モーラの戦い (三人称)
戦族がやってきた翌日のことである。
モーラたちジーテイアス城の裏方たちの朝は早い。
今日も少女は夜明け前に布団から抜け出した。
洗顔、着替えを手早く済ませまっさきに向かうのは厨房。心臓部ともいえるカマドに火をつけるのはメイド長である彼女の責任だ。
同じく起き出して来たアンナや元魔術兵候補の少年たちと協力して朝食の仕込が終わるころには太陽が顔を出している。
モーラは沸かしたての湯を張った桶とタオルを用意して主塔へ向かう。
城主であるジオが目覚めていることは滅多にない。彼を起こし、身支度を整えるのを手伝う仕事だけはモーラは他人に任せることはしなかった。
朝食は暖めなおした昨夜のシチューとパンだ。
使用人や兵士たちは、天気の良い日は中庭にベンチとテーブルを出してそこで食べる。冒険者たちと城主は主塔の広間だ。
モーラやダークエルフ四姉妹は城主の給仕と後片付けが終わってから食事をする。
当初、ジオは給仕をされたり食事面での待遇が違うことに困惑していたが、彼女達は断固として節度を曲げることはしなかった。
朝食の片づけが終われば、洗濯と城内の清掃、整備にかかる。
洗濯は主に、元魔術兵候補の少年たち、ログ、テル、ダヤの仕事だ。
城中からシーツやテーブルクロス、タオル、下着類を集めてきて巨大な洗濯桶にぶち込み、灰汁で作った洗剤と水に漬けひたすら踏みつけるか、洗濯棒でぶっ叩く。
乾季とはいえ井戸水は冷たく、少年たちの手指は真っ赤になる。
「俺達いつまでこんなことやんなきゃなんねーんだ?」
「そうね」
「ええ? でも凄くよくしてもらってると思うけど……」
血気盛んなリーダー格であるログのぼやきに、同じく暗鬼への恨みに燃える少女ダヤが頷く。それを気弱にたしなめるテル、という流れは最近良く見られる図であった。
「だって俺達が養成所を辞めてここに連れてこられたのは、ゴーレムを作る勉強のためだろ?」
「もう2週くらい、雑用ばっかり……」
「しょ、しょうがないよ。マルギルス様はずいぶん忙しいみたいだし……」
「そうですよ! ジオさんは忙しいんです!」
洗濯棒を振る手をとめていたログの黒髪を、モーラがわしゃわしゃと乱暴に撫でた。
「ちょ、やめろよっ」
「まだお城に越してきたばかりなんだから、仕方ないでしょ」
「うう……」
顔を赤くして抗議するログもお姉さんぶって説教するモーラには敵わない。実際のところ彼らは12歳、モーラは14歳と2歳の差しかないのだが。
「大丈夫。ジオさんはみんなのことを凄く気にしているし。前も、『あの子たちの面倒見る時間がとれなくて申し訳ない』って言ってました。忘れてるわけじゃないんですよ」
「そ、そうなんだ……」
「そうだよ、養成所とくらべたらここはいいところだよ!」
「そうそう! だから手を動かす! 洗濯物干したらお昼の準備まで休憩してていいですから!」
昼食は焼きたてのパンに豆のポタージュ、ソーセージにゆで卵にした。
料理番のアンナが手際よくパンにたっぷりのバターを塗り、モーラがポタージュを椀によそう。ダークエルフ姉妹のうち数人は戻ってきて少年たちとともに配膳を手伝う。
「あれ? お嬢様、今日は量が多くないですか?」
「昨日の夕食からですよ」
事情を知らない長女のアルガにモーラが答えた。
城主の指示で、昨日から城に駐留することになったレードを筆頭とする戦族の戦士11名にも食事を提供することになったのだ。
「えぇーあの人たちにも食事を出すんですかぁ?」
アルガにとっては主を暗鬼呼ばわりした敵に近い存在だ。不満そうに頬を膨らませる。
「出しますよ。だって戦族の人たちとは……世界のみんなとは仲良くしないと暗鬼に勝てませんから!」
「ぅぅ……分かりました、モーラお嬢様」
モーラはにこやかに言いながら、大皿にパンやソーセージを盛り付けていく。流れの主の目的はダークエルフたちにも教えられている。アルガも渋々ながら手伝いはじめた。
戦族は旅行にまともな街道や宿を使わないことが多い。
広野をうろつく暗鬼を追ったり、社会に網を張り巡らせる暗鬼崇拝者を追い詰めるためだ。
だから、野営や自炊は戦いの技術に匹敵するほど重視されているし、装備も充実している。
ジーテイアス城の中庭の一角に設置したテントも、軽く丈夫な木製の骨組みと特殊な脂を塗った革を組み合わせたもので、頑丈な上に保温性は抜群で、内部も広々としている。
とはいっても、それは一般的な体格の戦族にとっての話だ。
2mを超える巨体の主、戦士長レードは窮屈そうに身を折ってテントを出た。
「……妙な感じだ」
頑丈で長大な城壁のわりにだたっぴろい中庭を持つジーテイアス城を見回してぼそりと呟く。
暖かい陽光が差し込む中庭で、少年と少女が白いシーツや着物を干していた。明るく甲高い子供の声が彼の巨体を撫でていく。
城門の方を見れば、つい昨日徴兵されたばかりという3人の若者が行軍訓練から戻ってきたところだった。
