18◆勉強の意義1
月曜日は朝から雨が降った。
聡は足取りも重く学校へ向かった。
ここのところ将が出席しているせいか、ずいぶん授業がやりやすくなっていた。
おかげで、聡は赴任当初ほど学校へいくのも嫌じゃなくなっていたのだが、
今日はひさしぶりにどんよりとした気分でバスに乗った。
来ないかもしれない、と諦めていた聡だったので、ブスっとしつつも教卓のまん前に座る将を見たときはとてもホッとした。
ようやく出来上がったのか、制服を着ている姿は、土曜日のデートのサングラス姿とはかけ離れている。
今日の欠席は葉山瑞樹だけのようだった。
今日もスムーズにHRも授業も終わった。
帰りのHRまで終えて、聡が職員室へ戻ろうとする聡は、教室の出口で肩をぐいと引っ張られた。将だった。
腕の長さだけの近さにいきなり将の顔を見て、聡の心臓が鼓動を一瞬強めた。
夢の中の口づけと抱擁を思い出してしまう。
「……補習」
将はそっぽを向きながらも言った。
「え、でも、テストがよかったから、もう……」
「まだ中学までの内容だろ」
そこへ「先生!」と割って入った者がいた。
将の隣の席の丸刈り生徒、兵藤憲一である。
「僕にも補習していただけませんか」
「あの、僕も」次に弱弱しい声で参加を告げたのは鼻炎もちの松岡。その後ろには3人の女子生徒がいた。
皆、普段まじめに授業を聞いている者ばかりだ。
「何だよ、お前ら」将が集まった生徒に文句を言う。
「鷹枝君が遅れているからと補習するなら、僕らにも教えてください!」と兵藤が訴える。
◇
結局、将の居残り補習に、兵藤ら5人が加わることになった。
というより、中学の内容がほぼ完璧にできて、教科書を自力で理解できると見なされた将はほとんど自習になってしまった。
聡は他の生徒につきっきりになった。
最初、他の生徒は将を恐れるようにチラチラと見ていたが、勉強が始まるとそちらに集中してしまった。
皆、中学の内容もあまり完璧とはいえず、聡は一人一人の進度にあわせて中学の内容まで遡ることになった。
暇になった将は尖らした口と鼻の間にシャーペンを挟んで聡の様子を眺めていた。
英語以外のどの教科も教え方が丁寧でわかりやすい。
他の教科は自分が専任じゃない分、自分も一緒に考えようとする。
その道筋がたぶんわかりやすいのだろう。
そこまでわかりやすい説明はないと将は思ったが、生徒らはあやふやに相槌を打っている。
たぶん理解していないのだ。問題をやらせたら一目瞭然だろう。
―――ふん。バカばっか。
心で毒づいたとき、聡がこっちを見た。
あわてて将は目を外にそらした。挟んでいたシャーペンがノートの上に落ちた。
窓の外に目をやる将の耳に比較的流暢な英語が聞こえた。
そっちを振り向くと兵藤が英語の教科書を読んでいた。
珍しく高校の教科書だ。将は丸刈り少年・兵藤が英語の時間に熱心にメモをとっていたのを思い出した。
「good。じゃあ、この例題をやってみて」
「あの、先生」
最初は素直に指示にしたがっていた兵藤が、おずおずと聡を呼んだ。
何か申し出があるらしい。
「なあに?兵藤くん」
「あの、僕、英語しゃべれるようにはなりたいんですけど……こんなに難しい文章を読めなくてもいいんですけど」
「え?」
「ぶっちゃけ、僕は先生に英会話の特訓をしてほしいんです」
「でも……」
困惑する聡に兵藤は続ける。
「僕のお父さんもお母さんも、高校を出てるけど、英語なんか全然覚えてないみたいです。
でも、別に普通に暮らせています。こんな難しい英語って、やる意味あるんですかね。
他の教科もそうですけど」
それが聞こえたのか、他の生徒もうなづいている。
勉強の意義。
聡にとって超難問が出題された。
将は、再びシャーペンを鼻の下に挟んだ。
◇
聡は家に帰っても考えた。
確かに兵藤のいうことは本質をついていると思う。
現に聡だって、英語教師だから英語はできるが、高校の頃習ったはずの、三角関数や微分積分、行列、
