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F l a t_フラット 作者:aza/あざ(筒示明日香)

♭05

8/17

───give hostage to fortune.

 





♭05 あなた、を、得る、と言うことは。



   【───give hostage to fortune.】






 何とも言えない気分に嘖まれて、情報処理室を出た私は「やぁ、翅白くんじゃないか!」芝居掛かった声に出迎えられた。目を向ければ人のいなかった事務室に二人戻って来ていた。一人は以前見直した地味な人。もう一人は。
「やぁやぁ久し振りじゃないかぁ」
 窓際のデスクから、舞台で演技中の役者みたいにオーバーアクションで手を振る白い長髪が目印の美形さん……なんだけど、どうにも……苦手なのよね。とは言え無視する訳にも行かないので。
「一日振りですよ、(かば)チーフ。こんにちは」
 私が挨拶を返すとにぃっと笑って、樺チーフは頬杖を突いた。
『チーフ』と付くことでわかる通り、彼はこの部署のトップで『変人』として、雅彦の浮き名と並ぶ程施設内では有名な人だ。……厄介な人に捕まっちゃったなぁ。私がこの人を苦手なのは、偏に生理的に受け付けないのと。
「あー、そうそう、翅白くん聞いたかい? 崎河くん結婚するんだよ!」
 この、デリカシーの無さだ。地味めな人が「チーフ!」大きな声で叱責した。部下に叱責される上司とか……。まー、私も雅彦とは切れているんで良いんですがね? でも別れたばかりのころや振ったくせに物言いたげな雅彦に苛立っていたときなら、逆鱗だったかもしれない。
「何だい、野中くん? 大きな声を出して」
 飄々と片眉を上げて笑うチーフ。コレだよ。優秀な人なんだろうけど……面倒臭い人なんだよね。樺チーフの動じない態度に呆れ半分感心半分を抱く一方で、あれ、『野中』ってどこかで、と引っ掛かっていた。
「あのですね、チーフ、そう言うことは、」
 地味めな人改め野中さんが樺チーフを窘める。この人見ると、ウチのチーフがまともに思える。いや、人間的に元からまともなんだけど。
「良いじゃないかぁ。翅白くん、崎河くんとはきれいさっぱり別れたんだろう?」
 大仰に肩を竦める樺チーフ。うーん。
「そうですね。未練も無いです」
「だろうー? ほらー、野中くんは気にし過ぎなんだよぉ?」
「見てわからないんですかっ? 明らかに気を遣われているんですよ! 翅白さんは空気を読んでいるんです!」
 常識人は基本苦労するものだ。可哀そうに、野中さん。樺チーフ「えー? そう?」とか訊いて来るし。野中さんは「当人が“そうだ”って正直に頷く訳無いでしょうが!」と叱っている。繰り返しますが、樺チーフは『チーフ』です。野中さんと、雅彦の上司です。頭を抱えたあと野中さんが、わざわざ席を立って私の前に来た。
「すみません、ウチのチーフ、ちょっと人間的におかしいんです」
 頭を下げ樺チーフに代わって謝る野中さん。言い切ったよ。人間的におかしいって。樺チーフは「えー?」と不満そうな声を上げるが仕方ないよね。樺チーフは愉快犯だ。しかも、にやにや笑っているところからして確信犯。
「良いんですよ。業務中でしょう? 忙しいんでしょうから戻ってください」
 樺チーフも野中さんもあんなコントみたいなやり取りをしているが手は止まっていなかった。ちなみに野中さんは三回、樺チーフは零回バックスペースを使っていたようだからやっぱり樺チーフ、一応は『チーフ』よね。……手元が見えていた訳じゃないけどわかるわよ、感覚で。
「はい、……あ、翅白さん、何か用事が在ったんじゃ……?」
 あ、そうだった。雅彦にお使いの書類一式渡しちゃったんだった。首を傾げる野中さんに「書類を届けに来たんですけど、皆さんいらっしゃらなかったので中の崎河さんに渡しました」情報処理室を指して現状報告する。雅彦の『崎河』って呼び方も馴染めないけど慣れたなぁ。野中さんは「そうでしたか。お手間を取らせました」と酷く申し訳無さそうな顔をする。……常識人だなぁ。良い人だなぁって胸がほっこりしてるんだけどここへ飛ぶ「崎河くんとー、逢い引きじゃないのかーい?」樺チーフの野次。もう黙れよ中国から移民したロシア人……だったよね、確か。野中さんが眦を吊り上げ「チーフ!」抑えた声で怒鳴る。私の微かにだがしていた愛想笑いも引き攣る。そろそろ野中さんが不憫だ。さっきので後ろめたいんじゃないのよ。
「私、戻りますので……」
「あ、はい、本当に申し訳在りません」
 恐縮し切りの野中さん。マジ不憫だ……。
 私は断りを入れ退室した。出る間際私の視界を掠めたのは頭を深々下げる野中さんとのんびり手を振る樺チーフだった。……もう、何かね。

 雅彦の部署を退出した私は携帯端末の着信に気が付いた。更に受信にも。発信者はどちらも刑部で内容は“そのまま休憩入ってください”だった。端末の時刻を見て刑部のヤツ、もう出勤してたのか、と。だって早過ぎる。
 大方、ウチのチーフから正乃妊娠疑惑を聞いて早めに出勤して来たんだろうけど。確かめようにも正乃は今病院らしいしもう片方の当事者は情報処理室に籠もっている。書類のお使いは私がやってしまったし。
 私が心配なのかな? あの後輩は。今は同僚。昔は教え子だった。莫迦みたいに、私の周りはやさし過ぎる。雪菜も、刑部も、……侑生も。
「……」
“今だって、柄にも無く、誰でも良いから、って祈ってるんだ”
 支倉さんや、雅彦も、ね。私は休憩に入るつもりで中庭に行くことにした。
 中庭へ向かう途中施設に点在する休憩室の一つに寄った。中庭の近くに在るその休憩室は一般部署からも離れていて人気は無いに等しい。雨の日は私も使っていた。今日は……晴れているから。
 私は飲み物を買って中庭へ足を向けた。

「あれ?」
「あっ……先程はどうも」
 お互い認識した瞬間会釈し合う。先客は点々と設置されたベンチでなく芝生に覆われた木陰でお弁当を広げている。ついさっき会った人。
「昼休憩ですか? ……野中さん」
 一瞬名前が浮かばなかったなんてごめんとしか言いようが無い。地味な人こと常識人、野中さんだった。
「はい。やっとお昼です。翅白さんは?」
「私は中休憩。昼はもう少しあと。一人早出したみたいでささっと取っちゃいなさいって連絡来て」
