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F l a t_フラット 作者:aza/あざ(筒示明日香)

♭02

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》》tedious talk,for『K』

 





♭02 ただ可愛くて、ただ、可愛そうだったの。



   【》》tedious talk,for 『K』.】






 頭痛がした。夢を、見た気がした。このところ眠っていないからだろうか。変な感覚。ふわふわしている。軽い貧血かもしれない。こめかみに指を添えて考えていると水音がした。不意に硝子の向こうを見上げる。自然、眉が寄った。液体に満たされたそこには無数のカプセルが、縦横無尽に這う配線と繋がれて微かに揺れていた。その更に中には瞼を閉じた人、裸体の────。ここはクローン培養管理施設。名を『C4 facilities』。“Clonal cell culture control facilities”の略称だ。クローン法改正と共に建てられた厚生施設で現代の医療施設とも言える、私の職場。今日も、私はしっかり機械の状態を診ていた。私は研究者ではないし技術者でも専攻は遺伝子工学ではない。『生体医科学』、生化学のより医療に特化したこの分野は齧っているけれど。
 私は公共施設の、特に医療に従事する機械のプログラムを乱れが無いように調整、管理する『プログラムコンディショナー』だった。プログラムの一つ一つ見分け不審な動きが無いか監視、おかしなバグは見付け次第直ちに正常化を図る。なかなかに難しい、際どい仕事だ。何せ現在のこう言った機械は民間のインターネットワークと隔絶するために生体信号を使用しているから。普通の機械とは違って素材も一部有機素材だし。通常のプログラムが簡単とは言わないけど。私は両方馴染みが在るし。
 もともとプログラムに強い(たち)だった。国家資格で試験も難易度がやたら高く、難関だったけれど割とすんなりこの職業には就けた。親の代からこの手の職に関わって来れたのも強みだっただろう。問題さえ起こさなければ転職も退職後の天下り先も事欠かない、もしかしたらイマドキの官僚様より調った環境が約束された職種かもしれない。……この時代は、医療機械の従事者や科学者、技術者がとかく重宝されるから。
「……」
 つまりは、私の相手は機械であって、クローンじゃない。
 それでも、嫌でも目に付くのだ。
 広大な、数階建ての水槽の奥まで気味が悪い程埋め尽くすカプセルと同等数いるだろうクローンたち。満たされた水に揺らぐ様。膝を抱えた姿、そう、それはまるで。
「……みたい……」
 腹の中の、胎児を彷彿させた。私は下腹部を押さえた。今日はトイレの水が化学変化を起こしたように染まっていた。
 女性特有の、性徴ゆえの、事象。
 今は、それ程でも無い。でも、未だ。
「ばかみたいに、ね……」
 私はその水を見るたびに[死]を思った。
 クローンはヒトの『代替品』だ。生まれると同時に造られ、オリジナルの人間が未婚者で死ねば目覚めさせられる。死んだ当人の記憶を植え付けられて強制的に。……果たして、機械を経由した記憶は『記憶』と呼べるのか。『脳内記録』と呼ぶのが妥当ではないのか。浮かぶクローンたちは他人の記憶を埋められたとして、本人と認識するのだろうか。常々の疑問は、身内に代替された人がいないため訊いたことは無い。昔付き合っていたヤツは恐怖さえ抱いていたようだけど。アイツは事務的でも、直に人の死とクローンの生に携わっているからかもしれない。
“人を生む”と言うこと。
 これだけのせいだとは言わない。そこまで私は卑怯じゃない。
 だとしても、影響は濃いはずだ。下腹部の手が衣服をしがみ付くみたいに掴む。力の込め過ぎで軋んだ音がした。水槽を仰ぎ見る。
 機械が繋ぐクローンとその命。人口の分だけ造られ生かされる。
 生まれ持った[性]の御蔭で同じことが出来るこの体の特徴を、私はそれはそれは、憎んだことが在る。



