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漂流エレベーター

作者:双桑綴
 漂流エレベーター   双桑 綴

▼記録一・検証者Bの回顧

 密室で息を吸うときは、扉の隙間に目をやって、外との境目を味わうように吸うのが良い。肺の空気がまるっきり入れ替わってしまわないように、俺はいつも細心の注意を払っている。物理的には何の意味もない心がけだ。しかし、若干の閉所恐怖症を患っている身としては、その感覚が命綱となる。こう力説すると大概の人には笑われてしまうのだが、俺はいつも真剣だ。密室との格闘は日常的に訪れる。もっとも卑近な例が「エレベーター」だ。
 弱さを吐露した俺に対して、多くの人は「幼少期にトラウマでもあるのか」と訊く。だが、俺のこの性質は幼い頃に形作られたものではない。俺は物心がつき、やがて自立するまで、心身ともに健康に育ってきた。人前では能天気に振舞っているし、大舞台で委縮することもない。旅での野宿も平気だし、そういった面ではむしろ、強い人間かもしれない。
 そんな俺の心に傷がついたのは、大学受験を間近に控えた、高校三年の秋のことだった。


▼記録二・検証者Aの報告

 受験生は退屈だ。素直に勉強と向き合うほど、淡白な生活に埋もれてしまう。もちろん受験は大事だ。失敗したくはないから、僕は虎視眈々と準備を続けてきた。そんな整ったサイクルの時間を重ねる中で、漠然とした焦燥が積っていくのを感じていた。
 勉強一色の生活に鮮やかな差し色が欲しい。かといって生活を放り投げるような勇気はないし、理性がそれを許さない。日常の中に居ながら何か面白い体験ができないか。そんな都合のよい何かを探していると、友人の麻生が僕にある提案をしてきた。
「都市伝説の検証をやってみないか」
 良くも悪くも、それは高校生にできそうな心地よい冒険だった。遊びではあるけれど、やるからには本格的にやりたい。僕がそう主張すると、彼はあるウェブサイトを教えてくれた。
「日常の中にこそ非日常がある」
 サイトの先頭に掲げられたその言葉は、あまりにもフツウだった。だが、書いた人間が実感を伴って言うのであれば、自分も強くそう感じてみたいと思った。
 ウェブサイトには各地の民間伝承や都市伝説の類がまとめられ、それらの調査や検証結果が報告されていた。管理人は民俗学研究者。素人がやるちゃちな検証ではなかった。呪術性の強いものからネット上で流布した単なる創作まで、綿密な考証と丁寧な検証によって細かく研究されている。
 僕はその姿勢に共感し、麻生の提案を飲んだ。単純なカタルシスでは終わらない、もっと価値のある何かに手が届くような気がしたからだ。
「おまえならノってくれると思っていたよ。学校で試せるおあつらえ向きの都心伝説が一本ある。ここは俺らにとって生活の中心だ。だからこそ、いい刺激になるはずなんだ」
 僕は彼と一緒に小規模な冒険を繰り返してきた。自転車の旅も、廃墟の探検も、きっかけはすべて彼とのやりとりだった。そんな遊びと決別して、受験生らしくなろうと話し合ってから半年が経っていた。彼は僕に、ある都市伝説を教えてくれた。それは学校で検証できて、二人でやるメリットも大きいものだった。広まってから日が浅いのか、学者のサイトにもまだ情報が集まっていないようだった。
「胡散臭いオカルト板なんだけどさ、この書き込みを読んでみてくれ。十中八九、単なる噂だけど、一パーセントでも信じてみることから検証は始まるんだからな」
 僕は彼に差しだされた携帯の画面を覗きこんだ。

