10◆補習授業2
1
授業を中断しての呼び出しとはなんなのか。
―――まさか、昨日のことが問題になったとか。
でもあのことに関しては聡はむしろ被害者だと思う。
教頭は何もいわずに足早に前を歩くのみである。
聡が去ったあと、2年2組は急遽自習になり生徒は喜んだが、将は聡が行った後をずっと見ていた。
「失礼します」教頭が校長室の扉を開けると、そこには上品な和服姿の婦人がソファーに腰掛けていた。
「古城先生をお連れしました」
教頭は婦人に向かってもみ手をせんばかりに、猫なで声を出した。聡に対しては目配せをした。
しかし突然授業を中断させられて連れてこられた聡には何のことだかさっぱりわからない。
「古城です」
とだけ名乗って頭を下げた。
「……まあ。こんなお若くておきれいなお嬢さんが……」
と婦人は驚いたようだ。
「あ、あの……何ですか」とまどう聡に向かって
「古城先生、昨日、鷹枝君にひどい体罰を加えたそうじゃないか」と教頭。
聡は何のことかしばらくわからなかったが、ようやくその記憶に思い至った。
昨日、視聴覚準備室で乱暴されそうになったのを助けてくれた将。
それを気が動転していたせいか、力いっぱい叩いてしまったのだ。
ここに座っている和服の婦人は、どうやら将の母親らしい。
「で、君が鷹枝くんを叩いたのは事実だね」
「ハイ」聡はうなづいた。
「こ、困るんだよ、あれだけ体罰を禁止していたのに……」と校長は弱りきっている。
「鷹枝君は、頬が腫れあがったそうじゃないか。どういう指導をしたんだね」と教頭。
「……ハァ。どうもすいません」
聡はあまり納得はしていないが、とりあえず動転して叩いたのはいけない、と謝った。
「謝ってすむ問題じゃありません」
上品そうな顔からは意外にも婦人はくいさがる。
「こんな若い先生が、息子に怪我をさせるまで叩くなんて、おたくの学校はいったいどう
なっているんですか?」
「は、あの、古城先生は産休の代理教員の新任でして、それで……」
「代理教員に大事な息子の担任をさせていらっしゃるの?」
「は、はぁ……」
校長も教頭も恐縮しきってしまった。
「こんな未熟な教師がうちの息子の担任だなんて、とんでもありません。すぐさま替えてください」
婦人は強い調子で訴えた。それは命令ともとれる口調だった。そのときだ。
「その必要はねえよ」
その声は校長室の窓からだった。将だ。将が顔を出しているのだ。
次の瞬間、将は窓を乗り越えて校長室に入ってきた。
「将」婦人はソファから立ち上がった。
「これは、俺が悪いんだよ」将は自分の腫れた頬をぴしゃんと叩いた。
「将さん、何をいって……」
「俺が、先生を押し倒して、ヤろうとしたんだ。で、抵抗されて引っぱたかれたんだよ」
校長も、教頭も、婦人も、聡もあっけにとられた。
「あ、先生の名誉のためにいっとくけど、最後までヤッてないから」
「古城先生、本当ですか?」
校長が眼鏡を指で支えながら確認する。
違う。鷹枝将は乱暴されかけた自分をむしろ助けた側だ。決して彼が乱暴しようとしたわけではない。
「違います。彼はそんなことはしていません」聡はつい言ってしまった。
「何言ってんだよ、俺が悪いんだよ。俺が先生を襲ったんだよ」将はそんな聡にくってかかる。
「いいえ」聡は譲らない。
「じゃあ、何で鷹枝君を叩いたの?」
校長は眉も目じりも下げ汗をかきながら、本当に困ったように聡にきいた。
「それは……」
聡はいいよどんだ。まさかクラスの生徒に乱暴されかかったと、告げる覚悟はまだできていない。
「ふむ……」
教頭は将と聡のようすをじっと見ていた。そしておもむろに将に向き直って訊いた。
「鷹枝くん。君は本当に古城先生に……乱暴を働こうとしたんですか?」
「そうだよ。」
「違いますってば」教頭はそんな聡の反論を遮って
「古城先生はだまっていなさい……。鷹枝さん、将くんのほうにも非があったようですね」
「え?……ええ」
婦人も、教師を暴行しようとした、という息子自身の告白の前には何の言葉もない。