「そうなんですか。あ、ここ座られます?」
 ベンチに行こうとして野中さんに気付きその前まで来てしまった。今更断るのも変だし近くにベンチも無い。ここは「良いんですか?」訊き返すのが定石だろう。
「どうぞどうぞ」
 笑顔で隣を勧める野中さんに「ありがとうございます」礼を述べて座った。昔の私なら有り得なかったことだ。何かに付けて断って逃げたに違いない。殊、雅彦と別れた当時の疑心暗鬼の私なんかもっと突っ慳貪に突き放していたかもしれない。私、表面はともかく本意では余裕全然無かったなぁ。いつからだろう。子供時代はまだゆとりが在ったのに。友達もそこそこいたし。今じゃ疎遠も良いとこだ。……切っ掛けが無いとなかなか会うことも無いのよね。
「翅白さんとこうして休憩取れるとか光栄だなぁ」
 朗らかに笑うので私も小さくだけど噴き出してしまった。他の人ならお世辞なんて要らないと、気分を害するところだけどこの野中さんは裏を感じさせなくて、私も素直に受け止められた。
「大袈裟ですね」
「そんなこと無いですよ。翅白さんとお昼なんて、周囲にバレたら首絞められますよ」
 まさかそんな、と私は笑い飛ばすのだけど、野中さんは冗談なんかじゃないと真剣だ。ええと、と私の戸惑いを察したのか「そう言えば、」と話題を変える。常識と気遣いを持つ彼に私の好感度はまた上がる。良い人だなぁ。刑部もだけども、刑部は小動物系のアイドル系な顔立ちだ。野中さんは印象が地味な、大人っぽい風貌。父も派手では無いけれど、父のほうが若干きれいめなのだ。男性に“きれい”が適用されるのかと言うのはこの時代では是である。侑生だってそうだしね。雅彦も顔だけなら美形なんだよ、顔だけなら。
「正乃……っ、枝田(えだ)は、来ているんですか?」
 野中さんが最初に正乃を名前呼びして、次いで慌てたように名字呼びに言い換えたところで、私は正乃から野中さんの名前を聞いたことを思い出した。野中さんの名前を聞いたときに引っ掛かったのは、コレだったのだ。
「野中さん、正乃と知り合いなんですか?」
 野中さんの問いに私は質問で返した。野中さんはちょっと困った顔をして「ええ、まぁ……」と濁した。私はそれ以上突っ込みはせず「正乃なら今は病院にいますよ。病院に寄ってから来るって」正乃の所在だけ答えた。
「そうですか……事実、なんですかね、妊娠」
「さぁ? まぁけど、崎河はアレで責任は取る男ですよ」
 軽薄に見えて、アイツは誠実な男だ。私を愛しているのは未練だからだと、わかっている。十年以上付き合っていた女だから、気に掛けるのが癖になってしまっているだけで。良くも悪くもアイツが誠実であったのは私との付き合いで判明したことだ。だって付き合っているときのアイツと来たら、他の女には一瞥もくれず、私を壊れ物だか汚せない[何か]だかと勘違いしている節が在ったのだから。雅彦が私の父と母の夫婦像に憧れていたことを私は知っていた。ゆえに、私への愛は、きっと憧憬や崇拝に近いんだと思う。
 少年の初恋に似ている。アイツにとっては初めてきちんと付き合った女なのではないだろうか、と。
 私のフォローに「承知しています」と「アイツがどんな人間か、わかっているつもりです」野中さんは言った。けれど続いたのは。
「でも、だからこそ気懸かりなんですよ」
「……。どうして?」
「崎河は、もう、本当に翅白さんに想いが無いんでしょうか」
 私は瞬きを数回した。言われたことを理解出来なかったのでは無い。鋭いなぁ野中さんと考えていた。杞憂だと言えない辺り、よく雅彦を見ているのだろう。
「無いことも無いんじゃないでしょうか?」
「やっぱり」
「言って置きますけど、私も崎河も終止符は打っていますよ。ただ、私たちの場合親関係の交流も在って、どうしたって完全に断ち切るのは難儀ってだけです。それも、まぁ、親が二人とも今では故人ですから、自然と離れますよ」
 と言っても気にしてしまうのも思い馳せてしまうのも仕様が無い。私たちはいっしょにい過ぎた。
“お前としあわせになりたかったんだ”
“お前を、圭を、愛してるんだよ”
“せめて、しあわせになってほしいってっ……今だって、柄にも無く、誰でも良いから、って祈ってるんだ……”
 私だって雅彦のしあわせを祈っていて、私が果たせなかったことを勝手に正乃に託しているんだ。私は「大丈夫」と笑んだ。途端、野中さんが哀しそうな表情をした。
「良いんですか? 翅白さんは、もう?」
「ええ。私はね」
 私が断言すると野中さんは難しい顔をした。悩乱、この単語がぴったり来るような。私は再び瞬きを数度して、ふむ、と黙考した。しばらく沈黙が満ちる。一昔前の私なら逃亡を企てただろう。不思議と、現在の私はそれ程居た堪れなさを感じていなかった。
 やがて野中さんが口を開いた。
「正乃が……」
「正乃が?」
「昨日急に電話して来て、言うんですよ。“(かん)ちゃん、どうしよう”って。……あ、俺下の名前『寛』って言うんです」
「……、どう言うこと?」
 詳細を聞いてみると二人はどうやら幼馴染みらしい。正乃の家は敬虔なクリスチャンで、躾も厳しく、緊張感の在る日常を正乃は強いられていた。ふぅうん。あのダンディお父様は良く言えばやさしそうな、悪く言えば甘そうな父親に見えたけれど。聞いているイメージだけだと、侑生の家みたいだ。その正乃の家は共働きで、週に何回か家が近所でお母さんが元保母さんと言う野中さんの家に、正乃を預けていたんだとか。まぁ、現代は『完全優遇制度』で既婚者の子持ちあるいはバツイチ子持ちは国から生活が保障されて、無理に働く必要性は無いのだ。お母様は仕事のしたい方だったのだろう。とにかく、正乃は野中さんの家で平日は過ごすことが多かった。
「正乃、超『猫被り』なんですよ。翅白さんの前でも、いいや、翅白さんの前だからこそ物凄い可愛い子振っているんじゃないですか?」
「振ってる、て言うか……まー、甘えては来ていますよ?」
「でしょう? でもねぇ、アイツ実際は超『姫様』っつーか、我が物顔過ぎて『女王様』なんです」
“『女王様』”……どっかで聞いたフレーズだな。何でも、初日手を差し伸べた野中さんに踏ん反り返って偉そうに「遊んであげても良いわよ。仲良くしなさい」とか言い放ったらしい。え、ごめん。正乃からそう言う姿浮かばないんだけど。外国の陶器製のお人形さんみたいに可愛かった正乃が急変したことで、野中さんもさすがに硬直したとか。
