ、あれは、父親としてではなく、国王として見舞いに行って来いと言ってたな。そうでもなければ、俺は、今、馬車の中にはいない。
乳兄弟であるイオアネスには、馬車で待っているように言った。顔見せるだけ見せて、さっさと帰ろうと思っていたからだ。
屋敷に招き入れられるなり、見舞いの品を適当に執事に押し付けると、ヤツの部屋に向かって迷いなく進む。侍女を呼び止めて案内させるのも面倒だったのだ。何度も訪問しているため、ヤツの自室の場所も、もちろん、把握している。
ヤツの部屋の前に着くと、ドアをノックしようと手を上げる。しかし、俺がドアをノックする前に、ドアが向こうから開いた。
何事かと思えば、侍女が退室しようとしているところだった。
じぃっと侍女を見上げていると、振り向いた侍女が俺の存在に気付き、声を上げる。
「あら、殿下!?」
「おい、通せ。見舞いだ」
すると、ドアの向こうを気にする様子を見せ、困った様子で眉間にシワを寄せた。
「申し訳ございません。少しお時間をいただいてもよろしいでしょうか」
「いや、顔が見たかっただけだ。こちらが押しかけたのだし、病人の格好に一々文句などつけん。そこまで狭量な男ではない」
「いえ、その……」
「よいと言ったらよい」
「……申し訳ございません」
なぜか、少し渋ってはいたけど、俺は、本当に、ヤツがどんな格好をしていようと気にならないし、そもそも、長居をするつもりもないのだ。
俺が言いたいこともわかっているのだろう。侍女は、何か言いたげな顔をしつつも、もう何も言ってきたりはしなかった。
俺は、侍女の横を通り抜け、ベッドを見るが、そこには誰もいなかった。部屋をぐるりと見回してみると、部屋の奥の方にあるドアが開いていた。トイレのドアだ。
……まさか、ドアを開けっぱなしで用を足しているのかと引いた。かなり。誰も、お前のそんなところ見たくもないのだが。
どうしようか迷ったけど、とりあえず、ドア付近まで足を運ぶ。すると、なんだか、独特の臭いが鼻をついた。そして、はあはあと苦しそうな弱い呼吸音。まさか、と思い、恐る恐る、そっとトイレの様子をうかがってみると、俺の視界の下で、銀髪が便器に向かい合った状態でぐったりと座り込んでいた。ヤツは、用を足していたわけではなく、嘔吐していたようだ。その姿が妙に小さく見えたのが不思議だった。
「…………無様だな」
そして、俺の口から出た言葉は、ソレだった。
真上から観察していると、ヤツは、苦しそうに無理やり息を吸い込んだかと思ったら、なんとか口を開いた。……大丈夫か、コレ。本当に死ぬのではないか?
「……申し訳ありません。とんでもないところをお見せいたしましたわ。非礼を、お詫びいたします。すぐに、侍女にお茶でも淹れさせますので、あちらでお待ちになっていただけるかしら」
意外とまともに長文を話したのでびっくりした。なんだか、そんな状態なのにもかかわらず、すましたような対応をするのが気に食わなくもあった。
「……お前、しんどくないのか」
うんざりとした気持ちで、でも、純粋に不思議でもあった。別に、嫌味でもなければ、憐みでもない。
すると、ヤツは、ふらふらと首の筋肉を心配したくなるような頼りない動きで顔を上げると、情けないくらいに力のない顔でへらりと笑う。
「せっかく、殿下がわざわざ、足を運んでくださったんですもの」
ああ、はいはい、と言葉を流す。
それよりも、口元が汚れてるし、服のソレ……嘔吐物ではないな。緑の何かがついてる。緑の……なんだ、ソレは。気持ち悪い。
俺の目線の先がわかったのか、自分の今の状態に気付いたのか俯いたヤツの銀の髪を眺める。こちらは、汚れてはいない。
「……きったねぇなぁ」
「すみません。すぐに、着替えてまいります」
俺の言葉に怒るでもなく、羞恥に顔を染めるでもなく、それだけを口にした。
その様を観察しているけど、“すぐ”と言ったわりには、動かない。もしや、動けないのだろうか。そういえば、さっき、頭を上げる動作でさえつらそうだった。こいつのそんな様子なんて初めて見るもんだから、物珍しくて、なんとなしに眺めてしまう。
余裕がないのかなんなのか、じいっと立っている俺に、いつものようにしつこく声をかけることもなく座り込んでいたが、しばらくしてから、のっそりと動きだしたヤツは、便器に手をついて、無理やり筋肉を動かすようにして立ち上がると水を流す。
