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20.姫野絵美相談所
 ブラウスの上には空色のシンプルなニットセーター。
 淡い緑青色に冬用と同じチェックが入り、少し生地が軽くなったスカート。

 そう、つまり夏服になったのだ。

 制服購入時に、いわゆる普通のネクタイの他にも、同じ柄でクロスとストリングも買わされた。
 制服に合わせて好きなようにネクタイを選んで良い、って事になってるんだけど。
(でもさぁ、折角上手く結べるようになったんだし、ネクタイが良いって思わない?)

 季節が変わり、鬱陶しい梅雨の到来と共に制服も変わった。
 これでまた憧れの制服を1つ経験したことになる。

 夏服に身を包んだあたしは、教室へ戻るため廊下を歩いていた。
 そして1人呟いた。

「こんなに、褒めてもらったこと、なかったなぁ……」

 憧れの制服を身に付けた喜び以上に、そんな事を感じたあたし。

(制服を着替えるみたいに、あたしも変われるのかなぁ……)

     * * *

 それは2週間前のお話。

 どうせこの間、1年全員の順位が張り出されちゃったんだもん、いいわよね?
 彼らのプライバシーの為に伏せておくべきか迷ったけど、それでは話が進まないので、あたしもちょっと覚悟を決めて話をしようと思う。
 張り出された順位表の中に、ちょっと見知った名前があったから紹介しておこう。
 出来れば、心して見てもらいたい。

 178位/195点 1組 高坂 弥生
 179位/161点 6組 橘 セレスティア
 180位/103点 5組 弓削 匠

「世の中下にゃあ下がいるもんだねぇ」
「橘さんの下の名前、セレスティアなんだね」
「弓削くん、103点て……」

 こんな悠長な事考えてたら殴られるわよ? まして口になんてしたら死ぬわよ?

 200点を下回り、見事に下から3つを独占した3人。
 そう、全員科学部部員。

 科学部顧問はあの姫野絵美。
 そう、科学部の魔女。

(あたし、死ぬかも)


 試験成績が張り出された翌日、たまたま魔女と廊下ですれ違ってしまった。
 すれ違った、ではなく『すれ違ってしまった』よ?
 無表情だったけど、あたしも科学部部員の端くれ、ちゃんと分かってるわ。
 これといった活動なんてしてないけど、分かるのよあのプレッシャー。
 間違いない。
「高坂、あとで第二化学準備室に来い」
 って目で訴えてたもの。


 そしてその日の放課後。
 あたしはやっぱり叱られた。
 担任も叱らなかったってのに、科学部顧問があたしを叱るこの不条理。

 恐らく橘さんも弓削くんも、あたしと同じように叱られる、もしくは既に叱られただろう。
 未だに顔を知らない2人に更なる親近感が芽生えた。
 あたし達は運命共同体。この先も上手くやっていけそうな気がする。
 まだ顔も見たことないんだけど。

 普段はクールな姫野先生だけど、この日は違った。
 もう烈火の如くあたしを叱った。
「何故! 何故こうなるまえにっ! 私のところへ来なかったのだっ!?」
 怒りを露にする先生。

 先生も必死なら、あたしも必死。
 敬語を忘れたあたしにもう余裕なんてない。
「だって……だって! 対抗戦の初日で、いきなり発表されて……いきなりスタートしたからっ!」
 言い訳もかなり幼児退行していた。
 いきなり発表され、試験勉強をする時間的余裕が一切なかったのは事実。
 時間があっても勉強したかどうか、自信はない。

「そうではない! 問題はそこではなかろうがっ! ここまで酷い状況ならば、何故もっと早く誰かに助けを求めなかったのだ、と聞いているのだっ! 私も居たろうがっ!」

 何故もっと早く誰かに助けを求めなかったのか。
 何故怒られているのか、何故ここにいるのか。
 何故仙里高校に合格したのか……。
 何故馬鹿なのか……。

 もう歯止めは効かなかった。

「だって……あたし馬鹿だからっ!」

 泣きながら叫ぶあたし。
 年齢に不相応なくらい子供じみたあたしの言葉は、化学実験室はおろか教育棟中にまで響き渡ったろう。
「なっ! 何を言っているのだお前は!」
 意味不明な発言に、動揺を隠せない先生。

