霧が晴れるとき 2 (三人称)
ネイブ・コーバルは45年前、レリス市の屋敷で生まれた。
彼の父親はリュウス王国に属する貴族であったが、都市での生活を好んだため彼は半生を市内で過ごすことになった。
リュウス湖周辺を支配していたリュウス王国が内乱で崩壊しつつあった時期であり、レリス市も何度か戦いの舞台となる。
幼い彼が住む屋敷も暴徒や強盗の襲撃を受けたし、施政者としては無能であった父親の代わりに怨嗟の視線を受けることもあった。
そんな生活の中で、彼は他者を道具としか考えない利己的な人格を獲得していく。
それでも、『それ』と出会わなければ。レリス市が独立した後も、彼は凡庸だが現実的な判断のできる領主として生きられたかも知れない。
10年前の暗鬼の発生は『大繁殖』と呼ばれるほどの規模ではなかったが、リュウス同盟の各都市に深刻な爪あとを残した。
既に、父親の跡を継いでコーバル男爵となっていた彼も、レリス市の防衛軍の一員として暗鬼と戦った。もちろん、前線に出ることなどなかったが、都市貴族として最低限の勤めは果たしたと言える。
カルバネラ騎士団や冒険者、魔術師ギルド、そして『戦族』といった各勢力の奮闘により暗鬼の巣が破壊されてから数ヶ月後のことだ。
名目上、コーバル家の支配下にあるレリス市近郊の村から、奇妙な献上品が贈られてきた。
「なんだこれは、気色が悪い」
男爵が言うのも当然で、それは小鬼の頭蓋骨であった。濡れた様に艶のある黒一色だったが、それが地色なのか染色されたものなのか判断はつかなかった。
「そうですなぁ。こんなものを飾ろうなどと、誰も思わないでしょうな」
年老いた忠実な家令の言葉もとても常識的で当たり前のものだ。それが、彼の心のどこかに引っかかったのだろうか。
胡散臭そうに頭蓋骨のぽっかり空いた眼窩の奥を見た瞬間、かすかな金色の輝きを見たからかも知れない。
「ほう、そうか。だったら私はあえてこれを手元におくとしよう。ありきたりな彫刻などより洒落ているぞ」
暗鬼の頭蓋骨を寝室に置くようになった男爵の心にはごく僅かな変化が起きた。
他人の視線に込められた悪意に気付けるようになった。自分の見えないところで陰口を囁く声も聞こえるようになった。
そんな小さな変化が大きな歪みとなるのはあっという間だった。
3日後には、男爵にとって人間とは自分を嘲笑い嬲ろうとする悪意の塊であり、自分が人間の一部であると信じられなくなっていた。
7日後には、唯一親近感を持てる人間ではない種族、暗鬼であった頭蓋骨に自らの血液を分け与えていた。
そして10日後、彼は暗鬼崇拝者の司祭を屋敷に招き入れる。
「貴方なら、暗鬼の崇高な使命を理解してくれると思っていましたよ」
「ああ……。人間などというおぞましい生き物は、なんとしても絶滅させねばならない」
司祭は、男爵に暗鬼の頭蓋骨を贈った村の村長だった。男爵の父の代からすでにその村は暗鬼崇拝に染まっていたのである。
「ですが人間を絶滅させるためには、私達はまだまだ力を蓄える必要があります。そのためにも、貴方にはレリス市で権力を握っていただきたい」
「無論だ。今までは自分が安全に暮らせればそれで良いと思っていたが、これからは本気を出して商人どもを蹴り落としてやる」
「そのためにも、彼女らをお使いください」
司祭がその日男爵に贈ったのは、5人のダークエルフだった。
男爵はダークエルフの暗殺者たちを使って、密かに自らの権力を拡大させていった。
司祭からの助言によって可能な限り目立たない方法をとったが、それでも事故死に見せかけて暗殺した政敵は10人を超える。優秀かつ絶対に裏切らない暗殺者を使役するからこそできることで、盗賊ギルドですら、彼のやっていることに気付けなかった。