未だに、ヤツを観察していた俺に、少し待つように言うと、横を通り抜けてクローゼットを漁る。……漁るというか、クローゼットを開けた直後、大して吟味するでもなく、目についた夜着を適当に引っ張り出したようだ。身なりを無駄に気にするヤツが、しかも、俺の前なのに、そんな行動を取るとは珍しい。
お茶の用意をさせるためか、ベルで使用人を呼んでから、突っ立ったままの俺に椅子に座るように促し、自分は、トイレに入る。……また、吐く気かよ、あいつ。っていうか、なぜ、夜着まで持って入ったのだろうか。
椅子に座って待っていると、侍女がやってきて、1人分のお茶と菓子を置いていった。……俺の分だけってことか? あいつの分はいいのだろうか。
お茶を飲んで待っていると、少ししてから、ヤツが綺麗な夜着に着替えた状態でトイレから出てきた。……トイレで着替えたのか。器用なことだ。確かに、俺は、ヤツが着替えているところなんか見たくもなかったわけだが。
俺がヤツを眺めながらお茶を飲んでいると、ふらふらとおぼつかない足取りで歩いてきたのにも関わらず、俺の正面に置かれた椅子に、いつもと変わりないシャンとした姿勢で座ってみせた。
しかし、座ればまともに形にはなっているものの、いつもと比べると、隙があるように見える。病人なのだから当然と言えば当然なのかもしれないが、ヤツらしくなくて面白かった。
いつもと違うヤツを眺めながらお茶をし、思っていた以上に長居をしてしまった。そして、病人の見送りはいらない、とヤツがいる部屋を1人で後にした。
その数日後のことだった。俺は、我が父上でもある国王陛下に呼び出された。
一体、どうしたのだろうか。もしや、また、見舞いに行って来いとでも言われるのだろうか。
うんざりとした気持ちで国王陛下の呼び出しに応じると、国王陛下からは、お叱りをいただいてしまった。
先日、婚約者の見舞いに行った時の態度が悪かったと抗議されたようなのだ。
あいつ、いつも、俺に対して猫被っているくせに、何言いやがったんだと顔に血が上った。そもそも、俺が何をしたというのだ。
国王陛下の話によると、抗議は侯爵家の当主からのものだったようで、あの日の夜、あの婚約者殿が泣き言をもらしたらしい。“しんどい”“つらい”と。いきなりのことだったものだから、詳しく話を聞いてみれば、“王太子殿下も私のことなんてどうでもいいのですわ。もう、全部、全部……堪えられません”とかなんとか言ったらしい。で、その日に見舞いに来ていた俺が何かやらかしたのだろうと侯爵は察した。もし、体調が回復した時、ヤツが婚約破棄をしたいと言った時には、婚約破棄をさせてほしいと打診してきたという。
「アリス。お前がなんと言おうが、私は、ディアンテ嬢以上の令嬢はいないと思っている。お前の力になってくれるはずだ。
この婚姻に文句がつけたければ、ディアンテ嬢以上の令嬢を連れてくるか、お前が国王と王妃、2人分の仕事がこなせるようになってから言え。
というわけで、今からでも挽回してこい。わかったな」
国王命令だ。
「無理ですね。まず、国王陛下と王妃殿下の2人分の仕事なんて、人外でもない限りこなせません。令嬢の件に関しては、すでに、他に技量のある令嬢がいないか、過去に調べさせたこともありましたが、どのご令嬢もディアンテ様には遠く及びませんでしたし」
「……わかっている」
「そうですね。ですから、今、殿下は馬車に乗っていらっしゃるわけですし」
言わなくてもわかっている現実を、一緒に馬車に乗っているイオアネスが容赦なく言葉にした。
「そもそも、今まで黙っていましたが、殿下のあの態度で、よく嫌われないなぁと思っていたんですよ、私は。だって、ディアンテ様はプライド高そうじゃないですか。なのに、あんなに蔑ろにされて。もし、先日、いつもの調子で殿下が接されていらっしゃったのでしたら、心が折れても致し方ないのではないかと」
「…………」
「だって、考えてみてください。私も、彼女のことについては、色々と思うところがありますが、彼女は彼女なりに殿下に好かれようとしていたわけです。そんな相手に、病で心が弱っている時に、ツラく当たられれば、どう思います?」