「仙里に合格したのなんて、きっと何かの間違いだったのよっ!」

 とうとう言ってしまった。
 馬鹿なあたしは、本当はここに居てはいけないんじゃないかって、ずっと思ってたんだ。
 そう、何かの間違いだったに違いない。

「っ! こぉの捻くれ者がぁっ!」
 姫野先生の怒りの鉄槌があたしの頭に炸裂した。

 両親にも殴られなかったのに、科学部顧問に殴られるという不条理。
 殴られた痛みと、もうどうでも良くなったような、訳の分からない感情が複雑に絡み合う。
 そして一気に流れ出した。

「うっ! うっ、う、うわぁぁああぁあぁーん!」

 第二化学準備室に再びあたしの声が響き渡った。
 今度は大泣き。それも迷子の子供みたいにわんわんと。


 数分は泣き続けていたろうか。
 姫野先生は無言で、あたしの頭にそっと手を添えた。
 そしてその手をゆっくりと撫でるように動かした。

「なぁ高坂……よいか?」
 さっきまでの怒りの声は、もうそこにはなかった。

「お前は科学部部員だ。そして私はその顧問だ」
 その声を聞いて泣くのをようやく止めたあたし。
 撫でられる感触で、さっきの痛みは少しずつ無くなっていく。

「お前は……いつでも部活をして、いいのだぞ?」

(部活をして良い? いつでも?)

 その意味が分からなくてあたしは先生の顔を見上げた。
 そんなあたしを先生は優しい目で見つめ、そして言った。

「部活なら何でもいい。悩み事だけじゃない。勉強でもいい。おまえが部活をするなら、私はそれに全力で応えてやる、顧問として、教師として、な」
 先生はそう言って、あたしの頭を抱えるように優しく包んだ。
「高坂、それだけは忘れるな。いいな?」

 困っているならもっと頼って来い。
 その一言が嬉しかった。
 涙が止まらないほど、嬉しかった。

 なぜだかわからない、けど、うれしかった。

「ふぁ、ふぁい……ふ、う、うわぁぁぁぁあぁぁ!」
 少し煙草臭い白衣の中で、泣きながら答えるあたし。
 あたしの頭を抱きとめ撫でる先生。
 そんな先生は何時ものクールな姫野絵美ではなく、ましてや怒りの魔女でもなかった。
 優しいお姉さんのようだった。

     * * *

 2週間前にそんなことがあって以来、あたしの科学部部活動の機会は、当初の予定を大きく上回るペースで増えていった。
 ついでに、あたしにとって『科学部』はようやく『姫野絵美相談所』になった。
 同時に『姫野スパルタ塾』にも変貌を遂げてるんだけど。

 今日は姫野先生と2人きりで自習室に居た。
 化学準備室はあまりにも煙草臭いため、姫野先生は自習室を準備してくれたのだ。

「高坂、お前は基礎が出来ていないのだ」
 姫野先生はそう言いながら、あたしの答案を一つずつ指差し指摘していく。
「ここも、ここも、普通であればもっと解けていておかしくないはずだ。しかしお前は、ここが解けないのにも拘らず、何故かここはパーフェクトに解けている。高坂、お前は一体何者なんだ」

(一言でいうなら馬鹿者です)
 って言うと、先生は多分あたしをグーで殴る。だから言わない。

 既に4回ほど同じようなやり取りを続け、これで5回目。
 その5回を終え、同じく5回目の溜息をつく姫野先生。
 どうやらあたしは凄く手のかかる生徒らしい。

「なぁ高坂、お前は勉強が嫌いか?」
 そう言って椅子にもたれかかると、缶コーヒーをグッと煽る姫野先生。

 お弁当をを食べ終えたあたしは、見た。
 姫野先生の持つ缶には『カフェオレ』って書いてあったのを。
(コーヒーの中でも甘いやつじゃん!)
 ピンクのフィットに続いて、またしても意外な姫野先生の嗜好。
(先生の趣味ってちょっと意外)
 なんてこと一切考えてないですよとアピールするように、真面目な顔で先生に言った。