 目の前が眩む。不眠が原因なのだと実感していた。液晶の文字化された電子配列をもう何時間も見て検索に掛けている。ああ、これもか。
 交代時間でようやく解放されたときにはしょぼしょぼした目元を揉んでいた。与えられているデスクに戻った私は珈琲を飲もうとして、気付いた。英字で『エンプティ』と書かれたその下のランプが赤く点滅していたのだ。お湯が……無いだと?
 給湯室に行かなければ珈琲が飲めない。正直行きたくない。行きたくは無いが。
「……」
 空のカップへ目線を落とす。珈琲で一息付きたい私は数瞬葛藤した末、仕方なく水用のタンク片手に給湯室に向かったのだった。古い施設はこれだから。経費削減じゃねぇーよ水道引けよ。

 結論から言えば、やめて置くべきだったのだ。給湯室は休憩室と同様共同だ。休憩室を突っ切る形で在って、極力人と関わりたくない私としては近寄りたくないことこの上無い、甚だ迷惑な構造だった。
「……でっさー」
「え、マジで?」
 心中で私は舌打ちした。休憩室に人影は無くて安心していたところなのに、こんなところに伏兵はいたのだ。特に何か負い目が在る訳も無いのに私は、タンクを抱え給湯室入り口脇の壁に張り付いた。中の様子をそっと窺う。中にいるのは間違い無くどこかの部署の職員だろう。白衣を着ていないから庶務か事務か……ちっくしょ、滅べ。
 女子職員は群れるの好きだよな。どうしてこうも群れたがるんだか。私は、自身も女子職員に含まれるのを棚にばっちり上げて内心二度目の舌打ちをした。
「有り得ないよねあの部長さー」
「自分のミスは認めないのにね」
 何だって、こう言うところで女子職員って言うのは悪口に華を咲かせるのだか。マジ滅べ。
 どっか別の場所でやってくんないかな。それこそロッカー室とか化粧室とか在るだろうよ。て言うか「……」何で私が身を隠さなきゃならんのだ。私はそう思い直して一歩踏み出そうとした、が。
「てか、圭さんさー。あの人結婚しないんだってぇ?」
 突如耳に飛び込んで来た一言に動きが、一挙手一投足がぴたりと止まった。
「“圭さん”? あー、翅白(しじろ)さんか。らしいねー。アレかな。職業婦人とかキャリアウーマンとか地で行く人なのかもね」
「“職業婦人”て、言い方古っ」
 ウケたのか、突っ込んだほうの女子職員がキャハハけらけら甲高い軽い音で笑う。上げた足を再び降ろしその地を踏み締めた。ああ、噂話も咲かせるんですね。何で私の話題なんか! 盗み見た職員たちの顔はどちらも記憶には無い。知らない顔触れの二人は私を井戸端の標的に選んだらしい。勘弁してよ……。
「あれ。でも翅白さん、確か恋人いたよ。ほら、あの、女っ誑しで有名な」
崎河(さきかわ)さん?」
「そーそー!」
『崎河』? 出た名前に、誰、と頭を擡げ次いで「おお、」声に出さず一人手のひらを拳で打った。……雅彦(まさひこ)だ。すっかり忘却の彼方だったけどアイツそう言やそんな名字だったわ。
「あー、あの人? あの人振られたんだってー、圭さんに」
 事実は違うが、世間ではそうなっているらしい。ふぅん。周りがどう思うが知ったことじゃないけれど、こっちは関与も関知もごめんだった。私は顔を顰める。何でこんなことになっているんだろうか。
「だけど、わかる気がする」
 いきなり甲高い笑い声の女子職員が言った。笑わないと案外低い声音だった。私は目を少し見開いた。
「何が?」
「あの人さ、面白み無いんだよ。結局飽きられてたんじゃない?」
「え、振られたのが崎河さんで振ったのが翅白さんでしょ? 逆じゃん」
「だって、あの人面白く無さそうじゃない! 部長とか持ち上げてるけどさー。けどプライド高そうじゃん? きっと振られるのが嫌で、逃げたのよ!」
 随分と自信満々に、言い切ってくれた。珈琲を飲む気も失せた私は、その場から足音を立てないようにして空のタンクを持ったまま離れた。
 確かに、振ったのは私じゃない。
「───」
 反論の余地は無い。だけれど実態は少し違う。私は何もしなかった。私をあの部屋に置き去ろうとする雅彦に引き留めることも追い掛けることもしなかった。“プライド高そう”? そうね、否定はしない。
 私は、何もしなかった。……ああ、痛い。重い。