626:七階建てのエレベーター:20XX/10/01(日) 04:19:51.82 ID:/Gb3aSlo
 ちょうど七階建ての建物を知っていたら、試してみると良いだろう。むろん、各階に止まり得るエレベーターがあることが前提になる。まずは一階から、誰も乗っていないエレベーターに一人で乗り込む。エレベーター・ガールも乗員にカウントするから、百貨店なんかでは検証できない。一階で乗り込んだら、まずは四階に向かう。その際、途中で止まることなくエレベーターが四階につかなくてはならない。誰かが乗ってきたり、他の階で止まったりしたらその時点で検証は失敗だ。最初からやりなおし。さて、四階についたら、ドアが開く。しかし、検証者はエレベーターから降りてはいけない。もっと言うと、扉が開いている間は、息を止めていなければいけない。閉まるまで、無言で階数表示を見つめているのが望ましい。扉の向こうに人影を見つけるだけでも、失敗してしまう可能性がある。
 まず四階をクリアしたら、次は同じ要領で二階に移動。四階→二階ときたら、その次は六階、二階、七階と移動し、もう一度四階、そしてそこから一階へ向かう。その間ずっと誰にも乗られてはならない。外の空気を吸ってもいけない。もしこれが上手くいってしまうと、二度目の四階で、必ず「誰か」が乗ってくる。引き返すならここが最後のチャンスだ。冗談で来てしまった人はすぐに降りること。
 ここで手順通り一階のボタンを押すと、エレベーターは何故か上に昇って行く。そうなったら成功だ、おめでとう。君はもう二度と、「人」に会えなくなる。

「この高校の第三校舎――『ウド』は、ちょうど七階建てだ。上層の階はめったに使わないけど、行ったことがないわけじゃない。それに俺たちは毎日を『ウド』を眺めて登校している。ここら辺じゃちょっとしたランドマークだし、嫌になるくらい日常的な場所だ」
 麻生は話しながら小刻みに震えていた。強い虚構性のある、いわゆる、伝説。都市伝説。しかし、それが物理的に検証可能であるか否かは、かなり大きな違いをもたらす。古いもので「口裂け女」や「人面犬」、ここ十年で定番化した「くねくね」や「良栄丸」。これらはどれも伝聞形で伝わっている物語に過ぎない。
 第三校舎が七階建てだったのは、僕らにとって幸か不幸か。好景気の頃、学長のバブリーな発想で建てられた通称「ウドの大木」は、この検証を行うために作られたのだとさえ思えた。

 決行は全校休校日の十月二十一日と決まった。創立記念日なので、運動部も文化部も教師たちも、校舎には誰もいない。そして麻生は何故か、校舎の鍵を持っていた。
「文藝部の先輩から引き継いだのさ。ウチの部は代々『ウド』で無断夏合宿を行っているからね。今年はバレて停学を食らったから、鍵が取り替えられていないといいが」
 麻生によると、僕の高校の警備はかなりザルらしい。文藝部の合宿のときはパソコン部に委託してセキュリティをハックしてもらうらしく、今回も彼らの手を借りることにした。
「当局との疑似闘争はおおいに歓迎だ」
 この学校の文化部には変な奴が多い。

 麻生は僕に「心の準備だけしておいてくれ」と言って、綿密な検証方法をメールで送ってきた。どうやら僕がメインで検証することになるらしい。彼からの文面は、そのままサイトに報告できるような形に纏められていた。

20XX/10/19 05:42:46
from.麻生宗助
To.自分
Title:「七階建てのエレベーター」検証方法

 検証者をA、協力者(証人)をBとする。Aはまずエレベーターにビデオカメラを持って乗り込む。そして、ガムテープを用いて天井近くにカメラを備え付ける。これで検証中の様子が記録される。肉眼では見えないものの記録にも対応するのが、映像メディアのいいところだ。
 Bは、最後に誰かが乗り込んでくるという四階に行き、エレベーターの階数表示が見える場所で待機する。扉が開いたときにAの視界に入ってはならないので、死角になる場所に潜む。Aは、扉の開閉中、特に四階では階数表示から絶対に目を離さないよう心がけること。
 AとBは検証中、通話状態の電話を携帯する。これは現在進行形で互いの様子を伝えるためである。Bから伺えるのはエレベーターの外観のみだが、警備員をはじめとする第三者の侵入など、幾つかの想定される失敗要因に備える。内部に異常が起こったときの緊急対処が最大の役割である。
 都市伝説の検証は、二度目の四階、何者かがエレベーターへ乗り込むのを確認した時点で終了とする。Bはエレベーターに近づく者があればAに連絡し、四階到着と同時に降車するよう指示する。設置されたカメラ等に異常が発見できれば、検証は成功である。