中年の戦士になんやかやと説教されながら井戸までたどり着き、頭から水を浴びて歓声を上げる。そこには軍や戦士といった言葉のイメージに含まれる怒声や罵倒、緊張感や執念……なによりも怒りがなかった。
戦いとは暗鬼を滅ぼすための手段であり、訓練とはつねに血反吐を吐き怒りに身を焦がしながら耐えるものだというレードの認識からは程遠い光景である。
自分の周囲では、戦族の戦士たちが真剣な表情で日課である武器の手入れを行っているが、まるで自分達の方が場違いに思えた。
まして城主は暗鬼と戦うことを宣言しているのだ。その意思が城に宿っているとはとても思えなかった。
「戦士長、総員点検終了しました」
「ああ……」
古参の戦士が報告してくるのに、曖昧に頷く。『狩り』の対象はすぐ目の前にいるのに、本当に狩ってよい相手なのかどうか判断がつかない……『審問』の後にこのような状況に陥ったことはレードにもなかった。
「何か訓練でもしましょうか? それとも食料の調達でも……」
「訓練も調達もしない。今は戦闘中だと思え。いつ、あいつが正体を現すかも知れないんだぞ」
「……はっ!」
いつでも戦えるよう備える。それは戦族にとって習慣のようなものだ。
そこへ。
「こんにちはーっ!」
明るい少女の声がふりかかってきた。
メイド服姿の少女とダークエルフの娘が2人、そして中年の男女が焼きたてのパンやらスープやらを満載したワゴンを押して近づいてくる。
「お……」
「良い匂いだな」
黙然と待機していた戦士達からかすかなざわめきが漏れた。命令すれば微動もせずに一日待てるはずの男達が、だ。
「今日のパンは白麦たっぷりで甘くて美味しいですよー。ポタージュもスパイスいっぱいですよー」
少女はダークエルフたちにてきぱき指示し、自分でも戦士たちにパンやスープを配って歩く。ダークエルフや使用人たちも、やや強張ってはいるが笑顔で配膳していた。
昨日の夕食から城主の計らいで食事が提供されることになっていたので、不審な点は別にないのだが。
「はい、レードさんもどうぞ。ていうか、みんなレードさんが食べるの待ってますよ?」
「……ああ」
目の前に立った茶色の髪の少女がパンを差し出しながら小首を傾げた。
小麦とバターの香ばしく濃厚な香が鼻をつき、レードは反射的にパンを受け取っていた。
流石の戦族でもパン焼きカマドを持ち歩くことはできない。
焼きたてのパンなど『宿』に滞在しているか、立場を偽って人々の間に潜んでいる時だけだ。もちろん、狩りの最中に味など感じている暇はない。
「……」
少女の方に視線を向けず、パンを一口食べる。柔らかいパン生地からバターがじわりと染み出してきた。
「……美味ぇ」
「キャンプ中じゃここまで凝ったもの作れないからなぁ」
「あ、俺パンもう一つ」
戦士長を見た他の者たちが我先にとパンやスープを口に運び、ソーセージを齧る。パンにかける蜂蜜まで用意されていたので次々にお代わりを求める声が上がった。
「いやあ、何だか夢みたいだなぁ」
若い戦士の照れたような声がレードの耳に届く。
それと分かっている戦族の戦士が女性に甲斐甲斐しく世話されることなど、確かに夢のような話なのだ。
彼らは人間社会の闇に潜む暗鬼崇拝者を狩る。
一般の人間から見れば、つい昨日まで親しくしていた隣人が朝には死骸となり、暗鬼崇拝者だったと言われるのだ。頭では因果関係は分かっていても、戦族が現れるということが暗鬼のそれと同じ意味に感じられるのも無理からぬことだ。
この世界の権力者たちも戦族を排除しないし、むしろ衛兵や領主への発言権すら保証している。だがそれでも、彼らから戦族に向けられるのは恐怖と憎悪に満ちた目でしかない。
レードは先輩の戦士に言われた言葉を今でも覚えている。
『戦族には居て良い場所などない。戦族にあるのは居なければならない場所だけだ』
「お前は……平気なのか?」
目の前をパタパタ通りすぎようとしたモーラにレードは声をかけた。
「はい?」
「俺達が怖くないのか?」
この少女やダークエルフたちがいかに城主に心酔しているかは、一日も経たずに理解できた。その命令でいやいや自分達の世話をしているのだろう。……と。むしろ、『そうであるべきだ』というおかしな感情のままレードは問う。
「怖くないですっ!」
「……っ」
少女は即座に、強い声で言いきった。先ほどまでの明るいだけの声ではない。
持てる全てをかけて目的を果たすという覚悟の篭もった声だ。
「私も暗鬼にお母さんを殺されましたから。だからジオさん……マルギルス様の目指すもののためなら何だってしますっ」
凛とした表情の少女は、周囲の戦士や使用人たちに注目されて顔を赤らめた。
「あはは……すいません。変なこといって。でも、戦族の人たちが頑張って戦ってるのも話に聞いてますし……どうせお城にいるなら、気分良く過ごしてほしいなって……」
「……」
自分の胸までもない小さな娘の言葉に、戦族最強の戦士は立ち尽くすことしかできなかった。