そしてmol計算に数々の化学式、そして漢文……すべて忘れている。
いや、聡の場合、これらは、いちおう大学受験で役割を果たしたからいい。
しかし、大学を受験しないとなると。果たして意味はあるのだろうか。
かつ、聡の教え子の大半は中学の勉強でつまづいている。
そこへ高校の高度な内容を詰め込んだところで何になろう。
風呂の中でも、聡は考え込んだ。
そのとき、携帯電話が鳴った。
聡は慌てて風呂から上がった。タオルを巻きつけて、電話を拾ったとたんにくしゃみが出る。
まだ十分に温まっていないせいか、濡れた肌に鳥肌が立った。
登録していないが見覚えのある番号が表示されている。
「センセー、俺」
やっぱり将だった。
「何」
事務的にクールに出ながら、寒い聡は再びバスルームに戻り、下半身を湯につける。
携帯を湯の中に落とさないように肩から上をバスタブの外に出して会話を続ける。
「土曜日は、ゴメン」
素直に謝る将。少し意地悪したくなって聡は
「何が」
と訊き返した。電話の向こうでわずかに沈黙があったあとで
「キスしたこと」
と返って来た。さらに少し間をおいて
「飲み過ぎて醜態をさらしちゃって」
とも言った。聡はそんな風に素直な将がまた可愛くなってきた。
「もういいのよ」
と優しく言った。とたん将は、
「センセイ、今風呂入ってる?」
とずうずうしくも聞いてきた。
「何で」
「だって声にエコーがかかってるもん。いいなあ。俺も先生とお風呂に入りてえ」
「バカ」
聡はそういいつつもまたドキッとした。夢がオーバーラップする。
こうして裸でいる自分を見られているような気さえする。
しばらく、お互いに携帯を持ったまま、沈黙が続く。
「ねえ。鷹枝くん。あのとき、何言ったか覚えてる?」
「コクッた」
「そうじゃなくて」
「そうじゃないんだー、ハァ」
「聞きなさい」
「……ハぁイ」
いやに今日は素直な将に聡は続ける。
「自分さ、お父さんの力で『何やっても許される』って言ってたよね」
「……」
「あのさ、力を持っている人はね。それを自分のためだけに使わない、ていう責任があるんだよ」
「……力を持ってるのは親父なんだけど」
電話の声はあきらかに不貞腐れているものの、将は反論する。
「その力で好きなように出来るアンタも同じでしょ。
お父様だって、みんなのために忙しく頑張ってらっしゃるんだし」
「……」
返事が聞こえない。聡は両手で携帯電話を握った。
「だから、もうあんなこと言わないのよ」
再びしばらく沈黙が続く。
「先生はわかってない」
と返答が返ってくる。
「どうして。立派なお父さ」「違う」
聡が言おうとした言葉を将がさえぎった。
「俺の本当の母親は、親父に殺されたようなもんだ」
衝撃的な内容に聡は何もいえなくなる。
「親父の選挙で、無理をして、病気に気付くのが遅れた」
哀しみを1つ1つ噛み締めるような告白。電話の向こうで将はどんな顔をしているのか。
聡は携帯電話を強く握り締めた。
「力を自分のためだけに使わない、ていうなら、親父は何だよ。
自分の名誉のために議員になったんじゃないか」
語気の激しさに、聡はこのまま電話を切られるだろうと思った。しかし電波はつながっている。
聡は携帯をにぎりしめて、次の言葉を待った。
沈黙が続いている。
「鷹枝くん?」
泣いてるのかも、と思った。
「……ごめん、アキラ。俺を、見捨てないで」
泣いてはいないようだったが、絞り出すような嘆願を聡は電話ごしに聞いた。
将の寂しさは聡に電波を通じて伝わっていた。
酔った将を支えて座っていたときのせつない気持ちが蘇った。
あのとき、将の寂しさは触れ合った体温を通して聡に真摯に伝わり、聡の眼をうるませた。
「見捨てないよ。……だから、心配なことはしないで」
電話は切られた。切る間際にかすかに『わかった』と呟いたように聡には聞こえていた。
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