「“ウチに来た子とは仲良くしなさい”、って母親に言われてましたし、俺も他の子と遊ぶのは年齢男女問わず好きだったので……我が儘言う子にも慣れていたはずなんですけどねぇ……」
 苦笑する野中さんはそう言いつつもどこか楽しそうだ。けども私は少々想像出来なくて考え込んでいた。正乃が、ねぇ……。うーん、湧かないなぁ。
「俺、弁当自分で作ってんですよ」
「え、そうなんですか?」
 言われて、野中さんのお弁当を覗き込む。男性が作ったにしては野菜中心で品数も多く種類も豊富だ。もっとも、父や雅彦は趣味なのかってくらいに料理出来たし、支倉さんも普段やらないけど出来ない訳では無いので、一般的にどうかと言う基準で“男性が作ったにしては”と言う話だ。私自身は驚かない。だが次の野中さんの発言で目を剥くことになる。
「俺寮暮らしなモンで。ま、もともと母親の手伝いも兼ねて家事はしてたんで延長で、中学くらいからやってたんですけどね。んで、正乃のヤツ……“気持ち悪い”って言いやがったんですよ」
「ええっ?」
「“寛ちゃん、男のくせに気持ち悪ぅいっ”“むしろ寛ちゃんのくせに気持ち悪ーい”……アイツが中学に上がって俺が大学生のときなんて“相変わらず気色悪いっ。でもお弁当は私のも作ってね”って……自分が可愛くてウチの母親に気に入られてるの熟知してるもんだからやりたい放題……」
「……」
 余りの罵詈雑言に唖然とせざる得ない。正乃が言っている……正乃が? 少なくとも私の前の正乃は、圭さん圭さんと子犬みたいにどこへ行くにも付いて来る女の子だ。見た目は二十歳前後の“ゆるふわ可愛い女子”そのもので、ふわふわした巻き毛にピンクが似合う、私とは違って普段着にも気を遣った女の子で。雅彦絡みで多少当て付けめいたこともするけど基本笑顔を絶やさない。周辺との摩擦も無く他の研修生とも円滑な関係を築いている。
「ごめんなさい、想像付かない」
「だから、超『猫被り』なんですって」
 野中さん曰く野中さん以外の人には“品行方正の優等生で、かと言って堅苦しく無く弛めるところは弛めた満遍無く人当たりの良いお嬢さん”を演じているらしい。野中さん以外で?
「野中さんには、『素』ってこと?」
 聞いていると野中さん以外にそうならば、逆に野中さんは“特別”と言うことになりはしないか。私が指摘すると野中さんはこれでもかと嫌そうな顔をした。
「俺のことは“人間”だと見做していないだけです」
 死んだ目って表現が在るけれど、まさにコレって言うのにはお目に掛かることは少ないと思うんだけど……もし訊かれたら今の野中さんが代表的例じゃないかな。数秒その状態で固まっていた野中さんはふーっと深く息を吐くと「見做していないから」表情を変えた。
「俺の前では自分の感情をストレートに出すんだと思います」
「……」
 ふっと笑ったけれど、“案じている”と言外にその目は物語っていた。目は口程に物を言う。たまに口以上に物を言うことも在る。野中さんの視線は、これだった。
「昨日、正乃から着信が在ったんです。切迫した声で“寛ちゃんどうしよう”って」
「───」
「“妊娠したかもしれない、どうしよう”って」
 野中さんは無表情になった。そのときのことを思い浮かべているからだろうか。
「いきなり過ぎて、落ち着けって言いました。けれど、正乃は言えば言う程混乱を深くして行った。この時間帯に正乃の両親がいないのは知っていたんです俺は」
 厳しいご両親がいなかったから、正乃は取り乱したまま野中さんに連絡して来たし野中さんは遠慮無く駆け付けることが出来た。
「俺が行くと、正乃は凄い乱心振りでした。宥める俺に正乃が縋るんです。壊れたみたいに“どうしよう”って繰り返すんです。俺は、ただ背を撫でてやることしか出来なかった」
 一昨日前の私のようだ。泣く侑生に何もしてやることが叶わない。
「ようやく冷静さを取り戻したころ、事のあらましを聞きました。アイツ、ずっと具合が悪かったんですね」
 私は頷いた。正乃の体調不良はこのところずっとだった。顔色の悪さに早退させたことも頻繁だった。
「真っ青な酷い顔色でした。正乃。────昔を彷彿としました」
 初対面、ガチガチに緊張して頼り無さげに立ち尽くす女の子。微かに震える体は可哀そうで小さくて。考えるより先に体が動いた。差し伸べた手にぽかんと野中さんを見上げた可愛らしい容貌。転じて(えら)い豹変をするのだけど、守ってあげなくては、やさしくしなくては、こんな焦燥に陥る程儚く見えた。私は野中さんの話を静聴しながら、己と重ねた。侑生と私の出会いによく似通っていた。……いや、侑生は暴漢だったし正乃は暴君らしいし差異は大きいけどね。
「あんなアイツ見たの久し振りでした」
「……そう」
「はい」
「野中さんは、正乃が好きなの?」
 当然の問いだと思う。私が訊けば野中さんはきょとんとして、次に「さぁ」と曖昧な返答を寄越した。
「わからないの?」
「何とも言い難いです。守ってやりたいとか、思うんです。でもだからって恋人になりたいとかは全然思えない。有り得ない、と思うんです」
 野中さんが言うのはまんま私の侑生への気持ちに思えた。成程。
「まるで『保護者』ね」
「ですね……」
 茶化した風になってしまったがそんなつもりは無い。私が侑生に抱くのと同じに感じたからだ。私と野中さんは、恋愛観でなくたいせつな存在がいることでは似た者かもしれない。あ、あと地味仲間。雅彦と因縁が無ければ私は目立つことは決して無かっただろうから。……無性にアイツを殴りたくなって来たな。「まー、さー、」二人黙り込んで差し込まれた静寂を私がカットした。野中さんが気付けば俯き加減になっていた面を上げる。
「大丈夫じゃないですかね」
 無責任にも聞こえる一言。けれどもすんなり出た以上、取り消しは出来ない。野中さんが怪訝な顔をする。常なら逃げ出した状況だ。けど、案外、平気だった。私は笑った。
「気に掛けてくれる人がいると言うことは、重要なんですよ。気にしてくれる人がいるのは考えるより有り難くてしあわせ。いっぱいいっぱいのときは理解出来ないけど」
「……そう、でしょうか」
「ええ。私は、そう、でした」
 雪菜の眼差しが痛かったのは迷惑を掛けてしまった罪悪感ゆえだ。雅彦の物言いたげな目線が鬱陶しかったのは疚しい心が在るせい。侑生の純粋な瞳に縋っていたのは、“何も無かった”から。正負の区別無しに[何]も無かったから。