歴史と旧来の慣習と、領地から得る資金によってレリス市を二分する権力を持つ貴族派の評議員の中でも、筆頭格と呼ばれるまでに10年かかった。家令をはじめ屋敷の使用人たちを、慈悲深くも暗鬼崇拝の道に導いてやれた。
その間にも、司祭から教えられた月に1度の儀式は欠かすことなく、祭儀場である地底湖には数え切れぬ人間の骨が沈んでいる。
全ては、順調だったのだ。
いよいよ、目障りなザトー・ブラウズから評議長の座を奪い取る工作を始めようと思ったとたん、彼が現れるまでは。
司祭からユウレ村付近に新たな暗鬼の巣が発生したと聞いた時には狂喜したものだったが。
たった数日後に、その暗鬼の巣が1人の男に破壊されたと聞き喜びは怒りと憎しみに取って代わった。
暗鬼の巣を怪しげな『魔法』の力で簡単に破壊する……そんな存在を許しておいてはいけない。
「私達の命をかけてでも、彼を、ジオ・マルギルスを倒さねばなりません」
「分かっている。暗鬼を滅ぼすものを滅ぼすのが、我々暗鬼崇拝者の使命だ」
最初の機会は、わざわざレリス市にやってきたマルギルスが評議長と会談したときだ。
もっとも有能な手駒は、簡単に評議長のもとまで潜入する力がある。ならば、会談の場で評議長もろとも毒殺してしまえばいい。
双方が死ねば万々歳。評議長が死ねば、マルギルスが犯人ということにできる。逆も同じだ。
万一、双方が生き延びてもそこに当然不信と不和が生まれ、付け入る隙となる、はずだった。
結果として、評議長もマルギルスも死ななかったが、両者は不和どころか一層の信頼関係を築いていた。
手駒からの報告に仰天して慌てて議事堂に向かい、遠目に見たマルギルスはごくごく平凡極まりないただの中年男にしか見えなかったというのに。
ともあれ、まともな方法でマルギルスを殺すことはできないと分かった。
親しいものを人質にしようと別の手駒を送り込んでも、『目に見えない悪魔』だの『風でできた女魔神』だののために失敗してしまう。
少数精鋭ではなく数で押そうと街のクズを大量に雇ったものの、それを上回る数の衛兵や冒険者どもに妨害された。
もともと敵視していた女魔術師がマルギルスと親しいという情報を得て、手駒にそちらを襲わせたがこれもやはり冒険者に阻止されてしまう。
別の手段を考えていたところ、レリス市中の冒険者や衛兵が手駒の情報を求めて活動しているという報告が入った。
これまでにも、衛兵や冒険者に疑いの目を向けられたことはあったが、全て上手くかわしてきた。
だが今回のあの連中は、目の色を変え、一族の仇でも探すような執拗さで自分の尻尾を掴もうとしてくる。おまけに、盗賊ギルドまでがこれまで黙認していた暗鬼崇拝者を狩り出そうと地下で蠢きだす始末。
頭脳と悪意によって好きなように陰謀を描ける巨大なキャンパスに過ぎなかったレリス市が、いつの間にか自らを閉じ込め捕えようとする檻に変わっていたことに、男爵はようやく気付いた。
気付いたときはすでに手遅れで、レリス市中に自分が暗鬼崇拝者だという声が溢れ、屋敷には野次馬や監視が二重三重に張り付いて一歩も出られない。
かろうじて手駒が入手した情報によれば、そうした市内の動きは全て、あのマルギルスが命令したことだという。
「男爵様。こうなっては仕方ありません。我々で最後の儀式を行いましょう」
「……おのれ……マルギルスめ……! やつは一体何なのだ!?」
屋敷の外から群集の歓声が聞こえる前に、彼と司祭、そして手駒たちは地底湖の祭儀場へたどり着いていた。
「あと五年かけて呪法を施せば、鬼神として復活できたものを……」
「もう何百人の血肉を捧げたと思っている? やつらを滅ぼすには十分だ」
「ええ、それを期待しましょう」
