お付き合い、いただけますか?
***
「せ、先輩!! これっ」
顔を真っ赤にさせてあたしが差し出したのは、キレーネレモンというレモン飲料。緑色の香水のビンのような形が可愛いと話題になったのはちょっと前のこと。
夕方の公園。
図書館に併設された公園は、昔は猿と馬がいたけれど、いつの間にか改修工事されて猿と馬もいなくなっていた。先輩、沢城舜さんはあたしよりも二歳年上の十六歳で高校二年生。まだ四月だからきっと十六歳。あたしは、十四歳の中学三年生。
「‥‥‥なに?」
突然、レモン飲料を差し出された先輩は無表情のまま一度だけ瞬きをした。
濃紺、薄青、薄紫、そしてオレンジと‥‥‥色が変わる空。その色からオレンジが除外されるほどの間、先輩は立ち止まっている。
「‥‥‥っえっと、さ、差し入れです!」
そう、差し入れだ。
いつも、この公園で頑張っている先輩。その先輩への差し入れ。
「悪いけど、知らない人から物はもらわないことにしてるんだ」
見上げるほど高いところから冷静に、でも少しだけ困ったように言われる。
「‥‥‥そ、そう、ですか」
確かにそうだ。いきなり知らない人から飲み物もらっても困るだろう。
きゅっと冷たいビンを握り締める。当たり前だが、冷たい。
「あれ? 君、知らない人じゃ‥‥‥なく、ない?」
先輩が首を傾げる。
思わず顔を上げて「はいっ! 北苑中学の水泳部員です、あたしっ」と訴えてみる。
そんなあたしをじっと見つめて、それから先輩は「来て」と歩き出した。とことこと付いて行く。危ないとかそういう感情は湧かない。だって、先輩が進んでいるのはテニスコートのフェンスがある行き止まり。目的は目の前にある自販機だってわかったから。
あたしから頭ひとつ分は軽く違う身長。逞しいというよりも、まるで侍とか武士とか武人のような、鍛え抜かれた筋肉を青と白のジャージに包んでいる。そのジャージは、アクセントカラーの赤のせいか、まるで変身する正義のヒーローのようだ。
先輩は、当たり前だけど一年と一ヶ月前は中学生だった。
あたしが中学一年生の時、先輩が中学三年生。
水泳部には人気の先輩が四人いて、その中の一人。同じ部活の友達と、先輩たちを眺めては身近なアイドルのようにきゃーきゃー言っていたものだ。
まるで、ケータイアプリで遊んでいるかのように。
それが、こんなふうに個別の『沢城先輩』と認識するようになったのは去年の夏。テスト週間で市の図書館に通うようになって気がついた。先輩がいつもここで、トレーニングやストレッチをしていることに。
図書館三階の自習室。
その窓際から先輩を眺めていて、気がついた。水曜日はストレッチだけしている。それ以外の日は腹筋とか背筋とかのトレーニングと走りこみ。ストップウォッチを見ながら、先輩はたぶん誰かが作ってくれたカリキュラムを淡々とこなしている。
そして、終わると自販機で野菜ジュースかオレンジジュースを買っていた。
「えーと、イガちゃんだったから‥‥‥」
先輩があたしのニックネームを覚えている! それだけで天にも昇りそうになる。顔が熱い。
「五十野です。五十野嵯月」
思わず片手でレモン飲料、もう片手は拳を握り締めて振ってしまう。あ、やばい。
先輩もそう思ったらしく、苦笑を零して人差し指でオレンジジュースを指差した。
「これ、奢って?」
ほんのちょっと口の端が上がっただけの微笑なんだけど、それだけで先輩が最大限に笑ってくれたのがなんとなくわかる。
「はい!」
元気に答えてチャリーンチャリーンチャリーンと三枚の硬貨を入れる。
おお、ぴったしあってよかった。
「サンキュ」
先輩は取り出し口から取り出すと、あたしの手からもレモン飲料を取り上げる。それらをジャージのポケットに入れると先輩は違うポケットから緑色のがま口を取り出した。よく見ると、それは緑色の生地に赤い金魚が泳いでいる、なんだか渋いがま口財布だった。
同じように硬貨が投入口に吸い込まれていく。
「五十野さん、好きなのどうぞ」
目の前でランプが煌々と光っているのと、先輩を交互に見つめてしまう。
なんで?
