憎悪という海の中で
暗鬼全体の精神世界。
この特殊な世界では、実は『大きさ』というものに大した意味はないのかも知れない。
とはいえ視界を覆いつくす物体が頭上から高速で落下してくれば、血の気の下がる思いだった。
これが現実世界であったら私と巫の肉体は一瞬で潰れていただろう。
私たちは身体にまとわりつくような生暖かい粘液の海の中にいた。
どうやら巨大な人型の手(いや指先か)の内部に飲み込まれたらしい。視界は黒とも茶ともつかないが、ある程度は見渡せるし呼吸も可能なようだ。
岸を埋め尽くしていた暗鬼の群れはとっくに『手』に押しつぶされ、同化していた。
形を残しているのは私と、とっさに抱き寄せたエルフの少女。そしてガラスの触手に拘束されたのっぺらぼうだけだ。
「は! は!」
彼は奇怪に身体のよじりながら絶叫した。
【精神支配】の呪文が具現化した存在である触手から、のっぺらぼうの身体(精神)がすり抜けていく。
呪文の力は完璧な状態だ。
ただ、対象である彼の身体(精神)そのものが形を失ってはどうしようもない。
彼も、暗鬼の王に同化しようとしているのだ。
「やめろ! 死ぬのことは許さない!」
「これは死ぬのではなく、精神の在り様を変えるだけです……よ! まあ現実の私は死んだも同然……でしょうが」
彼は呪文の力で完全に洗脳されるまえに、自分の精神を崩壊させることを選んだのだろう。
「……消える前に教えろ! お前たちの本拠地はどこだ? 何処でどんな活動をしている!?」
「さあ、ね! 私がいなくなっても……暗鬼は勝手にやってくる……第三次……大繁殖も……十年以内には始まる! ざまあみろ!」
恥も外聞もなく憎悪をまき散らしながら、のっぺらぼうの輪郭は崩れて薄れ、消えさった。行き場を失い、精神支配の触手も消滅する。
「これは……?」
のっぺらぼうの身体が周囲の粘液に溶けて消えるのを呆然と見つめていた巫が、驚きの声を上げた。
彼女と私の身体を、力強い白銀のバリアが包んでいることに気付いたのだ。
「儀式の前に使った【精神防壁】の効果だ」
「この輝きが、我等をお守り下さるのでござりますな」
【精神防壁】は名前のとおりあらゆる精神攻撃を遮断する効果を持つ。
この守りがなければ、私たちも先ほどの暗鬼たちやのっぺらぼう同様、暗鬼の王の身体に飲み込まれ自我を失っていただろう。
「やはり駄目か……」
いま私たちを包んでいるのは暗鬼の王、すなわち暗鬼たちの集合意識そのものだ。
これに精神支配をかけてみたのだが、最初から何の手ごたえもなく呪文のエネルギーは空しく虚無に還って行った。
のっぺらぼうのように、一つの明確な自我がある状態なら良いのだろうが、これは縄で泥を縛るようなものだ。
「これが本当の『泥縄』か……」
「……」
私の下らない呟きを巫は礼儀正しく流してくれた。
「ここでの用事は終わったな。帰還すべきだと思うがどうかな?」
「身共もそう存じまする。……まっこと、奇怪な体験でござりましたな」
五百年もこの儀式を続けていた巫に言われると返す言葉もない。
とにかく、預言の儀式に仕組まれた罠は暴き、犯人も(精神だけだが)消滅した以上当初の目的は果たしている。
現時点では、暗鬼の王そのものとコミュニケーションするのも不可能だと判断している。
これは暗鬼の邪悪さとか知能の問題ではなく、思考形態そのものが人間とは違い過ぎるということだ。
となれば、後は無事に帰るだけだ。
「では……」
巫が片手に持った糸車を見た。
泥の海のような空間を、赤い糸が遥か上方にむけて伸びている。
糸を軽く引くと、私達の身体はゆっくりと浮上しはじめた。
「……あんなにも人間が憎いというのは、一体どんな気持ちなんだろうな」
糸を手繰る、までもなく私と巫の身体は優しく誘導されていく。
周囲に満ちている粘液、暗鬼の王は私たちを取り込もうと圧力を上げているらしかったが、輝くバリアが跳ね返してくれていた。
安堵で少々気が緩んだのか、私は先ほど出会いすぐに消え去ったのっぺらぼう――暗鬼崇拝者を思い出していた。
「何故? あのような者のことを気になされる?」
エルフの巫女は不思議、というより不審そうに私を見る。内心では、それどころではないと思っていそうだ。
「どんなに非道で狂っていても、同じ人間だからな。……いや、人間同士の友愛という話じゃない」
平和で豊かな日本であっても、意味不明な動機で非道を働く人間は存在した。地球全体では言わずもがな。
私は常日頃から犯罪者への対処については厳しい意見を持っていた。
「ただ、同じ人間である以上、私だって何かが間違っていたらああなっていたかも知れない。それが怖いというのはあるな」
「魔法使い殿……」
もし生まれた環境が劣悪だったら? ふとした切っ掛けでいじめにあっていたら? たまたま重い病気になっていたら?
どんな状況でも正気でいられる、などとは到底断言できない。
ましてや今の私の立場は大変特殊だ。
今回、仕方なく禁じ手にしていた呪文を使ったが、一度下げたハードルというのは、より下がりやすくなるものだ。
『今回に限り使って良い』が、『暗鬼崇拝者相手には使っても良い』になり、『敵対する相手には使っても良い』になり……最後には気にくわない相手は誰でも洗脳してしまうようになる。少なくても、ならないという保証はどこにもない。
だから私は絶対に、『間違っているかも知れない』という迷いを捨ててはいけないのだ。
「っ!? 魔法使い殿っ!」
時間にすれば十秒以下だが、黙って自省していた私を巫が悲鳴のような声で呼んだ。
「ああ、これは……」
私もすぐに気付いた。
『オオオォォォ』
あの、暗鬼の王の叫びがまた聞え始めていた。
周囲の泥の海も激しくうねり、私達を溺死させようとしているようだ。
なによりも、呪文のバリアで守られている身体に、ずしりと重い圧力が四方からかかってきている。
「暗鬼の王も、私達を……いや、私を逃がすつもりはなかったようだな……」
のっぺらぼうの言葉を信じるなら、私は暗鬼たちに唯一『危険な個体』として認識されている人間だ。
いくら人間と暗鬼の思考が違うとはいえ、この機会に排除(というか同化か?)とするのは当然か。
「急がないとな……できるか?」
「尽力いたしまする」
エルフの少女が片手で私の手を握り、目を閉じる。
二本の赤い糸が穏やかな光を放ち、上昇の速度が上がった。
『オオオォォォォォ!』
「……ぐっ」
それに気付いたのか、泥の抵抗と圧力はますます強まり私は息を吐き出した。
全身を包む白銀のバリアが心なしか色あせはじめるのを見て、生唾を飲む。
これは、そうか。
『赤い糸』というよりも、『三枚のお札』の話か。
今のところ巫と赤い糸に頼るしかない私の脳裏にまた、どうでもいいような思考が浮かんだ。