岸辺の祭壇に乗せた暗鬼の頭蓋骨……初めて見た時の三倍ほどに『育って』いた……を無念そうに見詰めて司祭が呟いた。
それでも、祭壇の前に跪き祈りを唱え始める。
司祭の祈りの声に応じて、頭蓋骨の表面がぶるりと震え、男爵たちを背筋が震えるような戦慄で包む。
そこへ。
衛兵たちと冒険者パーティを引き連れたあの男……ジオ・マルギルスが現れたのだった。
「……ま、まさか貴様自身が乗り込んでくるとは、な……。魔法使い、ジオ・マルギルス……!」
これまでどおり、衛兵たちを操って追い詰めてくると思っていた憎悪の対象が目の前にあわられて、男爵は引きつった声を上げた。
頭巾をしていなければ、やせ細った顔が驚愕と狂喜に歪むのがよく見えただろう。
「どうやらやっと男爵様にお会いできたようですな、魔法使い殿」
マルギルスの横にたつ冒険者が囁く声が聞こえるがそんなことは気にならなかった。
いま、司祭の祈りが終わったのが分かったからだ。
「さ、最後に……自らの手で決着をつけようと? 名声を欲したようだな、マルギルス! その傲慢が貴様の命取りだ!」
「あ、あーと。コーバル男爵? 既に貴方に逃げ場所はない。大人しく投降してくれないか?」
「世迷い事をぉぉぉ!」
『ガタガタガタッ』
男爵の絶叫に応じるように祭壇に乗った頭蓋骨が顎を激しく打ち鳴らし、眼窩の奥から蒸気を噴き出した。
「なっなんだ!?」
「あ、暗鬼!?」
「動いてるぞ……! うそだろ?」
最初は、小さな髑髏だった。
毎月の儀式で丹念に生贄の血肉を塗りこめ憎悪の祈りを捧げ、ここまで『育て』た……。
矮小な衛兵や強欲な冒険者どもは怯え、うろたえている。
手駒を使って駆逐することも考えたが、やはりここで暗鬼への生贄にするのが良いだろう。
「いま! この! 私が10年かけて育てた鬼神がぁぁぁ! 貴様を! この忌々しい都市を! 人間どもを皆殺しにぃぃぃしてくれる!」
祭壇の内側から、ごぼごぼと漆黒の汚泥があふれ出し、ねじくれた手足を形成しはじめた。
髑髏の眼窩の金の光はいまや満月よりも眩しく、禍々しい。
「なんだよ、何で暗鬼が……」
「ゴ、ゴーレムなのか?」
「ひぃぃ……ひぃぃぃ……」
僅か、10秒たらずのことだ。蜘蛛とも、海老ともつかない異形の巨体は人の背丈の倍はある。
中央部には当然、核となった頭蓋骨が埋め込まれている。
振り回す四本の腕の先には長剣ほどもある爪や鋏がぎらついていた。
そして何よりも。育ての親である自分や、司祭まで血の気を失うほどの凄まじい憎悪。
「キュオォォォォ……! ギリュォォォ……!」
金属を擦り合わせるような甲高い叫びすら人間の心を切り刻む刃だ。
あの、自分にも理解できない不思議な力と底知れぬ権力を持つマルギルスすら立ち尽くし、ぶつぶつ呟くだけだ。
ネイブ・コーバル男爵は確信していた。
「これが! この鬼神こそが! 我が分身! 本当の私! 私を見下す世界を断罪するものだ!」
「ぎゃああっ!」
ぶつん、と音がして横を見ると司祭が頭蓋骨……いや鬼神の鋏で腰から上下に分断されたところだった。
男爵はもはやそれすら気にしなかったが……。
「【破 壊】」
恐怖に怯えて動くことも喋ることもできなかった(ように見えていた)マルギルスの杖の先から、小さな光珠が飛び出し鬼神に当たった。
光珠は爆発するでもなく、そのまま鬼神の漆黒の身体に染み込み……。
「キュ……ギュキュゥゥゥ…………!?」
次の瞬間。
何本もの手足を持つ異形の巨体は、内側から破裂していた。
轟音も爆風もない。
ただ、氷像が巨大なハンマーにより一瞬で粉砕されたかのように、漆黒の鬼神は数十の破片になり、数千の塵になり、一つの虚無となって消え去った。
「なっ……あっ……な、ん……?」
ネイブ・コーバル男爵のレリス市での暗躍は終わった。