「有りの儘、受け入れてくれる人がいれば、どうともね、なるモンですよ。正乃が何か在ったら野中さんを頼りにするのが良い証拠でしょう」
 妊娠したかもしれないと、青褪めたとき真っ先に野中さんに言ったのだ。平時天邪鬼で捻くれていても、とっさの言動は正直だ。それに野中さんも言ったではないか。
「野中さんの前では、ストレートに出すんでしょう」
 泣けないのがつらいと、私は知っている。ううん、教えられた。
 侑生に。
 実体験としても、体験談としても。
「正乃が泣きたいとき、雅彦が使えなきゃ野中さんに来るわ」
「けど、それじゃ、崎河に悪くないですか」
 あ、『雅彦』って呼んじゃった、と思ったけれども野中さんは気にしなかったようだ。野中さんは情けない犬のように眉を下げている。おやおや。雅彦が悪さして正乃を泣かすって発想が無いのねぇ。良い同僚持ったじゃない、雅彦。
「えー? アイツが悪いから野中さんが心労掛けられてんですよ。苦情言われるどころか蹴っ飛ばしたって良いはずです」
「蹴っ……」
「簀巻きにしてもゆるされると思う」
「簀巻き……」
 野中さんが目を丸くして呆気に取られている。そう言や私が喋ると外見とギャップが在るから喋んなって雅彦が言ってたなぁ。おとなしそうに見えるみたいねぇ。お嬢様っぽいとも言われたっけなぁ。服と童顔のせいかね。正体はガサツなんですけど。
「いっそ、いっしょに蹴りに行きましょう。二人が落ち着いたら」
 私はにっと口の端を吊り上げた。野中さんは呆然としていたけれど間を置いて「圭さん……」ふわっと笑った。どこと無く、正乃に似た笑い方だった。……いつの間にか名前呼びなんだけど。ま、良いか。しばし和んでにこにこ笑い合っていた私と野中さんの間を裂いたのは「寛ちゃぁぁぁあんっっっ!」唐突に降って沸いた怒声だった。私たちは、声の発せられた方向へ一斉に顔を向けた。
「……」
「……しょ、正乃?」
 声の主は、正乃だった。仁王立ちで、え、何か今歯軋り聞こえ……ギリィッって、聞こえっ……。私は横を流し見た。野中さんの横顔も、物の見事に引き攣っている。二人して身を寄せ合って、いや抱き合いそうな程怯えていた。固着したみたいに動けなかったので不可能でしたが。二人で固まっていると「寛ちゃん……」地を這う正乃の、正乃様の声がっ! や、様付けたくもなるよ! 平常時「圭さーんっ」とかハートマーク飛ばして駆け寄って来る犬のようなのにっ、現今の正乃は悪鬼もかくやと言うお顔です。その形相で近付いて来るんですが、やめて怖い暗雲背負って見える晴れてるのに嫌だもう怖い。威圧されて縫い付けられたかの如く後退出来ません。誰か助けて。て、言うか雅彦来い。
「……」
 心で雅彦召喚を念じつつ、私たちの前にとうとうやって来た正乃を仰いだ。腕組みして睨み据える様は金剛力士より怒れる不動明王だ。
「しょ、正乃」
 震えそうになるがどうにか抑え正乃を呼ぶ。正乃は「寛ちゃん……」私をきれいにスルー。ええー? ちょっとは注目してほしかった。私の努力返して。だがしかし私のことなど毛の先も気にしていないのか野中さんを睨み付けている。なぜだ。悪いことしていないのに! 多分……あ。
 もしや正乃は、思い違いをしているのではないだろうか。私が野中さんにちょっかい掛けている、なんて。いやいやー。まぁ、“いっしょに雅彦蹴り倒して簀巻きにしようぜ”的なお誘いはしたけどもね。正乃の誤解を解かないと、と私は正乃の呼び掛けに再度挑戦した。
「正乃、」
「圭さん」
「……はい」
「少し待っていてくださいね? すぐコレを片付けますから」
 気圧された私は了承せざる得ない。片付けるって、“コレ”って何、視線からして野中さんのことっ? 矛先は私に向いていないらしいが、怖いんだよー。パピヨン犬みたいな毛足の長いチワワに威嚇されている気分だ。チワワって、俊敏で攻撃力が意外に高いと思うよ。
「寛ちゃん」
「な、何だよっ、さっきから!」
 ただならぬ様子の不動明王、もとい、正乃へ野中さんも恐怖に支配されているだろうに勇敢にも文句を言った。
「“何だよ”……?」
 鸚鵡返しの音程はやはり低い。たじろぎながらも野中さんは正乃を睨み返す。……ハブとマングースて言うかアナコンダとハムスターくらい格が違う両者の睨み合いは、ハブことアナコンダこと正乃が終わらせた。
「何だよ、はこっちの科白! 何馴れ馴れしく圭さんと話してんの寛ちゃん如きが!」
“如き”……? 私宛では無いのだが突如繰り出された暴言に私は間抜け面を晒した。本当に、誰、コレ。ところがだいぶ正気を取り戻したらしい野中さんが立ち上がって応戦し始めた。釣られた訳では無いけれど、私も立つ。
「はぁあっ? “寛ちゃん如き”って何だよ、だいたいな、」
「“寛ちゃん如き”は“寛ちゃん如き”よ! 寛ちゃん如きが圭さんに気安くお近付きになってんじゃないわよ! 圭さんが穢れるでしょっ?」
 穢っ……。正乃、あんたは私をいったい何だと……それ以前に野中さんを何だと。
「お……っ前なぁ、穢れるって何だ穢れるって! 俺は汚染物か! つーか、」
「汚染物! そんな大層なものな訳無いでしょ! 汚染物に謝りなさいよ!」
 汚染物に謝るの? 汚染物だよっ? 汚染物に謝るって……。小気味良く放たれる辛辣な連投に私は半ば呆れ気味で心中突っ込んでいた。て、言うか……。
「てっめ、言わせて置けば、」
「寛ちゃんみたいな平々凡々が圭さんに取り入って何してんのっ? 私や雅彦さんの目が無いことを良いことに何してくれてんの? 身の程を弁えなさい!」
「あのなぁ、どうしてお前が口出してんだよ圭さんの、」
「“圭さん”っ? 今寛ちゃん如きが圭さんを“圭さん”て呼んだのっっ? 何ナチュラルに呼んでんのよ、いやらしい!」
 うんまぁ私も考えなかったんじゃないけど、そこまで追及しなくて良いと思うの。にしてもさっきからことごとく野中さん、正乃に掻き消されて最後まで言わせてもらえてないわ。……て言うか。
「嫌だわ! 寛ちゃんたら裏では勝手に呼んでるってこと? 最低気持ち悪い!」
「お前、」
「ああーいやぁあああっ! 私の圭さんが穢されたぁああああ!」
「やめろっ! 誰か聞いていたら誤解されるだろうがぁっ!」
「誤解って何よ! 何する気よこの色情魔!」
「て、言うかさー」
 あ、声に出ちゃった。私の声が二人の耳に届いたようで言い合いがぴたりと止まった。二人して私に目線を向けて来る。あー、と。
