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クモとボク

作者: ヨッキ

ごめんなさい。

そう言ったのは三日後の朝、布団の中で丸くなりその日の事を思い返した時だった。


二十歳を過ぎてからなんだかおかしかった、今まで上手くいってた事が途端に上手くいかなくなり、今までなんでもなかった問題が僕自身に重くのしかかるようになった。

やりたい事も見つからず定職にも就かないで、親の仕送りをあてにしたバイト生活をしていたら、僕はいつの間にか24になっていた。

そんな僕に今、人生を大きく変える問題が降りかかっていた。

三日前の事、しばらく連絡を絶っていた彼女から電話が着た。


『もしもし?

あーどうした?』


いつものやり取りから始まって、いつもの感じで終わる予定だった会話の奥で、いつもと違う彼女の台詞が飛び出した。


『あのね、私ね・・・』


その話しを聞いた後、僕の人生は一時停止した。


『イエスかノーで答えて』


そう言う彼女にハッとして、僕の人生は再び再生された。


『ノー・・・?』


自信なさ気の僕のそれを聞いた後、彼女は泣きながら、それでもキゼンとした声で、


『うん、分かった』


と言って静かに電話を切った。


ごめんなさい。

そう言ったのは三日後の朝だった。


数日が過ぎ、僕はようやくお腹が空いてる事に気がついた。

窓越しのサクとの間に、えんどう豆を育てていた植木鉢がある。

ちょうど食べ頃かと目をやると、家庭菜園もそこそこに愛情を目一杯注いできた僕の食料が、見事に枯れていた。

最後に水をやったのが二週間ぐらい前だった事を思い出した。

冷蔵庫には何もない、再び無惨な鉢植えを恨めしそうに目をやると、何かがモソモゾと、枯れたつるの底で動いた。

つるをそっとどかしてみると、そこには見た事もない珍しくて大きなクモが巣を作っていた。

クモはこっちに気が付くと警戒のポーズをしてみせた。

幸い、僕はクモが苦手って訳じゃなかったから、そのポーズを見せられても、顔を引き攣らせて尻餅を衝く程度で済んだ。

他の人じゃここまで冷静じゃいられないだろう。

クモが警戒を続ける中、僕は言った。


『その場所が気に入ったんならおまえさんにやるよ

今は使ってないから好きに使いな』


我ながらなんて心優しい人なんだろうと感心して窓を静かに閉めた。

そしてクモがいるからとか関係なく、別に怖いからとかじゃなくて、純粋に他の窓からの換気の重要性に気付いた僕はしばらくその窓を開ける事をやめた。


数日後、例の窓にパンツを干しっぱなしだった事に気がついた。

一体いつから干していたのか、様々な色合いのトランクスが不透明のガラスごしにひらひらとなびいている。

向かい宅の奥さんには、どうやらだいぶ前から僕がパンツにこだわっている事を知られていたようだ。

普段は部屋干しが主な僕だったが、うかつだった。

このまま閑静な住宅地を僕のパンツで彩ってる訳にはいかないので、僕は恐る恐る…

いや別に恐れている訳ではないが、窓を開けた。

そこにはこちらに気付いたクモが警戒のポーズをしていた。

僕はよろめいて、ちょうど後ろにあったトイレのドアのノブにお尻をぶつけた。

幸い僕はクモが苦手という訳ではなかったからこの程度で済んだが、普通の人ならその恐ろしさのあまり、後ろによろめいて…

うん、その勢いでトイレのドア突き破ってると思う。

気を取り直して僕は、クモの生活を邪魔しないようパンツを取り込んだ。

クモはまだこっちを見ている。

しばらく睨めっこをしていたがクモは何かに気が付いて警戒を解いた。

なんだろうと見てみると、クモの巣にチョウがかかっていた。

そこからはとにかく早かった。

クモはチョウに近づき、シュルシュルとチョウを中心に回り始め、糸をからませてゆき、あっという間にチョウは動く事を禁止され巣穴の奥へひきづり込まれた。

それを見た僕は頬を赤く染めた。

正直言って、このクモに惹かれてしまったのだ。


次の日、本屋に行ってお値段高めの昆虫図鑑を買ってきた。

このクモは相当珍しいらしい、日本には生息していない、本来はジャングルの奥地に住んでいるクモだという。

それじゃあなんで窓越しの植木鉢に?って思ったけど、すぐに考えるのをやめた。

虫がどこにいようとそれは虫の自由だ。


クモはいつの間にか僕に対して警戒しなくなった。

僕が興味をもってから何度も観察するようになったため、見られることに慣れたんだと思う。

時折、餌になりそうなモノを見付けてはクモの巣に引っ掛けて、それを巣穴へ持ち込むのを見て楽しんでいる。

端から見たら危ない奴と思われるだろうけど、これがたまらなく快感なのだ。


クモを観察していたらある事に気が付いた、どうやらこいつはメスらしい、背中にビッシリ卵のようなモノが付いている。