「ほら早く」
その自販機は、最近当選した市長さんがぎゃーぎゃー喋っているうるさい自販機だった。先輩が苦笑いを浮かべている。
えーと、まだ、四月の初め。さすがに夕方になると寒いので、ホットコーヒーのボタンを押す。しかし、どうしてコーヒーの微糖って『微』じゃないんだろう? 普通のコーヒーが大甘糖で、微糖は甘糖って表記した方が合っていると思う。
あれ、でもこれであたしが先輩に奢ってもらったら、自分でコーヒー買ったのと一緒じゃない?
つい反対側に首を傾げてしまう。
先輩はそんなあたしを見て吹き出した。くっくっくっと笑いながら、あたしの分のコーヒーを取り上げてベンチに向かう。熱くないのだろうか? そして、先輩が向かったベンチ‥‥‥花時計に背を向けた状態のベンチには、意味があるのだろうか? 小さな頃から疑問だった。
先輩が座ったのを確認して、あたしも座る。
「ほい」
差し出されたコーヒーを両手で受け取る。が、あまりの熱さに、それはまるで釣り上げたばかりの魚のように手の中で踊ってしまった。
それを見て、先輩はさらに笑う。
ポケットの中からハンカチを取り出して、なんとか包むが、やっぱりまだ熱くてプルトップが抓めない。仕方ない。しばし、お預け。ワン。
あたしがお預けされた犬のごとく缶コーヒーを眺めているのに気がついて、先輩が「貸して」と取り上げた。容赦なく振られて、いい音がしてプルトップが開けられた。おお、熱さに強いとは羨ましい。
「気をつけて」
「ありがとうございます」
ぺこりと礼をして受け取るが、湯気の立ち上り具合からして、きっと口に含めば火傷かビックリして慌てて中味を零すかの二択になるだろう。しばし、我慢。
「飲まないの?」
先輩は自分のオレンジジュースを空にして、それからレモン飲料の蓋も開けていた。零れてもいいようになのか、腕を出来る限り伸ばしていた。ちょっとへっぴり腰で変な格好。
「飲まないんじゃないんですか?」
首を傾げてしまう。
その、あたしが首を傾げたのと同じくらいに先輩も首を傾げ、「もう知り合いでしょ? 五十野さん」と笑ってみせた。
おお、いい笑顔。
いいもの拝みました。なむなむ。
つい、お祖母ちゃんの口癖のように拝んでしまいそうだ。ちなみにお祖母ちゃんのもうひとつの口癖に「食べちゃった~」というのがある。糖尿病持ちのお祖母ちゃんは総カロリーが決められていて、甘いものは規制されている。もちろん大食いも禁止。でもお饅頭大好きなお祖母ちゃんは、よく隠れて大福を食べては「食べちゃった~」と歌って誤魔化している。
身近な人の口癖って、けっこう移る。
あたしが熱いコーヒーをふーふーさせながら飲んでいる間、先輩は時折咽ながらレモン飲料を飲んでいた。
「先輩、炭酸苦手ですか?」
スポーツ選手にはスポーツ飲料! って思ったんだけど、けっこうスポーツ飲料って種類が多い。味の好みも別れるだろうから、じゃあビタミンCだろうと短絡的に考えてレモン飲料にしたのだ。まさか炭酸が苦手とは。大失態。
「小さい頃から、炭酸が家の中にあったことは風呂場以外なかったからな~」
けほけほ言いながら先輩は「あ、でもこれってけっこう目が覚めるな。覚えとこ」と全部飲み干してくれた。
「ごっそさん」
「どういたしまして」
ぺこりと頭を下げられたので、あたしも頭を下げ返す。
「ところで、五十野さんは『なんの目的』があって、俺に差し入れしてくれたの?」
なんの目的?
あたしは首を傾げる。
目的?
モクテキ?
なんだろう?
首を傾げる。
「‥‥‥おうえん?」
思わず語尾も上がる。
自分の感情ながら、わからない。
「応援?」
そのまま聞き返される。
「先輩が頑張っているのを上から見てて、すごいなー、今年もインターハイ目指しているのかなー、頑張って欲しいなーと思って、それで?」
コーヒーを口に含んで、それからまた反対に首を傾げる。
「それで?」
先輩の口調は笑っているが、目が笑っていない。なんだか怖い。
「それで?」
聞き返される。思わずそれに「それで?」と聞き返してしまう。
「それだけ?」
「それ、だけ?」
先輩の言いたいことがよくわからない。
頑張っている人がいて、ちょっと知っている人で、なんだか頑張っている姿を見ていたら自分が励まされたのでお礼をしたかった‥‥‥の、かな?