 決行日の早朝。僕と麻生は校舎裏の通用口からあっさりと侵入し、「ウド」一階のエレベーターホールで記念撮影を行った。「腹が減っては戦ができぬ」と僕がサンドイッチを取り出すと、麻生もドリンクゼリーを吸い始めた。
「最後のメシになるかもしれない。味わっておけよ」
 整った都市伝説ではあったが、末尾の歯切れが悪いのが気になっていた。死ぬでも消えるでもなく、「会えなくなる」。どうにでも解釈できる、読みの幅を持たせているのが不気味だった。
「この侵入を含めて非日常だからな。ダメもとでやってみようぜ」
 軽い朝食を食べ終わったあと、麻生は小気味よい激励を一言残して四階に向かった。僕はエレベーターのボタンを押し、乗車。踏み台を使って天井にカメラをセットし、扉を再び開いて台を外に出す。一歩出たところで深呼吸し、再び箱の中へ。扉が閉まり、麻生から着信した。
「こっちは準備できたよ」
 はやる気持ちで声が震える。興奮を悟られまいと、僕は少し携帯を遠ざけた。彼の呼吸と衣擦れの音が聞こえる。まだ移動中なのだろうか。
「こっちも準備OK。検証に入ろう」
 麻生の声はとても落ち着いていた。なしくずし的に僕が主役となったが、実のところ奴はビビっていたのかもしれない。面白さを求めるなら断然こっちのほうがいい。ひと通り終えたら交代を提案しようなどと考えながら、いよいよ検証の開始である。
「じゃ、四階を押すよ」
 僕のからだが重力を感じると同時に、エレベーターはその機能通り上昇を始めた。僕の視線は自然と階数表示に向かう。四階について扉が再び閉まるまでこの視界を維持すれば、麻生に気づいてしまうこともないだろう。
 四階に着いた。個室と世界を隔てる壁が、左右に退いていく。視界の下部に、無音の廊下、連なる教室。隠れる場所などどこにあるのだろう。息を止め、視界を変えずに気配だけうかがう。誰もいない気がして、右手を挙げてみる。扉が閉まり、ためこんだ息を吐き出す。逃げ帰ったんじゃないのかと疑いながら、電話に問いかけた。
「麻生、いたのか?」
「俺を探すなよ。居たさ。君より『ウド』には詳しいんでね」
「僕、どうだった?」
「右手挙げたろ」
 僕は安直な想像を無言で謝罪した。そもそも手順を練ったのは麻生だ。彼にぬかりはないだろう。問題があるのは僕のほうだ。意識も検証に集中しなくてはならない。
「次、二階」
 箱が動く。動悸が少し早まっているのに気づく。黙々と検証に集中するのは、容易なことではない。麻生も僕も基本的には無言で、電話はノイズを垂れ流している。
 エレベーターは、二階に着いた。

 誰もいない職員室の入口を正面に、僕のからだは数秒間こう着していた。緊張からか、息を止めるのが辛い。体感にして数十秒、ようやく扉がしまり、僕は再びため息をついた。荒い息で酸素を求める。少しづつ、落ち着いていく。
「おい、息がもたないってのは想定外だぞ」
「息を吸うのが早すぎた。次からは大丈夫」
 僕は六階のボタンを押す。コンマ数秒のレスポンスで箱が揺れ、そしてその瞬間、ミシ、と何かが軋むような音が小さく響いた。
 単なるラップ音に違いない。しかし、タイミングがあざとすぎる。エレベーターは上昇、下降、そして再びの上昇に入った。エレベーターの機能というものを考えたならば、僕が乗り続けているのは既に不自然だ。一階から四階へ行き、さらに二階へ下がった。それでも降りずにまた昇っている。ボタンを押し間違えたと仮定すれば、「1→4→2」までは充分ありうる動きである。しかし、そこで再び「6」へと上がるには、何かしらの意図を宿した動きでなければあり得ない。
 血が溶けていくような感覚とともに、何度も反復して覚えた「1・4・2・6・2・7・4・1」という奇妙な数列が脳裏に浮かんだ。異界への公式に足を踏み入れた冷たい実感。引き返せる状況でありながら、引き返せないような気がしてくる。
 普通の利用者であれ、ボタンを二回押し間違え、同じような数字をなぞることはあるだろう。しかし、このような単純な間違いは「たった二回」ではない。「二回も」と感覚するのが自然である。現時点では確率的に存在する程度であっても、最終的には六の七乗。二七万九九三六分の一の確率、準天文学的な数字にまで飛躍する。
 雇われた添乗員でも、はっきりとこの順番で移動することは殆どあり得ないだろう。あったとしても、その場合は「一人乗り続ける」わけではない。

