悪意の霧 2
翌日の朝食時。
暗鬼の大群や巣を隕石で破壊できるような人間が、突如現れて市内をうろうろしていれば誰だって気になるだろう。
有力者であればなおさらだ。
だから、イルドのところに山ほど面会の申し込みがあったり、噂を聞きまわられたりするくらいは当然のことだと思う。
こういうときはこちらの方から積極的に情報を開示してやって、私が市の脅威ではないことを納得させるのが一番手っ取り早い。
「と、思うのだがどうだろう?」
「……おっしゃるとおりですね」
イルドは私の考えを聞き、少し考えてから頷いた。
「どう考えても、マルギルス様の怒りを買いたいと思うものはいないでしょうからね。私が報告したことではありますが、過剰に反応する必要はないかと」
結局のところこの世界の常識についてはまだ子供以下の知識しかない私より、イルドの判断の方が的確だろう。特にこういう分野については。
「でも、気持ち悪いですよねっ」
モーラが口を『へ』の字に曲げてぼやいた。それはそうだ。
それに、まったくもって、現実離れした発想だが、モーラの言葉はこれから良からぬ事が起きる前触れとしか思えなかった。あまり言いたくはないが、フラグというやつだ。
「まぁ、大丈夫だとは思うが、万が一ということもある。君たちには、これを預けておくよ」
そういって私は二つのマジックアイテムを彼らに渡した。イルドには銀の指輪、モーラには薄緑色のマントだ。
「凄い、とっても軽いですねこのマント……へっ?」
「なっ!? モーラ!?」
モーラがマントを身に着けると、彼女の愛らしい姿が一瞬で消えた。『D&B』でも基本的なマジックアイテム『姿消しのマント』である。
「大丈夫、モーラはそこにいる。それは、着けると透明になれるマントだ。外せば元通りさ」
「ほんとですか……? あっ、もどった!」
マントを外したモーラの姿がさきほどと同じ位置に現れる。
「普段は折り畳んで持っておけば良い」
「こんな貴重なアイテムを……私達にはもったいないことです」
「君らは、私の数少ない協力者で、友人だろう? 万一のことがあったら私が困るんだよ。イルドの指輪は『風の魔神の指輪』だ。そいつを擦ると、風の魔神が現れて何でも三回願いを聞いてくれる。何でもといっても、できるのは戦闘や労働が主だがね」
風の魔神は12レベルという中々強力なモンスターだ。イルドなら有効に使ってくれるだろう。
イルドは指輪を捧げ持つようにして頭を下げた。モーラも深く頭を下げる。
「お心遣いありがとうございます。それでは、お預かりいたします」
「あ、ありがとうございます、ジオさん!」
「一応、内緒にしておいてくれよ」
さらに念のため、2人には隠れて【見えざる悪魔】の呪文を二回使い、不可視の悪魔を彼らの護衛につけておいた。この呪文で召還する悪魔には一つの任務しか命令できない上に、慎重に命令の言葉を選ばなければ手痛いしっぺ返しを喰らうのだが、その分持続時間が長いというメリットがある。今回は悪魔に「イルド(モーラ)に危害を加えようとする者がいたら、そいつを1時間拘束しろ」と命令しておいた。
私自身にも【見えざる悪魔】を召還して同じ命令を与え、さらに【敵意看破】と【緊急発動】を使っておく。しばらくはこの三点セットは欠かさないようにしよう。
数時間後、私はイルドが用意した馬車に揺られ、レリス市の議事堂へ向かっていた。
目的は、レリス市評議会議長、ザトー・ブラウズ氏と面会するためだ。
馬車の窓(ガラス窓ではないが)に流れるレリス市の賑やかな通りを眺めながら、イルドに聞いた情報を整理してみる。
リュウス湖周辺はもともと、北方の王国の属国であるリュウス王国の領土だった。40年ほど前にリュウス王国が内乱で崩壊した際、有力な商人や貴族が協力して自治権を主張し、都市国家として独立を果たしたのがレリス市の始まりだった。
レリス市は現在、評議会の合議によって運営されている。議員になれるのは各ギルドの長……つまり大商人と、独立に協力した貴族たちであるが、ご他聞にもれず大商人と貴族は互いに派閥をつくり利権争いをしているのだそうだ。まぁ、これは別に当たり前のことだが。
これから面会するブラウズ氏は評議会議長にして、貿易商ギルドの長だ。長らく商人派閥のトップとして君臨してきたということだが、イルドが言うには市全体の利益も考えられる数少ない人物らしい。
私が、レリス市にとって無害……むしろ役立つ存在であることを説明するには打ってつけの相手だ。
考えているうちに、馬車は中央広場に面した議事堂の前で止まった。
他を圧する荘厳な議事堂の入り口には、市の守護神である商売の神と、暗鬼から人々を守る冬の女神の像が飾られていた。
「大魔法使いジオ・マルギルス様ですね? お待ちしておりましたっ。どうぞどうぞっ」
入り口で待ち構えていた市の職員が、さっそく応接室まで案内してくれた。
「ようこそ、大魔法使い殿。レリス市評議会議長、ザトー・ブラウズと申します。お呼びたてした無礼をお許しください」
評議長は立派な髭を蓄えた壮年の男性だった。深々と腰を折って礼をする姿に卑屈さが全くない。