「正乃って、そんな子だったんだねぇ」
 取り敢えず一番に思ったことを。私が言うと正乃が毛を猫みたいに逆立てて目を引ん剥いて「違います! 違うんです!」と叫んだ。ええと、……。
「何が?」
「ちっ、違うんです! 私、つい、」
「やーい莫迦莫迦。見ましたか、圭さん。言った通りだったでしょう? コイツはこう言う超『猫被り』なんですよ! 本性はこんななんです!」
「ちょ、黙りなさいよ! 平凡低脳!」
「ほらほらー、百聞は一見に如かず、語るに落ちてるんぞー」
「うっさい! にやにやすんなこの平凡早漏!」
「誰が早漏だよ、いい加減にしろ!」
 あー、せっかく収まったのに……。しかもどんどん低レベル且つ下品な方向に。どうするかなぁとこめかみを押していると、またも突然の闖入者によって遮られた。
「正乃ー! こんなとこにいたぁっ」
「“プロコン”の事務室にいなかったから心配したのよ」
 闖入者は現れるなり正乃に抱き着いた。駆けて来てはいたが勢いは殺していたようだ。正乃がよろけるようなことは無かった。としても妊婦に急に抱き着くのはどうだろうね。つうか“プロコン”てまさか『プログラムコンディショナー』のことか? あの五年目の不出来な教え子が使ったとき私、冷たい目を注いでやめさせたんだけど。
 闖入者は二人いた。二人とも女性。加えて。
「あ、……」
「ど、どうも……」
 私は「こんにちは」知っている。知り合いでは無い。顔見知りでさえ無い。この二人は。
「あ、圭さんは初めてですか? 二人は事務の子です。一般事務課で私の高校時代の友達なんです」
「ああ、そうなの」
 私はにこり、微笑んだ。────この二人は、私が珈琲マシンの水を汲みに行ったとき給湯室で陰口に興じていた二人だ。
“あの人さ、面白み無いんだよ。結局飽きられてたんじゃない?”
“だって、あの人面白く無さそうじゃない! 部長とか持ち上げてるけどさー。けどプライド高そうじゃん? きっと振られるのが嫌で、逃げたのよ!”
 季節も変わったし服装は違うけど、忘れてねぇぞ、こんにゃろー。そうかー、正乃の高校の友達かぁ。『プログラムコンディショナー』の正乃はともかく一般事務なら高卒と同時の本就職は可能だ。事務に必須の資格さえ在れば。研修も無いんじゃないかな。二人は日々私の悪口でも談笑していたのか非常に居心地悪そうにしている。視線で会話している。ははは。ほーれ、言いたいこと在るなら言ってみろやー。
「あ、の、」
 私の念が通じた訳では無かろうが正乃に抱き着いているほう、あの、甲高い声できゃらきゃら笑っていた、間近で見てもギャル系だったほうが話し掛けて来た。おう、何だ言ってみろ。思ってても表では「何?」微笑を保っていますよ、大人なので。
「正乃、は、良い子なんです! ゆるしてあげてください!」
「……は?」
 何を口にするのか構えていた私は突拍子の無い発言に思考停止した。何か「おいっ」野中さんが彼女を止めているけれど。いやいや待て待て。
「どう言う意味?」
「正乃をゆるしてあげてほしいんです! お願いします!」
「……研修の途中で休みを取るから?」
 研修の期間で産休に入るということは課程が遅れると言うことでも在る。まあ、正乃は優秀なので最終段階だったし問題は無いと思うのだけど「そ、れもですけど!」違うの?
「産休のことじゃ無かったら、何?」
「さ、崎河さんとのこと、」
「あの莫迦が何……もしかして結婚前に渋っているのっ?」
「え、いや、え、……“莫迦”?」
「だって『崎河』って雅彦でしょ? 莫迦で合ってるわよ。……あの莫迦、私と付き合う前みたいに適当な女作って相手してるんじゃないでしょうね……」
 私が舌打ちして「やっぱり簀巻きか……」と零していると正乃がギャル系に抱き着かれたまま私を制止する。
「い、いえ! 雅彦さんは、圭さんと別れて以降私以外とは付き合っていないって、あの!」
「あ、そうなの? だよねー。さっすがにそこまで莫迦じゃないわよねー」
 私はほっと息を付いて笑う。良かった。先刻の今で少々疑ってしまったわ。私が笑っている目の前でギャル系ともう一人のギャル系に比べればおとなしめなショートカットの女子職員が「“簀巻き”って言った?」「言った」「“簀巻き”って何」「えっ?」とこそこそ交わしていた。聞こえてるんだけど。『簀巻き』も知らないのかー。
「『簀巻き』って言うのはね、」
 私が簀巻きが何か説明するとギャル系が口をあんぐり大きく開けていた。私は説明理解出来なかったのかともう一度説こうとすると正乃に「圭さん、そこじゃないと思います」止められた。
「……。あのぉ」
「何?」
「圭さ、……翅白さんは、崎河さんのこと、もう好きじゃないんですか?」
 そう言えばこの子は私のこと『圭さん』呼びしてたなー。呼び直さなくても良いんだけど。つーかみんななぜ私が雅彦好きだと思ってんのよ。アイツ……よもやデマでも流してんじゃないだろうなぁ。私は笑顔を引っ込め短く深呼吸した。嘆息だ。隠す気は無い。
「好きじゃない」
「……」
「嫌いじゃないけど、やらかしてくれたら股間に蹴り入れて悶絶のところ脳天に踵落として簀巻きにして車道に放置するくらいには、好きじゃない」
「……本気ですか」
「割かし」
 肯定すると聞いていた全員がドン引きしているのが肌で感じられた。野中さんが、ささやかに白衣の裾を手繰り寄せて股間を隠したのが視界の端に映ったけど、黙って置こう。
「翅白さんにとって、崎河さんは“過去の人”ってことですか?」
 明らかにドン引きして黙りこくってしまった正乃、野中さん、ギャル系に代わっておとなしめ系の女子職員が訊いて来る。私は首をやや傾けつつ。
「そうね。恋人だったことは過去よ」
 恋人のときでもやった気はするけどね、とは言うまい。何て言うか、まだ疑惑が在ると言うのだろうか。ここは払拭すべきよね? ちらと正乃を見遣る。雅彦の現恋人で雅彦の子を妊娠した正乃がいることだし。
「私にはもう雅彦はただ生きて、しあわせに過ごしてほしいだけの人。関係を破棄するに当たって、私は雅彦を恨んだことも在ったわ。何せ別れてもアイツ、ウザいし。けどね、私も悪いの。私が弱かったから、雅彦は私を気に懸けていた」
 思えば私も雅彦も嫌いで別れた訳じゃなかった。決定打が無かった、と言うのが一つだけれど。ゆるやかな終わりは、尾を引いていた。