 エレベーターが六階につき、広々とした薄暗いラウンジに中身をさらした。昇降中はともかく、開閉中に視線を固定するのは少々苦しかった。誰もいないはずの空間であることが逆に、さまざまな想像を喚起する。僕は何を見ても呼吸しないように、口と鼻を塞いでラウンジに目を流した。薄い膜を隔てて見ているような、現実感のなさ。見慣れたラウンジが、記憶との齟齬を埋めきれないほどに違って見え、そして扉が閉まった。
 汗ばんだ手から、携帯が滑り落ちた。衝撃音とともに、僕は我に返った。電話の向こうでは麻生が慌てていた。
「何があった。大丈夫か」
「すまない。手汗で滑って携帯を落とした」
「電話が切れなくてよかったな。気をつけようぜ」
 麻生は落ち着いて答えていたが、彼の声もかすかに震えていた。
 背中を、つうと汗が流れる。僕は無言で、ぼんやりと階数表示を見つめる。誰かが他の階でボタンを押せば、強制終了なのに。結果への好奇心や刺激への欲望と相克する、目の前の恐怖。やり遂げることへも、止められることへも期待している。ふと気配を感じて背後を振り返ると、自分が設置したビデオカメラが寡黙にレンズを光らせていた。
「早くしろよ。何かあったのか」
「何もない。ビビっているだけだ」
「……正直だな」
 取り繕うことのできる種類の恐怖ではなかった。助けを請うように携帯を一瞥し、僕は二階のボタンを押した。

 いよいよ残りは少ない。偶然には起こり得ない順序で動きながら、今このエレベーターは空間をさまよっている。単調な個室の中で、僕の呼吸音はノイズにかき消される。エレベーターの扉の裏に、小さな黒い染みがある。何に見えるわけでもなく、しかし、何かのように見えた。
「このペースなら『乗り込んでくる誰か』がそろそろ現れてもおかしくない。でも、そんな気配は微塵もないな。まあ、そもそも『誰か』っていうのは非常に寓意性が高い部分だし、俺が視認できるような存在だとは思ってないけどね。現実的な仮説を立てるとすれば、精神が狂って幻覚を見るとか、そういった類だろう」
「おどかしてるつもりか」
「まさか。冷静な意見だよ。大丈夫、人はそう簡単に発狂しない」
 事実上、麻生は高みの見物をしているに過ぎない。彼が練った計画にそのまま乗ったのは迂闊だっただろうか。いや、仮に配役が逆だったとしたら、僕は面白味を感じなかっただろう。麻生は僕の性格を、嗜好をよく理解している。そして冷静に、僕を守っている。
 去年の冬休み、自転車で旅をしたときにも似たような恐怖と出会った。通学用の自転車で東海道の走破を試みた僕と麻生は、郊外の小さな峠へ、深夜零時に入山した。もっと大きな峠をあっけなく越えられたから、夜の峠を舐め切っていたのだ。街灯もガードレールもない旧国道の峠道は、僕の精神力を根こそぎに削り取り、一人なら間違いなくリタイアしていた。
 あの夜を思い出す、前後の見えない焦燥と疲労。中断を許さない、無形の圧力。止まれ、止まれ、止まれ。軽く錯乱して移動中に開閉ボタンを連打する。しかし、他の階のボタンだけはどうしても押せなかった。

 エレベーターは、二階に到着した。何も変化のないはずの、職員室前のエレベーターホール。しかし、さっきの二階を思い出そうとすると、内から染み出るように、肌触りの悪い違和感が広がってきた。注意深く観察する。どこも変わっていない。変わっていないはずだ。しかし、この違和感は、単純な緊張や焦燥から生じる類のものではない。
 扉が閉まっても、妙な感覚は継続していた。電話の向こうにもこの違和感は伝わっているだろうか。それをきくのは野暮であって、そして、無意味だとわかっていた。
「何か変化あった?」
「誰も現れない。そっちは」
「問題ない」
「ん。さて、いよいよ近いぞ」
「大丈夫」
 七階へのボタンを押そうとして、雰囲気が変わったのはエレベーターの内部だと気づく。その在りかに焦点が合ってわかったが、この感覚は、妙だ。圧倒的な――どうやらこれは、安心感である。ここから出れば安全なはずなのに、逆にこの箱から外へ出たくない。この不思議な、母の胎内にいるような抱擁感は、この場にそぐわないという点でひどく気持ち悪い。
「いまから七階へ向かう」
「了解。現状、四階には誰も来ていないが」
「わかりやすい前触れのある超常現象なんてないさ」
「俺の台詞を奪わないでくれよ」
 電話を通して会話する声が、静かな空間に響き渡った。その反響が静まるのを待ってボタンを押すと、エレベーターは迷いなく上昇を始める。いまここがどんな空間でも、電話の向こうには人がいて、繋がっている。そのはずなのに、弾性のある、冷たい、わずかに透過する膜が麻生と僕を隔てていて、「あちら側」と「こちら側」に分けている。重力が効き、ラップ音が鳴る。今では自分のからだのように、この空間すべてを感覚できる。携帯の向こうの声が、単なるノイズへと変わっていく。
「麻生、聞こえるか。聞こえるか」
「聞こえる」
「七階に着く」
 エレベーターは七階に到着した。

