父と冷蔵庫
「成田離婚」続編です。
我が家には冷蔵庫が二つある。一つは台所に。一つは居間の隅っこに。
台所には僕と父の食料が。居間には昔、よく母が入っていた。
冗談だと思われるけれど、これは本当の話。僕が小学校に入学した年に消えてしまった母は、いつも居間の冷蔵庫の中に膝を抱えてちょこんと座り、寒いと怒る父の姿を笑顔で眺めていた。
父は母にたいしていつも怒っていた。幼心に二人はどうして結婚したのだろうかと疑問に思うくらい頻繁に。
でもそんな反面、僕はケンカをする父と母が好きだった。
なぜだか、二人の言い争いは僕の耳には楽しそうに響くのだ。そもそも些細な理由でばかりケンカしていたし、怒る父の根底には母を心配する心があることを、僕は知っていた。
母は、普通ではなかった。
母も父もそれは隠さなかったし、むしろ人目を気にしたほうがいいのではと幼稚園児に指摘されるほど、開けっぴろげに自分の異常ぶりを露呈するのが母だった。
幼稚園の僕が心配するほどだ。母と結婚した父の気苦労はそれ以上だっただろう。
しかし母は最後まで父の乱暴な言葉の裏に潜む真意には気づかなかった。父の方にも、気づかれないように隠していた節がある。
だから僕が小学校に入学した年の夏、母は僕たちの前から消えた。いつもと同じ他愛ないケンカが原因だと父は後に言った。でも、怒っていたのは父ではなく母で、最後の傷ついた顔で黙り込んだのは父だった。
そのまま母は家を出たまま八年も戻らず、母の冷蔵庫は使われることなく居間の隅に陣取っている。
そしてそんな冷蔵庫を捨てないのかと尋ねた五年前、僕は始めて父の口から母の異常な理由を知った。
「これがないと、あいつすぐ溶けるから」
その後に父が続けたのは「どうして、雪女何かと子作りまでしちまったのかな」と言う、僕に対してとても失礼な言葉だった。
母が消えて、一番に変わったのは僕たちではなく周りの人間だった。
僕たちの生活ももちろん変化を遂げたが、むしろ母がいなくなったことによって楽になった部分が大きいと、薄情にも僕と父は思っていた。
そもそも母はいっさいの家事が出来ず、やろうと努力をする度に我が家の財政に何かしらの打撃を与えるほどの失敗をやらかす為、父からテレビと冷蔵庫を覗く家電製品全般には手を触れることすら禁止されていた。
その上母は雪女で、ことあるごとに溶ける。特に溶けやすい体質なのだと母は常日頃からわめいていたが、僕のために焼けたトーストを取り出そうとした母が父のコンフレークの中に人差し指をボチャンと落とした時、僕は母に母らしいことを期待するのをやめた。
母が嫌いなわけではない。実を言えば、熱さで溶けているイメージばかりで母の顔は良く思い出せなかったりもするのだが、断じて、僕は母が嫌いなわけではない。
ただ、母が普通ではないと分かっていたが、母に普通を強要することを僕は望まなかったのだ。
僕にとっての「愛すべきお母さん像」は世間一般のそれとは違う。
だから母が出て行って、生活はとても快適になったのに、僕の心は満たされなかった。そしてそれは、父も又同じだった。
しかしそれに対して、母をなくして「普通」になった僕たち家族を、周りの人々は喜んだ。亡くなった祖父を覗けば、口々に「悪霊から解放されて良かった」だの「これで村は安泰だ」だのと僕たちの心も知らずに皆は言う。
たしかに父は、母に一度も「愛」を感じさせる言葉を口にしなかった。
「お前なんて嫌いだ」
「夏の日差しに焼かれて消えろ」
「溶けて流れてどこかへ去れ」
等の、子供の前でその言葉は教育上良くないだろう。と六歳児に思われるほどの言葉を平然と列挙する人だった。
けれど父は一度も人前母を貶すことはなかった、他人が母を傷つけることには我慢がならない人だった。
そんな父を、他人は雪女に虐げられている哀れな男と判断したのだろう。父も父で周囲の言葉に無関心を決め込んでしまったから、周囲の人々が抱く僕たちの家族像と真実は、もはや修復不可能なほどに食い違っていた。
「鉄雄のお父さん、まだ再婚しないの?」
学校の帰り道、みゆきが僕に訪ねた。母が出て行って八年後、中学2年の冬のことだ。
その話題はずっと前から僕の家につきまとうもので、僕が一番嫌いなもの。それを幼なじみのみゆきだけは理解してくれていると思っていたので、少々裏切られた気分だった。
「再婚して欲しいの?」
「もったいないなぁって思うだけよ。総司さん、結構素敵だし」