「今はね。雅彦には正乃がいるし私にも、雅彦以外に目を配る余裕が出来たしで、やっと終わらせられたのよ」
 余韻は、長過ぎてはならない。長過ぎては惰性しか無いからだ。
「私が言うのも何だけど、」
 別れに過ぎた余韻は要らない。
「雅彦と、しあわせにね」
 私が出来る精一杯で笑った。瞬間ドン引きとは異なる静けさが漂う。え、何、ミスチョイスだった? 動悸が早くなる。ギャル系が「圭さん……」と涙目で見て来る。マジで滑ったかと思ったなどと。
「圭さんて、超良い人だったんすね!」
 簀巻き簀巻き連呼の女が? 自分で言っててアレだけど。潤んで見て来る瞳がふと青いことに気が付いたのだが、自前なのかカラーコンタクトなのか判別付かないので流れるよー、とは言わないけど。これより。
「……」
 黙り込んだ正乃が気になった。私が先の科白を言い終えると下を向いてしまった。そうする寸前、ショックを受けたかのような、つらいことを言われて泣きそうな、表情をした。
 何で「正乃」そんな面容をするのか。私が声を掛ければ正乃は顔をやや上げた。上目遣いに噛み締めた唇もまま私を見上げた。先程の鬼神の如き正乃と違い小さな子供みたいだ。野中さんの記憶の幼い正乃は、こんな風だったのだろうか。手を差し伸べなくてはならないと、焦れる程。
「どうしたの?」
「正乃?」
 私の問い掛けに正乃の友人二人も心配そうになる。抱き着いているギャル系も後ろに控えていたおとなしめ系も、正乃を窺い見る。だけども、正乃は口を噤んでいる。強い目は口程に物を言うはずなのに何も悟れない。一時無言の見詰め合いが続いて、正乃が噛み締めていた唇を解いた。
「……もう、どうでも良いんですか?」
「正乃?」
「圭さんは、雅彦さんのこと、本当にどうでも良いんですかっ?」
 目力に込めていた激情の迸りだとでも言うのか。
“だったら、私が、崎河さんを貰っても良いって、ことですよねっ?”
 喉に突っ掛かって喘いでいるかのような、悲鳴染みた。
「正乃? 何言ってんの?」
 ギャル系が正乃から離れて正乃に問うが正乃は私から目を離さない。私は。
「────そうよ。私には、もう、雅彦は必要無いの」
「っ……」
「ちょ、圭さん!」
「言い過ぎですよ!」
「でもね、」
 正乃に倣って外野は徹底無視。私も正乃に正面から見据える。真っ向勝負とか、一昔前の私じゃ考えられないわね。
「雅彦にだって、もう私は必要無いの。今必要なのは、正乃、あなたでしょう」
 あのときははぐらかせていた。背を向けて目を背けて耳を塞いでいたからね。けれど、今はあのときと状況が違う。正乃は雅彦と付き合っていて、子供もお腹にいて。
「……」
 一回瞼を下ろして開く。正乃の表情は変わらない。私は頬が弛緩した。
「雅彦はね、『家族』が欲しかったのよ。だから、与えられる正乃が一等、必要なのよ」
 嘘ではない。雅彦は私の両親に懐いていた。両親は仲が良かった。野中さんにも話したことだけど、雅彦は両親のようになりたかったのだろう。あの人たちはしあわせそうだったもの。
“じゃあ、圭が支倉さんと結婚する!”
“圭と結婚したら、支倉さんは家族になるでしょ?”
 支倉さんの『家族』は作ろうとしたのに。
“誰でもない、俺の子供の母親に、お前がなってほしいんだ”
 雅彦の『家族』は作れなかったから。
 私は、必要無(いらな)い。
「……まぁ、私も、今は守ってあげたい人いるからね」
 守ってあげたい、と言うより見守りたい、が正確かな。
“羨ましいなぁって”
“ひとりだってことを、こんな風に考えてもらえて”
 あの子は、自分には誰もいないと泣く子だから。
“『成縢侑生』の生還をよろこんだ人たちに言えやしない”
 たとえ真実だったとしても。
“少なくとも、僕には、圭さんだけでした”
 私は自らの手のひらへ刹那目線を投げ正乃に戻す。
“『成縢侑生』と、会っていても?”
「正乃」
 私は、侑生を選びたい。
「私にも、たいせつな人はいるんだよ」
 恋愛ではない。エゴでも在る。そうでも、私は侑生が望む限りゆるす限りそばにいたい。侑生のことを脳裏浮かべるだけで頬が緩むのに拍車を掛ける。正乃の瞳孔に破顔する私が映った。相好を崩す私を映す正乃は愕然としていた。絶望した、人みたいに。私に告白した侑生みたいに。
「……っ」
 正乃が再び俯いた。本日二度目の奥歯が軋んだ音がした。今度は向かって来る勢いで正乃は振り仰ぐように面を上げた。
「どうして……どうしてっ!」
「正乃……」
「もう要らないなんて! だって雅彦さんは───「────ストップ」
 割り込んで止めた人物は、離れたギャル系と入れ替わって正乃を背後から抱き込むように取り押さえた。手で正乃の口も封じている。誰かと言えば。
「雅彦」
「……よう」
 今日は次から次へと乱入されるなぁ。今回は雅彦か。今召喚されんな。目が僅かに赤い。泣いたのだろうか。微妙に会いづらいんですけど、こっちは。だとして、ここで妙な態度を取る訳には行かない。
「あんた、ちゃんと婚約者との関係管理しなさいよ」
「あー、ごめん」
「あんたがしゃんとしないから不安にさせてるんでしょう。周りにも気疲れさせるんだからしっかりしなさいな」
「ごめんて」
 素知らぬ顔で毒を吐く。雅彦も大人だから苦笑いして調子を合わせて来る。雅彦が正乃の口から覆っていた手を外す。正乃は消沈したように血色が無い。
「てか、あんたこんなところで何してんの?」
 話題が戻らぬ内に私はさっさと転換させる。ああ、と雅彦が正乃を捕まえたまま野中さんに向かって「野中、昼休憩終わってんぞ」言った。野中さんは腕の時計へ目をやって「げぇっ!」声を上げた。そこで雅彦と正乃以外の全員が各々時刻を確認して慌て出した。私は。
「刑部、死ぬんじゃないの……?」
 端末を見た。ディスプレイには受信通知が出ていて開けば“今日、僕が残りやって置くんで帰ってください”と刑部から一文。夜勤続き死に掛けの刑部が、この時間に来て仕事なんかしていたらトドメを刺すみたいなものだろう。お昼もまだだし。戻るか。
 タイムオーバーによって場はお開きとなった。野中さんは半分も残ったお弁当を哀しそうに眺めつつ仕舞い女子職員は二人も忙しなくしながら「失礼します!」と去ろうとしてギャル系の子が「圭さん!」私を呼んだ。
「今度、ご飯食べに行きましょう! 私、圭さんのこともっと知りたいです!」