 校舎「ウド」の七階は大講堂だ。全校集会で年に四度訪れるが、生徒にエレベーターの使用は認められていない。扉の向こうにあったのは、いつも見ることのない視点からの光景だった。
 息を止めていると、五感の知覚がそれとなく鋭くなる。それでも七階は完全に無音だった。その無音が、恐怖を喚起する。恐怖を喚起する物が外にあって、故に、エレベーターの中に深い安心を感じる。もしこのあと、四階に着き、「誰か」が乗り込んできたとしても――この個室からフロアに出てしまうことが、異世界への漂流を意味しているような気さえする。いや待て、解釈次第で、あながちこれは。詭弁ではないかもしれない。
「ここに居たくないって感じがする」
 扉が閉まると、麻生が少し大きめの声で言った。
 彼の発言に、僕の中にあったある仮説が強く主張した。僕たちは、麻生の身の危険について想定していなかった。最後に得体のしれない「誰か」が乗り込んでくるという四階……僕のいるエレベーターが「こちら側」とすれば相対的に「あちら側」となる麻生の側が、別の世界に流れるという可能性。都市伝説の曖昧な寓意性は、その曖昧さ加減に比例して多くの不確定要素を孕んでいる。もし、予想だにしない事態が起き、麻生の身に何かあったら。
「麻生。本気で危険を感じたら、逃げろよ」
 電話の向こうからため息が聞こえた。
「俺は大丈夫だ。絶対に安全だよ。まあ、君が考えそうなことは思いつく。エレベーターじゃなくて、『誰か』が現れる四階こそ危険かもしれないって話だろ。仮に俺が君にとっての異世界に漂流したとしても、それは同時に君も俺から見た異世界に漂流することを意味している。君の日常が存在するのは、こっちとそっち、どっちだ? 世界まるごとと、エレベーター一箱。どこかに流れるとして、どちらが自然だ? 穴だらけの詭弁はよせ。そもそも、俺の『居たくない』の原因は、エレベーターのほうから感じる嫌な気配にあるんだよ」
 彼の冷静はゆるがないようだ。そして僕は、面倒な推測を捨てる必要がある。とにかく今取り組むべきは、検証の大詰め。四階へと降り、数列を完成させることだ。
 この都市伝説の妙な説得力は、単に検証が可能な点には留まらないらしい。何かが起こるタイミングがわかっているという状況は、恐怖心の向かう先を一点に集中させる。ぼんやりとした物語に鋭い一点がある。だから面白く、多くの人に届いていくのだ。
 個室内には僕の呼気がたまり、淀んでいる。この生温かさが、僕の思考や感覚をにぶらせ、得体のしれない安心を生み出しているのだろうか。しかし時間にして、おそらく一五分も経っていない。僕一人の呼吸だけでは、そんなに多くの酸素は奪えないだろう。すでに僕一人じゃないとしたら。阿呆な想像を自嘲して、僕は四階のボタンを押した。

 七階から四階へと下りながら、僕は一階のボタンも押した。順序は狂わない。これで四階から誰かが乗り込んできたとき、「ボタンを押す勇気がない」ために失敗する可能性を排除できる。当初の計画では「誰か」と入れ替わりで降りる手はずだったが、最後まで検証せずに終えるのは癪だ。扉が閉まったあとに内側へ出現するのかもしれない。なんせ、都市伝説である。物理法則に寄りかかっていては想像が膨らまない。これで「1・4・2・6・2・7・4・1」の数列は、待っているだけで完成する。
「着くぞ」
「大きく息を吸っておけよ」
 麻生との電話が、僕が保っている唯一の繋がりだ。もし一人でやっていたら、度を過ぎた恐怖が検証を妨げていただろう。多少の安心は、検証放棄の抑止力にもなっている。
 エレベーターが減速し、僕は大きく息を吸った。
 四階に止まり、一瞬にも、悠久にも思える時間が経つ。扉が、開いた。