「ただ、古城先生にもやりすぎた面があったことは我々も否めません。……そこでどうでしょう、我々のほうで古城先生と将くんにそれぞれに適切な指導を与えるということで、ご納得いただけないでしょうか」
「……わかりましたわ」
婦人は深くお辞儀をして校長室を辞した。
婦人の姿が見えなくなると教頭は
「さて、二人の処分だが……」と切り出した。
「だから、先生は悪くないっていってるだろ!」
「何いってるの、嘘ついて!」
「二人とも、だまりなさい!」
教頭が怒鳴った。
「鷹枝くん。今回の処分としてこれから、毎日放課後に補習」
「ええっ!」将は顔をしかめた。
「今までずっと欠席していた分として当然だよ。そしてその指導は、古城先生にお願いします」
将の顔がパッと明るくなり、こんどは聡が顔をしかめた。
「担任として当然でしょう。準備があるでしょうから、明日からさっそくお願いしますよ」教頭はこともなげにいった。
教頭は、さっきからの顛末を見ていて、将が聡を気に入っていることに気付いていた。
聡を餌にすれば、将が学校に出席し、ひいては卒業させることができるだろう、とこの短い時間で計算したのだ。次期総理も噂される政治家の息子が卒業したとあればこの学校にプラスになるとのもくろみだ。
授業終了を告げるチャイムが鳴り二人は校長室から解放された。
「何であんなこと言うのよ」聡は将をにらみつけた。
「自分が……押し倒した、なんて嘘ついて」
「だってよ」将は聡を見下ろしていった。
「本当のことを言ったら、アイツラ今度は本当に何をしてくるかわからないぜ」
2
聡は帰るなりコンビニで買ってきた缶ビールをあけてぐっと飲んだ。
将はあのあと、聡以外の授業は、ほとんど寝ているか、携帯を使って株取引に専念していたという。
大胆にも教卓のまん前の席で。
その様子は授業担当から逐一、担任である聡の耳に入ってきた。
―――なんなの、あのコは!
今日は、本当はあのままクビになったって異存はなかったのだ。
それをブチ壊しにした上に、余計な仕事まで増やしてくれて。
聡は空になった缶をローテーブルに勢いよく置くと気晴らしにTVをつけた。
ニュースでは昨日のテロの続報をやっている。
日本人が2人亡くなったらしい。怪我の軽い日本人にインタビューをしていた。
博史の会社の同僚だろうか。
聡は心配になってパソコンの電源を入れた。博史からの新着メールは来ていない。
まだ後片付けや処理が大変なのだろう。
聡はもう一度今朝来たメールを読み返した。
余裕を見せているけど行間に多忙さがにじみ出ている、と今さら気がついた。
すぐに、教師をやめて、博史の元へ行きたい、なんて言えないだろう。
メールの文字を見ながら聡は途方に暮れた。
3
翌日の放課後。
将と聡の居残り補習が始まった。
二人きりだと聡が危ないかも、という配慮で多美先生をはじめ屈強な教師が一人ずつ交代で、教室の後ろに座って見張りをすることになっている。
見張られての補習でむしろ緊張しているのは聡のほうで、当の将は
「めんどくせえなあ」といいながら屈強教師のことなど気にもしていないようだ。
外はよく晴れて、窓からはオレンジ色の日差しの中、乾いた狭い運動場ではサッカーの練習をする生徒が見える。
今日こそ水平線に沈む美しい夕陽が見られそうだが、将は夕陽を見に行くことなどすっかり忘れていた。今の将は夕陽よりも聡の顔を見ていたい。
瑞樹が言った『あの人が好きなの?』。
あのとき、将は『好き』という言葉に一瞬ひるんだ。
だけどたぶんそうなんだろう。
気がつけば、将はいままで一度も、自分から誰かを好きになったことがなかった。
女のコのほうからは、いままでに何度も言い寄られた。
面倒臭そうなコでなければ拒まなかったから「付き合った」コはたくさんいる。
性格のいい子もいたし、かわいいコもいた。
けれど、こんな風にいつまでも顔を見ていたい、一緒の空気を吸うのが嬉しい、と思うような人はいなかった。
