第6章:決心
もう10日になる。コナンは、ずっと、この仕切りガラスから、哀を見つめている。
ふと、哀の瞼が動いた。そして、静かに目が開く。
「灰原!・・・先生!灰原が目を覚ました!」
コナンが叫んだ。
「あなた、誰?」
目覚めた哀がコナンに言った第一声だった。同じように、隣で心配そうに哀を見つめる阿笠にも言った。
「おじさん、誰?」
「お譲ちゃん、お名前は?」
担当医、岡島が哀に訊く。
「みやのしほ」
「えっ!」
コナンと阿笠が声を上げて驚いた。
「今、いくつ?」
岡島が続けて尋ねる。
「5歳」
目覚めた哀の様子がおかしい。
コナンは、両親と阿笠博士、佐藤、高木と共に、病院の事務室で担当医、岡島の話を聞いていた。
「記憶喪失?」
「ええ、正確には、精神的なものと頭を強く打った影響による記憶障害だと思います。脳には損傷なども見られませんので、一時的というか、十分、直るものだと思います。彼女は、5歳頃に戻っている状態です。それと、名前の『みやのしほ』というのは、友人か誰か、彼女にとって大切な人の名前だと思います・・・ただ、時間がある程度必要になるでしょう。数日かもしれませんし、数年かかるかもしれません・・・とにかく、あせらずに、静かに見守ってあげてください。まだ歩ける状態でもないですし、体の傷を治すことも大事ですから」
哀は、阿笠が買ってきた熊のぬいぐるみを抱き、動物の絵本を眺めていた。どうみても、4〜5歳ぐらいの子供のしぐさ、表情。あの大人顔負けの冷静な灰原哀の表情はまったくない。
「あ!コナン君!」
子供らしく、元気にコナンを見つめて笑いかけてくる。ただ、頭と腕に包帯が見え、腰に受けた銃創のため、まだ歩けない。痛みも時折あるようで、辛そうな表情をするときもあったが、痛みを訴えたりはしない。
「志保ちゃん・・・」
「ねぇ。コナン君知らない?」
「えっ。何」
「お姉ちゃんがどこ行ったか。おねぇちゃん、志保が怪我したから、絶対きてくれるはずなの。明美って言うの。知らない?」
コナンは、絶句せざるを得なかった。自分が救えなかった命。灰原哀こと宮野志保の唯一の肉親、実姉の明美。その笑顔と亡くなるときの寂しそうな表情が、コナンの瞼によみがえり、胸が詰まって涙が出そうになる。
「ねぇ。まだ、来ないのかな?お姉ちゃん」
「きっと、もうすぐ来るよ。お姉ちゃん、志保ちゃんのこと、大好きなんだろ?」
「うん!志保もお姉ちゃん、大好き!」
あの灰原があどけない表情で明るく言う。コナンの胸は、ますます押しつぶされそうになった。
子供に戻ってしまっている哀にとって、たった一人の肉親、姉の明美がいないことは、悲しく、つらいことに違いない。
その日、コナンが哀の部屋に入ろうとすると、ベッドに上体を起こし、すすり泣く哀の姿が目に入った。やっと、上体を起こせるようになっていた。
「お姉ちゃん、どこに行ったの?なぜ、来てくれないの?」
「志保ちゃん」
コナンは、努めて明るく声をかけた。哀は、涙顔のまま、コナンを見る。そして、堰を切ったように声を上げて泣き始めた。
あわててコナンが哀のベッドに座り、哀の肩を抱く。哀は、そのまま、コナンにすがって泣き続けた。
「お姉ちゃんに会いたい・・・お姉ちゃん・・・」
コナンには、かける言葉もなく、ただ、優しく抱いてやることしかできなかった。コナンの胸が熱く、重くなる。今ほど、哀のことを愛しいと思ったことはなかった。
*****
蘭にとって、新一とはどういう存在なのか?