 視界に広がったのは、誰もいない廊下と、無言の教室だった。
 階数表示を見つめるという取り決めも忘れ、誰かいないか、何かないかとひたすらに目を凝らす。遠くで消火栓が光っている。ロッカーの影が動いている。麻生か、おそらく。
入ってこい。誰が入ってくるのだ。その場で足を持ち上げて足踏みをしてみる。逃げ出す準備も、追いかける準備も万全だ。入ってこい。
扉が開いてから何秒経った? 携帯を握りしめる。手汗をかいている。 
 入ってこい。扉が閉まっていく。入ってこい。
 そして扉は完全に閉まった。

 箱全体が小さく揺れた。エレベーターはその機能どおり一階へと下降していく。携帯の向こうで麻生が叫んでいる。
「何もなかったぞ。そっちはどうだ」
「大丈夫」
「中に誰も入り込んでいないか?」
 僕は箱の中を見渡した。
「誰もいない」
 拍子抜けする結果となるのか、あるいは、一階に降りて何かが変わるのか。
「検証自体は成功だ。何も起こらないという結果が得られた」
 あっと言う間にエレベーターが一階に到着し、扉が開いた。
 僕はエレベーターの中に入ったまま深呼吸をした。肺にとって十数分ぶりの換気。新鮮とまでは呼べないが少しだけひんやりと心地よい空気。一呼吸だけ吸って、そのまま息を止める。数列の完成を以て、検証は終了した。しかしこの余韻の中に、何かまだ見落としがあるような気がしてならなかった。
 エレベーターは、瞼を閉じるように扉を閉めた。しかし僕は他の階へ行くわけでもなく、その中に留まった。ふと背後に何かの気配を強く感じた。電話からではなく、扉の向こうから麻生の声がした。
「どうした。もしかして出られないのか」
「違う。でも、ちょっとそのまま待っていてくれ」
 僕は携帯の電源を切った。扉の向こうにいるはずの麻生との距離が、かつてないほど遠くなったように感じた。そして通話のノイズと一緒に麻生の気配が消えたとき――背後に、別の気配があることに気づいたのである。
 すでに僕は冷静に考えを巡らすだけの余裕を持っていた。からだが硬直し冷や汗が流れるのを把握していた。恐怖心が催した自然な反応を俯瞰しながら考えた。四階で乗り込んでくる「誰か」。奴は必ずしも、エレベーターの入り口から乗り込んでくるとは限らない。そういった可能性については、すでに想定してあった。しかしこのタイミングは妙である。麻生の気配に紛れて気づかなかったとするには、少々、この気配は強い。いや、この存在感は、はたして数秒前と同様のものだろうか。増し続けているのではないだろうか。
 僕は階数表示に目をやった。上昇する気配はない。少なくともこの状況、都市伝説として伝わっている物語とは異なるようだ。仕方ない、と僕は意思を固める。
 僕は極力首を前に向けたまま、眼球だけをスライドさせて背後をうかがった。
そこには――しかし、誰もいなかった。

 背後に気配を感じたら、十中八九、真上にいる。そんな話を聞いたこともあったから、僕は上も見た。しかし、やはり誰もいない。ついに観念して「開」のボタンを押すと、扉の目の前に麻生がいた。若干の苛立ちを顔に浮かべている。
「どうした。何か変化があったのか。無駄に心配させるなよ」
「なんとなく何かがいる気がしたんだ」
「気がした、ね」
「どうもすっきりしない」
「言いたいことはわかる。だが、そろそろ時間的にまずい。朝のうちに済ませたほうがいい」
「あと一回、試さないか」
 僕はエレベーターを振り返りながら言った。どうみても普通のエレベーターだ。
「俺の目を見て頼めよ。まったく」
「ありがとう」
「時間がないから今度は移動するごとに逡巡するなよ」
「了解」
 麻生は四階へ駆け上がっていった。僕は最後に感じた気配のことを考える。僕の背後で増し続けた気配は、おそらく、気配でしかなかったのだ。どんな空想も、完全に信じ込むことで事実と同様の価値を持つことができる。気配も同様に、僕が感じた時点で気配として成立する。
 立場を入れ変えて検証させるという提案は、どこかへ吹き飛んでしまった。そんなことよりも自分の満足のため、納得できる形で検証を終わらせたいと思っていた。