よくわからない。
首を傾げてコーヒーを飲む。飲みにくい。
しょうがないので顔を真っ直ぐにして飲み干す。
あたたかいものはあたたかいうちに飲まないとね。
「くっくっくっ」
隣から忍び笑いが聞こえてくる。
横を見れば、先輩が膝に顔を埋めるかのようにして笑っている。
なにか面白いことでもあったのだろうか?
周囲を見渡してみるが、街灯が光り輝いているのと、図書館から微かに『蛍の光』が聞こえてくる以外は取り立てて変わったことはないと思う。
「先輩?」
「俺、自意識過剰だったわ」
頭を押さえてくつくつと笑っている。なんだか大人な笑い方だ。ギャハハーとかガハハーとか、そんな笑い方じゃない。
「ジイシキカジョー?」
首を傾げる。
「五十野さんは、俺と付き合いたいとかデートしたいとか、そーゆーことは思いもしないわけ?」
下から見上げられて、ビックリして瞬きを二回繰り返してしまう。
「お付き合い?」
「そ。お付き合い」
ふっと笑う顔。街灯の明かりが顔半分だけを照らしていて、それが妙に先輩の大人びた雰囲気を後押ししていた。
この人、年齢誤魔化してないか?
理容室で絶対「お子さん、今何歳?」とか間違って聞かれるタイプだ。あたしのお兄ちゃんがそうだもん。あの時は物凄く落ち込んでいた。一週間くらい、周囲が暗雲に包まれていた。
「五十野?」
苗字を呼び捨てされて「はい!」と、思わず背筋を伸ばして元気に答えてしまう。えーと、お付き合い? だったかな。
首を傾げる。
「お付き合い、って‥‥‥なにをするんですか?」
先輩が言いたいのは、あたしが先輩とカレカノになりたいということだろうか?
カレカノ?
彼・彼女?
あたしの首、そろそろくるんと回ってしまいそう。
それでも首は回ることなく、傾げるだけで済んでいた。
そして先輩は隣でお腹を抱えて笑っていた。どうやら、先輩が笑っているのはあたしが原因らしい。
「えーと、あたし受験生なので、そういうことは考えたこともありません」
と答えてから、自分の発言の図々しさに気がつく。
「あの、その、先輩に魅力がないとかそういう意味じゃなくって、ですね、あの、恐れ多いというかもったいないというか、先輩の隣にはバン・キュッ・バイーンな感じの方とか、サラサラー・スラッ・テキパキな感じの方のがお似合いであってですね、あたしみたいなたるーんとしたのが隣にいるのはなんというか、」
もごもご続ければ、先輩はひーひー笑っていた。まるで二つ折りした座布団のようだ。
「くくくっ。五十野、面白い!」
どうやら相当ウケたらしい。大喜利なら座布団二枚くらいもらえるだろうか?
「えへへ~」
ついつい笑い返してしまう。
あれ? でも、なんであたし笑われているんだろう? また、首を傾げてしまう。
そんなあたしを見上げて、先輩は口元を綻ばせた。大人びた笑み。
四月初めの宵闇。公園の端に植えられた桜の木が風に揺れた。
そして、花片が宙に舞う。
先輩のアルカイックスマイルに薄紅色の花片。
なんだか思わず拝んでしまいそうな風景に、あたしは口をぽかんと開いた。
「ねえ、嵯月。俺たち、付き合わない?」
目が閉じれない。
「は?」
ぽかんと開いた口から零れる単語。呼び捨て?