新一が消えて2年たち、最近、蘭は、自分の気持ちに変化があることに気づいた。
そもそも、新一は、幼い頃から、ずっと傍にいた。それが当然だった。彼もそう思っていただろう。だからこそ、離れて時が経つにつれ、彼の気持ちが見えなくなっていくようだった。同時に、自分の気持ちが変わっていくことを感じ、愕然とする思いもあった。
始めは、やっかいな事件を抱え込んだか、巻き込まれたため、帰れなくなったと言った。その後、何度か、一時だけ、蘭の元に帰ってきたことがあった。でも、いつも、急に蘭の前から姿を消した。
「必ず戻るから、死んでも戻るから、だから、待っていてほしい」
と、コナンに伝言を残して・・・。
確かに、新一に好きだと言われたことはない。自分も新一に好きだと言ったこともない。でも、お互い、一番近い存在だと思っていた。離れていても、気持ちは一番近くにいる。そう思っていた。
2年が経ち、最近では、新一からの連絡も減っている。最後に新一と電話で話したのはいつだろう?3週間前?1月前?
新一の携帯電話の番号は知っている。でも、かけても繋がることは少ない。いつも留守電になっていて、最近では、メッセージすら残すことはなくなってしまった。
蘭にとって、新一が大事な存在であることは、今でも変わってはいないだろう。しかし、以前のように好きかと言われると、首を傾げざるを得ない。新一のことを思い出す時間も少なくなったように思うし、想いも変わったように思う。
その日、蘭の携帯が鳴った。
「新一・・・」
携帯画面の通知には、新一の携帯番号が表示されている。蘭は、携帯を取った。
「蘭・・・。久しぶりだな。元気だったか?」
「うん。私は元気だけど、コナン君が・・・」
「えっ?あの坊主がどうかしたのか?」
「何かの事故に巻き込まれて大怪我したらしいの。」
「そうか・・・で、ケガの具合は、わからないのか?」
「警察の機密らしくって詳しいことは、教えてもらえないの。命は助かったらしいけど、どこに入院しているのかもわからない・・・ね。新一は、茨城の事件、あの非合法組織の事件には、関わっていないの?」
しばらくの沈黙があり、新一は、おもむろに切り出した。
「実は、そのことで、オメーに言わなくちゃならないことがあるんだ」
「なに?」
「俺、この事件に関わったことで、好きなヤツが出来たんだ」
「え?どういうこと?」
蘭は、新一の言うことの意味がすぐに理解できなかった。この黒い組織事件に関わったことで、なぜ、好きな人が出来るのか?
「いや、詳しいことは、長くなるから・・・この事件で守ってやらなきゃならない人がいて、そいつのこと、好きになっちまった」
蘭は、思ったより冷静だった。そんな気がしていた、予感があった。最近、連絡してくる回数がめっきり減っていれば、当然、そう思うだろう。そして、強いて自分からも連絡しなかった。
「そう・・・なんとなく、そんな気がしてたんだ・・・でも、勝手だよ、そんなの・・・」
「蘭・・・」
「だって・・・2年だよ!2年も離れてて・・・今まで、新一といつも一緒だったのに・・・私には、事情が何もわからないまま、新一は離れていって・・・待っていてくれなんて言っといて、ひどいよ」
「すまない・・・蘭には、ホントにすまないと思ってる」
蘭の目からは、涙が溢れ出していた。
「ごめん、新一・・・今は、あなたと、話したくないから・・・」
フッと電話が切れた。
変声機を口元から離し、携帯電話を切ったコナンが目を伏せて、慶杏病院の屋上に立っている。その様子を屋上への入り口から、有希子が険しい顔で見つめていた。
2年・・・長いようで、あっという間に過ぎたようなこの間に、変わってしまったお互いの心。あれほど、聞きたいと思った新一の声、会いたいと願った新一の姿。今は、もう遠い人のように感じる。蘭は、自分の心の変化に驚き、新一の心の変化に怒りと諦めを感じていた。
*****
「ねえ。コナン君。志保のこと好き?」