「魔法使いジオ・マルギルスだ。お招きに預かり光栄だ。こちらこそ訪問が遅れてもうしわけない」
ウィザードリィスタッフを握る手にじっとり汗が滲む。ブラウズの風格は、会社員だったころに見た本物のプロの政治家や商売人にも引けをとらない。圧倒されまいと、必死に自分で自分に『私は大魔法使い』と言い聞かせる。
挨拶が済むと、豪華な椅子を勧められテーブルを挟んで腰を下ろす。
「貴殿の偉大な活躍はアルノギア殿やセダムから伺いました。暗鬼の巣を破壊していただいたこと、全レリス市民を代表してお礼申し上げる」
また頭を下げたブラウズが合図すると、秘書が手押し車に乗せた小型の宝箱を運んできた。彼が私に向けて箱の蓋をあけると、中には金貨や宝石がぎっしり詰まっている。
「この感謝は金銭で表せるようなものではありませんが、ひとまずこちらをお納めください」
「……ただ、魔法使いとして当然の勤めを果たしたに過ぎないが。ご厚意はありがたく頂戴しよう」
素の私ならこんな大金を受け取る度胸はまったくないのだが。事前にイルドから「有力者同士では贈り物のやり取りは当然の挨拶のようなものです。受け取らないとかえって侮辱になります」と忠告されていたので仕方なく頷く。
「いや、良かった。これで一つ肩の荷が下りました」
ブラウズが柔和に微笑みながら言った。
彼がテーブルの上の呼び鈴を鳴らすと、ワゴンに茶器一式を乗せたメイドが入室してくる。
「……」
「良いカネルの葉がありますのでね。一服如何ですか? 酒の方がよろしかったですかな?」
思わず、視線でメイドを追ってしまった私を見てブラウズが言った。いや、茶が気に入らなかったのではなく、初めて本物のメイドに出合って見入ってしまっただけです。
栗色の髪を結い上げた若い女性で、飾り気のない真っ黒なロングスカートとシャツ、白いエプロン、手袋というシンプルな姿だった。優雅かつ流れるように茶器に湯を注ぐ彼女からも、高いプロ意識を感じた。
「そういえば使用人をお探しとか? もしよろしければ……」
「……いや、結構。それはイルド氏に任せているのでね」
やばい。メイドを見すぎて誤解されたようだ。
「イルドは我々貿易商ギルドでも若手の筆頭として期待されていますからね。彼が貴殿と親しかったのは、我々にとっても本当に有難いことです。これもアシュギネアの恩寵ですかな」
「ああ、彼には本当に助けてもらっている。……とはいえ、彼の仕事を私が手伝えるわけでもないが」
「まさか、そこまで望んではアシュギネアの怒りを買うというものです」
和やかな一連の会話だが、実はこれもイルドからの助言どおりの流れだった。イルドは「私がマルギルス殿と親しいことを利用してギルド内で成りあがろうとか、そのような誤解があるかも知れません。評議長もそこは気にしていると思いますので」と言っていた。だから、私が彼の商売に絡むつもりがないことを伝えたわけだが、ブラウズの表情を見る限り合格点の対応だったようだ。
「お待たせいたしました」
メイドが、高級な薄い陶器のカップに注いだ茶をテーブルに置いてくれた。確かに、普段モーラが淹れてくれるシル茶よりも豊潤な香が立ち上っている。
「北方の王国のカネル地方だけで採れる葉です。レリス市に滞在されている間は、大陸各地の特産物がいくらでもお楽しみただけますよ」
「ああ、すでに堪能させてもらっている」
毒見でもするように、ブラウズが先にカップを口に運んだ。私も別に警戒するでもなく薄茶色の液体を口に含む。
「……む」
「おや、お口に合いませんでしたかな? シル茶などに比べると、少々香味が強いかも知れませんな」
「いや、驚くほど美味だっただけだ」
実際は、思ったほど美味くない……と感じた。しかしブラウズは美味そうに飲んでいるし、彼の顔に泥を塗りたくないし、高級品の味が分からない田舎者と思われても困るので我慢して二口目も飲み込んだ。
「なので、しばらくしたら魔術師ギルドからゴーレムについての連絡があると思う」
「なるほど。それは市にとって本当に有意義な情報ですな。マルギルス殿にはどれだけ感謝しても足りないというものです」
「暗鬼は、人間全ての敵だ。暗鬼から人々を守るためならば、今後もいくらでも力を惜しまないつもりだ」
「頼もしいお言葉ありがとうございます。私から、他の議員やギルドにもそのお言葉を伝えましょう、みな、大変喜ぶでしょうな」
世間話の合間に、こうして必要な情報のやりとりをする。日本の社会ではこういうのは会社員ではなく政治家の領域だな……。ブラウズもよく私の学芸会のような言い回しに付き合ってくれるものだ。
「もし、市の防衛について私が協力できることがあるなら遠慮なく言って貰いたい」
「ふむ……。重ねて有難いお言葉です。私だけでは判断できないので、衛兵司令官とも相談して……っ……」
「どうかされたか?」
私は椅子から腰を浮かせてブラウズを覗き込んだ。彼はテーブルに肘をつき、顔色を青くしている。
「うぐっ」
「お、おいっ!?」
ついにブラウズは嘔吐して倒れ込んだ。
これは、まさか、毒か? いやどう見ても毒だ。
倒れた彼を抱き起こして室内を見回せば、もちろんメイドの姿は消え去っていた。