両手に挟んだ空き缶を取られ、先輩がごみ箱に放る。それは綺麗な放物線を描いて、ナイス・シュート。見事なものだ。思わず感心していると、左手を取られて、口元に寄せられた。
「ひ?」
仏様が王子様みたいなことしてる! それに驚く。
先輩は髪の毛が短いのもあって仏様とかお地蔵様のようなのだ。お寺に安置されていそうな神々しさ。きっとお祖母ちゃんだったら迷わず「なむなむ」と声を出して拝んでいる。そんな雰囲気の人が自分の手を取って、指先に唇を寄せているなんて信じられない。
「俺と、お付き合い、いただけますか?」
上目遣いで見上げられて「はぅ?」と声が出る。
「ついでに、俺の練習の手伝いして」
「へ?」
短い言葉に、ようやく納得する。
あ、そうか。先輩、公園の周りを一周する度に記録を取っていた。そういう記録を取ったりタイムを計ったりする助手が欲しいってことか。こんな大げさなことしたら誤解されちゃうよ。あー、ビックリ。
ようやく先輩が言いたいことを正確に捉えた気がして頷く。
すると、背中があたたかくなった。ベンチにあったコートが、あたしの肩を包んでいた。
「はぅ?」
「着てろ。夜はけっこう冷える」
「あ、ありがとうございます」
先輩はベンチにもたれかけさせるように置いていた紙袋から、綺麗に仕切られた用紙とシャープ、そしてストップウォッチを取り出した。
「今から一周走ってくる」
先輩は立ち上がるとがっと走り出してしまった。
‥‥‥あれ?
あたし、返事、してないよね?
そう思いつつも、水泳部で培った経験か、手は勝手にストップウォッチを押していた。
水泳部所属ということは、けっこう月の使者が来る周期を、周囲に知られる。まあ、女の子同士なので「なまりが来た~」とかあっけらかんに言い合って終わり。そのぶん、嘘をつけばすぐにバレてしまう。
そんな月の使者が在籍中の女子部員の仕事はタイム測定。先生の指示に従って、個別に選手のタイムを計るのだ。意識が高い子ほど、どれだけ長い距離を泳いでも、タイムに差は出ない。
遠くから足音が聞こえる。スニーカーがアスファルトを蹴る音。とても女子には出せない、逞しい音。
あっと言う間ではないけれど、驚くくらいのスピードで先輩が戻ってくる。
「一分三十二秒です」
電子音の後に、習性のようにタイムを読み上げる。
「あー、今日こそ一分三十秒切れると思ったのに」
先輩は冬眠を終えたヒグマのように、周囲をうろうろしながら夜空を見上げた。急に立ち止まるのは、体によくないからだとわかっていても、くまさんのようだ。
「もう一周行ってくる」
返事も待たずに駆け出した。
確かに‥‥‥これはお付き合いだ。練習の。
あたしは呆然としつつも、ストップウォッチをしっかりとクリアにしてから押している自分に気がついて微笑を零した。
すっかりと夜も更けて、空には星が輝いていた。先輩が貸してくれたダウンコートのおかげで、寒くはない。
「一分二十九秒です」
読み上げれば、先輩は嬉しそうに笑った。まるで子供みたいに。
いや、高校二年生は周囲一般の定義では子供なのだろう。だが、仏様とかお侍様とかそういう印象の強い人がにかっと笑えば、それはやっぱり子供っぽく見える。
それから、あたしはなぜか記録係なのに、先輩の彼女という紹介をされるようになってしまった。
◇
先輩は水曜日はストレッチしかしない。
それは、筋肉を休めるためだという。なので、この日は図書館であたしの勉強を見てくれてからストレッチに入るのが習慣になっていた。
あたしの家は図書館から徒歩数分。新しい戸建を父が購入して引っ越してきたのが春休み。同じ学区内での引越しなので、悲しい別れも新しい出会いもなかった。あ、ご近所さんとは新しい出会いがあったけど、学校内ではなかった。同年代のお子さんのいるご家庭がなかったのだ。
図書館傍の公園でトレーニングをする先輩と、それを記録するあたしはすっかりと級友の中では仲の良いカップル扱いをされていて、現状との違いに恐れおののいてしまう。
いや、お付き合いしているという単語は合っている。
でも、お付き合いの意味が違うのだ。
不思議なことに、先輩もあたしのことを『カノジョ』だと公言をしているようで、時折図書館目当てで来る同じ学校の人にからかわれるけれど、お侍様のような仏頂面で受け流している。あ、お侍様のような仏頂面って、先輩の特徴を物凄く表している気がする。あたしって表現力が上手い! 自画自賛。
あたしは水泳部でも、選手ではない。もともとたるたるーとしか泳げないので無理なのだ。ただ、四百メートル自由形と二百メートルのバタフライは卒業した先輩しか泳げなかったので、後輩に泳ぎきれる子がいなければ選手になれる可能性がある。
そんな話をしたら、先輩は最初のアップと水曜日のトレーニングは一緒にするようにスケジュールを組んでくれた。
準備運動をしてから公園の外周を七週するんだけど、十五周する先輩に少しでも抜かれないように走らないといけないから、疲れよりも恐怖心で心臓がおかしくなりそうだ。
だって、お侍様が仏頂面で背後から迫って来るんだよ?
