傷を癒すには
あれだけ悪くなった場の雰囲気を、大きく明るい笑いで吹き飛ばせるのは間違いなくサンダール卿の人徳だろう。
私が事前に考えていたとおり、彼を臨時の武術顧問として迎えたいと発言すると、彼も皆も喜んで賛成してくれた。
こうした情報が回りまわってフランド伯爵、ひいては北方の王国に伝わって、今後の活動がやり易くなってくれると良いのだが。
それもこれもやはり、傷だらけになっても降参しなかったレンドのお陰である。
「うう……」
「レンド、大丈夫かよ?」
しかし、上機嫌でサンダール卿が客間に戻ると、レンドは身体を抱え込むようにして蹲ってしまった。
私達は慌てて彼を兵舎に運ぶ。
「うーん、こりゃ手酷くやられましたねぇ」
「観察していた限りでは、命に関わる打撃は受けておりませんが」
兵舎のベッドに横たえられたレンドの怪我の具合を確かめた神官戦士トーラッドが顔をしかめた。
レイハが冷静に指摘するが、下着一枚のレンドは(頭部以外)痣だらけで見るも無残な有様である。確かに致命傷はないが、凄まじい苦痛だろう。
先ほどはヒーリングポーションを飲ませようと考えていたが、【完全治療】の方が良いだろうか?
どんな傷も病気も状態異常も一瞬で癒す【完全治療】は常に一回分は『準備』している。それはまさにこんな時のため、なのだが……。
「……もしかしてトーラッドはこういう傷を治療することができるのか?」
「はぁ? できますよ。まあ、癒すのは私ではなく女神アシュギネアの力ですけれど」
「マルギルス様、トーラッドの神聖魔術は確かですぜ?」
トーラッドが死霊憑きを悪霊祓いで浄化したのを見た事はある。あれが神聖魔術というものなのだろう。
RPGなら確かに、神官や僧侶が神の力で傷を癒すというのは定番だ。
なのになぜ、こんなに意外な感じがするのか……? ああ、そうか、幸いにしてこれまで私の周囲で怪我をした者が少ないからだ。
一番記憶に残っているのが、落馬して大怪我したエリザベルのことだが、あれも【完全治療】で事なきを得たしな。
これは、またしてもレンドには申し訳ないが、あえてトーラッドに頼んでみたいな。
この世界の回復魔法の効果はどの程度のものか? 是非、知っておきたい。
「うう……マルギルス様……隊長……俺、大丈夫ですから」
「いやいや、遠慮するな。トーラッド、治療してやってもらえるか?」
「ええ、もちろんですよ」
本当に、レンド君の健気さに心が痛い。
トーラッドはさっそくアシュギネアの聖印を掲げ、祈りを始めた。
「正義と命の守り手、雪の淑女アシュギネアよ。この若者の名誉ある負傷を癒し給え」
「……おお」
厳かな祈りの声が終わると、横たわるレンドの身体が淡い光に包まれる。
どことなく暖かさを感じる光が十秒ほどで薄れ消えると、レンドの全身の痣はほとんどが消えていた。
顔色も良くなり、苦しげな呼吸も穏やかになる。
「うわ……凄い……い、痛みがなくなっていきます……」
「凄いな」
目で見てはっきり分かるほどの速度で怪我が治っていく、というのは中々感動的なものがある。
人の肉体を傷つけることよりも、治すことの方がはるかに難しいのだから当然だ。
「……いや、マルギルス様ならこれくらい楽勝なんじゃ?」
「貴方、ぐちゃぐちゃになったギリオンの腕も治療しましたわよね?」
「ああ、いやいや……つまり、神の力とは偉大なものだな、と」
「マルギルス様にそういっていただけると、私も嬉しいですね」
神、か。
『見守る者』は、この世界の神なのだろうか?