普段は巣穴に背中半分うずめていたからなかなか気付かなかったのだ。

改めて図鑑を開き、調べてみた。

オスとメスの違い、交尾から産卵までの流れ、そして・・・

僕は驚愕の事実を知った。

このクモは本当に特殊らしい…。


僕は今死んでいる。

浴室の中、清潔とは言えないタイルの上、頬をつけ、裸で横たわっている。

流しっぱなしにしてるシャワーが乱暴に僕の身体に当たり、勢いを失いつたう。

まるでそれは僕を死体扱いするように、僕もただそれを受け入れる。

僕は今動かない、何も考えない。

僕は今死んでいるのだ。


僕は時々こうする、誰かが聞いたら変に思われるかもしれないが、お寺の座禅や瞑想に近い。

ボロボロになった心を整える為、僕自身が編み出した方法で、気分としては一回死んで、弱い自分を捨てるのだ。

こうする事で多少はすっきりする。

僕は小さな決意をして息を吹き返した。


浴室を出ると携帯が鳴っていた。

偶然なのか、それともさっきから引っ切りなしに鳴っていたのか、とにかく電話に出た。


『おまえクビ。』


相手はバイト先のスーパーの店長からだった。

ただ一言それを言って電話を切った。

そういえば最近バイトに行ってない事に気が付いた。

もちろん故意ではあったけど、辞めるつもりはなかったから少しヘコんだ。

大きくため息をついた後クモがいる窓をチラ見して、もう一度浴室に戻った。

死体ごっこはまだ続きそうだ。


クモを観察し続けている。


卵がかえる瞬間を待っているのだ。

ピンセットで卵を取ろうとするとクモはすぐ巣穴に引っ込んでしまう。

もう生まれてくる瞬間しかこいつを救う方法はなかった。


もうすぐ孵化する。卵がもぞもぞ動き出した。


一匹、二匹、次々と出てくる。

あまりの多さに素直にビビったが、怖じけづいてる場合じゃなかった。

早くこの生まれたばかりの子グモを親グモから引き離さなければならなかったのだ。

僕は手で子グモを払おうとした。

その瞬間、親となったクモがいつにも増して威嚇してきた。

少しでも触れれば喰いつかれる、でもこのままじゃ…

僕は覚悟を決めて手を近づけた。


ガッ!っと案の定噛まれて僕は後ろによろめいた。

僕はすでに涙を浮かべていた、別に噛まれた手が痛い訳じゃなかった。


『どうしてだよ…!』


僕はすでに相手がクモだという事を忘れて喋りかけていた。


『どうしてだよ!!

おまえこの後どうなるのか分かってんのか!?』


『喰われちまうんだぞそいつらに!!!!!』



このクモは特殊だった、図鑑によると本来いるべきジャングルは過酷な環境で、生まれたばかりの子グモはすぐに死に絶えてしまうという。

だから生まれたらすぐに体力をつけさせないといけない為、母グモは子供達に自らの身体を食べさせて生存率を上げるのだという。

これが母グモから子供たちへの、最初で最後の愛情なのだ。



カリ、カリカリ・・・

音が聞こえる。

喰われる音だ。

相変わらずクモは僕への警戒を怠らない。

時折、悲鳴のような声を上げるが、子グモ達が満足するのをただじっと耐えている。

僕はずっと見ている、クモが喰われる様を。

何分、何時間経った頃か・・・

クモは動かなくなった。



僕は泣いていた。

顔を腕で塞ぎ、ただ泣いていた。


『どうしてだよ・・・』


そう小さく言った後も疑問は続く。


『親だからって子供の為に自分を犠牲にしなきゃいけないのかよ!

親だからって子供の為ならなんでも出来んのかよ!

親だって…

僕だって人生があるんだっ!!』


話しが自分の事にすり変わっていく事に僕はしばらく気付かなかった。


『子供が産まれたら、したい事だって出来なくなる、お金だって掛かるんだ、そんな生活今の僕には出来ない…っ!


ああ言うしか…

ああ言うしかなかったんだ………っ!!』


あの日の感情が、再び戻ってきた。

今僕を覆い隠せるモノは何もない、惨めな姿をさらすしかなかった。


『ごめんなさい、ごめん…なさ…いっ………ごめ………っっっ!!』


涙が止まらなくて息が出来なくなった、しばらくの沈黙の後、ケータイが点滅しているのに気が付いた。

着信があった合図だ。

一体いつ掛かってきたのか、全く気付かなかった。

ケータイを開くと留守録にメッセージが残されていた。

彼女の声だ。


『・・・ごめんね、謝らなくちゃいけない事があるの・・・

私、前にあなたに聞いたでしょ?

赤ちゃん産んでいいか、イエスかノーで答えてって・・・

ノーって言われたけど、私、今まで踏ん切りつかなくて・・・

実はまだおなかにいるの』


僕の人生は一時停止した。


『でもやっと決心が着いた

ごめんね、もう迷惑かけないから・・・

3時に手術を受ける

これから病院に入るからもう切るね?