 目を合わせて言われた。私の返事も聞かず走って行ってしまう。次いで野中さんが「俺も! 飲みに行きたいです! じゃ、また!」お弁当を持って走る野中さんの背中に正乃が「ゆるすか莫迦!」と浴びせていたが聞こえていたかどうか。
 慌ただしく三人が退散した。残された私たちだけど私も行かねばならない。不意に「あんたは行かないの?」未だ正乃を抱き締めている雅彦へ尋ねた。
「俺は野中呼ぶついでに休憩入れってさ。樺チーフが仕事してるから問題無いし。あの人、腕だけは良いし」
「情報処理室入ってるんだ。仕事は出来るのよね」
「その口振り。絡まれた?」
「当たり前」
 ですよねー、と雅彦は笑っている。正乃は冴えない顔を変えることは無い。雅彦が正乃に「ほら、中に入ろう」促す。正乃はこくんと首を縦に振って答えた。
「じゃあな、圭。……騒がせて悪かった」
「んー。あ、そうだ」
 黙してしまった正乃の侘びを代行して雅彦が正乃を連れて行こうとしていた。私は脈略無く思い付いて、思い付いたら聞いてみたくて正乃へ質問を投げ掛けた。正乃は雅彦に手を引かれ抱えられた腰を押される形で退場しようとしていたところだった。
「ねぇ正乃、一つだけ。
“母親になる”ってどんな感じ?」
 聞いて置きたかったのだ。雪菜には聞いたことは無い。このときは興味が無かった。忌避していたくらいだ。二人は固定されたオブジェのように静止していた。質問の内容が理解出来なかったのか、意図を探っているのか。私は「“母親になる”ってどんな感じ?」繰り返した。
「どんな、って……」
「私、わかんないからさ、聞いてみたくて」
 私が笑い掛けると困惑した正乃は叱られた犬みたいに眉を下げている。野中さんでも同じ顔見た気がする辺り二人は正真正銘幼馴染みなのだろうな。泳いで右往左往彷徨っていた焦点が定まると正乃は「……わからないです」と解答をくれた。私が「わからないの?」言えば「はい」正乃は首肯した。して、ぽつぽつ吐露し始めた。
「具合悪かったじゃないですか、私。なので病院へ行ったんです。そうしたら“妊娠しているんじゃないか”“詳しく検査してみましょう”って……私、頭が真っ白になって……逃げ出したんです」
「そう、なの」
「だって、避妊しなかったときなんか無かったから」
 この最先端科学到達時代と言われる現代でも、百パーセントの避妊は有り得なかった。望まない妊娠は法律で加害なら罰せられているし被害なら保障されている。つまり子作り推奨と言う名の絶対義務が在ろうと強姦罪が在り風俗と言う文化が消えない以上、避妊処置もまた不妊や不育並みに技術革新は必至だった。
 だけど百パーセント無いモンは無い。正乃と雅彦の間で避妊を怠らなかったとしても現に妊娠はしている訳だし。……私のときわざと避妊を怠った雅彦が、正乃に対して避妊を怠らなかったことは、靄付くより逆にほっとした気がする。変な意味合いじゃなく、付き合って短い上、正乃は正規になるための研修期間中だったし。大事にしていたんだなぁ、てことで。正乃は完全に浮かない様子だけど。
「何で妊娠したのか……わからなくて、だんだんこんがらがっちゃって……訳がわからなくなって……両親は勿論雅彦さんにも言えなくて」
 で、野中さんに行っちゃったのか。確かにこの中では妥当だったかもしれない。ご両親はキリスト教徒で厳格、雅彦は当事者間で言いづらいだろう。野中さんは呼び出し食らって一大事状態だろうけど。
「今も、わからない、何が正解なのか……」
 産むのが正解、世間では。けれども、いつだって一概に言えるものでは無い。正乃の中でも整理がされていないのかな……正乃の心身考慮してこの辺にして置こう。私は「ありがとう。もう良いよ」と正乃の肩を叩く。と、正乃が私を見た。私を捉え「どうしてですか?」正乃が尋ねる。え、何が?
「どうして、そんなこと?」
 ああ、そっちか、と私は得心した。良かった。雅彦問答の続きじゃなくて。だが次は私が思索する羽目になった。正乃のお腹に視線を落とす。あの中には、正乃じゃないもう一つ独立した命が在るのだそうだ。私は己の腹を撫でた。当然だけど、何も無い。私の中には私の外に命が宿っていない。
「そうねぇ……何となく?」
「何となく、ですか?」
「うん。私のときは考えるどころじゃなかったのよ」
 私が苦笑すると雅彦と正乃がえ、と瞠目した。ん、と私もきょとんした。次第にあ、と腑に落ちて来る。しまった、面倒臭い。
「それどう言う、」
「どう言うことだよ、圭っ」
 食い付くどころか食い気味に来たよ。嫌だ面倒臭いことした。て、言うか正乃より食い込むんじゃないこの莫迦。
「うっさい。正乃の体に障る」
「あ、ごめ……けど、圭、それって」
「あんたじゃないから安心して」
「じゃ、じゃあ今の……?」
「無いわ」
 在って堪るか。侑生とそう言う行為に及ぶとか発想から無いわ。だってあの子赤ちゃんよ? 私にペドフィリアの嗜好は無い。雅彦が「え、とすると……」訝しげにする。
「あんたと付き合う前よ」
「俺と付き合う前って、お前未成年じゃないか! どこのヘベフィリアだよソイツ!」
「いや、私が無理に付き合わせたんだって。更に当時私十六、七だし無問題なんですが」
 未成年保護法で売春買春は禁じられている。勿論性交も。けれど相愛を前提とした交際においてはその限りには無い。女性は十六からの婚姻がゆるされている。そもそも強姦罪が死刑だ。近年虐待も性的虐待は通常の強姦より抵抗の困難な対象が被害者と在って、より悪質とされ刑が確定したら即行処刑される。即断実行に世論は騒いだが、施行の翌年からがくんと発生件数が激減して行ったことで静まった。
「圭さんが?」
 正乃が奇異なものを見る目で見て来た。およそ私が無理強いする姿が浮かばないからだろう。標準装備が無気力な私だもの。
「未熟だったんだよ」
 好きだった。誰にも奪わ(とら)れたくなかった。結果は散々。尾を引いて、雅彦も傷付けた。
「私も相手も思わぬ事態で駄目になった。相手のせいじゃないけど、私はこのあと妊娠が怖くなった。自業自得ってヤツ」
 私はからっと笑った。雅彦が眉間に皺を刻んでいる。刻まれているのはどの感情だろう。
「何で、」
「終わったことよ。じゃあ、私、戻るから」
 言わなかったんだ、なんて雅彦に言わせる気も無い私は被せて言葉を遮断する。私は追い縋られる前に退去した。