 痛いのは、お腹か頭か、それとも? 重いのは、足か頭か、それより? 知らず私は唇を噛み、知らず胸元を掴んで押さえた。しがみ付くみたいに。

 飲んだのは、胸を痛ませたのは、喉奥を重く通過したのは、感傷だったろうか。



 夜勤に引き継ぎを終えて、私は夜の街へ繰り出した。と言っても派手に遊ぶつもりはさらさら無い。友人に飲む約束を無理矢理に取り付けさせられたから出て来ただけ。まぁ、良いんだけれど。
「圭ぃ。こっちよーぉ!」
 変に間延びした声がお洒落な雰囲気のバーに響く。立ち往生する私を導こうとするが、正直このバーに不似合いなきゃらきゃらした音程は逃げ出したい気持ちを湧かせる。当の約束の相手なので、実行は叶わないけども。音源を辿ればカウンターの端で手を振っている。白いノースリーブのハイネックセーターとタイトなミニスカート、ブーツ。ウルフっぽいショートカットの妖艶な美女が無邪気に悪戯めいた笑みを浮かべていた。
「遅ーいっ」
「時間は言って置いたでしょうが。私は定時退勤したわよ、雪菜(せつな)
 前まで行くと雪菜はぷぅっと可愛らしく頬を膨らませた。男はともかく私には効果無いっつうの。
 雪菜は私の友人で、雅彦の友人でも有った。地味な私とは正反対に派手めな美女の雪菜。輪を掛けた性格破綻っぷりには、名前の響きの秀麗さも漢字の中の清楚さもことごとく破壊されている。……もっとも、破綻しているのは性格より結婚歴だろうか。
 雪菜は、実はとうに五十を越えている。正確な年は私も当人も周辺のヤツらも忘れてしまっているが、四十越えている雅彦より十は年上だ。私とは二十近く離れていることになる。
 私も雪菜も、見た目こそ二十代前半でも実年齢は立派な中年だった。この昨今、七十八十で外見二十歳なんてザラだ。私たち程度なら不平を洩らすことも驚かれることも無くなった。私に至っては未だ二十歳以下に見られる。こっちが不満だ。
 未婚者なら義務の『不老延命措置』を、雪菜は既婚者なのに続けていた。一人でも子を儲ければ義務は任意になる。通常の場合ここでやめる人が多いのに、雪菜はわざわざ申請してまで受け続けているのだ。子もいったい何人いるのかわからない程産んでいるくせに。結婚も今回五回目だ。前は内二回死別の二回離婚。何を如何にして、こうなるのか不明だ。雪菜が特別なケース、と言うことも無いのだろうがそれにしたって多過ぎやしないか。だのに。
「あーあ。今の旦那も危ないのよねぇ。さっすが高齢で『不老延命措置』をやめただけ有るわよぉ。もう死にそうなんて、何てコトー? 私も早く新しい恋探さなくちゃあ」
 ……コレだよ。溜め息って、不幸になるんだっけ。いや、不健康になって不幸になるから、溜め息で緊張状態を解いて楽にしようとするんだっけ? あー、どうでも良いや。
「ったく、あんたね……。探さなくて良いからね? ちったぁ落ち着いたらどうなのよ。何回結婚する気なの」
「えー? そりゃあ私の気が、そこそこに済むまでですよー?」
