坂東蛍子、電車にて立ち尽くす
坂東蛍子は春から夏にかけてのこの時期に電車に乗車するのが大嫌いだった。手すりや吊り革等、手をつける部分が例外無く他の人間の手汗でベタベタと不快な粘性を帯びるからである。その不快感には、単純な生理的嫌悪というだけでなく、誰も悪くは無いにも関わらず誰もが嫌な思いをするという現象へのやるせなさから来る不快感も含まれている。電車に乗り、吊り革に掴まる。すると嫌なぬめりを手の下に感じ、不快になる。しかしこの不快感は誰かが恣意的に齎したものではないのだ。全ては仕方ないことなのである。蛍子はそう自分に言い聞かせながら電車に乗らなければいけないことが何より馬鹿らしくて嫌だったのだ。本当は隣人なんて愛したくないのに、愛さないとやってられないから愛す。そんなのって愛じゃないし本当に馬鹿らしい。蛍子はある日吊り革から手を離し、頭上に差し出された揺れる神の手に心中で絶交を宣言した。以来彼女はこの季節に電車に乗った際は一切手すりには触れようとせず、車内で腕を組み仁王立ちして降車駅を待つようになった。
車内にアナウンスが響き渡り、蛍子を乗せた電車がゆっくりと停車した。これでようやく半分ね、と蛍子は束の間の休息を味わうようにさりげなく膝を曲げ全身から力を抜く。動く電車の中でバランスをとって立ち続けるのって結構大変なのよね、と蛍子は嘆息した。それは矜持に満ちた嘆息だった。
「坂東じゃないか」
自身の名を呼ばれて蛍子は慌てて開いていた足を少し閉じ、声の方へと振り返ると、クラスメイトの星隈翔太が大仰な驚き顔を作って手を振っていた。面倒な人間に出くわしてしまったな、と蛍子は心の中で苦虫を噛み潰したような顔をした(実際は表情に半分以上出ていたが、翔太は全く気付かなかった)。蛍子は翔太と大して言葉を交わしたことは無かったが、その僅かな交流の中ですら彼の正義感とフェミニズムに嫌という程振り回されていた。悪い人間では決して無いのだが、如何せん善意が過剰過ぎて彼と関わるとロクなことが無い、というのが蛍子が翔太に抱いている感想の全てだった。世界の国々には色々な注意事項がある。夜には出歩くな。無暗に写真を撮るな。それと同じように、日本にも“星隈翔太に関わるな”という大切な決まりごとがあるのである。
蛍子は愛想笑いを浮かべながら自然な歩みで降車ドアへと近づいていき、目の前で閉まるドアに今週一番の悪態をついた。
翔太は動き出した電車の揺れに少し蹌踉としながらも、日ごろから鍛えている中殿筋でしっかりと姿勢を保ちドアの近くにいる蛍子の方へと難なくやって来た。まずは天気の話だな、と翔太は思った。親しくない間柄の人間と話す際、天気の話から入るのは昔から厳格に決められた一種の不文律のようなものなのだ。翔太は自身の厳かな第一声のために地下鉄のトンネルの外の光景を思い出していたが、途中ふと蛍子が浮かべている笑顔が気になって思考を止めた。その笑顔は校内でも1、2を争う美貌を持った坂東蛍子が浮かべるものとしては些か不出来で無理を感じるものだった。恐らく坂東は何か無理をしている。しかし何を無理しているのだろう。そこまで考えたところで翔太はある事実に気がついた。
「坂東、なんで手すりに掴まらないんだ」
坂東蛍子は何にも体を預けることなく、走行中の車内で立ち尽くしているのだった。車内は席こそ埋まってはいるが、立っている人間は疎らにしかいない程度の混雑模様で、吊り革や手すりなどは殆ど投げ売り状態だった。にも関わらず蛍子は足を踏ん張れるように少し開いて、自重を自分の力のみで支え続けている。おかしい、と翔太は思った。先程の笑顔を見ても、決して余裕があるわけでは無いことが分かる。何か理由があるはずだ。
蛍子は翔太の質問を受け、大きくした目をパチパチと何度か閉じたり開いたりした後、今度は黒目を上や下へ移動させて、ようやく笑顔を作って返答した。何かアイデアが天から降りてきたかのような笑顔だった。
「そんなことより、天気の話をしましょう」
翔太はそのことに関しては異論は無かった。しかし彼は既にそれよりも優先すべきことを碑文に書き記し、強固な信念として心の中に打ち立ててしまっていたのである。それは「女性を大事にする」ということだ。気丈な坂東のことだ、きっと自分から弱いところをクラスメイトに見せられないのだろう、と翔太は自身の疑問に適切な回答を与えた。あるいは万が一お年寄りや体調の悪い人が現れることを考慮して、気を使わせないように予め場所を空けているのかもしれない。星隈翔太は蛍子の優しさと気遣いに改めて心を打たれた。
「さぁ、坂東、気を使わなくて良いんだぞ。そこの手すりに掴まるんだ」
「な、なんでよ」と蛍子が上目遣いで呟いた。「別に気を使ってないわよ」
「そうか、そうだったな。お前は気を使ってはいない。なら、吊り革ならどうだ?これなら握っても誰も文句は言わないぞ」
そこまで言うと翔太はハっと目を見開いて、自身の軽率さを責めた。坂東は吊り革に手が届かないんだ。男目線で考えちゃ駄目じゃないか。翔太は蛍子に背を向けて、その場にしゃがみ込んだ。
「おぶってやろう」
「だからなんでよ!」
蛍子は思わず声を荒げ、慌てて口を塞いだ。心の平静を取り戻すために胸に手を当て、両目を閉じる。やはりこの男と関わるとロクなことにならない。一体どうすれば事態が好転するのだろう。蛍子は何度か深呼吸を繰り返した後苦々しい思いで目を開き、不思議そうな顔をしている翔太を見て頭を抱えた。翔太は胸を抑え、こめかみをさする蛍子を見て思った。事は一刻を争う。
「意地を張るな!さっさと手すりに掴まるんだ!」
「イヤだって言ってんでしょ!」
「何故だ!理由もなく嫌がるなんておかしいだろ!」
ベタつくのが嫌だなんて失礼なこと言えるわけないでしょう、と蛍子は翔太を睨んだ。
「幽霊よ!」
「え?」
翔太は本当に聴き取れなかったという顔をして、蛍子に先程の台詞をアンコールした。
「私、幽霊が見えるの!そこの手すりは幽霊が使ってるの!他も全部!だから私は使えないの!」
蛍子は顔を真っ赤にしながら捲し立てるようにそう言い切った。翔太はその言葉に衝撃を受け、呆然としながら手すりと蛍子を繰り返し交互に見つめた。まさか蛍子にそんな秘密があったとは。しかし幽霊にまで気づかいを持てるとは、なんて器の大きい人物なんだろう。
「分かったなら“彼女”に謝りなさいよ」
「すみませんでした」
翔太は手すりに向かって勢いよく頭を下げた。蛍子はホっとしたように一息ついた。
「いえいえ、こちらこそどうもすみません。顔を上げて下さい」
マツは頭を下げている礼儀正しい少年に微笑んだ。先日自分が幽霊であることに気付いてから一人孤独感を抱えていた彼女であったが、目の前の清々しい男子のおかげで少し心がほぐれる思いがした。しかし、この女子高生と言い、最近の若者は気立ての良い人が多いのね。マツは着物の裾を正しながら、日本の明るい未来を喜んだ。
【星隈翔太前回登場回】
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