「そういえば、トーラッドがいま神の力といったのは、魔術師がいう魔力とは別のものなのか?」
「まぁ、魔術師さんたちは同じだといいますけどね。私にとっては、全てアシュギネアが与えてくれた力ですよ」
ふうむ。
つまり、同じ『魔力』を使っていても、魔術師はそれを自然の力と分析し、神官は神から与えられた力だと『信じて』いるわけか。
「……」
「あー、レンドのやつ、寝ちまったみたいなんで。すみませんが、ここは外してやってもらえやせんか?」
「わかった。そうだ……これで、レンドや兵士たちに美味くて精のつくものでも食わせてやってくれ。後で酒も届けさせるから」
私はジルクの手に金貨を一掴み握らせ、その場を離れた。
「……そういえば、この城にはあれがいないな」
「何のことでございましょうか、主様?」
ジルクやクローラと分かれて主塔に戻ろうとしていた私は、ふと気付いて呟いた。
当然のように背後について来ていたレイハが律儀に反応してくれる。
「医者だ。……まあ、治療師でも何でも良いんだが」
「治療でしたら先ほどのようにトーラッド殿に頼めばよろしいのではないでしょうか?」
「いや、トーラッドのあれも魔術と同じなのだから、一日何回も使えるわけではない。それに、医者の仕事は単なる治療だけじゃないからな」
そう、何でこれに気付かなかったのか。
ジーテイアス城は、健康な兵士ばかりの要塞ではなく、老人や子供も含む何百人という人々が生活する『町』になりつつあるというのに。
まあ、急に頭数が増えたのはこの数日で、それまでは健康な連中ばかりだったから問題が出なかったのだろう……。
とにかく、重要なのは日常的な健康管理や、疫病を防ぐための衛生管理だ。
レリス市には下水道があったくらいだし私が知っている『中世ヨーロッパ』よりは格段にマシだが、消毒や防疫という習慣、概念はかなり薄い。
広範囲な医療知識が必要なこういう仕事は少なくともトーラッドには無理だろう。
確かレリス市には治療師ギルドもあったし、人員を派遣してもらおうか……?
「それでしたら、主様」
「ん? 心当たりがあるのか?」
レイハが珍しく口を挟んできたので、私は期待して聞く。
「シュルズ族の避難民の中に、『医の頭』と呼ばれるものがおります」
「ふむう……なるほど」
流石、防諜のために日々城内を巡回しているレイハだ。私の耳に入っていないことまで良く把握している。
『医の頭』か。
ディアーヌの『武の頭』同様、部族の医療を担う役職という意味だろう。将来的に城の医療を任せられるような人物なら良いのだが……。
「我が君。ここが『医の頭』の家だぜ」
シュルズ族といえばディアーヌだ。
私はさっそく彼女とともにシュルズ族の居住地へ向うことにした。
中庭から内門を潜ると、そこは森の巨人が造成した土地を新しい外壁でぐるりと囲った『下の中庭』と呼ぶ空間だ。
現在はドワーフや労働者たちが宿屋や倉庫など、将来ジーテイアス城が交易拠点になったときに備えた施設を建設中である。
その一角にシュルズ族の人々の小屋が立ち並んでいた。
ドワーフたちも手伝ったのだろう。小屋はどれも急造とは思えないしっかりした作りで、このまま住み続けても問題なさそうである。
ディアーヌが案内してくれたのはその中でも族長用に次いで大きな小屋だった。
甘いような、青臭いような不思議な匂いが漂ってきた。
「サリアおばさん、居るかい?」
「おやまぁ、姫様。どうしなすった、喧嘩でもしたのかい?」
『癒し手』は恰幅の良い女性だった。私と同年代か少し上だろうか。
日本の自宅の近所のラーメン屋の奥さんがこんな感じだったな……。
シュルズ族独特の毛皮を装飾に使ったゆったりしたローブを着ている。
「俺の用事じゃねえよ。マルギルス様があんたに用事があるんだとよ」
「は? ……わわわ、これは魔神様っ!」
体重100kgはありそうな女性――サリアは私に気付くや慌てて平伏した。
「シュルズ族の『医の頭』サリアでございますぅ」
「楽にしてくれ。少し、『医の頭』に話を聞きたくてきたんだが、時間はあるかな? 忙しいようなら日を改めるが」
「あるよな、時間? 無いなら作ってくれよ?」
アポも取っていなかったこともあるので遠慮がちに頼むと、ディアーヌが私の言葉に被せてきた。
「別に無理強いすることでは……」
「だ、大丈夫です、魔神……いえ、マルギルス様。あたしでよろしければ、何でもお聞きくださいな」
「そうか? では……」
私は会話のとっかかりを掴もうと、『癒し手』の仕事場を見回した。
壁という壁には、乾燥させた植物や、薬品らし粉や液体を納めた壺が並んでいる。
作業台には、乳鉢や石臼、小型の蒸留器など錬金術のものと似た製薬道具が置かれていた。
「お恥ずかしい、暗鬼に『神の庭』を追い出されたときに、薬草も道具もだいぶ置いてきてしまいましてねえ」
「あの時か……。道具なら少しは私の手持ちを貸せるし、薬草なら森の西にある『薬の村』にいけば買えるだろう」
イルドにいって、資金を彼女に渡すようにしよう。
さて。サリアも少しリラックスできたようだし、本題に入るか。
「では、聞くが。……疫病を防ぎ健康に過ごす、という面から見て、この城に問題があると思うかね? 忌憚のない意見を聞かせてほしい」
「……」
私の問いに、サリアは何とも言えない顔で黙り込んだ。言っている意味が分からない……という風ではないな。
「恐れながら……。まず、家畜があちこちで糞をしないよう、しっかりした家畜小屋を作るべきですねえ。それに井戸をあと一つか二つ、増やせませんか? 食器やら服を清潔にするには何より水が必要ですし……。あとは便所の掃除と管理をもっと徹底しないと……」
サリアはスラスラと環境改善のための具体案を語った。私に聞かれて今考えた、のではなく元々彼女にはこういう知識があったのだ。
間違いなく、彼女には衛生管理という概念がある。
「……貴方は、疫病の原因は何だと考える?」
「私達に代々伝わる話では、病気ってのは空気の中に混じってる見えない毒気のせいってことになってますよ。その毒気は、糞とか腐った食べ物や泥から生まれるので、そういうものに触れたときはしっかり毒を消さなきゃいけません」
「そ、その『毒を消す』にはどうする?」
「酒ですね。酒の、人を酔わせる成分が毒気を消す力があるんです」
おお……想像以上だな。
少々概念的だが、細菌感染とアルコール消毒のことを言っているんだろう。
はっきりとは覚えていないが、地球では18世紀とか19世紀レベルの話だぞ?
