第18章:母
次の日、哀の病室を有希子が訪ねてきた。
「おはよう、哀ちゃん」
有希子は、哀に微笑んだ後、床にマットを敷き、寝ながら様子を伺っている我が息子に冷たい目を向け、足でその背中を蹴った。
「いつまで寝てんのよ!そんな邪魔なところで」
「いってーなあ。息子を蹴るなよ!」
コナンは、起き上がって母親に抗議した。
「まったく・・・蘭ちゃんに訊いたら、病院に泊まってるっていうし、そんなこと私は聞いてないし・・・あなたね!見かけは子供だけど、精神的には、20歳でしょ!・・・女の子が入院している部屋へ泊まるなんて・・・それも、見かけは子供だということを利用して・・・哀ちゃんにヘンなことしなかったでしょうね!」
「心配だったから、一緒に居てやって、ここに寝てただけだよ!ナンもしてねーよ。哀に訊いてみろよ」
コナンは、母親の怒る顔にタジタジになりながらも、反論する。
「ほんと?哀ちゃん。」
有希子が哀に訊ねる。
「ええ。私が起きている間は・・・寝ている時は、わかりませんけど。・・・昨夜は、疲れてたから、ぐっすり寝ちゃいましたし」
哀もイタズラっぽく笑って言う。
「おいおい」
コナンが苦笑しながら哀を見る。
有希子がジト目でコナンを睨んだ。
「何にもしてないでしょうね?新ちゃん?」
「・・・」
「なんで黙るのよ?・・・ひょっとして、あなた・・・」
有希子の睨む目の鋭さが増すと、コナンが赤い顔をして頭を掻きながら言う。
「・・・って、おでこにキスを・・・手、握ってやったら、すぐに寝付いちまったから・・・んで、しばらく、寝顔見てただけだよ」
恥ずかしそうにそう言うコナンに、哀は思わず吹き出してしまった。
「そんな・・・正直に言わなくても・・・」
哀の笑いが止まらない。
コナンに何か言いかけた有希子だが、哀の様子を見て、フッと微笑むと、
「哀ちゃん、よく笑ってくれるようになったわね」
そう言って、哀の頭に優しく手をかけ、自分の胸に引き寄せた。
「ホント、かわいい!・・・もう、私の娘にしちゃおうかな?」
「おいおい・・・」
コナンが呆れ顔で有希子を見て、哀に視線を移すと、少し戸惑いながらも、嬉しそうな顔をしているので、自然と笑顔になっていた。
*****
「哀ちゃん、これで荷物は全部?」
有希子が哀に訊いた。
「ハイ。本とか、服とか、ある程度は、博士が持って帰ってくれましたから」
哀の退院の日、有希子が朝から手伝いに来てくれていた。
「そう。それと、しばらくは、私もこっちに居て、あなたをウチで預かるから、よろしくね」
「え?」
「だって、あなたの世話をするの、博士じゃ無理でしょ?着替えとか、お風呂とか・・・新ちゃんが怒るわよ」
「すみません。いろいろ・・・」
「今更なに言ってんのよ。あなたは、私の愛息の大事な大事な人よ。と、言うことは、私にとっても大事な人、娘と同じなの。娘の面倒を親が見るのは当然でしょ?」
哀は、有希子の言葉に胸がつまり、涙が出そうになった。
「さ、新ちゃんもぼちぼち来るでしょうから、着替えてね」
そう言われ、素直に従う哀を優しい眼差しで有希子は見ていた。
コナンがやってきたのは、それから20分も経った頃だった。
「哀、仕度、できたか?」
「ええ」
「博士が玄関に車を置いて待っているぜ。荷物、これだけか?」
「ええ」
「新ちゃん。私を無視しないでくれる?」
コナンが哀にしか声をかけないので、有希子がこめかみに血管を浮き上がらせて言った。
「なんだ、母さん、居たのか」
ゴン!
