赤い糸
ではさっそく預言の儀式を――ということにはならなかった。
巫や長老たちはそのつもりだったのだが、私の方で一日の猶予を貰ったのである。
理由はもちろん、呪文の覚えなおしのためだ。
戦族たちは一番大きく立派な簡易住宅を私達の客室として提供してくれた。
その中で、セダムは弓の手入れを、レイハはお茶の準備をしている。
「しかし、不自由なものだな」
「そういう仕様なんだから仕方ないだろう」
セダムのぼやきに、私は呪文書をめくる手を止めた。
刺繍の施された絨毯に寝そべったまま、彼を横目で見る。
「私の『呪文』は消耗品。一度使ったら、呪文書を読んで『準備』しなきゃならん」
「……その上、準備した呪文を変更するのも丸一日間をおいて準備しなおさなきゃならない、んだったな」
分ってるじゃないか。
「とんでもなさ過ぎるとは思っていたが、異世界の技術だったとはね。魔術とは違うのも当たり前だな」
「異世界……。主様はどんな素晴らしい世界からいらっしゃったのでしょう?」
「むう……」
独特の強い香を放つ戦族のお茶を淹れてくれたレイハの問い。
彼女の紫の瞳はキラキラしている。
「私の世界、か」
身体を起こして絨毯に胡坐をかき、お茶を受け取ったところで考え込んだ。
私の周囲という意味で言えば、この世界よりも平和で豊かな世界だったといえるだろう。地球規模で見てみると問題は山積みであるが。
例えば科学。例えば政治体制、思想。
暗鬼の存在など選定条件の違いはあるが、ある意味ではこの世界と比較して進んでいるとすら、いえる。
魔術があるとはいえ、この世界にも物理法則はあるし、人間の精神性もほぼ同じだ。
時代が進めば、産業革命が起きたり人権思想が生まれる可能性もある。
私がかつて見聞きした『異世界転移』ストーリーの主役たち(例の『アーサー王宮廷のヤンキー』などだ)は、多かれ少なかれ自分の時代の知識を利用して社会を変革させてきた。
私の第一の仕事は何をおいても暗鬼から人々を守れるようにすることだが、それだけで果たして良いのだろうか?
『見守る者』は、この世界を私に発展させたいという意図を持っているのではないか?
例えばこの世界に『国民の生活は国が保障する』という制度や考え方があれば、魔術兵たちのような悲惨な子供は生まれなかったかも知れない。
「……しかしなぁ……」
世界の歴史を良い方へ導くなどという仕事は、とても私如きの手に負えるものではない。
自分で妄想した『見守る者』の意図に、自分で憂うつになってため息をついた。
「主様?」
「おーい、どうした?」
「ん? ……ああ、すまん。ちょっと考え込んでしまった」
レイハの質問も無視して黙り込んでしまっていた私は、気まずくなって茶を啜った。
翌朝。
「よし、終わった」
私は呪文書を閉じて宣言した。
【精神防壁】に【完全耐性付与】といった、普段あまり使わない精神系の呪文の『準備』が終わったのだ。
「さあ、行こうじゃないか。行こうじゃないか」
「……こいつ最近少しおかしいな」
弾む声を出すセダムに引っ張られるように私は簡易住宅を出る。
待ち構えていたレードが先に立って歩き出す。浮かれるセダムを見て、ぼそりと呟いたのには気付かないふりをしておこう。
岩山を切り裂いたような谷間。
戦族の『宿』の最奥、岩肌に口をあけた洞窟が儀式の舞台だった。
「お待ちいたしておりました」
洞窟の前には、巫はもちろん彼女と同じ紅白の衣装をまとった戦族の女性が数名待っていた。
巫の言葉を合図に深々とお辞儀をしてくる。
レードは「くれぐれも巫様の邪魔はするなよ」と言い残して立ち去った。
長老もいないし、この場所は男子禁制なのだろうか。
「ここからは、魔法使い様のみの御同行をお願いいたしまする」
今日も大変魅惑的な声で、真のエルフの少女は言った。
整いすぎた美貌の上半分は、漆黒に塗られた不気味な仮面に隠されている。
「やっぱりか」
現実は非情であった。
セダムは額に手をあてて唸る。
「……悪いな。後でできるだけ詳しく教えるから」
「絶対だぞ? 詳しくな?」
肩を叩いて慰める。
別にセダムも駄々っ子ではない。すぐに頷いて一歩下がった。
「では、魔法使い様も仮面を。さらに、こちらをお持ちくださりませ」
材質不明のひんやりした仮面を被り紐で固定すると、巫女の一人が恭しく何かを差し出してくる。
見れば、木製の柄に何重にも赤い糸が巻かれた道具……糸巻きだ。
「これは?」
「暗鬼の意識の中から、現世に還るための目印でござりまする。決して、この糸を途切れさせることのないよう……」
そう説明した巫は、私が手にした糸巻きから伸びる糸の端をレイハに掴ませた。
「あのう、これは?」
「この糸の守りを最も強めるのは、相手を想う女子でござりまする。貴方様が適任でござりましょう」
「!?」
困惑していたレイハは、巫の説明を聞くと切れ長の瞳をきっと吊り上げた。
その場に『ズザッ』と膝をつき、首を垂れる。
「主様。レイハナルカ・ハイクルウス・シ。命を賭してこの糸を守護することを誓います」
「……頼む」
彼女の忠誠心は今更疑う余地もない。
この糸が単なる様式だろうが、本当に魔術的な意味があるものだろうが彼女は自分の言ったことを守るだろう。
「ふむ……。赤い糸を持って別の世界へ、か。『オルロールとカリス』だな」
「何それちょっと詳しく」
一方、しげしげと仮面や糸車を観察していたセダムの呟きが耳に入った。
これをスルーするようじゃ、あのホラーRPG『Cthulhuの呼び声』はプレイできない。
結局、セダムから話を聞き、準備していた呪文をいくつか使うまで巫たちを待たせることになった。