 私は業務に戻って「心配性も程々にしろ」と刑部を小突けば「圭さんは、言わなきゃ無理しっ放しでしょ」と口で反撃を受けた。どう無体を働こうとも私に対して、腹を見せた犬の如くされるがままの刑部がめずらしく膨れている。私は頬を突き空気を押し出しながら「大丈夫、ごめん」謝った。
 チーフにまで、書類の処理だけしてろと言われてしまい机に向かいながら、しっかりしないと、と気を引き締めた。



「たっだいまー」
「あ、お帰りなさい」
「出て行くの」
 コートも脱がず侑生の部屋と化していた客間へ赴きドアを開けると出入り口に腕を組み凭れ掛かった。侑生は荷造りをしていた。ベッドにスポーツバックを置き畳んだ衣服とか詰め込んでいる。私はわかっていたから疑問符は付けなかった。
「はい。見付かっちゃいましたからね。ここにいると圭さんにご迷惑をお掛けしますから」
「今更?」
「今以上に、迷惑掛けますから」
「私は構わないんだけどね」
「僕が構うんですよ」
 私がフザケたように嘯けば侑生は拗ねたように返して来た。私は笑った。侑生は真面目な顔付きになった。
「何で、」
「うん?」
「わかったんですか?」
 侑生はどうして出て行くことがわかったのかと訊く。私は自明のことだと言うのにと思った。
「侑生。本当はあのバイオリンをリビングで手入れしていたとき、言うつもりだったでしょう」
 侑生がバイオリンの手入れをしていたとき、すでに私は感付いていた。私を出迎えに来なかったから、と言うのは違うと思うけれど。アレは暴露したせいで精神が正常とは言い難い状態に在ったゆえだ。だったら何かと言えば、……勘かな。
「侑生はさ、行動力凄いから」
 心が落ち着けば自ずとどうすべきか決める。決めたら、この子は躊躇無く動くだろう。子供は危険を学習して行くものだ。痛い、つらい、苦しいと言う感覚を体で感じ脳で覚える。この子には、この先どうなる、て未来への危機感が無い。『成縢侑生』の記憶から何が危険かどうしたら危ないとかは判断可能でも、とっさの、踏み止まらせてしまう躊躇いが無いのだ。脳も含めて体と記憶が直結していない証拠でも在る。考え無しと言うのとはまったく別物なのだけども。
「あの元同級生に見付かって、侑生は『成縢侑生』の記憶から『成縢』がどう来るか推察していたんでしょう。で、ここを出て行こうと思った。その話を私にするためにいたのよね、リビングに。手持ち無沙汰だったからバイオリンの手入れをしていた。違う?」
「……。圭さんには敵わないなぁ」
 侑生が参ったな、と笑った。私も得意げにして見せる。侑生のことくらいわかるのよ。
「迷惑なんかじゃないのに」
 侑生を連れ戻しに来るのなら幾らだって抗って何なら父親に直談判してやるのに。私が意気込めば「勘弁してください」と丁重にお断りされた。チェッ。
「ここを出て、どこへ行くの?」
 今度は疑問符が付いた。ちゃんとした質疑だからだ。侑生はせっせと荷物を詰めつつ「家に帰ります」何でも無いように述べた。私は一瞬反応が遅れた。
「家?」
「『成縢』の家です」
「大丈夫なの?」
 てっきり逃走を企てているんだとばかり思っていたので予想外だった。第一侑生が平気だと思えないのだけど。侑生は私の気懸かりを余所に平然としていた。呑気に「うーん」とか唸っている。
「大丈夫ですよ。逃げたって、何も変わらないでしょ? なら、立ち向かうしかないじゃないですか」
「そうだけど、……」
「それにね。僕には圭さんがいるから」
 バッグを整理して中腰だった体勢から背筋を伸ばして私を見た。
「私?」
「そう。『成縢侑生』じゃない[僕]のことを、知っていて見てくれる人がいるって思ったら、怖いなんて言ってられなくなった」
 ふわっと微笑む侑生。晴れ晴れとした雰囲気が在った。
「侑生、」
「圭さんがいるって思ったら頑張れる気がするんだ」
 思わず名前を口にした。だけど侑生は晴れやかで、私は、このさみしさは封じよう、出してならないと感じた。反面私はよろこんでもいたんだ。
 どちらにしろ逃げ回るのは平易なことではない。あの『成縢』だし。逃げられないなら、立ち向かうしか無かった。これを、侑生自身が決心出来たことがうれしかった。
「頑張らなくて良いよ。無理はしないで」
 私はいつだっているし、どこへだって行く。直談判も本気だ。
「必要になったら呼んで。番号は教えて在るでしょ?」
 私はコートのポケットからプライベート用の端末を取り出す。万一のときのため教えて置いたのだ。
「うん。メモって在ります。この部屋のも。大丈夫」
 侑生がスポーツバックのファスナーを閉じる。バックの長めの持ち手を肩に掛ける侑生のもう片手にはバイオリンケースが持たれている。あれ、と私は問うた。侑生は「圭さんが買ってくれた服詰めたら入れる場所無くなっちゃって……」ごめんなさい、図に乗りました。
“全部持って行かなくても良いんじゃない”とは言わない。
 侑生は戻って来る気なんか毛頭無いんだろうから。
「忘れ物は無い?」
 玄関までは送る。見届けるのはここまでだ。靴を履いて振り返る侑生は清々しいまでに笑顔だった。
「無いです……ふふっ」
 つい、噴き出したと言うような侑生に「何?」尋ねる。いきなり笑うんだもの、気になるじゃない。不思議がる私に侑生は笑ったままだ。何なの。侑生が「圭さんが、」ゆっくり口を開いた。
「『お母さん』、みたいだなって」
「───」
「お母さんは失礼ですよね、圭さん若いのに。ごめんなさい」
 想定外の一言に私は自失していて侑生の謝罪は耳に入らなかった。無意識にお腹に目と手が行く。……“お母さん”。
“「母親になる」ってどんな感じ?”
 私は、[何か]、得た、気がした。
「じゃあ、圭さん」
 鍵が外れた音にはっとして侑生へ目線を戻した。私は焦って告げた。
「いってらっしゃいっ」
 侑生は「さよなら」って言いそうだったから。侑生は金色を刷いたような茶色の双眸を瞠って、から。
「いってきます!」
 いっそう笑んで、扉の向こうへ消えて行った。私は靴を突っ掛けドアに耳を当てた。奇しくも侑生を引き摺り込んだときのように。侑生の足音が聞こえなくなるまで耳を済ませていた。聞こえなくなったところで私は耳を当てるためにぺたり付けていた上体を起こして。
 鍵を、閉めた。


 
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