 からっと、満面の笑みで言い切りやがった。うわぁ。雪菜の現旦那様、合掌。ご愁傷様です、いろんな意味で。私は心の中で軽く手を合わせお悔やみを申し上げた。他人の旦那のご冥福を死ぬ前に祈りながら、注文していたソルティドッグに口を付ける。清酒派の私にはめずらしいチョイスだったが雪菜には何の感想も無いらしい。雪菜は定番しか飲んでいない。ウィスキーのロック。丸く削られた氷がお酒の中で浮遊しては、グラスと涼しい音を奏でている。
 お酒はそんなに好きではない。飲みたいときはとことん飲みたいけど、頻繁に摂取したいとは思わない。どっちかと言うなら珈琲を好む私だ。寝る前も珈琲を飲む。こうすると寝起きがすっきりするのだが……私だけだろうか。
 この年でこの手の付き合いを蹴るのもどうかと思うし、気兼ねを必要としない雪菜だから応じているのも多分に在る。調子に乗る様が容易に浮かぶので絶対言わないが。唐突に「元気そうで何よりねー」雪菜が口にした。私は「何、急に」隠さず怪訝な表情をして見せた。雪菜は別段どこか変わった風では無かった。
「圭ちゃんはー、とてもとても意地っ張りで頑固なのでぇ、この雪菜さんはーとてもとてもとーっても心配なのでーす」
 呂律も怪しい、酔っ払いが歌うみたいに雪菜が言う。平気そうに見えて酔っているのだろうか。違うか。「そりゃどうも」私は感付かない振りで適当に、お酒の場に相応しい返し方で虚勢を張った。次に来ることは明白だった。
「でね、────雅彦も、とてもお莫迦さんなのよ」
「……」
 やっぱりね。予想はしていた。雪菜の良いところは悪いところと同程度に把握している。雪菜は、本意で私と雅彦に心を砕いているのだろう。姉御肌で、口で言う程他人を放って置けない雪菜。口は、ぞっとするくらい悪辣だけども。
「戻っちゃいなさいよ。世間はあんたたちが別れたことに大した疑いも持たない。単に“雅彦がいつもの如く飽きた”だの“圭が愛想を尽かした”だの好き勝手。幅を利かせているのから極少数のものまで、共通点はぜーんぶ“圭が雅彦を振った”だけどね」
「知ってる」
 不本意ながら本日聞いてしまったから鮮度抜群だ。うれしかないけども。
「表しか知らない連中はね、実しやかに面白おかしく受け流してる。あんたも雅彦も平然としているから余計にね。でもね、圭。裏から見てる私は、(まこと)を知る私は、
 とても痛くて、見ていられないのよ?」
「……」
「お節介はわかってるわ。だけど好きなのに二人して逃げているんだもん。どっちかが折れれば良いのよ。雅彦が帰れば良いけれど……圭が、追い掛けても良いと思うの」
 雪菜の提案に、自嘲が洩れ出る。私はグラスの酒を呷った。酒とは名ばかりの甘ったるい酒。ジュースみたいな。喉に粘着く。縁の残る塩がざりっと鳴った。雪菜の瞳が突き刺さりそうなくらいやさしいのは目にせずとも感じている。自身の我が儘も沁みる程。
「今更?」
 そうであっても、嫌だった。
「間に合うと思うけど?」
「無理よ」
「圭、」
「無理」
 あれから、随分経つのに。雅彦は平静を装って過ごしているのに。
 今になって、縋って泣き付くなんて、死んでも嫌だ。