「嫌い……かどうかと言われると、多分嫌いだと思います」
 3本目の缶コーヒーを飲み終えた姫野先生は、更に続ける。
「まぁ、好きだという奴はあまりおらんだろうが。しかしな、お前はもう少し出来る奴だ、と、私は思うのだよ」
 ちなみに残り2本もカフェオレ。姫野先生はきっと甘党よ。

「買い被りすぎです。いくらおだてても馬鹿は馬鹿のままですよ?」
「では、何故お前は仙里に合格したのだ?」
 先生はこの間の準備室での一件を、かなり根に持ってる。
「分かんないんです、ホントに。気付けば合格してたし、先生も両親もみんなビックリしてたし。一番ビックリしたのはあたしだけど」
 未だに信じられないものは信じられないんだもん。

 憧れていたブレザーやスカートに身を包んでも、夢か或いは「ドッキリじゃね?」ってくらい、未だに信じてない。
 今すぐにでも「あれは手違いでした」なんて言われるんじゃないかって思うくらい。

「普通なら確かに驚くだろう。現に私も高坂の内申書を仙里入試前に見て、驚かされたさ。自身の目を疑ったくらいだ。どうすればこんな奴が仙里を受験しようなどと思うのだとな。しかし内申書はどうであれ、事実お前は合格しているのだ。書類に何ら間違いはなかった、お前は正真正銘合格しているのだよ」

(書類の存在自体が間違いだったんじゃ……)

「高坂、お前は受験勉強をしなかったのか?」
(した、けど……)
 努力の足りなさを吐露する恥ずかしさ。口が一気に渇く。
 それをペットボトルのお茶で潤し、あたしは控えめに答えた。

「……期間はそれほど長くなかったですけど、麻衣と零夜と、叔母さんに教えてもらったり。誰も居ないときは1人で。でも……3ヶ月、です」
「さ、さん……か、げつ!? ……だと?」
 流石の魔女もびっくりしたようだ。

 いつもクールな姫野先生だけど、あたしと話すときは普段より幾分感情が露になってる、ような気がする。
「はい。中3の11月に親を何とか説得し終えてからです」
「一体どんな猛勉強をしたのか、是非聞かせてくれないか?」

「叔母さんには基礎が出来てないって言われたので、基礎を叔母さんと。応用を零夜から教えてもらって。叔母さん以外の基礎と暗記物は麻衣と、あと仙里女子の過去問も麻衣としました。零夜とはあんまり勉強できる環境じゃなかったから、応用問題はそんなにやんなかったかなぁ。その分麻衣とはよく勉強したので、仙女の傾向と対策は多目にやったかも……」

 長々と話すあたしの言葉一つ一つに頷く姫野先生。
 無駄に長い受験勉強のあらましを説明し終わると、先生は間もおかずにあたしへ言った。
「……なるほど、基礎と傾向を多目、応用は少なかった。か」
 姫野先生は4本目の缶コーヒーを手にし、それをシャカシャカと振りながら話を続けた。

「私が分析したところでは……お前は壊滅的に基礎が出来ておらん。しかし基礎を習得しておれば、その基礎を用いる応用に対しては驚くほど理解が早いのだよ。不得手な基礎はその叔母や国崎から徹底的に教わり、元々理解力が活きる応用はかじる程度に留め、その分国崎が解くほどの『仙里女子校傾向と対策』に時間を費やした」

 そう言い終わった後、カシュッ、と音を立て蓋を開けた缶コーヒーに口を付ける。
 そしてこう言った。

「一切の無駄がなかった故に、3ヶ月での合格が可能となった。と、そういうことだろう」

 あたし自身ですら信じてこなかった仙里合格の謎が、あっという間に解き明かされる。
 あたしの実力で合格したんだと言う姫野先生。

(信じない……あたし信じない! だけど……)

 その真偽はともかく、実力を認めてもらうのがこんなに嬉しいなんて、あたしは知らなかった……。

 コーヒーを一口二口ほど飲んで、姫野先生は言った。
「やはり高坂、お前は出来ないのではない、基礎を疎かにしすぎなのだよ。応用など後で良い。基礎を学び基礎を覚えろ。それだけで次回の試験は間違いなく、お前の試験結果は平均点を超えるはずだ。騙されたと思ってやってみるといい」

