11◆休日
翌日はようやく土曜日。待ち焦がれた休日だった。
休日がこんなに嬉しかったことは聡にとって初めてだった。
とにかく精神的にも肉体的にも疲れた聡は、いったん起き上がって窓だけは開けたが、カーテンは引いたまま、ひたすらベッドの上でごろごろすることにした。
青いカーテンは、外の明るさを透過して、聡のいる部屋を深海のようにしている。
風に揺れるカーテンが白い壁に水中にいるかのような濃淡をつくっているのを眺めて、聡は砂にもぐる魚のようにうとうとと夢を見る。
もう一度目がさめたとき、すでに正午すぎていた。
さすがに起きないといけないだろう。
聡はベッドを降りて大きく伸びをした。そこへ携帯電話がなった。
見覚えのない番号。
いちおう出てみる。用心のため、声は出さないようにする。
「もしもし。俺だよ。俺」
巷で流行の詐欺のような台詞で電話してきたのは将だった。
「なんで、あたしの電話番号知って……」
―――そうだ。あのコが携帯拾ったんだっけ。
「ちょっと、悪用してないって言わなかったっけ?」
やっと頭が冴えてきた聡は抗議する。
「もらった教科書でわからないところがあったからさぁ。訊きたいと思って……てか、もうすぐ近くにいるんだけど、そっちにいくから」
―――え!
何だ、その断定口調。
「来ていいって言ってない、ちょっと、鷹枝くん」
聡の抗議の言葉は、伝えられないまま電話は途切れていた。
聡は携帯を握ったまま焦った。
寝乱れたベッド、掃除をするどころじゃなかった1週間で床には埃がつもっている。
着た洋服がそこら中にちらばっている。
台所には夕べの食器が洗わずにそのまま水に浸っている。どこから手をつけていいかわからない。
あわててベッドを整える聡、と、自分の姿に気がつく。
ノーブラにタンクトップ、短パンは17歳の少年にはあまりにも挑発的すぎるだろう。
着替えようと鏡の前にたつと今度はぐしゃぐしゃの髪。昨日乾かさずに寝た髪は逆立っていた。
聡はパニックになった。
……ピンポーン。チャイムがなったのは非情にもそれから3分後だった。
電話がきてから、チャイムがなるまでの間、なんとかベッドにカバーをかけるのとジーンズにTシャツに着替えて髪を1つにまとめる。
それだけで汗だくになった。
「ちょっと、急に来るとかいって、迷惑よ!」
聡はハッキリと言った。
「ふーん、ここが先生の部屋か。結構お洒落にしてるじゃん」
将はあつかましくもあがりこむと、ローテーブルの前に座り込んだ。
「こっちは休みなのに」
聡はぶつぶついいながらも、将にウーロン茶を出した。
「で、どこが分からないの?早くだして」
「先生、まだ寝てたの?」
将が指差すほうを見ると、さっきまで着ていたタンクトップと短パンが脱ぎっぱなしになっていた。
聡はとびあがらんばかりに立ち上がるとあわててそれをしまいこむ。
将はたいして気にしないようで
「これ。弁当屋のおやじさんからおごりだってさ」
持っていた白いビニール袋に入った弁当を差し出した。
「寄ってきたの?」
「うん。早く食べようよ。俺超腹へったし」
何で、土曜日のランチをこんなガキと一緒に食べないといけないのかとも思ったが、聡もちょうどお腹がすいたところだった。弁当屋のご主人の好意を素直に受け取ることにした。
「いただきます」と箸を割って以来、もくもくと食べている。
聡がバイトしていた弁当屋は、材料もいいし、つくり置きなんかしない。
職人気質のご主人が手抜きせずにやっているからどのメニューもとても美味しい。
だが、聡はそれを味わう余裕がないほど緊張していた。
何か話さないと、と必死で話題を探した。
こんな狭い部屋で二人きり。しかも将が背もたれにしているのは聡のベッドだ。
何か話さないと、沈黙が彼に何かをさせそうで。
実際、バイトの最後の日、将は聡の唇を奪っているのだから。
「鷹枝くんってさぁ、なんで学校ずっと休んでたの?」
「行きたくなかったから」
将は即答した。
「お父様って、今の官房長官、だよね……」
「そ」
「……お母様はあれから?」
「知らね。俺、家出てるから」
そうだった。そうでもなければ、あんな風にしょっちゅう弁当を買いにくるはずがない。
「嫌いな食べ物とかある?」
「そーだねぇ、あんま、ない。あ、殻をむくようなものとか面倒。カニとか」
「身長何センチ?」
「182」
「……あ、制服、注文した?」
「した。……あのさ先生、俺、先生を襲ったりしないよ」
将は聡の心の中を見透かしたような言葉を言った。目が笑っている。
「いや、そんなつもりじゃ……」聡はうつむいて弁解するしかなかった。
将はあらためて部屋の中を見回す。
「あれ、彼氏?」
将は飾り棚の上の博史の写真を指差した。
「え、そ、そうだけど」なぜか聡は声がうわずってしまった。
「なーんだ、彼氏いるんだぁ、そーかあ」
早くも食べ終わった将は、博史の写真の近くにいってまじまじと見ている。
「リーマン?」
「そうよ」
「付き合ってどれぐらい?」
「3年、もうすぐ4年ぐらい?」
聡は食べながら答える。博史のことが話題にのぼっていればとりあえず安心な気がしている。
「結婚しないの?」
「ん。今海外に行ってるから……」
「へー、そー、なんだ。彼氏いくつ?」
「33歳」
将は17歳の自分の倍近い年齢にあたる男の写真をもう一度見た。