 事実が晒され真実が時折覗く。疲れることだ。
 他人は無責任に槍玉に挙げて傷口を突付いて抉ってくれるがそれだけだ。責任は生じやしないんだもの、言葉のまま。『無責任』。
 棄てたのは、どちらだったのだろう。
 人様は吹聴して評価してくれるけど、この中の誰もがその疑義には答えられないだろう。
 当事者も横たわる十数年は入り組んでいて、お手上げなんだから。

 雪菜と別れ、この時代にしてはめずらしく都市部を覆う環境調節ドームの内まで降り始めた雪へ「ノンスノーにしなかったかしら」なんてフザけて、私は重い足取りで帰り道を行き、有人タクシーに乗り込むとただ、瞼と思考を閉じた。
 この白い闇が、いっそ、私も覆い尽くせば良いのに。



「───」
 私の住むマンションは築年数も古くセキュリティは最新式と言い難くても、きっちり標準的には働いてくれていたはずだ。だと、言うのに。
「……動かないでください」
 この体たらく振りは何だ。私のこの現状は何だ。私は一時、ドアを開けるのをちょっとばかし躊躇していただけなのに。
「……騒がないでください。お願いします……」
 背後から抱き抱えられるように拘束された。多分、結構若い部類の、男。“お願い”って。眼前に回された手のナイフを突き付けて脅して“お願いします”って。声調も微妙に震えている。好きでしているのではないと、言外に宣していた。で、って話だが。こんなことして要求何さっつー。問いたいけれど、ご丁寧に口も塞がれている。騒ごうにも手も足も口もガードされて出ない。
「おとなしくしていただけたら……危害は加えませんから。お願いです、僕を、一日で良いんです……家に置いてくださいっ……。一日、一日で良いんです……っ……」
 表情は見えないが全身で必死に言い募って来る。しかし変な話だ。“一日だけ置いてほしい”これだけの要求にナイフをちら付かせて脅迫しているのか。そんなことのために? や、非常事態に遭遇しながら慌てず醒めている私も大概おかしいだろうが。弱腰なんだもの暴漢が。……暴漢……よね? 私はとにかく塞がれていては返事も出来ないので暴漢の手を叩いて訴えた。暴漢も思い至ったみたいで手を外す。ナイフは目の前に設置されたまま「……無茶するわねぇ」が、私は構わず首を巡らせた。暴漢はやはり年若そうな男だった。顔は目深に被ったニット製の帽子と通路の仄暗さで視認出来ない。私はやっと話せるので取り敢えず質問した。
「私の家に入りたいのね。無理だけど」
「……っ……どうしてですか? 一晩で良いんです、それでも駄目ですかっ?」
 悲愴な暴漢。やばい突っ込みたい。「ナイフは飾り物か」と。命惜しいからしないけど。
「怪しい男を家に入れる独身女は一般的にいないと思うわよ。特殊な事情でも無い限り」
「それは、そうでしょうけど……でも!」
 私が淡々とした口調で告げる拒否的な返答に焦れたのか、少々男が語尾を荒げる。私は動じなかった。と言うか、そろそろ気付いてほしいなぁ。
「いや、それ以前にね、
 ────ドア、開けられないのよね」
「……へ?」
 暴漢はニット帽の下で目を丸くしただろう。隠れているから想像の域なんだけども。私は、科白の真意に達していない理解を引き上げてあげようと、説明することにした。大袈裟に嘆息した。暴漢がびくっと体を震わせる。……だから弱腰過ぎるって。
「あのね。ここのロックは指紋センサーに指を翳した後、タッチパネルが作動する仕組みなの。あ、生体感知センサーが付いてるから指切り取ったところで意味無いんだけど。それと、指紋って左右で違う訳。私の登録している指は左なの。あなたが主に押さえているのも左。わかる?」
 右も登録済みだがこれは言わない。第一右はナイフが握られている。動かしたら危ない。
「何よりね。こんな体勢で開けられるなんて、考えられる?」
 不可能ですとも。予測していたけれど暴漢はかなり背が高い。振り向いて確信した。雅彦も高いが、暴漢の身長も同じくらいだろうと目測した。支倉(しくら)さんより低い、かな。支倉さんは父の元同僚で旧友の人。何で別れた男が基準かと言うと、背が高い男で真っ先に浮かんだからで。父も平均的だったと思うし。悔しいけど、年月の長さは染み付いてしまっているのだろう。ちくしょ。その長身にお世辞にも背が高いとは言えない私が押さえ付けられているのだ。必然として、上から被さっているような、やや前屈みの形になる。
「……」
「……。わかって、くれたかな?」
 出来の悪い子供に物の道理を説く気分で仰ぎ見て確認した。当の暴漢は呆然と立ち尽くしていた。私を捕らえていた手も離れている。あーあ。言っちゃ悪いが間抜けだろう。ロックの仕様を知らないとは言え家に入れろと言いながら、その実邪魔しているのだから。見事固まって隙だらけの暴漢を、私は自由になった身で在るにも関わらず見守っていた。と。
「─────ごっ、」
「『ご』?」