 仙里合格が本当に自力だって事だけでも十分なのに、先生は更にその上を目指せと言った。

「週に1度で構わん。夏休みは好きに過ごして良い。これから週に1度、応用を解きに私のところへ来ないか?」
「え?」
 姫野先生は例のニヤリ顔で続けた。
「どうせ普段は神園や国崎と勉強しているのだろう? たまには違う環境で勉強してみるのも悪くはなかろう」
 試験勉強はいっつも麻衣や零夜と一緒だった。
 2人に教えられ、うんうん唸って、で、分かんなくて諦める。
 そんなパターンだったように思う。

(環境が変わるだけで本当に成績って上がるの?)

「そういう……もんなんですか?」
 半信半疑で聞く私。
「あぁ、そういう……もんなんだよ」
 いつになくフランクな口調で、あたしを真似て姫野先生はそう言った。
 そしてそのあと、先生は一気にコーヒーをあおった

     * * *

 5限開始の5分前を告げるチャイムが鳴った。

「失礼しましたー」

 チャイムを合図にそう言って自習室を出たあたし。
 廊下はやや肌寒かった。夏服にはまだ早いのかもしれない。
 姫野先生はコーヒーを飲み終えたら職員室に戻るって言ってたので、扉は開けたままにしておいた。


 1組の4時限目が数学教師の急病により自習、と知るや否や1組にやってきた姫野先生。
「すまんが高坂を4限の間、少し借り受けたい。構わんな?」
 何が起きたのか理解し切れていない代理教師。
「高坂は確か、昼食は自宅より弁当を持参、だったな? それを持って、来い」
 目を丸くして驚くクラスメイト。
 心配そうに見つめる麻衣や、姫野先生を睨む零夜を余所に、我らが顧問は否定を許さぬその圧力で、あたしを拉致した。

 教室には瑠璃の悲鳴が響き渡った。後で聞くと、瑠璃はお昼休み相当荒れたらしい。

 そんな瑠璃はさておいて、あたしの腕を掴みながら姫野先生は生徒棟まであたしを連行。
 何の脈絡もなく購買へ連れ込み、何の脈絡もなく言った。
「好きなものを買え」
 わけも分からないまま、あたしはシュークリームとお茶を先生の持つカゴヘ入れた。
 先生はカゴに5本の缶コーヒーとチョココロネ1つを入れていた。
 あたしはこの時点で気付くべきだったのかも、先生の甘い物好きに。
 それらの購入が終わると同時に、今度はあたしを自習室へ監禁した。

 それはつまり、昼食を共にするという事。
 『4時限目+お昼休み』のぶち抜きコースを意味していた。

 けど蓋を開けると、1枚のプリントを30分やらされただけ。
 少しだけそれをおさらいし、残りはさっきみたいな雑談。
 最初にコロネを食べ終えてしまった姫野先生は、ひたすら缶コーヒーを流し込む。
 あたしはお弁当を食べた後、奢ってもらったシュークリームを美味しく頂く。

 あたし達は終始雑談で過ごした。
 そのくつろぎっぷりたるや、シュークリームを半分こにしたくらい。
 ってのは流石に内緒よ?


「基礎をやれ、応用は私の元で週1でいい。それで次回の試験は平均点以上を確約してやる」
 さっきの言葉が頭を何度も過ぎる。
(でも結局、先生は何がしたかったんだろ)
 世の中そんな上手くいくわけがない。
「週1でいい、夏休みは好きに過ごして良い、応用をしに週1、私のところへ来ないか?」

(一体は何なのよ科学部って……あたしは騙されないわよ!)

 なんて思いながらも、両親と同じくらい姫野先生の事が好きになり始めてる。

「こんなに、褒めてもらったこと、なかったなぁ……」

 褒めてもらい嬉しくなる。
 出来ると言われてその気になる。

(制服を着替えるみたいに、あたしも変われるのかなぁ……)

 どこまでも現金なあたしだった。


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