第21話 逃走
谷口家の門を通り、玄関まで来た卑硫はインターホンを押した。
「どちら様?」
出たのは幸太で、随分とのんびりとした口調で聞く。
「千葉です。幸君はいますか?」
「いるよ。いるけど卑硫君、玄関勝手に開けて入っていいのに」
どうもこの家は、顔の知っている者に対して無防備だと、いつも卑硫は思う。他人に勝手に家の中に入れと言う家が、他にあるのか疑問だ。
「じゃあ、入ります」
「あ、でも幸なら蔵にいるよ」
ドアノブに伸ばしかけた腕が、ピタリと止まった。
「…蔵に行きますので」
「どうぞ」
蔵にいるのなら、最初からそう言ってほしいと思いつつ、卑硫は神社内の蔵へ向かう。普通なら家の者以外は入れない筈だ。余程、信用されているのか、無防備かどちらかだろう。
「つくづく変わった家だな…」
呟いて鳥居を潜り抜ける。それから、木々の間を奥へと歩いて行く。蔵までの道は、良い具合に影が出来ており、今の時期には歩き易い。
「あれ?千葉先輩…」
少々驚いたような声が卑硫に向けられた。この声はよく知っていて、今一番注意しておかないといけない人物。
「慶太」
慶太がここにいると言う事は、恐らく…。そう思いながら卑硫は、じっと慶太を見た。
「どうしたんですか?」
「幸が蔵にいると聞いて来た」
今の慶太に対して、最小限の会話に留めた方が良い。ごく自然に卑硫は必要以上に話そうとはしなかった。
「いますよ。但し、意識無いけど」
くすりと笑って答えた慶太に対し、卑硫は、自分がたった今とった行動が正しかったのを確信する。
「何をした?」
「いたずら。余計な事してたから」
表情一つ変えずに聞いた卑硫に、慶太は笑ったまま答えた。
「で、こちらにもするつもりなのか?」
いたずらなら、最悪の事態は避けられたと思った。出来れば早く幸の所に行きたいのだが、どうやらそうはさせてもらえそうにない。
「…余裕持ってますね」
慶太の言葉を聞いたにも拘らず、卑硫の態度が変わらないのが気に入らないのか、笑みを消すと睨んで呟くように言った。
「まぁな」
答えた卑硫の後ろで、ずるりと引きずるような音がした。卑硫は普段と変わらずといった具合で、後ろを見る。後ろには頭をもたげた黒い蛇が卑硫を見下ろしていた。
「なるほど、金目の黒蛇だな」
驚きもせず、卑硫は黒い蛇を見て言う。
「…嫌な人、驚きも怯えもしないの?」
慶太は益々卑硫を睨んで、唸るような声で聞く。
「するものか」
一言、そう言うと、卑硫は右手で黒蛇に触った。途端にびくりとして、黒蛇は姿を消してしまった。そのまま慶太を見る。
「……嫌だ。嘘でしょ…」
呟いて、怯えた表情を見せながら、一歩、また一歩と慶太は後ろに退く。
「行く所があるのなら、早く行ってしまえ。今、相手をする気はない」
卑硫の言葉に、慶太は弾かれたように走り出していた。その姿をちらりと見て、卑硫は蔵へと向かったのである。
蔵で倒れていた幸は、気を失っているだけだった。何をされたのか分らなかったが、とりあえず家の者に幸を預け、卑硫は正人の家に向かったのだ。
途中で、買い物をしてきたらしい賢治と出くわした。そう言えば、この人は居候すると断言していた事を思いだしながら、卑硫は幸の事を話した。そして、賢治は正人に電話したのである。
電話をして、三〇分程すると正人が竜喜を連れて戻って来た。経緯を聞いて、正人と竜喜は何とも言いたげに顔を見合わせていた。
「予測してたんだよ、確かに…」
呟いて、そのまま正人は黙り込んでしまう。
「随分、大変な事になってるんですね」
竜喜には戻る途中のバスの中で、今回の事を話しておいた。あの女性に会ってしまったせいで、本当はあまり心配させたくなかったが、仕方なく話した。
賢治が出した麦茶に手を伸ばして、卑硫は無言で口にする。
「幸も気を付けていたとは思うけど、油断したのかもしれない」
溜息を吐いて、賢治は三人を見た。
「幸には聞かないと分からないが、こちらが襲われた時は、慶太が前にいた。蛇は後ろから出て来たな」
表情一つ変えずに言った卑硫に正人は、複雑そうな表情をする。
「お前…襲われた割に異常に冷静だな…」
「蛇に触ったら、怯えられた挙句に逃げたぞ」
「普通は触らないだろ…」
どういう神経しているんだこいつは…と思いつつ、正人は卑硫に言葉を返す。
「お前達の前には、何があった?」
唐突にその言葉は、窓も開いていないのに吹いた緩やかな風と共に、四人の耳に届いていた。 |