「……ごめんなさいぃぃぃいいっっっ!」
 大音響の悲鳴染みた叫びが上がった。今度は私が唖然とする番だった。暴漢は何が起きたのか、いや、わかっている間抜けな件のことよね、いきなり突然大声で謝り出し思いっ切り私へ頭を下げている。体をくの字に曲げ九十度に、姿勢正しくびしっと。勢い良く下げたせいで頭のニット帽が床に落ちてしまった。何だその、取引先で大失態犯した営業マンみたいな……いるのよ、この時代にも営業マンは。もしくはとんでもないミスを犯して上司に怒られた腰の低い部下みたいな。
 私はしばし目前に繰り広げられた謝罪劇に硬直していたが、暴漢の絶叫に等しい声量で徐々に空気がざわ付くのを感じた。我に返って素早くロックを外し部屋に滑り込んだ。今までで最速記録を叩き出したんじゃなかろうか。室内側のドアの前で息を殺す。外では間一髪、騒ぎを聞き付けて飛び出して来た人たちの喧騒が聞こえる。良かった、間に合って。普段付き合いの無い隣人だの同じマンションの住人だのの、好奇な噂のネタになって堪るか。職場だけで充分だっつの。
 やがて物音も気配も絶えたころ。私は扉にくっ付けていた耳を外した。体勢を整えたのも束の間。そのまま扉に背を預けて寄り掛かる。私が何したってんだ。
「何なのよ……」
 ぼやく。おとなしくひっそり暮らしているだけなのに。散々な日だ。人柄の想定も易しい莫迦な女子職員から己に関する批評をうっかり立ち聞きしてしまい、雪菜にはタイミング的に生乾きの傷を剥がされる要領で雅彦との復縁を奨められ、マンションに帰りゃセキュリティ内だってのに暴漢に見舞われ、危うく出来ることならこれからも一切接点は持たず生きて行きたいご近所の注目を浴び掛けた。改めて唸る。それから。
「……あの、」
 この手だよ。繋いでる、て言うかは掴んでいる、手。掴んでいるのは私。何やってんだ私は。
「すみませんでしたっ、お騒がせするつもりは無くてっ……」
 コイツだよ、コレだよ。
「その、……」
 なぜかいる、暴漢だよ。思わず暴漢も連れ込んでしまったけど一独身女性の独り暮らしとして如何かと思う。俯かせた顔、所在無げな挙動、手には先に見せ付けていたナイフを持て余したみたいに弄んでいる。
「───置いて、ほしいんだっけ?」
 如何かとは、思っている! だがね、暗がりの廊下でぱっと見じゃわからなかったけれど、よく観察したら未成年臭いのよこの暴漢。さっきのあとで、部屋に入れちゃった手前迂闊に放り出せないでしょ。
「……はい」
「はぁ。何で?」
 そこだよ。私にこんな大それたこと仕出かしてまで、部屋に入れてくれと求めるのか。体目当てとか金品目当ては無いと思う。無抵抗の私とまんまと私の部屋に入ったのに、微動だにしないから。むしろ怯えている。凄い怯えて、丸っきり私のほうが加害者の犯罪者だ。誘拐犯みたい。考え付いて、はた、と。誘拐。……嫌だな、面倒な。そうだ。この暴漢が未成年だとしたらそんな誤解も生まれ兼ねない。俄然、理由を聞く気にもなった。聞かないと対処しにくいもの。黙り込んでしまった暴漢へ私は更に質した。
「ねぇ、どうして置いてほしいの? 訳を聞かなくちゃ、私だって了承出来ない。きみにだってわかるでしょう?」
 私は出来損ないの人間だ。少子化対策で躍起になる世界にいて義務を拒んでいる。社会人としても国民としても胸を張ることは出来ない。けれど幾ら出来損ないの私とて、犯罪に加担も冤罪で刑罰もごめんだった。真っ直ぐ見据える私に暴漢は黙してしまった。困っているようだ。頑なに、拒絶していた。ふと、誰かに似ている気がした。無為に湧く。少し、かわいそう、なんて。ここでそんな慈悲が浮かぶのはおかしいことくらい、頭の螺子吹っ飛んでいるかもしれない私だって自覚している。そうでも、尋問している気になってしまい良心が疼く。この異常事態、「……」何なんだ。
 (だんま)り決め込んで、怯えているのは私と向かい合っているせい? それか他に、何か在る? 何かしちゃったんだろうか。もしかして、私の予想ビンゴに警察に関わるのがマズい程のことをした? まぁ暴漢行為自体がマズいけど。……にしても怯え方が尋常じゃないんじゃないか。
 一体全体何やったのよ、この子。
「……言いたくないの?」
 大きく息を吐いたのは決して暴漢の強情さに呆れたからではない。沈黙に疲れたからだ。仏心起こすなんて莫迦げている。だけどもつい、憐れんでしまったのだ。追及断念したと言って、擁護するかは別だし。私の問いに暴漢は無言で頷いた。小心者っぽいし、悪いヤツじゃ無さそうなんだよねぇ。ついでに白状すると、打算も在った。知らないまま放逐すれば私は厄介事に巻き込まれないかもしれない、とか。ここまでやって、薄っぺらな希望だが。
 暴漢は背が高いのにひょろっとして細くて頼りなさそうで、毒気を抜かれているのか私も場違いに警戒心が欠落してしまっていた。意を決したように暴漢が顔を上げ─────