有希子がコナンの頭を拳でたたく。
「いってーなあ。何すんだよ!」
「親を無視するからよ・・・さ、哀ちゃん、行きましょ」
有希子は、コナンを放ったまま、哀を乗せた車椅子を押し始めた。
「おい!待てよ」
コナンが慌てて二人を追いかける。
有希子は、車椅子を押しながら、哀の顔を覗き込んでいたずらっ子のように笑い、ウインクする。哀は、追いかけてきたコナンの顔と、有希子の顔を交互に見て、苦笑していた。
哀は、当分、有希子が工藤邸で預かることになった。コナンと哀、有希子は、阿笠の車で、工藤邸に着いた。
「さ、哀ちゃん、この部屋を使って。遠慮はしなくていいのよ。あなたは、私の娘なんですからね」
新一が使っていた、2階の南に面した日当たりのいい部屋に哀を案内して有希子が言う。ベッドとソファ、テーブルがあり、備え付けのクローゼットもある。
「一応、一通り用意しておいたわ。必要なものがあったら博士の家から運んでくるから、なんでも言って。トイレとお風呂は、2階にもあるから階段を上り下りしなくてもいいし、この部屋、鍵が掛かるから、どっかの馬鹿な探偵が来ても会いたくなかったら、鍵を掛けなさいね」
「ありがとう、有希子さん。本当に・・・」
哀は、潤んでいる目を有希子やコナンに見られないように少し俯いて言った。
「馬鹿な探偵って誰のことだよ!」
コナンがジト目で有希子を睨む。
「わかってんじゃないの?・・・さて、私は、ちょっと片付けをしてくるから、新ちゃん、哀ちゃんをお願いね」
有希子は、含みのある笑いを二人に向けて言葉を継いだ。
「夕方まで、私は2階に上がってこないから・・・ごゆっくり、ね」
そう言うと、フフと手を口にあて、目を細めてドアを閉め、出て行った。
「あったく・・・息子をなんだと思ってんだ?」
「でも、いいお母さんね。私、こんなに親切にしてもらって、好意に甘えていていいのかしら?」
「いいんだよ。一番喜んでんのは、母さんなんだから・・・さて、せっかく母さんが気を利かせてくれたんだから・・・」
コナンは、哀を抱き寄せる。
哀は、肩に置かれたコナンの手のぬくもりの心地よさに目を閉じた。やがて、コナンの手が哀の髪に触れ、優しく指を絡ませる。
「おめえの髪、綺麗だよな。いい色だし」
「そう?」
「俺、おめえの髪、大好きだ」
「ありがと」
哀は、素直にコナンの言葉が嬉しかった。母譲りの髪の色。哀にとって、大事な母の形見、母の子であることを証明するものでもある。
「好きだ・・・うん、大好きだ、哀」
コナンが自分の気持ちを確認するように言う。
「私も。私も、あなたが大好き・・・」
哀も、強く言った。
二人は、お互いを見つめ合うと、ゆっくりとお互いの唇を近づけ、そっと合わせた。
*****
「さ、哀ちゃん、食べて・・・お口に合うかどうかは、保障できないけどね」
次の日、工藤邸では、有希子と哀が二人で朝食をとっていた。有希子の手作り。
ご飯に味噌汁、焼き魚・・・
哀は、少し驚いて、テーブルの上を眺めていた。
「どうしたの?」
「あ・・・いえ」
まさか、有希子が和風の朝食を作れると思わなかった、とは、言えない。
「遠慮することは、ないのよ・・・哀ちゃんには、ちゃんと食べてもらって、早く、体治して、新ちゃんのお守りしてもらわないと、いけないからね」
ウインクして、イタズラっぽく笑う。
「じゃ、いただきます」
「はい、どうぞ」
有希子は、満面の笑みで、箸を動かす哀を見ている。
「どう?」
「はい・・・美味しいです」
お世辞では、ない。長い間、入院していたこともあるのだろうが、本当に、美味しいと思う。
ふと、哀は、箸を置いて、俯いた。
「あら?どうしたの?」
「本当に、ありがとうございます・・・今まで、ちゃんと、お礼が言えてなかったので・・・入院中から、今まで・・・いえ、それより前から、私のような者に、ここまで、してくれて・・・本当に感謝してます」
哀は、俯いたまま、言った。
「何よ、改まって。気にしないでって言ったでしょ?あなたは、新ちゃんにとって、私にとって、大事な人、私の娘なの・・・女の子って、ほしかったのよね」
哀を見て、子供のような笑顔をする。
「有希子さん・・・」
「それに、いつか、あなたが新ちゃんのお嫁さんになってくれる日が来たら、その時、お返ししてもらうし・・・ね。それまで、何も気にしないで」
彼のお嫁さん・・・
哀には、まだ想像すらできない。
今、彼は自分のことを好きだと言ってくれる。哀にとって、彼が一番大事な存在であることも確か。しかし、彼の人生の伴侶として、自分が相応しいのかというと、やっぱり疑問が残る。彼は、怒るか、一笑に付してしまうだろうが、自分がそこまで彼の傍に居ていいのかどうか、まだ哀には、わからない。
「あなたは、幸せになっていいのよ。いえ、幸せにならないといけないのよ。あなたのお姉さん、ご両親、阿笠博士、歩美ちゃんたち・・・そして、私たち・・・新ちゃん。みんな、あなたの幸せを願っているわ」
考え込んだ哀を見て、有希子が不意に言った。
(また、同じことを言わせてしまった)
哀は、すまなさそうに有希子を見た。
「ごめんなさい・・・私・・・」
「いいのよ。焦ることはないわ。ゆっくり、悩んで、歩いていけばいい・・・でも、幸せになることを捨ててはいけないわよ・・・ま、そのうち、新ちゃんよりいい男が現れるかもしれないけど、ね」
子供のような笑顔をして言う有希子に、哀も笑顔を返した。
昼間、哀は、隣の阿笠邸に戻った。
「哀君・・・」
阿笠は、目に涙を溜めて、哀の顔を見ている。哀には、それだけで、十分だった。
この少々変わり者の発明家が、いかに自分のことを想ってくれているか、今回、十分に知らされた。その不器用な優しさは、哀の心に染みた。
哀には、不思議だった。自分のような無愛想な、お世辞ひとつ言えない皮肉屋が、なぜ、こんなに優しい人々に囲まれているのだろうかと。見返りを求めるどころか、自らの危険さえ顧みることなく、自分に優しさをくれる人たち。
陰謀や打算、欲望が満ちていた組織にいた自分が、こんなに暖かい場所で過せるようになった奇跡に、哀は、震える想いだった。
哀は、自分の部屋へ入る。阿笠と有希子が掃除をしてくれていたそうだが、哀の物には、一切手が触れられた形跡がない。これも、あの人たちの優しさ。
目を潤ませて、思わず微笑んだ哀は、パソコンを立ち上げた。そして、作業を始めたその瞳には、鋭い光が宿っていた。
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