「ではもう一つ。先ほど、全身を酷く打撲して骨折や内出血で息も絶え絶えな青年がいた。貴方なら、その青年をどう治療する?」
「そうですね……まず体中に触れて傷の状態を調べます。骨折があれば形を戻して固定し患部を冷たい水で濡らした布で覆います。最後に、痛み止めと解熱にキリネ草の煎じ汁を飲ませてあとは安静にすることですねえ。もしあれば、エシキリタケの粉末を湿布にして患部に貼りたいところですが、今は切らせてまして……」
「むう……」
立て板に水に治療方法を説明するサリアに、私はすっかり感心してしまった。
「大丈夫かい? 俺達の『医の頭』の知識が、我が君の役に立つのかい?」
私が沈黙していると、ディアーヌが心配そうに聞いてきた。
「ああ、もちろんだ。シュルズ族の知恵には驚かされた」
「……へへっ。なら良かった」
「マルギルス様に褒めていただけるとは、祖先も喜びますよ」
私を見上げるディアーヌの頭をわしわしと撫でてやる。
嬉しそうに目を細める彼女は年相応に可愛らしかった。
「あ、そうだっ」
その彼女が、何故かいきなり腰の短剣を引き抜く。次の行動も私には全く予想できなかった。
「サリアがどうやって傷を治すかみたいんだろ? だったら俺が傷をつくってやる……」
「止めなさいっ!」
「この馬鹿小娘っ」
こんなに裏返った大声を出したのも久しぶりだ。
まったく躊躇なく自分の腕を切り裂こうとするディアーヌの短剣は、ここまで気配もなくその場に居たレイハが叩き落としていた。
「痛っっ! ……我が君……」
「そういうことはしなくて良い。君は大事な家臣だ。簡単に自分を傷つけないでくれ……」
強かに手首を打たれたディアーヌの赤い瞳が、怒りよりむしろ絶望に染まった。
シュルズ族の一部を連れてジーテイアス城に合流する、と決めた時からどこか危ういと思っていたが、これほど極端な行動に出るとは……。
自害しかねない勢いで目を見開くディアーヌに対し、抱きしめて背中を撫でてやる以外の宥め方を思いつかなかった。
「本当に? 本当に我が君は俺のことが大事? 俺のこと捨てない?」
「……ああ、捨てないし、大事だ。だから、自分をもっと大事にしなさい」
「……分った。もうああいうことはしない。ごめんなさい、我が君」
「そうか。大丈夫だ、気にするな」
ディアーヌは数分で落ち着いた。
ここまで情緒不安定だったとは……。やはり、フィルサンドでの過酷な経験が彼女の心を蝕んでいるようだ。
こういうのは【完全治療】でも治らないだろうな。
助けを求めるように視線を向けても、サリアは気まずそうな、レイハはむしろディアーヌに共感するような顔をしている。
私にも責任の一端はあるわけだし、いま実際に大事な部下なのだから何とかしてやりたいが……。トーラッドにでも相談したら良いのだろうか?
ううむ……。
「とにかくだ」
私は問題を棚上げすることに決めて(こんなことばかりだな)、サリアに声をかけた。
「貴方の医療の知識が卓越していることはよく分った。よって、シュルズ族のみならずジーテイアス城全体の医療と衛生管理を貴方に任せたい」
「あ、あたしにそんな大役が務まりますかねぇ?」
もちろん今すぐではなく、人材や資材、場所などイルドが調整してからになるが、彼女には城の医療官をやってもらおう。
「「は?」」
当然のように困惑するサリアを、ディアーヌとレイハが全く同じ調子で見詰めた。
「やります」
「ありがとう」
サリアはすぐに決断してくれた。