そこで「息子の僕はどう思う?」と聞き返せない所が自分はまだ男としてまだ未熟だな、と一人心の奥でため息をつく。
「もう良いおっさんだよ」
「でも村の中では若い方でしょ。それに現役のスノーボーダーだし」
「みゆきのお母さんの方が若いじゃない」
「だめよ、うちの母は傷物だから」
どこか恥じたような言い方が引っかかったが、僕はそれを指摘出来なかった。
「再婚、またダメになっちゃったんだっけ?」
「始めからわかってたことよ。それにうちのママ、元々あの男のことより総司さんの方が好きだし」
さすがにこの言葉には返答を失う。
「うちのママもそうだけどさ、こういう山奥の村に長く住む若い世代の人って色々あるわけよ」
それはどことなく感じていた。
僕の住む村はただでさえ村人が少なく、その80%は老人が占めている。十五年ほど前できたスキー場の影響で、冬は遠くから若いスキー客が来るが、そのスキー場を運営している人たちの殆どは、スキーはおろか足腰の立たなくなった老人達ばかりである。
それでもどうにか切り盛りしているのは、僕の父やみゆきの母などの二十代から三十代ほどの大人達のおかげで。そう言う人たちの殆どは、結婚や就職に失敗して故郷に戻ってきた過去を持ち、何かから隠れるようにこの小さな村で暮らしている。
そんな中で、自分の過去から逃げも隠れもせずに生きている僕の父が、大人達からも老人達からも一目を置かれているはうすうす気づいていた。
また、元々若いころの父は有名なスノボーダーだったらしく、その腕を買われてスノーボードのインストラクターとして村のスキー場で働いている。
有名とは言ってもその度合いは僕には分からないが、裏庭にある倉庫の中に泥まみれになったトロフィーや金メダル【父は子供のおもちゃだと言ったが、明らかに五輪のマークが書いてある】が転がっていたことから、相当の腕であった事は間違いない。
ただ、それを父は決してひけらかさない。しかしひけらかさなくてもその栄光は分かる人には分かるらしく、「スノーボード、教えマス」と汚い字で書かれた張り紙が目印の古くさいロッジで働いていながら、父の元には毎年多くの客が来る。
雪女と結婚した不幸な男という村での肩書きと、過去の栄光を背負うゲレンデでの背中。その二つは否応にも人々を引きつけるのであろう。
実際の父は、女々しくも夜中にこっそり母の冷蔵庫を開けたり閉めているような男であるにも関わらず。
「うちの父さんだって、人には見せないだけで色々な顔があるよ。その顔を外に見せないって事は、見せたい人がまだいないって事にもならない?」
「でも、うちのママとは仲いいじゃん」
「みゆきは、僕の父さんとママさんが結婚して欲しいわけ?」
ムッとして言い返した事を、僕はすぐに後悔した。みゆきはさも当たり前だという顔で、僕に大きくうなずいたからだ。
家に帰ると、昼間だというのに珍しく父がいた。
「仕事は?今日からでしょ?」
と訪ねれば、「したくても雪がねえ」とぼやいている。
こたつに入り、真剣な表情でドラマの再放送を見ている父。母親に似たおかげでジャニーズ風美少年と称される僕とはちがい、父は長身で体つきが良く、少々目つきが悪い。だが、美人で名高いみゆきママに惚れられるレベルであるのもまた事実で、それが何とも複雑な所である。もうちょっと崩れていてくれたら、こんなに苦労しないのに。
「・・・父さんの所為で、失恋しました」
気がつけば、僕はそう言ってこたつに足を突っ込んでいた。
「ふーん」
ドラマに夢中の、父の反応はそれだけである。
仕方なしに、僕はみゆきとのやり取りを再現してみる。さすがにこれは父の興味に触れたらしく、相づちは適当ながらも、最後はテレビの音を消して僕の方を向いた。
「別に失恋じゃねえだろ。ただ単に、結婚がぽしゃって落ち込む母ちゃんをどうにかしてやりたいと思う、優しい娘心の現れだぞそれは」
この、他人事のような口調が腹立たしい限りだが、怒ったところで父の本音を引き出せる確立は万に一つもないので、僕はふてくされるだけにとどまった。
「でもさ、好きな子の母親が自分の父さんと結婚するわけだよ?むちゃくちゃ複雑じゃない」
「結婚しないんだから関係ないだろ」
「やっぱり、再婚する気はまだないんだ」
「再婚して欲しいのか?」
ここでようやく、父の声音が若干変わった。夜中に母の冷蔵庫を開け閉めしているくせに、息子が「欲しい」と言ったら考える気はあるらしい。