しかも均等な足音を立てて。
そりゃあ、必死に走ります。
怖いです。怖い。
「来週から、部活のプール開きだから」
先輩がオレンジジュースを飲みながら言う。
ちなみに今は休憩中。花時計に背を向けて座っている。
六月中旬。水温がある一定を越えれば活動は許可される。
「まあ、俺はここでもトレーニングは続けるけど、今より遅くはなるな」
その言葉にあたしは瞳を瞬かせる。
今までも先輩は学校で部活をしてからトレーニングをしていた。でも、プールが使えるようになるなら、やっぱり泳いだ方がいい。当たり前だ。
先輩はあたしをじっと見つめてくる。
真っ直ぐなその瞳に、あたしは正面から対峙してしまう。
逸らせない。
「嵯月の学校は?」
「うちは、たぶん六月末だと思います‥‥‥あんまり、部員も強くないから去年ぐらいから練習量も減ってるの」
北苑中学が市の中でも強かったのは、先輩たちがいた頃。その頃がピークだった。
顧問が代わったのもあるけれど、強い選手が抜けると部全体が弱くなる。同じ学年に物凄く早い女の子が一人いるけれど、その子は別格という雰囲気だ。
「先輩は、他のスイミングスクールとか、市のプールとかでは泳がないんですか?」
物凄く早い子を思い出して気が付いた。その子は、県大会どころか全国大会を目指すぐらいに突出していて、水泳部以外にもふたつスクールに登録をしていて毎日のように泳いでいる。だから、髪の毛も塩素で抜けて金髪のようになっている。
「金、かかるだろ」
むすっと言う。
確かに。スクールに通うだけでもかかるし、市のプールは高校生以上は大人と一緒だから五百円かかる。毎日この出費は確かに痛い。
「あ」
「なに?」
「先輩、毎回ジュース奢ってくれますけど、これをドラッグストアで購入して、あたしもお茶を持ってくれば少しはプールに行けますよ!」
おお、なんで気がつかなかったんだろう?
名案だ! と自己満足すれば、隣のお侍様から六月とは思えない冷気が漂ってきた。
「さーつーきー」
「へ?」
体が素直に跳ねる。
怖い。走っている時に背後から追いかけられる以上に怖い。
「お~ま~え~は~」
間延びした声と共に頬を引っ張られる。いひゃいーー。
頬を離されて、痛かったので撫でようとしたらそれができなかった。先輩の頭があたしの肩にあったから。
「せんぱい?」
「なんだよ、俺の独り芝居かよ」
両肩を大きな手が包んでいる。首筋に感じるちくちくした痛み。先輩、毛が硬い。
なんだか先輩が落ち込んでいます。
なんで?
「あ、あたしがお金の心配したからですか?」
年上のカレシのいる友達が言っていた、女がお金のことを口にするのはプライドを傷つけるらしい。プライド? お互い親に養われているんだから、一緒なのにな。変なの。
「違う。それ以前」
それ以前?
首を傾げてしまう。
「お前は、俺の、なに?」
区切るような質問に、疑問も持たずに元気に答える。
「記録係!」
正解! と、元気に答えれば、肩の痛みが増した。
「いたいいたいいたいいたい、いたいですぅ~」
「お~ま~え~は~」
「だって、先輩が言ったんじゃないですか! 練習の手伝いしてって」
思わず唇も尖るというものだ。
「くっそ~」
低い唸りと共に、先輩の正義のヒーロージャージの胸に抱き締められる。
「は?」
「このチューボーが!」
それはあたしに怒られても仕方がないことだと思う。
広い胸はちょっと汗臭いけれど、なんだか居心地がいい。お父さんにだっこされて、幸せそうにふにゃ~となっている猫のトムさんの気分がわかる。
「次の水曜日はデートだ、デート」
「デート?」
「映画に行ってもいいし、どっかメシ食べに行ってもいい」
映画にご飯?