それじゃ…』


メッセージは以上です。

只今の時刻2時50分。



身体を半分失ったクモが、僕に警戒のポーズを見せていた。



僕は家を飛び出した、間に合わないのは分かってる、それでも…

身体が勝手に動き出す。


自転車に乗ろうとしたけど、壊れっぱなしにしてたのに気が付いた。

仕方なく生まれ持ったこの足で僕は全力で走り出した。

しばらくして服も着てなかった事に気が付いた。

夏のこの時期はたいてい下着で過ごしている。

運動するのに最適な赤の生地に白のラインのトランクスとランニングシャツだけを身につけていた。

もう引き返してる時間はない。

道路脇を走っていると道行く老人に『おお〜、頑張れよ〜』と言われた。

どうやら近場で行われているマラソン大会の選手の一人と勘違いされたらしい。

こだわったパンツが役にたった。


僕はすでに限界を越えていた、病院まであと数百メートル、途中から着いてくる、僕がパンツ男だと気付いた善良な市民の味方が『おい貴様、止まれ〜!』と言っている気がする。

振り返って確認してる余裕はなかった。

そんな事言われたのは初めてだから正直戸惑っている。

もう今の状況は僕にとって未知の領域だった。


病院が見えてきた、後少しだ。

自動ドアにぶつかり、開いてくれるのがやけに長く感じた。

開いた途端、隙間から入るようにして、フラフラで病院内を歩き、待合室で倒れ込んだ。

産婦人科はどこですかと看護婦さんに聞いて、指差す方向にまた走り出した。

追ってきたはずの善良な市民の味方がいつの間にかいなくなっていた。

病院内は立て込んでいる、僕を探すのも一苦労のようだ。


只今の時刻3時32分。

手術中なのか、それとももう終わってどこかの病室にいるのか、どちらにしてももう遅すぎた。

僕は目をこすり、息を整えて、彼女を探してみた。

周りは妊婦さんばかり、僕の罪悪感は一層強くなる。

もうここにはいないのかと諦めようとした時、階段の半層下の窓際に彼女を見つけた。

僕は一瞬声をかけるのをためらったが、大きく息を吸った後、彼女の名前を呼んだ。


…息を吸うタイミングを間違えた。

思ったより声が出てしまい、周りにいた妊婦さんたちを驚かせてしまった。

僕自身も驚き、彼女もびっくりした顔で僕の方を見た。


彼女は泣いていた。

僕は彼女にかける言葉が見つからなかった、彼女を苦しめたのは僕だから。

先に声をかけたのは彼女だった。


『ごめんね・・・私・・・』


無理して声を搾り出している事を僕は分かっていた。

僕は一歩前に進み、ここまで追い詰めてしまった事を謝ろうとした。

その時、また彼女から言葉が搾り出された。


『出来なかった…!

どうしても……!!』


それを聞いた後、僕は頭にあった謝罪の言葉を忘れ、声を失った。


窓から射す光が彼女の肩から下に延び、わずかに膨らんだお腹を照らしていた。


僕の人生は再び再生され、彼女と会うのが一ヶ月ぶりだった事を思い出した。

久々に会った彼女は美しかった。




少し時が過ぎ、肌寒くなってきた。

もう下着姿で出歩くことは出来そうにない。

あのあと善良な市民の味方に事情聴取されたが、ちゃんと訳を話したら分かってくれた。

さすがは市民の味方だ。


初めて土下座というモノをした。

相手はバイト先のスーパーの店長だ。

やってみて分かったが、土下座というのは首と二の腕に相当負担が架かる。

今までのいきさつを話し、自分の不真面目さを謝罪した。

多少脚色したその話しは店長の心を掴み、時給を減らす代わりにまた働かせてくれることになった。

頑張り次第では社員に昇格してくれるって話しだ。

この時気付いたんだが、どうやら僕は嘘がうまいらしい。



今僕のアパートには彼女が一緒に住んでいる。

少し大きくなったそのお腹に負担をかけないよう安静にしてる彼女の前に、あまり得意ではない僕の料理が並ぶ。

最後に野菜スープを彼女に手渡し、一息ついた。

彼女は僕の隣りで顔を覗き込むように言った。


『本当にこれで良かったの?

私のわがままで産むの決めちゃって・・・』


何度も話し合った事だったが、1番苦しい思いをしたはずの彼女からの僕への気遣いが嬉しかった。

だから僕も何度も言う。


『わがままなんかじゃないよ、僕も決めたんだ

君と、産まれてくるその子になら…


この身を喰われても構わないって!』


この言葉を言うといつも彼女ははてなマークを浮かべる。


この意味が分かるのはクモと僕だけ。

窓ごしの植木鉢で親グモのお墓の隣り、散り散りになって残った最後の子グモが一匹、僕に警戒のポーズを見せていた。


  おわり


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