哀が目覚めて8日目、部屋を訪ねたコナンに、少し恐る恐る哀が訊いた。
「え?・・・」
自分の顔色を伺うような哀の瞳には、子供のあどけない色が浮かび、そのあまりの純粋さに、コナンは少し戸惑い、
「ああ、好きだよ」
と、それだけ答えた。
哀は、笑顔をはじけさせる。
「志保もコナン君が大好きだよ!」
少し紅潮した顔で、本当に嬉しそうな表情を浮かべている。
4〜5歳になっている彼女にとって、ここで頼れるのは、心を許せるのは、コナンだけなのだろう。
「ありがとう、志保ちゃん」
コナンもつられて笑顔で答えたが、その顔は、赤くなってしまっていた。
「じゃあさ。大きくなったら、志保をお嫁さんにしてくれる?」
まっすぐに、素直にコナンを見つめてくる瞳は、今までになかった哀の表情。
「えっ!・・・あ・・・ああ、いいよ。お嫁さんにしてあげる」
コナンには、今の哀には、逆らうことはできない。
「やったあ!・・・じゃ、せいやくしょを書いて」
「・・・せいやくしょ?」
「うん。約束を守るように、志保も書くから。『えどがわこなんは、大きくなったらみやのしほをおよめさんにすることをちかいます』って書いて。志保も『みやのしほは、大きくなったら、えどがわこなんのおよめさんになることをちかいます』って書くから」
これも博士が買ってきたスケッチブックに哀がマジックで大きく誓約書を書く。次のページにコナンも誓約書を書かされた。
「これで、約束したよ。約束、破ったらだめだからね」
コナンが苦笑していると、
「よかったわね、志保ちゃん。コナン君、約束は守らないといけないわよ」
と声がした。驚いてコナンが振り返ると、病室の入り口に佐藤が立っていて、いたずらっぽくウインクしている。半目でコナンは苦笑したが、心の中では、ひとつの決心をしていた。
その日、コナンの病室にやってきた母親に対し、コナンが切り出した。
「母さん、お願いがあるんだ」
いつになく、神妙な様子の息子に有希子は、息子の言いたいことを察した。
「哀ちゃんのことね」
「ああ。アイツの体が治って、記憶障害が治らなかったらさ、アメリカの父さんと母さんのところに連れて行ってほしいんだ。俺と一緒に・・・」
「そうね。博士のところにいて、今までのように学校に通うことはできないしね・・・あなたは、彼女の傍にいるつもり?」
「俺を守ってこうなったんだ、アイツ・・・俺が傍にいてやらねえと・・・俺しかいないんだ、アイツには」
「わかったわ。優作も歓迎すると思うし、私も可愛げのない息子だけじゃなくって、娘もほしかったから、丁度いいかも」
有希子がコナンの額を指で小突きながら笑って言う。
「悪かったな。可愛げのない息子で」
「へへ・・・でもね、新ちゃん、心配しなくていいわ。私も優作も、哀ちゃんのことは、本当の娘のように想ってるから。あなたの命の恩人だし、新ちゃんが彼女を大事だと思うのなら、私達にとっても大事な子だからね」
「ありがとう。母さん」
コナンにしては珍しく、母親に、素直に感謝した。
「やっと、私達を頼ってくれたわね」
「え?」
「だって、新ちゃん、哀ちゃんと組織に行くこと、私達には、何も言ってくれなかったでしょ?あなたは、いつも、私達を頼ろうとせず、戦っていたわ・・・優作も、私も、これでもあなたの実の親よ。あなたのことを心配してないわけないわ。もちろん、あなたは、そんなこと百も承知でしょう。でも、親ってね。やっぱり、時々、頼ってほしいと思うものよ・・・だからね、だから、哀ちゃんのことは心配しないで。彼女のことは、私達がちゃんと面倒見るから」
「かあさん・・・頼むよ」
コナンは、今更ながら、親をありがたく思った。そして、そんな親を、大好きな肉親を亡くした少女。いつも強がって、一人で何もかも背負おうとし、自分を庇って大怪我をした少女。コナンは、自分にとって、哀が今、一番大きな存在であることを自覚し始めていた。 |