第37章:前を向いて
「ね、新一、もうひとつ、訊いていい?」
穏やかな笑顔を浮かべた蘭がコナンに言う。
「え?」
コナン・・・新一は、幼いころから、ずっと蘭と一緒だった。
蘭の考えていることは、一番理解していると思っていた。今でも、蘭のことを理解していると思う。
しかし、今、目の前にいる蘭の笑顔、哀しそうな影を宿した笑顔は、新一の知らない顔だった。
その初めてみる蘭の表情に、少し戸惑いを覚えたコナンは、蘭の次の言葉を待った。
「何度か・・・初めて新一の家でコナン君に会ったときの後、何度か新一に戻っていて・・・会ったよね・・・それに、学園祭のとき、新一とコナン君、一緒にいたでしょ?あれは、どうしてなの?」
「確かに、一時的に新一に戻ることは、できると思う・・・でも、完全に元に戻るのは、無理なんだ・・・」
コナンがそう言ったとき、哀の肩が少し揺れた。
「哀が、何度か薬を作ってみたけど、ダメだった・・・学園祭のときは、その薬で一時的に戻れたんだ・・・あの時のコナンは、哀が変装してた・・・」
蘭の顔を見て、何か言おうとした哀を、コナンがその胸の前に腕を出して止めた。
哀は、ゆっくりとコナンの方を見る。
腕を哀の胸の前に伸ばしたまま、コナンは、蘭の顔を見ていた。
「そう・・・」
フッと蘭が笑う。
「そこまで手の込んだことして、コナン君が新一だって、隠してたんだ・・・」
「それは・・・」
何か言おうとしたコナンだったが、蘭から視線を外し、俯いた。
3人の間に沈黙が流れる。
事務所の前の通りを走る車の音が、事務所にいつもより、大きく響いているようだった。
*****
毛利探偵事務所を出たコナンと哀は、阿笠邸への道を歩いていた。
すでに、夜9時を回っている。
並んで歩く2人は、一言も話さなかった。
哀は、ふと、右手の暖かいものが触れるのを感じ、顔を上げた。隣にいる、コナンを見る。
コナンは、前を見つめたままだったが、その左手が哀の右手に触れ、そして、その手を握ってきた。
コナンを見つめる哀の瞳が揺れ、表情が少し、硬くなった。
こぼれそうになった涙をこらえ、哀は、そっと、コナンの手を握り返した。
「遅かったの・・・」
心配していたのだろう。2人が阿笠邸の玄関に入ると、奥から、家主の阿笠が少し慌てて出てきた。
「ごめん、博士・・・」
2人の表情がどことなく暗く、寂しそうで、阿笠の表情も曇った。
「何か、あったのかの・・・」
「蘭に、ホントのことを話した・・・」
阿笠の表情が引き締まった。そして、コナンと哀を交互に見ると、その目が細くなり、いたわるように2人を見た。
「そうか・・・蘭君には、いずれ、バレるとは、思っておったが・・・」
阿笠がそう言ったとき、玄関を上がり、リビングへ歩きかけた哀の手を、いきなりコナンが掴んた。
そして、その腕を自分の方へ引き、哀を抱きしめた。
「くど・・・うくん?」
コナンの腕の中で、驚いた哀が目を見開いている。
「哀・・・俺は、おめえが好きなんだ・・・傍にいてくれ・・・」
コナンは、蘭に真実を話してから、哀が自分の傍から消えてしまうような予感に襲われていた。
蘭の寂しそうな表情を見たとき、その顔を辛そうに見ていた哀が、自分から、離れていってしまうような、そんな恐怖に、コナンは、とらわれていた。
阿笠邸に着き、少しホッとした途端、コナンは、哀を離したくないと強く思った。失いたくないと、強く思った。そうしたら、気づくと、哀を抱きしめていた。
阿笠が傍にいるのもかまわず、コナンは、強く、哀を抱きしめていた。
そんなコナンの胸の中で、哀は、黙って目を閉じた。
愛している彼に抱きしめられ、胸に幸福感がわきあがってきたが、今までと違い、それには、苦しくなるような痛みも伴っていた。
コナンの背中に回された哀の手が、すっと、コナンの胸のところにいくと、哀は、ゆっくりと腕を伸ばし、コナンから体を離した。
「ありがとう、工藤君・・・」
そう言いながら、哀は、コナンと目を合わさずに、リビングの方へ歩き出した。
呆気に取られてみていた阿笠が、哀の背中を見送って、コナンに声をかける。
「どうしたんじゃ?いきなり・・・」
哀がキッチンへ消えても、コナンは、その方向を見たまま、阿笠に答えた。
「アイツ、蘭と話してから、様子がヘンなんだ・・まあ、アイツの考えてることは、察しがつくけど・・・」
「あの子は・・・哀君は、優しいからの・・・ワシらなんかより、ずっと、優しいから・・・」
リビングへ歩いていくコナンの後を歩きながら、阿笠が言った。
「そだな・・・」
ソファに座ったコナンは、ふっと息を吐くと、背もたれに頭をつけ、天井を見上げた。
キッチンから出てきた哀が、3人分のコーヒーを持って、コナンの隣に座った。
コナンと哀の顔を交互に見た阿笠は、そのカップのひとつを取ると、地下室への階段に向かった。その背中に哀が声をかける。
「博士」
阿笠が振り返った。
「ありがと」
哀が阿笠の顔を見て、笑みを浮かべて言うと、阿笠もフッと笑顔を見せ、地下室への階段に消えていった。
「ね、工藤君・・・訊いていい?」
コーヒーカップを包むこむように両手で持ち、哀が口を開いた。
「あん?」
コナンは、俯き加減にソファに座る哀の横顔を見た。
「どうして、蘭さんに解毒剤のこと、言わなかったの?」
「もう、元の体には、戻れねえんだ・・・言う必要は、ねえだろ?」
「戻れねえって・・・忘れたの?あなたは、戻れるのよ。工藤新一に・・・戻れないのは、私だけ・・・そうでしょ?」
哀が顔を上げ、コナンの顔を見つめた。
「忘れてんのは、おめえだろ?・・・言ったじゃねえか、俺とおめえは、運命共同体だって・・・元の体に戻るにしろ、この体のまま生きるにしろ、一緒だって、そう約束したじゃねえか」
呆れたようなコナンの表情を見ていた哀は、そのまま、黙った。両手で握っているコーヒーカップが、僅かに震えている。
「嘘だったのか?」
「え?」
不意なコナンの言葉に、哀が顔を上げる。
「一緒に生きていきてえって、俺と一緒に生きてえって、そう言ってくれたおめえの言葉だよ」
コナンの強い瞳に、哀は、思わず、目を伏せた。
「嘘じゃないわ・・・あなたと一緒に生きたい・・・でも・・・」
「じゃ、もういいだろ。蘭のことは、もう気にすんな・・・アイツだって、前を見て歩きだしてんだ・・・工藤新一に囚われずに、な」
コナンは、そっと、コーヒーカップを握っている哀の両手に触れた。
「おめえも、俺と一緒に前を見てくれ・・・これから先を、未来を見てくれよ・・・」
自分を見つめてくるコナンの瞳に目を合わせた哀は、その真っ直ぐな光りに思わず微笑んだ。
「わかったわ・・・ありがとう・・・くど・・・いえ、江戸川君」
「だから、俺の前から消えようなんて、そんなことすんなよ。そんなこと、ぜってえ、許さねえかんな」
大好きな哀の碧い瞳を見つめ、コナンは、ニコッと笑った。
その笑顔に、哀も笑みを返していた。 |