 次いで、私は絶句した。

 別に、暴漢がまた素っ頓狂な声出して変な行動に走った、なんてことでは無く。そのレベルじゃなくて。
「───」
 あぁ、『絶句』って、本当に言葉を失くすことを言うんだな。漠然とひとりで思っていた。
「こんなことして、ごめんなさい」
 暴漢の心の籠もっているであろう侘びも私の脳内に届くこと無く、鼓膜で跳ね返っている。反則だ。

 何で、あんなに“きれい”なんだろう。

 暴漢の容貌は、一言で言うなら『きれい』だった。漢字なんて『奇麗』でも『綺麗』でも違いない。だけれど選べと迫られたら選べない。華やかで、たおやかで、儚さと色気も多分に含んでいる。しかもしおらしいこの態度。そこらの女の子より可愛いんじゃないだろうか? 私? 欄外。
 けど背の高さや輪郭は中性的だけれども男性寄りと言ったところ。女の子よりきれいで可愛くても女性には間違われない。
 そのためか、殊更現実味が薄い、気がする。
 彩色で言えば全然普通なほうだ。雅彦のが、色は淡くて幻想的な色合いだったと言えなくも無い。何せロシアとフランスとドイツの血が混ざっていて、日本の血なんぞ四分の一在るかどうかだ。色素が薄いのは当たり前か。雅彦も美形だったし華は在った。ただ、アイツは纏う空気が俗過ぎて、存在感が濃い。暴漢は次元が異なった。雅彦より雪菜が近いかも。派手な美人系って分類では。でも、やっぱり違う。雪菜にこのか弱さは皆無だ。はっきり言って一ミリも無い。
 近いところでウチの父……知人親戚共から似ていると評判をいただく私には父は父なのだけど、バカップルの気が抜け切らない母とか女性陣は騒いでいたような「……あの、」いや、いい。脇に置こう。私は頭を振った。
「ごめん。脳みそが飛んだわ」
 重要なのはそこじゃない。見事に思考回路がイかれていた。想定外の暴漢の顔立ちに自己判定『一般人百パーセント』の私は混乱したんだ。美形なんて幼いころから支倉さん、雅彦と慣れ切っていたはずなのに。私なんかアジア人種一択ですから。父がイマイチわかんないんだけどね。祖父が帰化した台湾人らしいんだけど、生まれたのインドネシアだった揚げ句祖母が誰か判然としていないんだって。物心付いたときには父子家庭で、祖父が自然学の人だったからフィールドワークにいっしょに飛び回ってて、落ち着いたのが日本だった……て、母に聞いた。父に直接聞けなかったんだよね。母は知ってる。純度百の日本人だって。
 あ、僻んでませんよ。コーカソイドとか特に羨望無いからね? 元彼アレだし雪菜アレだし。
「……そうだよ……雅彦が帰化したロシアミックスのフランス人の息子なら、雪菜だって、支倉さんだって。何を今更……」
 近代、この国で純度の高い日本人を捜すほうが難儀だ。私が生まれる前に異邦人の帰化まで条件緩和させて国民を得て来た国なんだから「えと、……大丈夫ですか」「うん、オッケー」きっと大丈夫。受け答えが成立していない時点でまったく大丈夫ではないだろうが、動揺の果てふらふらする私は気が付かない。これには暴漢も参ってしまったみたいだ。
