2◆婚約者
聡のアパートは弁当屋から自転車で15分ぐらいのところにある。
4階建て、タイル張りの小ぎれいな鉄筋コーポだ。
2年働いた弁当屋の主人もおかみさんも聡の就職を心から喜んでくれた。それどころか、
「これは少ないけど……おせんべつ」
と、あまり話さない主人が封筒に入れた1万円さえ手渡してくれた。
揚げ油の前にいるせいかシミだらけの手と、青みがかってみえるほど白い封筒。
その顔の、昔の人らしく太い眉に白いものがまじっているのを見たとき、聡はたしかに自分の親を思い出した。
今、その封筒はとりあえず飾り棚の上に置いてある。
その飾り棚の上には、香水、指輪、ネックレス。
聡のお気に入りだけがそこへ並ぶことを許されている。
そして写真立てが1つ。写真立てには日焼けした男性の顔が写っていた。
「ふうー」シャワーを浴びてようやく聡は人心地ついた。
頭にタオルをまいて、オフホワイトのバスローブを着ている。
シャワーで流した汗がまた噴出すことのないように、部屋はエアコンであらかじめ涼しくしてある。
冷蔵庫から化粧水を取り出し、コットンもつかわず手にとってそのままピチャピチャと頬に乗せる。
ひんやりして聡が好きな一瞬だ。夏だから乳液は付けない。
パソコンのスイッチをいれながら、リップを唇に押し当てたそのとき、聡はさっきのキスを思い出した。
「山田め」
と口に出してみるが不思議に怒っていない。単なる顔見知りに唇をいきなり奪われたのにだ。
実は聡も『山田』を可愛い常連さんだと思っていた。
今どきっぽい顔の、最近人気が出てきた、モデル出身の背の高い俳優にちょっと似ている。
―――あのコだったらモデルもできるだろうな、あ、でも東大生がモデルする必要もないか。
―――店にくるようになって1年以上ってことは、2回生以上だよね。ちょっとあどけないから、きっと2回生かな、たぶん。だとしたらハタチ、かあ。つまり5歳年下。
異国にいる『恋人』の、男性らしい唇の感触とはぜんぜん違った瑞々しい唇だった。
ほのかに潮の香りがしたように思った。聡は思い出しながら唇に指をあてていた。
―――何考えているんだか!
聡は甘い妄想をふりはらうかのように、頭に巻いたタオルを勢いよくはずした。
濡れて甘栗色になった髪がバスローブの肩にかかった。将はその髪を見ていない。
―――もう逢えないのかぁ。ちょっと寂しいナ。メアドぐらい聞いておけばよかったかな。
そこへ新着メールを知らせる音。
パソコンへ駆け寄る。『恋人』からだ。
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MY SWEET アキ
明日から教師だね。緊張してるアキの顔が見たいよー。
日本はそろそろ秋の気配かな?
イイナー。こっちはやっぱ、暑すぎですTT
お盆にアキとデートしたことが遠い昔のようだ……
じゃ、がんばれ
博史
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仕事中に手早く打ったのだろう短いメール、でも明日の初出勤を覚えていてくれて、
気にかけてくれてるのが嬉しい。
この、恋人の原田博史とは3年前、サンフランシスコで留学中に出会った。
現地で技術者をしていて、日本人にしてはスーツが似合う格好よさに、
聡のほうからデートに誘ったと思う。
以来、週末は博史のアコードで、カーメルへドライブしたり、
ナパバレーでワインのテイスティングをしたり、スポーツクラブでスカッシュをしたりした。
きりっとした切れ長の一重まぶたは、仕事の話になると鋭く光り、
でもスカッシュでミスをしたり、とびきり美味しいワインになごんだりすれば、糸のように細くなり。
はじめて付き合う大人の男に聡は夢中になった。
すぐに抱かれても嫌じゃなかったのに、そんなふうになったのはずーっと後のことだ。
そして、関係ができてすぐに、聡は結婚を申し込まれた。博史30歳、聡22歳のときである。
でもそのすぐあとに、博史の赴任地が中東になり、危ないから、という理由で結婚は延期になっている。
聡のほうは、留学で1年遅れた大学卒業後すぐに結婚するつもりだったので、就職活動というものをまるでしていなかった。
それで今日まで弁当屋と塾講師を兼業してなんとか暮らしていたというわけだ。
髪をブロウしながら、アイスティを入れた。小さなバルコニーへ続くサッシをあける。
むわっ、と重たい暑さがのしかかってきた。夜も遅いというのに、明日から9月だというのに、なんだか嫌な暑さだ。
聡は鉢からミントの葉をちぎってすぐにサッシを閉めた。
その葉っぱをアイスティに浮かべる。涼しい、匂い。氷がグラスに触れる、涼しい、音。
暑い中東の街で働く彼を思い浮かべる。
「オフィスはね、暑いというよりむしろ寒いんだ。
イスラム圏の人は、ホラ被り物をしてるからね。冷房をガンガンかけるんだ。
スーツの上着を着ていても大丈夫なくらいだよ。
わざわざ寒くしてもったいない、と思うけど何しろ原油は湯水のごとくあるところだからね。
でも外は50度。もう暑いを通り越して痛い、んだよね」
そういえば、お盆に帰国したとき、博史の唇は痛々しくひび割れていた。
うっかり日焼け止めを忘れてしまったのがまだ治っていないといっていたが、そのひびわれた唇で聡の体を隈なく口付けた。
そう、隈なく……聡は思い出して一人で頬を赤らめる。
中東に赴任するようになってから、会ったときの抱擁はいっそう激しくなったように思うのは気のせいか。
「浮気しようにも、女性がいないからね」
そんなセリフを聞いた聡、ぷっと頬を膨らます。
博史は聡の膨らんだ頬をつつきながら
「うっかり現地の女性のそういうことになったら、一族から結婚しろ、さもなくば殺す、と迫られて大変だよ。……本当だってば、ちゃんと実話だよ」
と面白おかしく話すが、実際楽しみがなく寂しい暮らしを強いられているのだろう。
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ヒロへ
日本とて、秋の気配はまだ遠く、暑いです。
明日から9月なんてウソのようだー。
教師ちゃんとできるかなぁ緊張してます(汗
イジメられたらなぐめてください。
クリスマスまでまだ遠いね。
体に気をつけて無理しないでね。
アキ
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呼ぶときは博史さん、だけど、メールでは他人行儀な気がして「ヒロ」と書く事にしている。
返信はもう12時すぎなので、短くまとめたが、一度書き直している。
最初は『若いコにイジメられたら』と書いていた。「若いコ」の単語を打ったところで、山田とのキスを急に思い出した。
メールを通して博史がこちらを見透かしている気がして胸が一瞬ギュッとした。
思わず飾り棚の博史を見る。細い目はなごんだままだ。
でも……結局「若いコ」の部分は削除してしまった。
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