 麻生から着信があって、準備ができた旨を僕に伝えた。
「可及的速やかに再検証だ」
「麻生、電池がいつ切れるかわからない」
「だからといって別の手段を用意する時間はないぞ」
「もういっそ切って始めようか?」
「俺はそれで構わない。開始のタイミングさえわかればいい。外からでも階の移動で進行具合は把握できるからな」
僕はエレベーターに乗りこんで、四階のボタンを押した。扉が閉まっていく。
「いまから始める。切るよ」
 そう言った僕より先に、麻生が通話を切った。

 二回目の検証はスムーズに進行した。僕は淡々と奇妙な数列をなぞった。
四階、二階、六階、二階、そして七階。いよいよ二度目の四階に降りる直前になって、ようやく緊張感が生まれてきた。
 生唾を飲み込んで、四階のボタンを押す。これで最後だ。これで何もなかったら、二度の検証で確実性を増した一つの結果が残るだけ。今回は四階で少し粘れるように、一階のボタンを押すのはやめておく。「開」のボタンを押して「誰か」を待つのは、検証としては間違っているだろう。しかし、どうしても最後の可能性にすがりたい気持ちがある。そして一回目の検証で感じた気配。このまま、気のせいで片付けるわけにはいかない。
 七階、六階、五階。扉を閉ざしたエレベーターは、拍をとるように一定のスピードで下降していく。減って行く数字が、妙な不安感を煽った。寂しさと呼べるような、別れの感傷。それは、検証の終わりを意味するのか、それとも別の――

 エレベーターは四階に停まった。
 誰も乗ってこない。がらんどうな校舎には、人の気配が全くと言っていいほど感じられない。麻生の気配もわからない。これまでより遥かに集中した意識で感覚しているのに、かつてないほど無音だ。僕は「開」のボタンを押して粘る。押しながらエレベーターの内部を見渡すが、もちろん誰もいない。気配も感じない。このフロアのどこかで、麻生は僕を観察しているのだろうか。おそらく、彼は居るはずだ。取り決めを反故にするような人間ではない。彼も、僕と同等、或いはそれ以上に集中して、検証に臨んでいるのだ。
 息が苦しくなってきた。数十秒は経っただろうか。それでも「誰か」は現れない。
 さすがに麻生も嫌気がさしているだろう。残り十秒待つ。それで終わろう。僕は階数表示に視線を戻し、カウントダウンを始めた。
 十、九、八、七、六――
「もう満足だろ」
 カウントダウンを始めたところで、痺れを切らした麻生がエレベーターに乗り込んできた。彼は「開」を押し続ける僕の手を払いのけ、一階のボタンを押す。
 僕は溜めこんだ息を吐き出して、脱力と安心に身を委ねた。
「ふう。なんだ麻生、湧いて出たように現れたな」
 麻生は黙ったまま階数表示を見つめている。
「悪い。意味もなく粘ってしまって」
エレベーターの扉が閉まり、ガタンとひと揺れして動き始めた。
「……どこに隠れていたんだ? 乗ってくるまで全くわからなかったよ」
 返事がない。そしてその顔は不自然なほどに無表情である。
「怒ってるのか。勝手に判断して悪かった。飯おごるからさ、機嫌なおしてくれよ」
 再び話しかけたが、やはり返事はなかった。いや、返事だけではなく、およそ反応と呼べるもの一切がない。彼は抜け殻になったように、ぼうっと一点を見つめている。
 おかしいなと思いながら僕は壁にもたれて一階に着くのを待った。麻生との険悪な空気が、下降の時間を引き延ばしている。早く密室から出て謝り直すべきだろう。しかしそれまでに言葉を考えなくては。
 それでもやけに下降が遅い。四階から一階へ下がるだけだというのに。僕は不機嫌な麻生を見ないようにしながら、階数表示に目をやった。
 六階。
「……やばい」
 背筋にすさまじい悪寒が走る。エレベーターは不自然なほどにゆっくりと、上昇、していた。
麻生が押したのはたしかに一階だった。都市伝説を完成させる最後の数字だ。

