暗殺の長 (三人称)
一人称での表現に限界を感じたため、今後はこのような形で三人称のパートを挟んでいきます。
ダークエルフは氏族ごとに職能集団を形成し、各々が氏族の中での役割を完璧に務めることが求められる。
レイハナルカ・ハイクルウス・ルウ。
50年前。
彼女は『謀略を生業とする氏族』に生まれた。ダークエルフでも珍しい薄紫の髪の彼女に母親は『麗しい影』の名を与える。
ダークエルフには『族長』や『弓職人』といった地位、肩書きを表す三つ目の名があった。
暗殺と密偵の技をその身に刻み込まれた彼女は、30年前に『暗殺の長』となった。五人の部下を与えられ、ともにセディアの裏社会で様々な主に仕え謀略の中に生きてきた。
個人としても髙い技量を誇る彼女だったが、一人の部下を不注意で死なせてからは『ルウ』としての統率力や洞察力にも磨きをかけた。ただ、自分の腕の中で死んだ部下の虚ろな視線だけは、小さな針のように彼女の心に残っていた。
25年前。
氏族が拠点を西方の王国から北方の王国に移した時の『主』が、彼女と氏族の運命を捻じ曲げてしまった。
一体、『主』がどこの誰だったのか、記憶がない。いや、あの恐ろしい金の瞳を覗き見た瞬間からの記憶は、全て曖昧だった。
彼女の魂とでもいうべき存在は『主』と会った時からずっと意識の奥に捕らわれていた。
捻じれた肉の縄が、四肢に絡みつく。
手も足も首も腰も拘束する肉縄は全て、すぐ後ろにいる巨大な人型から伸びていた。
ダークエルフの肌が褐色だとすれば、人型と縄は漆黒だ。
『主』は謀略を生業とする氏族である彼女ですら、おぞましいと感じる命令を下してきた。逆らいたくても、魂を肉縄で締め上げられれば彼女の身体は操り人形のように動いて命令を果たしてしまう。
10年前。
『主』によってレリス市の暗鬼崇拝者のもとに派遣されるころには、肌を這いずる肉縄から伝わる強すぎる憎悪と――力強さに、彼女は慣れきってしまっていた。
何も考えなくてもいい。
自分を縛り操る、この圧倒的な力に任せておけば傷つくことも悩むこともない……そしていつか静かに全てが終わるはず……。
数日前。
肉縄に操られるまま、自分の身体が暗殺に動くのを彼女はおぼろげに感じていた。
何の変哲もない作業だったはずが、何故か背後の人型から強い動揺を感じた。
どうやら自分は暗殺に失敗したらしい。
怒り狂った人型が肉縄をぎちぎちと身体に食い込ませてきたので、彼女は泣き叫んだ。
人型はいつにない必死さで彼女を操り、様々な謀略を巡らせた。同じ境遇の四人の部下たちも全力を尽くしたはずだが、謀略の糸はことごとく断ち切られていく。
それどころか、影よりも目立たないはずの自分達がじわじわと包囲され、追い詰められる気配を感じた。
まるで、街全体が敵であるかのように。
1時間前。
地下の隠れ家に潜んでいた自分達が襲撃を受けた。
襲撃してきたのは、職業も武装も雑多な冒険者たち。ただの冒険者ならばこれまでも何度も翻弄してきた。
違ったのは数と勢いだ。
衛兵すら鼠のような大群で逃げ道を塞ぎ、冒険者はぎらつく目で襲い掛かってくる。
このとき、初めて自分の背後の人型が怯みを見せた。
手足を縛る肉縄がわずかに緩む。彼女はしかし、完壁に自分を抑え込み支配してきた力が緩んだことに、喜びより不安を感じていた。それほどに憎悪と力の拘束に依存していたのだ。
その瞬間、冷たく鋭い痛みが彼女を襲った。それは、昔死んだ部下の視線という針。
痛みが、彼女の魂を一瞬だけ解放した。
実に25年ぶりに自らの意思で冒険者や衛兵と戦った彼女は、四人の部下を脱出させ、捕縛された。
今。
彼女の意識の内部は、色も形もない巨大な『力』に蹂躙されていた。
指先までも肉縄で縛る背後の人型が、『力』の圧力を受けて身を捩り、鋭い悲鳴を上げる。
業火に焼き払われる紙くずのように、あれほど強靭だった肉縄が、人型が崩れ去っていく。
文字通り魂を縛り上げていた枷が次々に剥がれ落ちる。
それは窮屈ながら心地よかった拘束からの、絶望的な解放だ。
支えを失った自分の身体が虚ろな空間に吸い込まれていくような恐怖が彼女を襲う。
「いやぁぁぁぁ!」
赤子のように彼女は泣き叫んだ。
必死に縋り付いた人型は塵と化して吹き飛び、もはや彼女の中には何も残されていない。
もうーー狂う。
己の身体の形すら忘れ、薄れ消え去る寸前の彼女を、凄まじい圧力が包み込んだ。
あの、人型を焼き払った『力』だった。
『力』が触れる肩が、腰が、その圧力によって形を思い出し『彼女』に成っていく。
それは新生だった。
「あぁぁぁぁぁっーーー!!!」
彼女は歓喜の声をあげ、人形からダークエルフに戻った。
自分が『暗殺の長』ではなく『従属する者』になったことを感じながら。