「お母さんが欲しいって言ったらどうするの?」
「・・・お前の欲しいは、サンタさんにお願いするレベルか?それとも、自分のお小遣いを出してでも欲しいレベルか?」
「そのレベルの違いがわかんないんだけど」
「後者の方が得られる確率が高い、と俺は思う」
「でも、雪女のお母さんならサンタさんの方が持ってきてくれそうじゃない?」
僕の言葉に、父は黙り込んだ。
「でも父さんの所にはさすがにサンタは来ないよね。何なら、僕が来年のクリスマスに頼んであげようか?」
「・・・今まで黙ってたけど、本当はサンタさんなんていないんだぞ」
「知ってるよ。プレステを下さいって頼んだのに、『南方総司』って裏にマジックで書いてあるスーパーファミコンが枕元に置いてあった七歳の冬に気がついた」
「俺じゃない。あれだけはサンタさんの仕業だ」
「別に隠さなくて良いよ、始めから期待してなかったし」
冷めた子供だな、と父がこぼせば、雪女の子供だからね、と僕が返す。
そこで父は再び黙り、今度こそ完全にテレビを消した。
「そう言うことで、いじめられたりしないか・・・?」
その質問を、父がずっと喉の奥でこらえていた事を僕は知っている。
でも父はいつも肝心なところで肝心なことが言えない人なのだ。だから母は行ってしまい、それが父をさらに臆病にしてしまったのだろう。遠回しにその事を聞かれたことはあっても、ストレートに訪ねられたのは今回が初めてだった。
そして僕は、その質問を投げかけてきてくれた事が少しうれしくて、笑顔を浮かべてこう返す。
「しないよ、むしろこの顔があるから女の子にも先生にもモテモテで」
僕の笑顔に、父は心底呆れた表情を作る。
「・・・誰に似たんだこの性格」
「あ、男子とも仲良くやってるからそこも心配いらないよ」
「してねぇよ」
「じゃあ、どうしてさっきあんな事聞いたの?」
「・・・俺は気にしなくても、どっかで気にしてる奴がいるからな」
言葉の意味を、理解できないほど鈍くはない。でも、あえて僕は訪ねてみた。
「それ、誰だろうね」
「誰だろうな」
父は苦笑気味に言って、おもむろに窓の外へと顔を向ける。
長野の山奥、それも1月だというのに雪はほとんどない。地球温暖化の影響か、はたまた雪女を怒らせた罰なのか、特にここ数年は普段の半分の降雪量も見込めない年が続き、そろそろ人工降雪機を買おうかという話題がスキー場では出ているという話だ。
「滑りたいな・・・」
父が、雪のない庭を見てそうこぼす。
たぶん、父は僕の言葉に何か思うところがあったのだろう。父は心にわだかまりがあるとボードを担いで山に登る癖があり、母と出会ったのもその癖がきっかけだったそうだ。
「滑るのは良いけど、遭難はしないでよね」
「俺はこの山のプロだぞ」
「じゃあ、今度滑りに行く時は僕も連れてってよ」
「何かあったらどうするつもりだ」
「大丈夫だよ、さすがに二人で遭難してたら、優しい雪女が助けてくれると思うし」
僕が笑ったその時、父は驚いた顔をしていた。
しかしそれは僕の言葉にではなく、今まで晴れていたはずの空から、大粒の雪が降り出したからだった。
「今週はずっと晴れる予報だったのに・・・」
「山の天気は変わりやすいって言うじゃない」
僕が笑うと、父さんはこたつから立ち上がり、窓を大きく開けた。
外から吹き込む冷気はどこか懐かしい匂いを居間へと運ぶ。
この匂いを嗅ぐたびに、僕は父の背を追いかける母の姿を思い出す。いつまでも新婚気分が抜けない母は、幸せそうな顔で「総ちゃん総ちゃん」と父の大きな背中を追いかけてばかりいた。
「ねえ父さん、どうして母さんは出て行ったの?」
父さんがずっと言えなかった問いかけを僕にしたように、僕もまた父さんにずっと聞きたかった答えを求めてみた。父は相変わらずの沈黙を10秒ほど続けたけれど、最後は重い口を開いてくれた。
「きっかけは、電気代だった・・・」
正直、あまりにくだらないその理由に、僕は違う意味で泣きたくなった。
「なんなの、そのしょぼい理由は?」
「あいつすぐ溶けるから、夏場はクーラーと扇風機総動員してただろ?それで電気代が偉いことになってな・・・」
正直、間抜けすぎて笑えない。
「そんなことで、8年も別居してるわけ?」
「生活費の話題がお前の養育費とかそう言うところまで飛び火しちまって・・・。それであいつが働くとか言い出したもんだから、俺もついつい言葉が荒くなってな」
「どう考えたって母さんがパートとか無理でしょ」