「二度目の四階で、必ず「誰か」が乗ってくる。引き返すならここが最後のチャンスだ」

 僕は全身から汗が噴き出すのを感じながら、ボタンの前に立ち尽くす麻生――のように見える「誰か」を押しのけて、めちゃくちゃにボタンを押した。
 しかし、エレベーターは反応しない。
 階数表示が七階に変わった。通常であれば、そのあと一拍おいてエレベーターは停まるはずだ。しかしこの箱は、ゆるやかに上昇している。僕は「誰か」のからだを強く揺さぶった。それは幻覚ではなかった。しかし、「人」でもなかった。ぐにゃりとしていて、温度がなく、ゴムのような物体だった。そしてそれは「物」でもなく、「誰か」という「存在」だった。存在感を纏った無機質がこんなにも気味悪いことを、僕は初めて知った。
 失禁しかねないほどの焦燥感に煽られながら、少し漏らしてしまったのを自覚しながら、僕はポケットからの振動に気づいた。携帯電話だ。着信相手は、麻生。僕はもう一人の麻生を見ないようにしながら、応答した。
「おい、まだか。さっきから一階で待機しているんだが」
「おまえ、四階でエレベーターに乗り込んできたか?」
愚問なのはわかっている。ああ、これは誰で、僕はどこに向かっている?
「何を言っているんだ」
「本当におまえは四階にいたのか?」
「エレベーターの中は見えないが、階数表示のパネルが見える場所に待機していた。完全な死角だから気づけないのも無理はない。お前が粘ってるのもわかってるよ。でもあんまり長いから、俺は階段から一階に下りた」 
「たしかに粘ったけど、息が続く程度の時間だよ」
「それは無視してるんじゃないのか? こっちの表示はまだ四階だぞ」
「……どうやら都市伝説は本……」
 電話は切れた。バッテリー切れかと思ったら違うようだ。携帯には圏外と表示されている。妙だ。さっきまでは七階でも電波が通じていたのに。
 ふと階数表示に目をやると、そこには無いはずの「八階」を示す表示が現れていた。
 エレベーターは上がり続ける。上昇速度は加速していく。校舎を、世界を、現実を突き抜けて、それでも、止まらない。
 僕は全てを悟り、全身の力が抜けるのに任せ、その場に倒れこんだ。
 ずっと虚空を見つめていた「誰か」が、ゆっくりとこちらへ振り向き、言った。
「もう『人』には会えないよ」


▼記録三・検証者Bの報告

 俺は突然切られた電話機を持って、しばらくエレベーターの前に立ち尽くしていた。
 彼は最後に何かを言いかけていた。それが何だったのか、俺にはだいたいわかった。
 四階で停まったままのエレベーター。突然の切断。尋常ではない、彼の動揺。
 何が起きたのかわかったところで、何ができるわけでもなかった。
 立ち尽くしたまま数分が過ぎた頃、エレベーターが突然下降を始めた。そして一階に停まり、扉が開いた。中には、携帯を握りしめたまま、床に倒れ伏した彼の姿。その表情は恐怖でこわばり、目を見開いたまま意識を失っていた。
 俺は急いで救急車を呼び、彼を病院へと送った。第三者が来る前に、仕掛けてあったビデオカメラを回収した。彼の命に別条はなかったけれど、ついに彼の意識は戻らなかった。原因は不明。「七階建てのエレベーター」を検証した彼は、その都市伝説どおり「二度と人に会えない」状態になってしまった。
 俺はビデオカメラに収められた映像から何か手掛かりを得ようと考えたが、駄目だった。こちらも原因不明の故障だ。修理業者の話によると、ものすごい高温によってメモリ周辺が溶け落ちた形跡があるらしい。エレベーターには、焦げ跡も損傷も何一つ見当たらなかったが。
 検証結果を証明するものは何も残らなかった。しかしその経験は、深い傷となって俺の心に残り、その内面を大きく変化させた。俺自身が密室に閉じ込められたわけではない。だが、俺は彼の消滅を目撃し、電話の向こうを想像することで、密室体験を共有していた。その電話が、彼を救う命綱と成り得たと言うのは皮肉な話だ。おそらく、二度目の検証が成功してしまったのは、電話の切断に原因がある。
 民俗学者の受け売りになってしまうが、俺が言えることは一つだ。
 たかが都市伝説、されど都市伝説。単なる作り話だと鷹をくくって、不用意に検証したりしてはならない。どんな強固な日常にだって、たしかなものなど何一つないのだから。


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