抱き締められて頭を撫でられる。大きな手のひらが気持ちいい。
けれど、この居心地のよさを堪能する前に尋ねることがある。
「先輩、質問ですっ」
「なに?」
「あたしたちのお付き合いは、練習のお付き合いじゃないんですかっ!?」
顎を真上に持ち上げるようにして上を向く。ぐるじい。
先輩は、さして大きくない目を最大限に広げて見下ろしてきた。
そして、ふっと笑う。
「カレカノに決まってるだろ」
はわわわ。満面の笑顔に釣られて顔が赤くなる。すごい威力だ。
赤面してのた打ち回るあたしを押さえつけて、先輩が耳元で囁いた。
「これから、改めてカノジョとして‥‥‥」
体が引き剥がされる。なんだか淋しいなあと見上げれば、先輩が慈愛に満ちた表情を浮かべていた。まるで本当のお地蔵様のような。
「お付き合い、いただけますか?」
四月の初めと同じように、あたしの指先に唇を寄せる先輩。
「ひゃっ! ひゃい!!」
変な返事になったけれど、先輩は笑ってスルーしてくれた。
そして、もう一度、正義のヒーロージャージに体を埋められる。
「よし。言質取ったからな」
お侍様が、にやりと笑ったのにあたしは気がつかなかった。
***
その夏の市の大会で、あたしは四百メートル自由形で二位を獲ることができた。そして水曜日は付きっ切りで勉強を見てくれる先輩のおかげで成績も上がり、志望校は先輩と同じ高校だと言っても担任に呆れられなくはなった。
先輩はタイムを物凄い勢いで縮めたらしく、インターハイ出場が決まった。
応援に行った時、なぜかあたしを拝む人が多くてビックリした。
「やっぱり侍は、仕える殿がいると違うわね~」
とは、北苑高校水泳部の顧問の女の先生。
先輩、やっぱりお侍様ぽいってみんなにというか、先生にまで思われているんだ‥‥‥
そうぼけーと思って、それからしばらく忘れていたんだけど、帰る途中に重大なことに気がついた。
「あ」
あたし、お姫様じゃないの?
「どうした?」
断トツのタイムで大会新を出した先輩は、上機嫌であたしと手を繋いでいた。
その顔はご機嫌だけれど、やっぱりお侍様だ。
図々しくお姫様と考えたけれど、銀ピカな簪にピンクな振袖姿で白粉をはたいた自分を想像して諦めた。お姫様って柄じゃない。
「ううん」
「なあ、嵯月」
「はい?」
見上げれば、うちゅっとした感触があった。うちゅっ?
首を傾げれば、悪戯に成功した子供のような笑顔を浮かべて先輩が言い放つ。
「お祝いに嵯月のファーストキス、もらった」
もらったではなく奪ったであって、それは俸禄じゃないかとも思ってしまう。
唖然としてしまうが、その嬉しそうな笑顔が嬉しくて笑い返す。
「じゃあ、インターハイ優勝したらセカンドキス、あげますね」
にっこりと笑って言えば、先輩は「お~ま~え~は~」と唸って額を押さえてしまった。
ちなみに、その年、先輩はインターハイで決勝に進めなかった。
あたしは夏が終わったと同時に部活を引退して、受験のために毎日図書館に通って先輩の練習を眺めながら勉強をする日々。
その、先輩の練習が高度になり、さらに食事や他のことにも気を配るようになった。
まるで精進するお侍様のようだ。鬼気迫っている。
なんだか怖いな~と思いつつ眺めていると、先輩と目が合った。
はにかんだ笑みで手を振ってくれる。
嬉しくて手を振り返し、練習を再開する先輩をしばらく眺めた。
あたしも頑張ろう。
そして、合格したら先輩のセカンドキスを貰おう。そう決めたら妙に顔が赤くなってしまう。
この話を友達にしたら「お前は鬼だ!」と怒られてしまった‥‥‥意味が、よくわからない。
「俺、侍みたいだって顧問に言われたんだけど‥‥‥最近は、坊主な気がする」
先輩がある日、そう呟いた。
あたしはまたもや首を傾げる。
そんなあたしを見て、先輩は仏様のように笑った。
おしまい