―――なんでコイツ(教師)なんだろ。
将は自分でもよくわからなかった。
でも識らないうちに心が惹かれている。気付かないうちに芽生えた思いはたぶん……。
「で、いつから学校にいってないの」と聡は将に訊いた。
「え?」ボーっと聡を見ていたので、一瞬何を訊かれたかわからなかった。
「え、えーと、小6?中1?ぐらいかな」あの火事以来だ。
聡は事情も知らないのでただ、あきれる。
「はあー、何が東大生よ。よく家庭教師ができるわね」。
将は東大生の偽造学生証で家庭教師のバイトをしているのだ。
「小4の勉強ぐらいはチョロイさー」。
「こんなこともあろうかと、持ってきたけどやってみて」
聡は小学校の算数の問題集を机の上に置いた。
「ええー!何これ」
「勉強はつまづいたところまで遡ってやらないと、いくらやったって無駄なの。さ、やる!」
聡はそれは、クラスの授業でも思っていたのだ。
中学の問題をやらせても半分ぐらいできない生徒らに高校2年の内容を理解しろ、といっても無駄だろう。
「出来た」
「え、もう?」まだ15分しかたっていない。
答え合わせをするとパーフェクトだった。
そのあとも中学生の問題をやらせてみると、中二ぐらいまではほぼ完全にできるのだった。
「学校に行ってないとかいって……これもまたウソ?」
「いや、ほんとうに行ってないって。家出する前に塾で習ったんだってば」
聡は将が、有力政治家の息子だということを思い出した。
たぶん、人気・実力とも若手ナンバー1で次期総理ともいわれている現・官房長官の鷹枝康三が彼の父だろう。
戦後を立て直した総理をも輩出した代々政治家の家系だ。
「鷹枝くん、小学校はどこ?」
「××小」。特に有名でもない小学校。たぶん公立だろう。
名門のおぼっちゃまがどうして公立小学校にいったのかは定かではないが、きっと何もなければ、有名私立中学を受験していたのだろう。
何もなければ? では小6のときに何かあったのだろうか。
「じゃあ、三平方の定理あたりね」
聡は気をとりなおして、説明することにした。
英語専任だけれど、中学の数学程度だったら教科書を見ればだいたい思い出す。
難題にぶつかったら、他の先生を呼んでもいいことになっていた。
ひととおり例題を説明したあとで、問題をやらせる。
しかし、これまた将はすばやく、かつ完全にできてしまうのだった。
あまりにもスムーズに進むので
「一度習ったんじゃないの?」と聡は疑った。すると将は
「こんなの一度説明聞いたら、フツーできるぜぇ、つまんねー」
と頬づえをずらして机に顎をつけた。
「行儀悪い!」聡はいちおう教師だからそういうだらしない姿勢を注意する。
「……それにウソばっかりついて。若いうちからハッタリ言わないの」
将はこんどは背筋を伸ばして足をブラブラさせた。
「ねえ!こうしようよ」
将はいきなり、叫ぶと、頭の後ろに組んでいた手を机の上にいきなり置いた。聡はびっくりして、のけぞった。
「何よ」
「あのね」
将はいたずらっぽい目で聡を見ると、ノートを指し示した。昨日買ったまだ新しいノートだ。
そこに将は新しいシャーペンで字を走らせる。学校にずっと行っていないわりにはきれいな字だ。
『この教科書、来週中に全部できたら、またキスさせて』
と書いてあった。
「何いってる……」
言いかける聡に将は人差し指を立てて制止した。
後ろに多美先生がいる。
「ダメ」聡はおかまいなしに断言した。
「じゃ覚えない」
「覚えないなら覚えなくてもかまわないわ。勉強は自分のためにするものでしょ」
「ふーん。自分のため、ね。でもこれって役にたつのかな」
勉強の意義。それは聡も生徒だった時代に思ったことだった。
「特に英語とか。大学にいくやつならともかく、一生外国なんか関係ないヤツがほとんどでしょ」
―――勉強の意義はある。
それは確かだけど、聡は適切に答えられなくて、だまるしかなかった。
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