……確かに、前に見たヤツはボロボロだった。そんなヤツに対して俺がしたことはなんだ? 観察だ。見舞いの言葉も気遣いの言葉も一切言わなかった。今、思えば、ヤツが一緒にお茶をしなかったのは、菓子を食べるどころか、お茶も飲めないくらいの体調不良だったからではないのか。……現に、直前まで嘔吐していたわけだし。それを、椅子に座らせて観察していたのだ。俺は、少なくとも、横になることを許すとだけは言ってやらなければならなかった。なぜなら、王族の目の前で、黙っていそいそとベッドにもぐりこむようなヤツはいないのだから。
「その……只今、お嬢様はようやく、お眠りになったところでして……」
「少しだけだ」
「昨夜も、なかなか寝付けず、今、ようやく、です。申し訳ございませんが、本日のところはご遠慮いただけませんでしょうか。本当に、申し訳ございません」
侯爵邸に来たものの、さっきから、侍女はずっと、こんな感じだ。ヤツを俺に会わせる気がないようだ。これ以上は、無駄だろう。そう判断した俺は、見舞いの品だけ渡して引き返した。
しかし、この日だけにとどまらず、行くたびに、同じように門前払いをくらった。
前まで、あいつは、人望なんて皆無だったはずなのに、使用人総出で守られているという印象だった。一体、何があったというのか。
俺は、焦った。このままだと、いつになっても面会できない。このまま婚約破棄になるかもしれない。そんなことにでもなったら父上になんと言われるか……。
俺は、とうとう、我慢ができなくなり、どうしても気になるから、ヤツが目を覚ますまで待つので面会をさせてほしいと頼んだ。
王太子である俺に、そこまで言われるとどうすることもできなかったらしく、少し応接室で待つように言われた。執事が同行することと、もし、体調が悪そうであれば、すぐに、引き上げるように頼まれた。
しばらくして、侍女にヤツが目を覚ましたことを告げられ、ヤツと面会する。
聞いていた話から、随分、滅入ってしまっているのかと思いきや、かなり落ち着いた様子だった。
もっと、廃人のような感じか、俺に罵声を浴びせるかすると思っていたのだけど、それどころか、いつもよりも遥かに落ち着いた対応をされてしまった。
なんだか、気持ち悪い。何が気持ち悪いって……なんだか、ヤツと喋っていると、雲を掴むかの如く……はっきりしないというか、ヤツが何を感じ、どういうつもりで喋っているのかわからなかったのだ。前は、そんなことはなかった。明らかに、俺に取り入ろうとしているということが目に見えてわかったくらいだ。
俺が珍しく話を振ってやっても、なんだか、空振りをしてしまったかのような錯覚を受けてしまう。実際は、俺の言うことにちゃんと応えていたし、時折、笑ってみせたりする場面もあった。……でも、漂う空振りした感覚。まるで、手を伸ばしてもすり抜けられているかのようでイライラして仕方がなかった。
そのことを帰りの馬車でイオアネスにぼやくと、イオアネスは難しい顔で言った。
「さっき、ディアンテ様の症状を聞いて、原因は心労ではないですかと申し上げたことは覚えていらっしゃいますか」
「そんなことも言ってたな」
見舞いの品として果物を持っていったのだが、その場で侍女にむかせようとしたら、嘔吐してしまう可能性があるから、今は食べられないと拒否されてしまったのだ。そこで、イオアネスがそんなことも言っていた。
「心労の原因は、殿下との関係がうまくいかないことではないかと思うのですが……」
あいつが、そんな可愛らしい性格だとは思えないが、執事が言うには、風邪の症状は、吐き気・嘔吐しか残っておらず、風邪にしても、その症状だけがここまで長引くのはおかしいと、首を傾げていたところだったらしい。
真相はわからないが、父上に聞かされた話のことを考えると、そういう結論が出るのもおかしくはないかもしれない。
「あまりにもうまくいかないせいで、本当に、殿下のことを諦められた――最悪、殿下のことなんてどうでもよくなってしまったということもあるかもしれません」
「あいつがか? 婚約者のくせに?」
「それは、ディアンテ様のことを嫌ってらっしゃる殿下が言えたお言葉ではないでしょう。
だって、あの笑顔、反応……茶会に参加している時の貴族の顔と同じでしたよ」
イオアネスの言葉は、俺の頭にかかっていた霧を取り払った。確かに、そうだ。あの、いくら手を伸ばしてもすり抜ける感じは、あいつがこちらに壁をつくっているせいだったのだ。
本当に、これから、どうしたらいいのだと、俺は頭を抱えた。