 気を引き締めるためにも本題に戻る。私は無意識的に下へ向いてしまった視線を一度上げ再度下げた。
「……言いたくない理由が在るのよね」
「……。はい。家には帰れません。ほんのちょっとで良いんです、こちらで、考える猶予をください。これ以上、迷惑は掛けませんから」
 すでに状況は迷惑を被っているのだが『上』が在るのか。文句言えなくも無いが。
「……」
 美形を差し置いてもこの暴漢。青年がようやっと少年の成長過程を脱した雰囲気だ。ともすると、外面より内面の幼さが勝っている風にも見受けられる。表現し難いんだけど、純正培養のお坊ちゃんなんだよね。追い出すのは容易いんだけども……。
 こんな深窓のお坊ちゃん風情が果たしてここを追いやられて無事に生き残れるだろうか。買い物のノウハウも知ってるのか。やー、知ってるでしょ。どう見ても十代後半だもの。この辺の治安は悪くない。問題も無い……が。
 拾った犬を、物凄く懐いて足にじゃれる犬を、元の場所に戻す“罪悪感”とでも表そうか。放るとさ、目を離したそばから明らかに付いてっちゃいけない人に連れて行かれそうなんだよ。世間知らず甚だしいっての? 私の周囲にいるタイプは傍若無人もいるけれど、大抵放って置いても気にしないヤツらばかりだ。つまり、この子のようなのはいなくて「……置いてほしいんだっけ」同じ問い掛けをした。
 ……幾度のシミュレートは最悪の結果しか浮かばない。深呼吸した。重大な発表を押し付けられた中間管理職みたいだ。
「はい」
「一日で良いの」
「え?」
「一日、一晩だけで、きみ出て行けるの。言い訳もしない理由も言えない。……きみが」
「それは……」
 矢継ぎ早に、だけどもゆっくり、質疑を繰り出せば暴漢は口籠もる。私はたっぷり、酸素を吸った。
「良いよ」
「え、」
「好きなだけ、いれば? ウチは両親も死んで親類も疎遠だし。いたいだけ、いたら?」
「えぇっ?」
 暴漢が吃驚して私を見る。自分で脅迫したのにね。私も大概だと思うけど。
 どこの世界に、怪我は無くとも襲った暴漢を、家に置きたがる酔狂がいるのだか。常識まで棄てた覚えは無いんだけどなぁ。
 だとしても、私はこの、捨てられた子犬みたいに、不安に大きな目を潤ませた暴漢をとても手放せなかった。人でなしのようで……いいや。
 今凭れているドア。あの日から、行くときも帰るときも開けるのが、取っ手を握るのが億劫だった。私は玄関から暴漢越しに部屋を見渡す。覗ける通路の向こうに在るリビング。今も濃く在る、棄て置かれた私の[影]。虚を突くみたいに見付けてしまって。そうして、私はひとり、だから。
 開けたら、身を以て知ってしまう。私が置かれた現実に。
 そんなとき、暴漢は、現れた。

 私は誰かに似た────私に似た、暴漢を棄てられなかっただけじゃなくて。
 或いは、救いを、求めたのかもしれない。

 私は、このすべてを忘れそうな程にうつくしい造形の青年を、その柔和さに漬け込んで利用しようとしているのだろうか。


 
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