だよなぁ、と腕を組む父。しかしその表情は冴えない。
「でも言い方がまずかったんだよ。普通に怒って、いつもみたいに怒鳴れば良かったのに、どういうワケだが言っちゃったんだよな」
その時の言葉を、僕は唐突に思い出した。
―――お前に何かあったら俺は生きていけない・・・。
普段からは想像がつかない言葉を、あのとき父はつぶやいた。
僕でさえ想像がつかなかったそのクサすぎるセリフを、日頃罵倒され続けていた母が信じられるわけもなく、『どんなに馬鹿にされても我慢出来るけど、私を愛してるみたいなウソ言わないで!』と父を突き飛ばして、母は出て行ったのだ。
「まあ、何かあったら山に捨てるって言い続けてきた俺も悪いんだけどさ」
「でも普通、愛もなく結婚したり子供作ったりしないよね」
「けど俺、あいつに一回も好きだって言ってないし」
さすがにこれは初耳である。
「結婚式の時も、『氷付けにされるくらいなら婚姻届偽造した方がマシだ』って言いながらヴェールめくったし、ハネムーンでもあいつのためと言いつつ酷いコトしたし、お前が出来た時も『仕方ねぇから育てるか』で片づけたし」
「ちょっと待ってよ、二人の愛のあかしを前に『仕方ねぇ』はないんじゃない?」
「自分のこと愛のあかしとか言うな」
「だって、父さん僕のことそう思ってないでしょ」
「思ってるよ。でも口で言わなくてもお前ならば分かってくれると思っていた」
「でも母さんはわかんなかったよね」
「あいつ単純馬鹿だからな」
でも、父さんはそんな単純馬鹿な母さんと結婚したのだ。
「単純馬鹿なら、謝りに行けば戻ってきてくれるんじゃないの?」
「でも、始めて愛を臭わせたセリフを全否定されたんだぞ。俺は」
「何事も始めは上手くいかないんだよ。僕だって、みゆきとの初恋は上手くいかなかったし」
「お前のはまだ終わってねぇだろ」
「そうだよ。だから僕はこれから上手くいくようにがんばるけど、父さんはどうするの?」
僕の言葉に、父さんは無言で庭に降り積もる雪に目を落とした。たぶん、父さんもまた単純馬鹿なのだ。たった一言拒絶されただけで、8年間も冷蔵庫を開けたり閉めたりし続けるくらいに。
「今更、好きだとかいえねぇよ」
「30台も終わりかけたおっさんが、思春期の高校生みたいなこと言うなよ」
「お前こそ、中坊のくせに一丁前な事言うな」
「僕は半分妖怪だからね、外見は人間でも中身の出来が違うの」
「お前は鬼太郎か」
と、父は冷静につっこんだが、僕が普通でないのは変えようのない事実だ。
母が普通ではないように。この家族が普通ではないように。僕もまた、普通ではない。
さすがに溶けたり冷気を出したりは出来ないが、幼い頃から人にはないであろう感覚が僕にはあった。ハッキリではないが、どことなく相手の気持ちが分かるのだ。だからといって何か出来るわけではないけれど、おかげで僕は通信簿に「お友達のことを良く理解出来る心の優しい子です」と言うようなことを常に書かれていたし、母親が妖怪でもいじめられないように上手く立ち回ることが出来た。
それでも、すべてが上手くいく事などもちろんない。どことなく心が分かっても、本当に知りたい真実は訪ねなければ分からない。また自分に関係する感情には妖怪アンテナが上手く反応してくれないようで、みゆきとの初恋も前途多難なのは間違いない。
けれど、それが僕だ。
父親は妻に「好き」の一言も言えない村の人気者で、母親は冷蔵庫に入っていないと溶けてしまう雪女。その間に『仕方ねぇから育てるか』を合い言葉に生まれてきたのが僕。
そんな自分が、僕は嫌いじゃない。普通じゃない僕だけど、それはそれなりに楽しい。
「母さんが帰ってきてくれたら、もっと楽しいのにな」
思わず口からこぼれたその言葉に、父は再び黙り込む。そして無言のまま、父は何気なさを装いつつ母の冷蔵庫へと歩み寄る。
僕には聞こえないほど小さな声で何かをつぶやいたあと、父は冷蔵庫をゆっくりと開けた。
その中に母はいない。けれど、母はその中に大事な物を忘れていった。
父が毎晩眺めていたのは、母が忘れたエンゲージリング。たぶん眺めていたのではなく取り出したかったのだろうが、母が出て行ってからの8年間、父がそれに触れたことはなかった。
「そろそろ、遭難でもしてみたら?」
僕の言葉に、父は不服そうな表情を浮かべる。
だけどその左腕は、既にリングを掴んでいた。
※9/4誤字修正しました(ご指摘ありがとうございます)