「俺のほうが全然カッコいいじゃん……」
「……そうお?」
遅れてやっと食べ終わった聡は、コップのウーロン茶を飲みながら、あいまいに返事をした。
実際のところ、より『イケメン』なのは将だろう。
スラリ、という形容がぴったりな長身は、彼がいるこの部屋の天井を低く見せている。
流れるような筋肉のついた体、今時流行りのちょっとボサボサの髪型に相反して整った顔。
―――本当に俳優かモデルやれそう。
聡はちょっとのあいだ将に見とれていた。
「よし、やろか」
将は、唐突に宣言した。
聡の目をまっすぐに見て言ったので、聡は心臓が止まりそうになるぐらい驚いた。
しかし、その直後、将はデイパックから教科書を出していた。聡はいろんな想像をした自分を恥じた。
「何?」
「いえ、ななな、なんでもない」
聡は動揺をかくすため、ウーロン茶を一気に飲み干した。
今日は英語だった。英語は小学校の低学年のときに習い事でやったきりで、どうも苦手のようだった。ほぼ最初からやり直さないといけない。
ただ覚えた単語をつづるのだけはすごく早い。
アルファベットもきれいだ、というより書き慣れている。訊くと、父が外交官だった関係で6歳までパリの幼稚園にいっていたという。
「じゃ、フランス語できるの?」
「使わないからほとんど忘れてるよ。英語はぜんぜんダメだし」
「日本へはいつ帰ってきたの?」
「小1。親父が選挙に出ることになって……」
将の瞳に一瞬、暗い影がよぎったのに聡は気付かなかった。
将は英語でも、文法の理解は早く、かつ応用もすぐにできるようになった。
「……本当に頭がいいのね」
「へっへー!」将は胸を張った。
「だからさ、ねえねえ、全部覚えたらさ俺とデートしてよ。そしたらもっと頑張るからさ」
「まだ言ってる。だから勉強は自分のためにやるんだってば」
「でもさ、励みがないとやりがいがないよ」
「励みねえ……」
将は立ち上がると勝手に聡の冷蔵庫を開けた。缶ビールを取り出すと、プシュと開けている。
「あ、コラ!」
聡が気がついたときには、んぐんぐんぐ……、と飲んでいた。
ぷはーっと気持ちよさそうに息を吐き出すと
「だから、ご褒美」
いたずらっぽく笑う。
「もう……」
といいつつ補習を始めて1時間半以上経過している。
9月の昼下がり、気温もあがりつつある。
聡も冷蔵庫からビールをとりだして飲んだ。喉から胸へ爽やかな道ができたようだが、しばらくするとよけいに暑く感じられてきた。
冷房をいれるのももったいない気がしたので扇風機を稼動する。
「さ、やりましょ!」
「何を?」将がしらばっくれる。
「お勉強」
「もういいよ。疲れた。先生がデートしてくれないなら適当でいい」
将は寄りかかっていた聡のベッドに肩から上をつっぷした。ビールでけだるくなったのだろう。
それは聡も同じだ。
「……じゃ、こうしましょ。中学3年分。次の金曜までに覚えられたらデートしてもいいわ」
「本当!?」将は飛び起きた。
「ただし、超難関高校の入試問題から抜粋してテストの問題をつくるから、それで全教科90点以上取ること」
「よし、やるやる」
将は腕まくりせんばかりにローテーブルに向かい続きを始めた。
その変貌ぶりというか猛勉強ぶりはすさまじかった。
さっきまで聡がひととおり口頭で説明してから問題をやっていたのだが、挙句の果てには
「説明はもういいよ。わかんないとこだけ呼ぶから好きなことやってて」
と言い出した。自分で読んだほうが早い、ということだろう。
一心不乱とはまさにこのこと、とばかりに将は集中して勉強していた。
そんなにしてまで彼氏のいる自分とデートしたい将。聡は彼が理解できなかった。
―――頭はいいけど、どっか変。
―――てか、自分ちでやればいいのに。
それでも、聡は将が勉強している間、邪魔しないように、少し離れたところでベッドに寄りかかって学校で配られた資料を読んだり、雑誌を読んだりしていたが、さっきのビールも手伝ってうとうとし始めた。
―――教え子が頑張ってるのに寝ちゃいかんだろ。
と踏ん張ったが、ついに意識は彼岸の彼方へ連れ去られた。
「よし!……先生、文法、2年の範囲まで終わったよ」
将は聡を振り返った。聡は胸から上をベッドに預けてすやすやと寝入っている。
「先生?」
呼びかけても反応がない。口の端に笑みを浮かべて、いかにも幸せそうな寝顔。
1つにまとめた髪のこめかみのあたりで栗色の髪がほつれている。
閉じた瞼をふちどる長い睫。ビールのせいなのか、少し上気した白い素肌、ばら色の唇。
上からはTシャツの襟の下に息づく胸の谷間がのぞいている。
扇風機の回る音だけが、午後の部屋に鳴り響く。
沈黙は将に『眠れる森の美女にくちづけを』と甘く誘った。
将はそっと自分の顔を聡の顔の上に重ねた。
あと1センチで唇が触れ合う、というところまで接近したそのとき。
「……博史。」
聡は確かに眠っていた。
近づいた将の熱い体温は、眠れる聡に他の男の夢を見せたのだ。
将は、聡のそばから身を起こすと、今一度、棚の上の写真の中の博史を睨んだ。
しかし、夢の中の男相手では、将はぎゅっと奥歯を噛み締めることしかできない。
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